昨日帰郷。帰省客と逆方向なので、特急はすいていた。お昼に親戚の集まりがあるので9時の特急に乗った。集まりの後テレビを見たら地震のニュースをやっていて驚いた。普段の火曜だったら、新宿駅にいた時間だ。東京でも震度4だったようだし、今週末に帰ったらどのような影響が出ているのか。
車内では読みかけになっていた本をずんずん読む。黄文雄『中国が葬った歴史の新・真実』(青春出版社)読了。これは気になっていた孫文を扱った本で、いろいろな面で面白いが、魯迅の『阿Q正伝』の主人公が実は孫文ではないかと言う話は面白かった。私の読んだ限りでは、魯迅というのはやはり中国人の心の中の病巣のようなものを抉り出した作家だと思う。孫文がモデルと言うのはともかく、毛沢東が評価し蒋介石が禁書にしたと言う対比は面白い。蒋はやはりこの本は自分が批判されているように感じたのではないかと評している人がいると言う。
立花隆は田中角栄を『巨悪』と呼んだが、毛といい蒋といいスケールはでかくても歪んだものを感じさせる独裁者と言うものを見ていくと、巨大さという点でも底の知れなさという点でも桁外れなおそろしさを感じさせる。その恐怖こそが中国という巨大な国を統べる最大の要素なのかもしれないが。このあたりはスターリンのような強大な指導者を好むロシアの国民感情にも近いものがあるように思う。
その後、犬養道子『ある歴史の娘』(中公文庫)に取りかかり、車内に続けて暇を見つつ夜までに読了。非常に面白かった。最終的に上智大学の神父によりカトリックの洗礼を受けるところに話の筋が続いていくので、まあどうもなんだかと言う感じがしてしまうが、そこに至る内面の葛藤の深さと言うものには感心してしまう。ちゃんと読んではいないけれども、アウグスティヌスやパウロの回心などもこのようなものだったかと思わされた。
昨日読んだ後半部はいわゆる汪兆銘工作の話が中心で、私の読みに間違いがなければ、『蒋介石を相手にせず』の近衛声明の後、中国側でもなんとか対日講和の手がかりを探ろうとし、汪兆銘を担ぎ出して別の政権を立てて日本側と和平を結ぶという工作が行われた、という経緯になる。そしてその日本側の推進者の一人が作者の父、犬養健であったということになる。作者は父とともに上海に渡り、そこで租界の最後の繁栄の時期を過ごし、また政治家というよりもむしろ女性的でたおやかな文人・汪兆銘と会う。汪兆銘の夫人と言うのは女傑と言うべき人だったらしく、その描写もすごい。
これはこの本のエピソードとない交ぜにして言うと、戦時中に汪兆銘が病死し、戦後夫人は捕らえられて蒋介石の漢奸裁判にかけられるが、汪兆銘の平和工作の意義を主張して一歩も引かず、「共産党にはソ連が、蒋介石にはアメリカが、汪兆銘には日本がついた。我々が敗れたのは我々の理念が間違っていたからではなく、日本が負けたからだ。」と強く主張した。結局彼女は死一等を減ぜられて終身刑となり獄死したが、江青や西太后のような女傑は中国には珍しくないんだなと感じさせれた。
一方、文人である汪兆銘の描写も本当にこまやかで、汪という人物が世が世ならむしろ文人として名を残すことができた人だろうと思わされる。この時代の中国には、確かにまだ本当に精神的な部分まで含めた意味での深く広い文化があったのだと言うことを理解させてくれる。
一方で、当時の魔都・上海のテロの描写もすざまじい。また、散歩に出かけると必ず油っぽい黒ずんだ餓死者の死体が転がっている、と言うありさまも、現代からはなかなか想像しにくい。
全体に、執筆された時代(70年代後半)のこともあり、またリベラリストの家庭に育ちクリスチャンとなった彼女の文化的背景のこともあってか、共産党政権にひいきに過ぎ、日本の軍部を嫌悪しすぎている嫌いが強いが、やはり当事者としてそこにいた、その描写の部分では本当に迫真の部分が多い。戦争の背景や時代風潮の「まとめ」、つまり「見たこと」ではなく「考えたこと」の部分は、なるほどと参考になる部分はあってもあまり同意できないところが多いけれども。
汪兆銘工作にしても、じっと米英の支援を待つ蒋介石などに比べて眼前の日中の講和のみにこだわり汪兆銘を担ぎ出し別の政府を立てると言うアクロバットをやった南京側のやり方をひ弱なものを感じた、というようなことを書いている。自分の賛成できない政府に対して別の政府を立てて対抗し、元もとの政府の打倒を図る、と言うのは何度も広東軍政府を建てて北京の正統政権(と言っても軍閥政権だが)に対抗した孫文や、「中華ソビエト共和国」を何度も作った共産党のやり方と根本的には変わらないと思うし、それこそ漢奸、すなわち国家反逆罪で処刑されることになった南京政権がうまく行かなかったのは日本が負けたからに過ぎないと黄文雄を読んだ後のいまでは思う。
しかし、汪兆銘のあまりに文人的な描写を読むと毛沢東や蒋介石にある独裁者の病的な暗さというものに彼は欠けていて、民衆にとっても恐らくは日本側にとっても(ここはやや逆説的だが)食い足りないという面があったのではないかという気がする。
そしてこうして孫文や共産党の事例と比較してみると、「新しい政府」を建ててたとはいえ、汪兆銘は根本的に地獄のように熱い、とでもいうべき権力意志に乏しかったのではないかと思われてならない。彼が和平工作に乗ったのは、犬養の言うように民衆の救済のため、だったと見ていいのではないかと今の時点では思っているが、それもガンディーのような鉄の意志があったとはどうも察せられず、理想家の空論に近かったのだろうと思う。そして作者の父犬養健も含めて、日本側も中国側も南京政権の関係者は「理想家の空論」的なひ弱さを持っていたように見えてくる。結果的に汪兆銘は孫文にもガンディーにもなれず、宣統帝溥儀になってしまったということだろう。
それにしてもこの本は、昭和戦前期のリベラリストの家庭の雰囲気や白樺派の文化的雰囲気、上海の租界の繁栄と悲惨、そのほかさまざまな事物の描写によって非常にこの時代のイメージを膨らませてくれた。視点の偏りは感じるけれども、まあそれは意識しておけばいいことなので、こうした優れた時代の証人のような人々の本を、もっと読んでいかなければならないと思ったのだった。
中国政府はベトナムで領事館主催でアメリカ対し館員などを招きホテルで抗日戦勝利の式典を行い、日本の常任理事国入り反対についてベトナムに圧力をかけたり、またあるいはロシアと共同で軍事演習を行い、台湾上陸を想定したといわれる訓練を行うらしいけれども、もはや中国人には汪兆銘的な文化の香りは欠けれもないのか、と嘆かざるを得ない。あるのは毛沢東と蒋介石の、矮小化されたエピゴーネンだけなのだろうか。
車内では読みかけになっていた本をずんずん読む。黄文雄『中国が葬った歴史の新・真実』(青春出版社)読了。これは気になっていた孫文を扱った本で、いろいろな面で面白いが、魯迅の『阿Q正伝』の主人公が実は孫文ではないかと言う話は面白かった。私の読んだ限りでは、魯迅というのはやはり中国人の心の中の病巣のようなものを抉り出した作家だと思う。孫文がモデルと言うのはともかく、毛沢東が評価し蒋介石が禁書にしたと言う対比は面白い。蒋はやはりこの本は自分が批判されているように感じたのではないかと評している人がいると言う。
立花隆は田中角栄を『巨悪』と呼んだが、毛といい蒋といいスケールはでかくても歪んだものを感じさせる独裁者と言うものを見ていくと、巨大さという点でも底の知れなさという点でも桁外れなおそろしさを感じさせる。その恐怖こそが中国という巨大な国を統べる最大の要素なのかもしれないが。このあたりはスターリンのような強大な指導者を好むロシアの国民感情にも近いものがあるように思う。
その後、犬養道子『ある歴史の娘』(中公文庫)に取りかかり、車内に続けて暇を見つつ夜までに読了。非常に面白かった。最終的に上智大学の神父によりカトリックの洗礼を受けるところに話の筋が続いていくので、まあどうもなんだかと言う感じがしてしまうが、そこに至る内面の葛藤の深さと言うものには感心してしまう。ちゃんと読んではいないけれども、アウグスティヌスやパウロの回心などもこのようなものだったかと思わされた。
昨日読んだ後半部はいわゆる汪兆銘工作の話が中心で、私の読みに間違いがなければ、『蒋介石を相手にせず』の近衛声明の後、中国側でもなんとか対日講和の手がかりを探ろうとし、汪兆銘を担ぎ出して別の政権を立てて日本側と和平を結ぶという工作が行われた、という経緯になる。そしてその日本側の推進者の一人が作者の父、犬養健であったということになる。作者は父とともに上海に渡り、そこで租界の最後の繁栄の時期を過ごし、また政治家というよりもむしろ女性的でたおやかな文人・汪兆銘と会う。汪兆銘の夫人と言うのは女傑と言うべき人だったらしく、その描写もすごい。
これはこの本のエピソードとない交ぜにして言うと、戦時中に汪兆銘が病死し、戦後夫人は捕らえられて蒋介石の漢奸裁判にかけられるが、汪兆銘の平和工作の意義を主張して一歩も引かず、「共産党にはソ連が、蒋介石にはアメリカが、汪兆銘には日本がついた。我々が敗れたのは我々の理念が間違っていたからではなく、日本が負けたからだ。」と強く主張した。結局彼女は死一等を減ぜられて終身刑となり獄死したが、江青や西太后のような女傑は中国には珍しくないんだなと感じさせれた。
一方、文人である汪兆銘の描写も本当にこまやかで、汪という人物が世が世ならむしろ文人として名を残すことができた人だろうと思わされる。この時代の中国には、確かにまだ本当に精神的な部分まで含めた意味での深く広い文化があったのだと言うことを理解させてくれる。
一方で、当時の魔都・上海のテロの描写もすざまじい。また、散歩に出かけると必ず油っぽい黒ずんだ餓死者の死体が転がっている、と言うありさまも、現代からはなかなか想像しにくい。
全体に、執筆された時代(70年代後半)のこともあり、またリベラリストの家庭に育ちクリスチャンとなった彼女の文化的背景のこともあってか、共産党政権にひいきに過ぎ、日本の軍部を嫌悪しすぎている嫌いが強いが、やはり当事者としてそこにいた、その描写の部分では本当に迫真の部分が多い。戦争の背景や時代風潮の「まとめ」、つまり「見たこと」ではなく「考えたこと」の部分は、なるほどと参考になる部分はあってもあまり同意できないところが多いけれども。
汪兆銘工作にしても、じっと米英の支援を待つ蒋介石などに比べて眼前の日中の講和のみにこだわり汪兆銘を担ぎ出し別の政府を立てると言うアクロバットをやった南京側のやり方をひ弱なものを感じた、というようなことを書いている。自分の賛成できない政府に対して別の政府を立てて対抗し、元もとの政府の打倒を図る、と言うのは何度も広東軍政府を建てて北京の正統政権(と言っても軍閥政権だが)に対抗した孫文や、「中華ソビエト共和国」を何度も作った共産党のやり方と根本的には変わらないと思うし、それこそ漢奸、すなわち国家反逆罪で処刑されることになった南京政権がうまく行かなかったのは日本が負けたからに過ぎないと黄文雄を読んだ後のいまでは思う。
しかし、汪兆銘のあまりに文人的な描写を読むと毛沢東や蒋介石にある独裁者の病的な暗さというものに彼は欠けていて、民衆にとっても恐らくは日本側にとっても(ここはやや逆説的だが)食い足りないという面があったのではないかという気がする。
そしてこうして孫文や共産党の事例と比較してみると、「新しい政府」を建ててたとはいえ、汪兆銘は根本的に地獄のように熱い、とでもいうべき権力意志に乏しかったのではないかと思われてならない。彼が和平工作に乗ったのは、犬養の言うように民衆の救済のため、だったと見ていいのではないかと今の時点では思っているが、それもガンディーのような鉄の意志があったとはどうも察せられず、理想家の空論に近かったのだろうと思う。そして作者の父犬養健も含めて、日本側も中国側も南京政権の関係者は「理想家の空論」的なひ弱さを持っていたように見えてくる。結果的に汪兆銘は孫文にもガンディーにもなれず、宣統帝溥儀になってしまったということだろう。
それにしてもこの本は、昭和戦前期のリベラリストの家庭の雰囲気や白樺派の文化的雰囲気、上海の租界の繁栄と悲惨、そのほかさまざまな事物の描写によって非常にこの時代のイメージを膨らませてくれた。視点の偏りは感じるけれども、まあそれは意識しておけばいいことなので、こうした優れた時代の証人のような人々の本を、もっと読んでいかなければならないと思ったのだった。
中国政府はベトナムで領事館主催でアメリカ対し館員などを招きホテルで抗日戦勝利の式典を行い、日本の常任理事国入り反対についてベトナムに圧力をかけたり、またあるいはロシアと共同で軍事演習を行い、台湾上陸を想定したといわれる訓練を行うらしいけれども、もはや中国人には汪兆銘的な文化の香りは欠けれもないのか、と嘆かざるを得ない。あるのは毛沢東と蒋介石の、矮小化されたエピゴーネンだけなのだろうか。