Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

言論テロと知の階級闘争/四谷大塚を東進ハイスクールが買収

2006-08-19 12:20:10 | 時事・国内
昨日深夜帰京。帰ってきてネットでいろいろやっていたら3時過ぎになってしまい、なぜか猛烈な腹痛を覚え、5時くらいまで苦しむ。もう明るくなっていた。目が覚めたら1020分で、だいぶ寝られたので休まったが、腹の中は空っぽだ。とにかく水分を取らなければとお茶を飲んでいるが、ご飯を食べるのはちょっと勇気がいる。夜中にかなり集中してものを書いたせいかもしれない。困ったことだ。

深夜に書いたことについてつらつら苦しみながら考えたりしたことが二つほど。私など1960年代生まれにとって、テロというのは「過激派」のやることである、という印象が強いのだが、もっと下の世代になるとそれは「外国」のことであったり「戦前」のことであったりするんだろうなあということ。そういう感じ方の違いというのは世代ごとに大きいのかもしれない。もちろん実際には野村秋介らに代表される新右翼の「肉体言語」としてのテロ活動はあったのだが、まあそれも相当下火になっている。実際、学生時代にはそういういわゆる「過激派」の人たちと会話したことはあっても「右翼」の人たちとの会話はあまり記憶にない。今回の件で「戦前」に話が飛ぶのはちょっと飛びすぎだと私には感じられ、一般には必ずしもそうでもないらしいということには、そういう背景があるからかもしれない。

テレビをちょっと見ていたら猪瀬直樹が今回の事件の量刑をきちんとしなければいけない、ということを言っていたが、それはその通りだと思う。どのような形であれ動機であれ、テロリズムが市民社会、法治国家に対する重大な挑戦であることに違いはない。動機に共感することが例えあったとしても、量刑で斟酌があってはならないだろう。確かにこの点においては、戦前の一連のテロリズムにおいて、それが表面化した最初の5・15事件の量刑が極めて軽いものであったことは後々に尾を引いている部分はあろう。逆に関東大震災における大杉事件で、甘粕に対しての量刑が陸軍側にかなりの不満を残していたことなどあり、こうした事件の量刑というのは難しい面があり、誰もが納得のいく判決というのは難しいが、特例的な判断があってはならないだろう。政府も、政治テロは決して容認しないという姿勢は示してしかるべきである。事件の全容がある程度明らかになったら、そうした声明を出すべきだろう。

佐藤卓己『言論統制』(中公新書、2004)などを読んだときも感じたのだが、こうしたテロや腕力、暴力による言論封殺という事象については、「『知』の階級闘争」という側面がどうしても現前するということがある。つまり攻撃される側が「鼻持ちならないインテリ=知の資源の大所有者」であり、攻撃する側が「知の資源の少ない『庶民』」であるという形である。こういう形が成り立ってしまうと、階級闘争的に「弱者」である暴力者のほうが幅広く支持を集める可能性があるのである。しかしたとえばナチスなどは反知性主義とよく言われるが、現実には知識人もナチスを信奉した例が多いように、もっと巧妙であったと思うのだが、日本の軍人たちはどうも階級闘争的な怨念をそのままもろに知識人にぶつけたように思う。そしてある意味、その構図は現在でも変わっていない部分があるのではないか。

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家

中央公論新社

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日本の知識人は普段は大衆万歳主義なのに、こういう事柄になると大衆蔑視になる傾向があるように思うし、だから大衆に信用されないということになりがちなのではないか。自らの教条も大事だろうが、本当の意味で人の話を聞く姿勢がなければ日本という文化風土において浮き上がった存在になってしまう可能性がある。「知の専制主義」には慎重である必要がある。

なんだかまた腹が痛くなりそうなことを書いてしまった。

そういえば四谷大塚が東進ハイスクールに買収されたらしい。私も学生時代と卒業後のしばらくの間、「四谷大塚に通うための塾」で講師のアルバイトをしていたのでこのニュースは感慨がある。しかしそれももう20年前のことだ。驚くが。

人材派遣会社で働くのも命がけなんだなというニュース。世の中楽な仕事はなかろうが、それにしてもこんなことで殺されるとは本人も周囲も思っていなかっただろう。こういう事件の被害者遺族が取り上げられることは少ないが、心からお気の毒にと思う。

昨夜駅から自宅に戻る途中で、『サッカーマガジン』8月29日号(ベースボールマガジン社)を買った。サッカーマガジンなど読むのはおそらく高校生のころに友人が読んでいたのを見せてもらって以来だろう。あのころはまだ日本リーグ時代でドイツではベッケンバウアーが現役だった気がする。こういう人間に『サッカーマガジン』を買わせるくらいには、オシムという監督は魅力的だと思う。







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靖国「問題」再論:「民主主義の倫理」と「声にならない叫び」/加藤氏宅放火は極めて「現代的」な事件

2006-08-19 03:07:40 | 時事・国内
一昨日の靖国参拝についての論考について、うさたろうさんからコメントがついた。うさたろうさんのブログのみについてコメントしたわけではないのだが、ほかからの反応がいまのところない(気がつかないだけかもしれないが)ので対話形式で少々お答えしたいと思う。前回は少し強めの表現になったが、真摯にお答えいただいて、感謝している。

まず「B層」についてだが、「加藤氏実家放火という事態を前にして、「ざまあみろ」「GJ」といったことを書き込み加藤氏の言論を否定するような連中は、新自由主義的政策を支持するのかどうかといった問題以前に、民主主義の原則を自ら掘り崩すことに何の疑問も感じないという意味で、市民としての基礎的な教養の欠落、下品さを感じざるをえない」ような「連中」は「B層とでも呼ぶしかない」という判断から「侮蔑的」にこの言葉を使った、といっておられる。

ちょっと「B層」の初期の定義からはかなりずれた使い方ではあると思う。いいたいことは分かる。「市民としての基礎的な教養を持たない下品な連中」という表現の「教養」という定義にはおそらく「民主主義倫理」が含まれているのだろうと思うが、私個人としては「教養による差別ニアリーイコール知能による差別」というニュアンスを排除するために、「教養」というより「倫理」という言い方をしていただきたい気がする。そう感じるのは私の教員経験から来るPC感覚だと思うが。

私も戦後民主主義に対して批判は持っているけれども、現代社会に生きる以上、いろいろな意味での民主主義倫理を持つことは必須であると思う。「ざまあみろ」とか「グッジョブ」とか言うのは論外だ。

ただ私は、そのような書き込みをする人間が普段完全に反社会的な人間かというと、必ずしもそうでもないのではないかと思う。それだけを見れば「対話の余地がない」と感じるのも当然だと思うが、彼らの発言、あるいは書き込みは「感情的」というよりも「論理が不自由」なのだ、と思う。彼らの中にはどこかで論理を獲得すると水を得た魚のように同じことを書きまくる人がかなりいることからもそれは了解されるだろう。もちろんその類の人間は左翼側にもかなりいる。現状では保守を称する側が目だっていることは事実だが。

そこまでひどい人間でなくても、「小泉首相の靖国参拝は支持したい」と漠然と感じている人々はたくさんいる。そういう人々の多くは漠然とそう考えていても論理的にはうまく言えない人が多いだろう。だいたい靖国問題でなくても政治的な議論で論争に加われるほど論理を駆使できる人が日本国民の何パーセントいるかといえば、寥々たるものだろうけど。しかし、この問題はかなりの部分純粋にイデオロギー的なテーマだから、語ろうとすれば相当な理論武装が必要だ。しかも現代に生きる多くの人々にはいわゆる自虐史観の呪縛がかなり強烈に働いているし、肯定する言説に触れるにはかなり意識して積極的に勉強しなければならない。したがって、論理で自分の主張を組み立てるには普通に生活している人にはかなり困難なことになる。

そうなると結局は誰かの受け売りをしたりネットの言説を借りてきたりして何とか説明するしかなくなるし、そういう人はリアルのわたしの周囲を含めてたくさん存在する。それは初期的に「B層」に定義された層に留まらないし、年齢的にもかなり幅広く存在する。

そうした人のたどたどしい主張は、確かにある種の痛々しさを感じることは多い。しかし、そのようにしてまで公人の靖国参拝を支持したいという思いを持つ人が増え、各層に広がりと深まりを持ちつつあるということは私の実感としてはある。それはやはり、「失われた日本らしさ」を何とか取り戻したいという切なる願いの現われなのだと思うのだが、悲しいかな何がその「日本らしさ」であるのか、あまりはっきりとわからなくなっているのだ。そういう意味では「靖国神社」というのはそういう「日本らしさ」の象徴としてかなりふさわしいものなのだと思う。

靖国神社は皇室や神話の神々を祭った神社ではない。一介の兵士たち、志半ばで倒れた多くの若者たち、家族を残して死んだ多くの軍人たちを祭った、いわば庶民の神社である。「別格官幣大社」というと偉そうに聞こえるが、これはほかには豊国明神と日光東照宮、つまり豊臣秀吉と徳川家康、つまり「皇族でない一般人を祭った神社」という社格なのである。そして靖国神社には全国の兵士たちが祭られている。日本中の庶民が神として祭られている社などほかに存在しないのだから。

そういう意味で靖国神社は、日本人の「心のふるさと」的な意味合いがもたれる部分が必ずあると思う。私は、靖国神社が時代とともに風化し、消え行くべき存在だとは思わない。

民主主義とは論理の戦いだから、言葉を、つまり論理をうまく使えない人間にはかなり不利な制度であることは議論する際に重々自覚すべきことだと思う。日本社会というものは基本的に近代的な意味での論理に頼って成立してきてはいないから、「民主主義」と「日本的なもの」との齟齬が完全になくなることはありえない。口の立つ人間には何でも許されるアメリカ的な社会はそういう意味では民主主義の典型だが、そのようには日本社会をしたくないと考える人は多いだろう。私もそう思う。

ただ、現代世界の主戦場が言論の戦いである以上、あえて論理による戦いを引き受けなければならない人間が一定数存在する必要があるのは確かである。もし「教養人」とか「知識人」とかが存在するのだとしたら、そういう義務が「彼ら」にはある。しかしすべての日本人にそれが強要できるかといえば、ちょっと難しいんじゃないかなと思う。北朝鮮による拉致被害者の家族を見ていて感動するのは、明らかに「庶民」といわれる層にある人たちが、懸命にその義務を引き受けているところにあるのだ。それに答える心意気がなければ、「知識人」や「教養人」である価値がない。

なんだか遠回りしたように思われるだろうが、つまりうさたろうさんのいう「B層」の中にはただ単に「未熟」である人たちもずいぶん含まれているのではないかと思うということになろうか。もちろん未熟だから許されるというものではないのも当然だし、未熟な言説が未熟なまま突っ走ると70年過ぎの多くのセクトのような無残なことになりかねない。このあたりの受け止め方は微妙なものがあるのだけど、私にはそういう声にならない叫びのようなものも受け止めたいという気持ちがあるということは書いておこうと思う。うさたろうさんもおそらくは、ほかの方面での「声にならない叫び」を受け止めたいという気持ちはお持ちのことと思う。

「思想の違いを勉強不足という表現にすり替えるのは不当だ」という私の主張について。上記のような対象に限定して言えば、確かに勉強不足の人間が多いことは事実だ。ただその指摘が彼らの耳に届くかといえばまず無理だろうと思う。まあそれはともかく、そういうすり替えをあまりに多く目撃してきたので、私自身うんざりしているのだ。逆に言えば、そういうすり替えがあまりに多いために、そういう人たちが聞く耳を持たなくなっているという面もあるのではないかという気がする。最近丸山真男の『日本の思想』を読んだのだが、これを読んで感動したのは、議論において丸山がそういうすり替えをせず、思想の違う人間の指摘や攻撃に対しても真摯に対応しているところなのだ。いつのころからかそういう悪習が常態化してしまったために、日本の言論はお互いに言いっぱなしで発展性もゼロ、共通の規範作りも全くなされないという体のものになってしまった。

まあうさたろうさんが指摘される人々に対し相当うんざりし怒っておられるのもまあ理解は出来るのだが。

「戦前回帰」について。うさたろうさんは「そうした「国士」や「義士」の“行動”を否定し、あくまで言論に依るべきだというのが民主主義社会の原則であって、現代の日本ではそれは尊重されているが、戦前の日本で必ずしもその原則が尊重されていたとは思えない。」と書かれているが、それに関しては異論がある。「極左暴力集団」と日本共産党も言うように、「革命」を唱える人々が暴力的であるのは事実で、「白色テロル」が目立つ局面ではあるが、「赤色テロル」は決してなくなってはいないし、「つくる会」が放火されたり教科書採択の際に教育委員個人に対して相当激烈な個人攻撃(「お前の孫がどうなってもいいのか」というような)がなされたことは事実で、99パーセント採択が決まっていた地域がそれでひっくり返った例もあった。加藤氏放火犯の行動の卑劣さは彼個人が右翼団体の構成員であるかどうかに関わらず、戦前の「義士」的ではなく、「作る会」放火犯の卑劣さに等しい。あるいはうさたろうさんの指摘する人々の未熟さ、卑劣さと同系統といってもいい。私はこれは極めて「現代的」な事件であり、これをもって「戦前回帰」と称するのは「戦前」の名誉のために断固として否定したいと思う。(だからといって全面的に「戦前」を肯定しようとしているわけではない。人間が生きている時代なのだから、どの時代だって不十分なのだ。ただ、「戦前」が「現代」より「よい部分」だってあったと私はおもうし、どんな時代からも学ぶ姿勢は持つべきなのだと思う。)

「なんとなくそうした“行動”が肯定され、地域のなかにも男女問わず“義挙”を賛美する風潮が強まっていく」と書いておられるが、今回の行動は何度も書いたがばかげているし卑劣であり、まともな人間でそんなものに肯定的なコメントを公式に出す人間があろうとは思えない。ネットの魔窟以外でそんなコメントがあったのだろうか。もしそうなら30年代云々ではなく、2006年が魔窟なのだと思う。

***

「民主主義」と「日本らしさ」というのは前にも述べたがどこかで必ず相容れないところが出てくる。日本の戦後民主主義は基本的には「日本国憲法」を教条とし聖典とするものだが、「日本国憲法」が「日本的(封建的と米側が考えた多くのものを含む)」なものを抹殺しようとした占領政策の総仕上げとして制定されていることは客観的(つまり議論の当事者としてでなく)に見ても正しいのではないかと思う。そしてそういうものとして「国際社会」にも受け入れられたのではないか。そうなると、日本人自らが救い出さなければ、「日本的なもの」というのは死滅していくしかない運命にあるのだと思う。それがもし「民主主義」というものと抵触することがあるとしても、そのときは私は「日本的なもの」の側に立ちたいと思う。翻訳された憲法が公布されて60年だが、「日本」はそれより遙かに長い期間存在し続けてきたのだから。伝統を失った国は、国として存続することは難しい。先にも言ったが、現代社会に生きる以上、極力民主主義の倫理に従うことは義務だということを前提にした上でそう思う。





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