Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

慰霊ということ:『靖国問題』と『靖国論』

2005-08-02 10:43:26 | 雑記
昨日。小林よしのり『靖国論』(幻冬舎)が出る日なので地元の本屋(ジャスコの未来屋、西友と駅前の文教堂)に探しに行くが見つからず。昼食後、銀座に出かけて教文館で探したら見つかった。かなり余裕のないスケジュールだったようなので、まだ幅広くは売られていないようだ。Willでは東條英機の東京裁判における供述証書が出ているということ立ち読みしていたら8月上旬に全編が発売されるということなのでそれをまとうと思う。しかし価格はどのくらいになるか。

6階の喫茶店に上って靖国論を読む。新しく知ったこともいくつかあったが、やはり衝撃だったのは現在無宗教とされているいくつかの慰霊施設の様子で、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑と警察庁の殉職者を祭る弥生慰霊堂の例が挙げられていた。今でも靖国神社が毎日参拝客が絶えないのにたいし、いかにもさびしげなその様子は、慰霊というものに宗教的な裏づけが必要なことを良く示していると思う。慰霊というのは、近代的な施設で死者と対峙するものではない。伝統的な神社や仏閣、教会でもいいが、そうしたある裏づけの中で、「死者とともにいる」ことなのだと思う。護国神社などでも、正直言ってそうした雰囲気がなくなってきているところも残念ながら少なくない。

『正論』などで高橋哲哉『靖国問題』を批判した記事をいくつか読む。みんな引っかかっているのは、「悲しいなら悲しいことをとめないこと」という記述のようだ。悲しいのをとめないで生きていくことが誰に出来るか、という批判は最もだと思う。国のため、公のために死んだのだ、と納得することでまだしも整理が出来る。人が死ぬということは戦争に限らず理不尽なことだし、誰もが悲しみ続けていればいいというのは暴論だし、悲しみにいかに向き合いつつ生きていくかというところに人間らしい宗教や文学の営みがうまれるのではないかという佐藤優の指摘はそのとおりではないかと思った。

よくわからないが、本当は高橋氏は国のために死ぬということ自体があってはならないことだというのが本来の主張だと思うのだが、やはりそれ自体がおかしいと思うし、そこら辺に溝があるのだろうと思う。誰かのために生きない人生などどこが楽しいのか、価値があるのかと思う。その対象が国であってなぜいけないのか。もちろん誰かにだまされてつれてかれてひどい目に合わされた、みたいなことは皆無ではないだろうし、そういうことはなるべくないほうがいいに決まっている。しかし、だからといって国のために命を懸けるということを選択した人を非難するのもまた筋違いだと思う。

高橋氏は戦犯何とか法廷とかをやっていたが、そういうところに出席した人も、あまりその趣旨を理解しないまま、悪く言えばだまされてつれてかれてとんでもないものに出席してしまった、と思っている人もいるのではないかと想像する。そういうことは絶対にないのだろうか。

なんとなく、いや、もちろんそうではないのだろうけど、高橋氏の言い方には楽しいからこっちの方に参加しなよという感じの民青のオルグのようなものを感じてしまう。
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「出来ること」を100書き出してみる

2005-08-02 09:24:40 | 雑記
やりたいことを100書き出してやりたいことをはっきりさせるというメソッドの話を友人から聞いてなるほどと思ったが、最近特にこれをやりたいぞ、というものがあまりない。

以前、藤本義一が30まで(だったかな)はやりたいことをやればいいが、30以降はそんなことを言っていたらだめだ、やりたいことではなく出来ることをやらなければならない、というようなことをいっていた。以前は出来ること、なんてほんのちょっとしかないような気がしていたのでそれはつまり大人になったらしょぼい人生で我慢しろという意味なのかと思い余り重視していなかったのだけど、このメソッドの話と照らし合わせていろいろ話していると、昔に比べて「出来る」と感じることがかなり飛躍的に増えているということに気が付いた。

そう考えてみると、やりたいことを100書き出すというのは若者向けのメソッドで、われわれくらいの年代になったらむしろやりたいことというより「出来ること」を100書き出してみるのが良いと思った。もちろん、出来るけどまだ実現させていないこと、やりたいと感じていること、やらなければと感じていること、そういうこともニュアンス的にこの中に含まれる。つまり出来るとは思うし楽しいとは思うけれどもやらない、時間がない、面倒くさい、手間がかかる、というようなことを一度洗いざらいにしてみることによって、今つい滞ってしまいがちな自分の動きを再活性化してみるということである。

で、実際にやってみると58くらいでストップした。なんだかんだ考えながらあと20、あと10と結構出し切る感じで出してみると、『働きマン』に出てきた編集者が雑誌の記事の企画を10本出せといわれて出し切ってる感じに似ているなと思ったり、なるほどあれはこういう感じかと感心したり。創造性とかクリエイティブなものというのは、自分自身のある能力のそれを少し超えたくらいの設定のところで最も発揮される、というのは自分自身が演劇などをやっていたころは感じていたけれども、あまりクリエイティブでない仕事に沈潜しているとそういうことを忘れてしまう。

正直言って、そういうことを覚えている、という能力は昔に比べるとかなり格段に上がっている感じがする。そのときそのときで熱中はするがすぐに忘れる、というパターンが多かったが、最近はそうでもない。感性の働きどころが、昔は感受性というか自分が感動することばかりを追い求めていたのに、最近は「一般性」のようなものへの関心がかなり上がってきている。いや、一般性の追究というのは昔からないことはないのだけど、なんというか以前は理知的とか観念的なレベルのものだったのがなんというかもっと手触りのあるものになってきたという感じがする。

つまり、こういう言い方をしたらいいか。以前は感覚的といっても目と耳と脳で反応していること、という感じだったのが、なんかもっと身体的というか、現実の身体とは必ずしも言えずオーラ的な反応というとオカルトな感じがしてしまうがまあ身体的といっておくのが一番無難な言い方だからそうするが身体的な反応が伴うという感じなのである。

まあとにかくそういうものを出し切ってみて、で出し切ってみたと思うとまだどんどん出てくるふたの外れた蜂蜜の瓶のような感じだ。出来ることはそんなに多いとは思わないが100くらいはある、と思っておくのもまあ悪くないし、暇なときにそれを眺めてじゃあ今はこれをやるぞ、と思うのもなかなかいい。
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