もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

いかがでしたか

2023年08月15日 01時08分22秒 | タイ歌謡
 たまに不明なことをネットで検索すると、その辺のネット情報を集めて説明の切り貼りしたな、というサイトがあって、読み進むうち(これはアレだな)という予感が高まり、飛ばし読みを進めるうち、最後に「いかがでしたか」とか、それに類する言葉で締めくくってて、(あー。やっぱり)と思うことがある。
 最近では、いかがでしたかセンサーの感度が研ぎ澄まされて、開いてすぐに(あ。これ、いかがでしたかの奴だ)と判別できるようになったが、何の役にも立たないスキルではある。
 なんだよ、いかがでしたか、って。そこには書き手の見解も考察もなくて、他人の書いたもののモンタージュが、こいつの表現方法なんだな、と思う。ツイッターなんかでも自分ではツイートせずに他人のリツイートばかり、という人がいるが、あれは情報の取捨選択を見せることでの自己表現ってことなのかと思ったことがあるが、(そんなことして楽しいのか)という疑問に、「うん! 楽しい!」と答えるんだろうか。そうでもなきゃ理解できない行動だ。まあずっと昔からの他人の作った単語が、常識となって人々の共通認識になった語彙の集合である言語を使っているわけだから、その共同幻想を無視したオリジナルを求めすぎると他人に理解され難いのはわかるが、あまりに安易に寄せ集めて、いかがでしたか、ってのも遠慮というものがない。そして他人の言い分を無断で集めても、違法すれすれで訴えられるまでは行かない。「~のようです」とか「~によると~だそうです」みたいな記述が多く、言い切らない。責任なんか取ってたまるか、という逃げの言い回しだらけだ。むかし文章を書いて生活しだした頃、「煮え切らない文章はダメ」と教わった。予め反論の予想に対策済みの言い回しなんて、誰も読みたくないのだ。なんで他人の顔色を伺う文章を読まなくちゃいかんのか。
 まあ、私のはコラージュなのですとか、世間の意見をまとめてみました、って言うかもしれん。それで楽しいのなら、やってなさい、ってことか。泥棒じゃないです。写しただけ、って。それを泥棒と言うのに。泥棒が伝染るといけないんで、おれから関わらなければいいことなのか。

 ていうか、これでは何でもかんでも噛み付いて文句ばっかり垂れてるジジイではないの。ちゃんと自分でも「いかがでしたか」を実践してからでないと、文句を言うのはフェアではない。なんかフェアということについてウルサい奴は面白みがない気もするが、「背後から音もなく近づき、突如襲いかかるフェア」なんてのは、あったら面白いが、やっぱりどう考えてもフェアではない。それが許されるのは猫ぐらいだろう。
 そういうわけで、おれも「いかがでしたか」を実践してみることにする。

「湖のまわりを、兄と妹が同じ地点から同時に、ふたり反対方向に出発して、兄は時速4km/hで、妹は3.5km/hの速度で移動しました。それぞれ一定の速度で移動したものとします。18分後、飲み物の自動販売機を見つけた兄は、所持金58,620円のうち、130円の缶コーヒーを8本、160円のペットボトルのウーロン茶を13本購入して、ぜんぶ飲みました。この休憩時間は2時間47分です。妹は休憩せずに歩き続けましたが、カットソーの色は桃色でも、乾燥時の重さは380gでした。湖の一周の距離は286.37kmです。いかがでしたか」

 いかがも何もあったものではない。
 連立方程式だな、と思わせてからの「いかがでしたか」。不毛すぎる。時間の無駄だ。グテーレス事務総長の耳毛よりも無駄だ。耳毛じたいは不毛ではないが思った以上に無駄なんである。グテーレスに耳毛があるかどうか知らないが、ジジイだから、あるんじゃないかな。あるに決まってる。
 すまない。グテーレス。言いがかりみたいなことを言ってしまった。じっさい、グテーレスについて思うことなんてなくて、せいぜい(ハープを弾かせると似合わないだろうな)くらいの印象しかない。豆パンの似合う顔なんだが、道民ではないので、豆パンを知らないまま死んでいくんだろうな。かわいそうだが、世界のひとびとの殆どは豆パンを知らずに死んでいった。そして、これからもそうだろう。かわいそうではあるが、だからどうした、という気分だ。
 これで、いかがでしたかは、世の中にあんまり必要がないということをご理解いただけただろうか。ただ、こんな言い回しがあるんだから、良い「いかがでしたか」も存在してしかるべきだ。何があるんだろう、とおれには珍しく3分もの間長考したら、ひとつ可能性のあるシチュエーションがあった。
 好きで好きで堪らない恋人との情事の後、上目遣いで「いかがでしたか♡」って訊かれたら、これはもう「サイコーでした!」と答えるよりないと思うが、幾ら記憶の重箱の隅から裏の出っ張りのトコの隅っこを掻き穿って子細に思い返しても、そんな経験は、ないのだった。おれからも訊いたことがないんで、アイコではある。16歳だ。アイコ16歳。タイトルは知ってるが中身を知らないという点では「キューポラのある街」と双璧をなす作品だ(個人の意見です)。ていうかキューポラって何だよ。むかし気になって調べたんだよな。あれは半円形の屋根の様式の名称だよな! と思って念のためにググってみたら、惜しいけど違っててビックリした。惜しくないかもしれない。とにかく違う。いつの間にか変わったんだろうか。おれのキューポラを返せ、ばかやろう。
 キューポラが気になったひとは、自分で調べるように。
 何だっけ。
 いかがでしたか、だった。
 タイで「มันเป็นอย่างไร(いかがでしたか)」的なエントリを上げる者は聞いたことがないし、いちおうググってみても、そんな記事はない。
 うちの奥さんに訊いてみても何のことだかわかってもらえないだろう。説明が難しいわけではない。ただ説明しても「なにそれ」って感じで、理解は得られないと思う。松鶴家千とせ並みにタイ人にはわかり難い。有名な「わっかるかなー」は、そんなに面白くなくて、「しゃばだばー」とか「いえぃ、いえぃ、いえーい」って言いながら出てくるのがおかしかったんだが、あれを外国の人に説明して笑ってもらえるとは思えない。新婚の頃、正月休みにチェンマイからの国内線に乗ったとき、僧侶が二人乗ってきたので思わず笑ってしまったら、うちの奥さんが「どうしたの」って訊くから「和尚がツー」ってのを説明したんだが、「あー。つまり洒落なのね」って話で、そんなの面白いわけがない。
 ←和尚がツーの例
 まあ、タイにも「いかがでしたか」的なものがあったとして、たとえわかったところで、「まあ……、そうですね」ってだけの話なんだけどね。

 些末な問題ってやつだ。
 些末な問題といえば、日髙のり子の歌う「くまにかまれるよりまし」が最近の最たるもので、確かにクマに噛まれることに比べりゃ大体のことは些末なことだった。
日髙のり子「くまにかまれるよりまし」Music Video
 すごいね。良い歌なんだけど、日髙のり子は、ホントにクマに噛まれた(といってもポニーテールに結った髪の根元を噛まれたわけで、あと少しズレていたら事件だった)ことがあって、詳細は下線部のリンク先で。これは最近聞いた日本の歌でも、かなり良い。
 日髙のり子という人は、アイドルではパッとしなかった人で、後年「タッチ」という野球ものアニメのヒロインの声をあてて有名になったんだが、おれが野球に興味がないのはいつも言ってることで、だから「野球漫画や野球アニメを見る奴は、ばか」という間違った料簡を持っているので、その活躍は知らなかった。映画の吹き替えもそうで、英語圏とタイ語の国の映画はその国の音声で見るし、聞いて意味を推し量れない国の言葉の映画でも、字幕の再生を優先する。日本語吹き替えしかない、ということなら、よっぽど興味がなければ観ない。だから、日髙のり子の吹き替えの仕事もどんな具合か知らない。
 ところで日髙のり子の声はたいそう綺麗で、カーナビの案内の声だったり、他のアニメでお母さん役や世界を監視・統括するコンピュータの音声役だったりして、それは聞いたことがあった。どれを聞いても、(ああ。この人の声は綺麗だな)と思っていた。理想の声の一つで、就寝まえ、この人に「あたらしいお話」を耳元で吹き込んでもらえる旦那は幸せ者だと思う。いいな。そんなことをしてもらってるかどうかは知らないが。
 ちなみに、うちの奥さんに「เล่าเรื่องใหม่ให้ฟัง(あたらしいお話を聞かせてくれ)」とお願いしたら、「えー……」って困惑しきった顔だったので、断念した。おれ、うちの奥さんに嫌われるのがイヤで、しつこく頼めないんだ。
 日髙のり子さんの朗読で、就眠まえに聞くお話のコンテンツを販売してくれないかな。ヘンに主張があるんじゃなくて、山東京伝の現代語訳なんてどうか。日髙のり子の声でだぞ。聞きたいじゃないか。山東京伝の黄表紙なんか良いよね。「ある所にマジメな善人がいて、清貧に甘んじておりましたが、そこにとつじょ神様が現れて、おまえの願いをきいてやろう。遠慮せずに何でも言ってごらん、というので、恐縮しながら男は、それなら神様、わたしは米倉(こめくら)が欲しゅうございます。できれば多めに……、と答えました。それを聞いた神様はそうかそうかと頷いて、よかろう、と何やら呪文を唱えると、たちどころに現れた煙の中から、木綿針を杖替わりについた二寸ほどの盲ひ(めしい)が、なん人もゾロゾロと出てきました。そう。小盲(こめくら)でございます」っていうね。何の教訓も主張もない話ばっかりだが、木綿針なんていうディテールが馬鹿馬鹿しくて良い。山東京伝てのは偉大だよね。その無為っぷりに現代では、すっかり忘れ去られている。文章の軽妙さと内容の軽薄さで、再評価がまったくされないんだが、おれは好きだ。そういうのを、あの透き通った綺麗な声で読み上げてほしい。おれは買うぞ。売れると思うんだが。

 さて、新しいお話を頼めない気の弱いおれだが、気が弱いで思い出したのは、ブルガリアの民謡だ。日本語タイトルが「お母さん、お願い」で、ブルガリアの合唱曲のなかで最も有名な歌曲だろう。
Molih ta, majcho i molih
 原題は「Molih ta majcho i molih」というんだが、ぜんぜんわからん。自動翻訳にかけると「私はお母さんに懇願しました」ということで、間違ってない。
 ブルガリア語の歌詞を載せておくと「Molih ta, majcho i molih, nemozih da ta izmolja/ Nemozih da ta izmolja, da ma ni glavish ni zenish/ Da ma ni glavish ni zenish, barem juj saja godina/ Barem juj saja godina, juj sova leto proleto/ Juj sova leto proleto dorde ni dojde podzime/ Dorde ni dojde podzima da sa zazbirat momine/ Da sa zazbirat momine, momine na poprelkin/ Leftera, da si pohodja, gizdilo da si ponosja/ A ti ma majcho joglavi, joglavi, joshte jozeni」ということだ。
 ひとっつも、わからん。「♪モーリーター」っていう歌い出しで、昔のマニタス・デ・プラタのLPのライナーノートに「Moritas Moras(モリータス・モラス)」って曲名は録音の時に同行した森田さんに因んだのだろうか、おまけにMoriはラテン語で「死」だから、それに関係あるんだろうか、みたいなことまで書いてあったが、ずっと後になって、この収録曲はこのLPよりもさらに古くから録音されていた物だし、曲のタイトルの意味も「ブルーベリーとブラックベリー」ってことで、「死」なんてイメージは天の川の一番向こうの星よりも遠かった。つまりあのライナーノートの解説は時空を越えた恥ずかしい内容だったと理解したことがあった。なんでおれが恥ずかしがらなくてはいかんのだ。
 それはそれとして、このブルガリア語の歌詞も自動翻訳にかけてみると、「私はこれを祈ります、マジチョ・イ・モーリ、この人が祈ることは不可能です。ネモジ、この人はマ・ニ・グラヴィッシュ・ニ・ゼニッシュになることを祈っている。頭もゼニッシュもないなら、少なくとも一年はかかる。少なくとも今年は今年、今年のフクロウは春です。Juj sova year spring dorde ni dojde podzime ドルデ・ニ・ドジデ・ポジマ・トゥ・サ・ザビラット・モミン。ミイラを集めるために、ポプレルキンでミイラを集めるために。歩くのは左、誇りを持つのはギズディロ。でも、あなたは少し疲れている、疲れている、まだ怒っている」となった。
 なんだそれは。フクロウとミイラが出てくるが、根拠などなくても、これは間違ってるという推測は揺るがないと思う。とくにミイラ。そんなものを集める歌じゃないだろう、これは。
 仕方がないので歌詞を英文に訳したものを見つけて、それを和訳してみた。
「お願いだから、お母さん、そんなに若くして私を結婚させないで。春や夏ではなく、
秋の前でもなく。女の子たちがダンスに集まるとき、そして私も大量のアクセサリーを身に着けて自由に行動することもできたのに。でもあなたは聞かなかった。そして、私に花婿を見つけたのが早すぎました、母さん」
 なるほど。これなら意味が通る。ドアの隙間からミイラが覗いてるイメージすらない。
 いじらしいのである。気が弱くて母親に逆らえず、逃げることもせず結婚してしまう。なんだか中世を引きずったような歌詞だが、打って変わって合唱は奔放だ。
 ブルガリアの合唱は「地声で、ノンヴィブラートで、コブシを回し、不協和音を多用する」と説明されることが多く、どれもWikipediaからの引用なんだろうが、元になる記述がデタラメすぎる。地声で、とあって、喉を開くという表記と共に喉を絞るという表現もあり、(どっちなんだよ)と思う。まあ聴けばわかるが、ベルカント唱法みたいな西洋の発声法とはまったく違うので、喉を開いたようにも絞めたようにも聞こえる。コブシどころかコロコロ裏返る発声でもある。日本の島唄や、民謡でもお馴染みのコブシというか「ゆらぎ」で、西洋音楽的にはダメ絶対! な奴だ。しかも裏返り、コブシも大きいもので、その振幅だけでなくモンゴルのホーミーの歌唱法ほどではないが、倍音を出している。クラシック方面の綺麗なフラジオレット音ではなく、コルトレーンなんかがサックスで時々やる「ぎぼー」っていう、あのフラジオレット音に近い。2倍音ではなく、3倍音とかそれ以上の、ちょっと濁って感じる倍音だ。それからスラーは使うけど、旋律の始まりの音をスラーで取りにいくということは、おれの知る限り、ない。ここがアジアの歌とは決定的に違う。あと、不協和音ということについては、生半可なこと言ってんじゃねぇ、としか言えない。不協和音なんて和音はない。いや、厳密に言えば18世紀までの西洋音楽に限って言えば、あった。
 ブルガリアの声楽が不協和音だなんて、そんな認識で説明してはいかん。主音律に対して3度減、4度減、5度減、さらに10度減なんていう音を平気で被せてくる。西洋音楽的に説明すると、2度、7度、9度の多用と言った方がいいか。18世紀までの西洋音楽的にはアヴォイドノートでも、ブルガリア的にはアリなんで、それを日本人が古い西洋音楽理論で不協和音などと言うのは、まあわからないでもない。それしかモノサシを持ってないんだから。インドのカバディを見た台湾人が「これ、クリケット的に間違ってるよね」と言ってるのと変わらない。だからクリケット的には正しいわけで、間違ってるけど、クリケット的には間違ってない。ていうか、恥ずかしいから生半可なら書かなきゃいいのに。ブルガリアの合唱に関してはCDを数枚持っていて聴き込んだ時期があったというだけで、権威でもなければマニアですらない。

 あと、おれの知る限り、変拍子の曲が多く、7拍子、9拍子、11拍子なんてのが普通にある。なぜ誰も触れない。気がつかないのか。メンド臭いからおれはやらないが、だれか変拍子のこともWikipediaに書き込んでもいい。でも出典がこのブログだと明記すると、認められないか。
 
 さて、今日の歌だが「いかがでしたか(มันเป็นอย่างไร)」という曲を探したが、さすがになく、「คิดได้ยังไง(どう思いましたか)」という曲をサジェストしてきた。ニュアンスとしては、近い。
คิดได้ยังไง - เสก โลโซ【OFFICIAL MV】
 MVの冒頭でくじ引きのシーンがあるが、これはタイ名物の軍隊徴兵くじ引きで、最初の者が引いたくじに「ดำ(黒)」と書いてあって、実際には黒く塗った印刷があったはずだと思うが、それが「ハズレ」で、軍隊に入れない。だから「ハズレ」なのに皆大喜びなんだが、次の人が引いた紙には「ทบ」と書いてある。これも実際には赤い色が印刷されているんだが、ทบというのは「王国陸軍」のことだ。陸海空のうち、最も過酷なのがこのทบで、これを引いたばかりに、その場で卒倒する者も毎年多いという。
 精神的なダメージで卒倒する人ってのは、タイではちょくちょく見かける。暑いからかな。バタバタ倒れやすいのかもしれない。大体のタイ人は外出時に気付け薬を携行してるし。それともナーバスなのか。昔のタイ映画を観ていると、理不尽な目に遭って、怒りのあまり死んでしまうという描写を幾つか観たことがある。怒り死にといっても、怒りのショックでメシも喉を通らず衰弱していくイメージで、中国の昔の武将の怒り死にみたいに憤怒のあまり目や鼻や耳からも血を噴き出し、「うおおおおお!」とか「おーのーれー!」って感じで心臓が血圧に耐えられずに身罷るのとは大違いだ。
 うちの義弟が、徴兵を避ける為に大学に行ったあと大学院まで進んで兵役を逃れたんだが、それも卒業すると他に手立てがなく、観念してくじ引きに行ったら、果たして引いたくじが赤い「ทบ(国王陸軍)」で、卒倒こそしなかったが、家に帰って男泣きに泣いたそうだ。まえにも書いたことで、義弟はゲイだが、マッチョなタイプのゲイではなく、なよなよしている。たしかその頃には既にกะเทย (オカマ)は入隊を強制免除というか、要はハネられていた。くねくねして兵士として使い物にならないだけでなく、いい男と見ると誘惑したりして規律が乱れるどころか崩壊してしまうから。だが義弟は「隠れゲイ」で、姉を除いてカムアウトしてなかったし、ぱっと見はひ弱な男にしか映らない。
 おまけに義弟は運動神経が良くないので、入隊後当初はイジメが酷かったそうだ。陸軍を経験した者は、漏れなく運転免許が付いてくるくらいの特典しかないのだが、その運転も決定的に適性を欠いていて、あわや大事故というのをなん度も繰り返し、身の危険を感じた教官が「おまえは運転教習免除な」と解放されたという珍しい人物だ。似たような経緯で運転免許を諦めた者を、もう一人知っていて、それは彼の父親、つまりおれの義父なんだが、遺伝てのはすげぇな。親父の方はクルマを縦に、くるりん、と一回転ローリングさせたそうで、うちのヨメみたいに1500バーツ払って免許を買うことさえ断られたという。試験官が肩に手を置き「ชีวิตเป็นสิ่งสำคัญ(いのちは大切だよ)」と諭したそうで、おれが運転するクルマに乗って「うちの婿様は運転ができるんだなー」と嬉しそうに感心していて、当時は何を言ってるのかと訝しがったものだが、いきさつを聞いて納得した。うちの奥さんはタイの一時帰国で免許の取得後、おれのクルマで運転の練習中に、路上駐車で不倫のいちゃつきを楽しんでるカップルのクルマのボンネットに、ががが、と乗り上げ、「もう運転なんかしない!」と泣き出した。というのは、まえに書いた気がする。ジープでなければ衝突で怪我をしていたかもしれなく、クルマに乗るならジープだな! と思った。とはいえ相手もジープだったら悲惨だったな。
 ところで義弟は運転も酷かったが、軍人としての素質も覇気も見込みも全くなかったので、購買部かどこかの、他の隊員に比べたら天国みたいにラクな部署に追いやられたという。没落したとはいえ、やんごとない家系だから、裏から親父が手を回したんじゃないかと、おれは疑っている。その部署はダメ男の吹き溜まりみたいな所で楽しかったというんだが、まあ、いじめられるよりは良いよね。そんなもんで、軍人と言うよりも事務員だから軍服が傷むこともなく余った新品同様の予備の軍服を一式、おれにくれると言ったんだが、おれも軍服なんて嫌いなので断った。そんなものを欲しがるのは、バカかロクデナシか、バカなロクデナシだ。あとで思い出して訊いたら、欲しがる人がいたそうで、その人にあげたら喜んでいたという。まだタイで一般人がミリタリー服を着ると逮捕されるまえの話だ。タイでは、ときどきヘンな法律ができるよね。
 そんなことより、今回の歌だが、歌手はこれまでにもなん度か取り上げたเสก โลโซ(セーク・ローソー)で、お騒がせでお馴染みな人物だ。これまでに説明してるんで人物の紹介は割愛だ。聴いての通り、歌が巧い。人物はメチャクチャだけど、歌はホントに良い。
 歌詞だ。

彼女に新しい恋人ができたという ニュースを聞いたとき
私は驚いた それが本当だとは信じられなかった
彼女には すべてを与えたんだ すべてを
でも 実際には彼女の心を掴むことはなかった

密かに 鋭利な角が隠されている それはいつも 真っ直ぐ内側にある
抱きしめても でも誰が恋しいのか わからない

本当に知らなかった 彼女が 私をまったく愛していないなんて
たとえ誰かが 不審に思っていても 私は決してそう思わなかった
でも 他の人と一緒に行くなんて ひどい打撃を負った
私の友人である彼について どう思う?

彼も彼女も お互いを心臓のように大切に思っている
どれだけあなたを愛しているか それを後悔しても仕方がないのか
でも 信頼できる人は こんなことをすべきではない
いつか 彼も わかってくれるだろう

ああ どう思う? どう思う? どう思った?
ああ どう思った?

 ローソーの歌詞は自作であることが殆どだが、ロックのくせに女々しいのも多い。うーん。こういう言い回しは良くないな。ロックとしては新機軸の細やかな心情を吐露している、と言えばいいのか。
 あと軍隊の入隊がらみの歌も多いのは、実体験ってことなんだろうかと思ったが、ローソーが入隊したって記述はどこを見ても出てこない。詳しい経歴を見ても入隊した空白期間がない。
 もっともタイに徴兵制度があっても前述の通りくじ引きで、しかもくじに「ハズレ」て、入隊しない者の方が圧倒的に多い(アタリの入隊は、およそ2割ほど。残り8割は自由放免)ので、入隊経験のないタイ人男性てのは多いのだが。それなのに入隊によるドラマがテーマの曲は多くて、共感もされている。どうなってんだ。
 あ。あとね。日頃の言動で、おれは兵隊さんを嫌ってるだろうと思ってるかもしれんが、これは言っておくけれども断じてそんなことはない。とくに自衛隊の人を見かけると(がんばってね)とか(ありがとう)みたいに思っている。おれみたいに捻くれた奴でも、大震災のときの自衛隊の隊員や警官のことを憶えているので、こんなロクデナシだが感謝は忘れない。
 だいたいサヨクの人(とくに道民)は自衛官や警官を嫌う向きがあるが、こないだの停電どころじゃないガチの震災に遭えば、気持ちは変わると思う。ただ、そんなことはないほうが良いし、警官や自衛官が大活躍することがなく、ちょっと疎まれてるくらいの方が、世の中は平和で良いんだろうね。
 タイ人も軍人や警官の汚職は嫌うけど、存在自体を嫌うことはない。敗戦記念日近くのこの時期だけ日本が左傾するんで「戦争とか自衛隊の存在はいけないと思いまぁす」というサヨク関係のテレビの主張に、うちの奥さんも「なんで???」と呆れる。
 軍隊なんてものがあるから戦争が起こるんだって論法なんだよ、と説明しても「でも他の国は軍隊持ってるんでしょ。世界で一斉に軍隊なくすんだったら、その考えもアリかもしれないけど、消防署をなくしても火事はなくならないでしょ。……あ! 全部燃えたら要らないわね。そうか、軍隊なくして日本人が全滅したら戦争は終わりだよね、ってことね!」と理解が早い。「タイでも軍隊なくしたらいいのね」
 またそういう思ってもいないことを言う。
「ไม่ได้โกหก แค่พูดเกินจริง(嘘ではないの。誇張しただけよ)」そう言って片眉を、くい、と持ち上げた。この「くい」って眉を動かすのは日本語にすると「ね?」って意味だ。非国民なんである。日本人じゃないからね。
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