もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

倶に天を戴かず

2023年08月08日 19時33分33秒 | タイ歌謡
「คุณอยากกินปลาปักเป้าไหม(河豚を食べてみたいかい?)」とヨメに訊いてみたことがあって、間髪入れずにおれを見上げて、力強く頷いた。
「ญี่ปุ่นกินปลาปักเป้า(日本人はフグを食べるんでしょ)。ไม่มีพิษล่ะ(毒がないの?)」
「มีพิษ(毒はあるよ)ในวิธีการปรุงอาหารลบพิษ(調理法で毒を除くんだ)」
「ใช้ยาใช่ไหม(薬を使うのですね)」
「เปล่า(そうではなく)แยกออกอวัยวะที่มีพิษ(毒の部位を切り離すんだ)」
「นั่นคือทั้งหมด?(それが秘訣の全て?)」
「ใช่(そうだよ)」
 ふうん、と少し考えて、あなたが食べるなら、わたしも食べましょう、と神妙な顔になった。とくに警戒する様子もなく食事を終えて、ふう、と一息吐いていた。「ไม่มีอะไร(なんでもなかったね)」と微笑んだ。え。毒に中(あた)るかと心配だったの?
 うん。と頷いた。「美味しかった。でも、もういいかな」確かにとても美味しいものだけれど、命と引き替えにするほどのものではないような気がするということだった。
 なるほど。คล้ายแมงดาทะเลเมืองไทย(タイのカブトガニと同じようなものだね)と言うと、「え。カブトガニは、こんなに美味しいものではないでしょう」と不思議そうに言った。
 いや。待て待て待て待て。
 タイ人、カブトガニ食うじゃん。
 うん。
 そんで、毎年なん人か死んでんじゃん。
 そうね。
 おんなじじゃん。
 え? いや。カブトガニ、こんなに美味しくないでしょ。
 じゃ、なんで食うの? 死ぬかもしんないのに。
 うーん。好きだから? すっごく美味しいものじゃないけど、好きだからじゃないかしら。でもフグは違う。ぜんぜん違う。フグは美味しいもん。
 あー……。
 おれは、ここで諦めた。これ、わかり合えないやつだ。フグ毒もカブトガニ毒も、どっちもテトロドトキシンだけど、そういうの関係ない。だいたいわかるけど、きっちりとはわからない。タイ人の死因の、ほんの僅かではあるが、このカブトガニの他に、ネームという北部の酸っぱ辛いソーセージがあるんだが、まれに乳酸に耐えた寄生虫で人が死ぬことがある。あとソムタム・プーってやつの塩漬けの沢蟹の寄生メタセルカリア幼虫が息も絶え絶えながら死んでなくて、摂取したヒトが肺吸虫症で、ひっどい死に方をする者が稀にいるんだが、どれも毎年数人というレヴェルだ。だが、たとえ数人とはいえ、その辺の気にしなさ加減が、日本人にはわからない。どれもマズくはないが命と引き替えにするほどの旨さではない。とくにカブトガニは卵に毒を持つ時期があって、その時期を避ける知恵はあるんだが、その卵を喜んで食っていて、特別に旨い物ではない。味よりもプチプチとした食感が珍重されるというが、松露みたいな珍味ではない。味の曖昧さや食感はハタハタの卵に似ていて、食べたことのある方なら御存知だろうが、どうということのない食い物だ。肉の部分は可食部が少なくて、しかも大して旨くないし不味くもないという食い物で、これを「ヤム」という酸っぱ辛いサラダに和えて食う。とてもじゃないが、これで死んだら無念と言うよりない。ネームというソーセージは、まあ旨いが、命懸けで食うものではないし、タイ人の好きなソムタム・プーは川の生臭さが口いっぱいに広がるもので、川魚が苦手な者にとっては天敵と言って良い。こんなの喜んで食うなんて、タイ人って頭がどうかしてるんじゃないか。
 そういえば、だいたい年にいち度くらいのペースで、カブトガニを食べて毒に中ったけど、病院に運ばれて、すんでの所で助かったという人がテレビに出てきて「まず、口の周りがシビれて、それから身体が動かなくなります」とか、いつも同じ事を言う。最後にアナウンサーが「カブトガニに中ったら、すぐにรถพยาบาล(救急車。直訳は看護婦の車)を呼びましょうね」と言い、奇蹟の生還を果たした家族がアナウンサーと一緒に手を振ってたりしてて、なかなか気軽に命懸けを楽しんでいるのだった。

 とはいえ、北海道では野生の鹿を「偶蹄目だら生食できるもね」と根拠のない謎理論で食って肺吸虫症に罹る者も稀にいるから、タイ人を悪し様には言えない。中には確固たる根拠を持って食う者もいるが、それは「したって羆だって生食だべや」という乱暴な理論で、自分と羆の区別がつけられないのだった。同じ偶蹄目の猪は豚の仲間だという理由で生食しないのにね。猪にもメタセルカリア幼虫がいることが多く、危ない。まあ道民の知的レヴェルは平均的日本人よりも大きく劣るので、致し方ないことなんだろう。普通の日本人は野生の肉を拾い食いしないものだ。だが、殆どの道民は野生動物の肉の拾い食いを「英語でジビエって言うんだべさ」と理解している。いやジビエはフランス語だろ。「あー。フランスの英語だってかい」もう、生まれた時から、とことんばかを運命づけられているのだ。
 あと、たぶんだが、日本人のフグ毒に対する安全性の過信もタイ人にはいまいち理解できていないようだ。だってフグの調理師にもバカはいるでしょう、ってことだ。この辺を詳しく説明しても「いや生卵を食べるような国の人に言われても……」と言われてしまう。何を言うか。日本の鶏卵は安全管理が行き届いているから、卵の殻を舐めたりしなければサルモネラ菌の被害を喰らうこともないのだ。安心して食べなさい、と説得してもダメな相談で、日本人に「これSPFポークといって、生で食べてもだいじょうぶな豚肉なんだぜ。ほら喰えよ。刺身で。ワサビ醤油だぞ」って言われても食べないひとが殆どだろう。同じ事だ。もう民族の連綿と続いた記憶として「生卵を食う=危険!」というのが、解の公式と同じ説得力で生の鶏卵を拒否する。「TKGDZ(卵かけご飯ダメ絶対!)」なんである。ごめんね。野蛮で。と、引き下がっておく。でないと、パプアニューギニアの人が「男の正装はペニスケース!」と主張して「ほら、装着してみろ」と迫られても困るでしょ。あんなものを着けるのはパプア・ニューギニアの人かクラウス・シュワブ(ダボス会議と世界経済フォーラムの両方の会長)くらいかと思ったら、あれは別人のマックス・シュワブ氏だよ、という火消し記事もあって、何で苗字と顔が同じなのか不思議だが、ここでまた画像を貼ってBANされてもイヤなので、リンクを貼っておこう。これ、マックスさんが実在していれば、いい迷惑なんじゃないかと思ったが、それなら変態の人だから、「ああ! わたしの名前と写真が! 世界中に!」と悦びに打ち震えているかもしれず、あっち方面の人はわからん。

 ところで、フグを食わない人というのはタイ人だけでなく、世界中の人々がほぼそうで、じゃあフグを食べるのは日本人だけなんだな、と言うと、厳密には少し違う。韓国でも食うからだ。韓国語で「ポゴ」みたいな発音だったな。安く食えるのはいいが、辛い鍋で食った。旨いんだけどね。何か辛くしちゃうのはもったいないと思った。それから冬に頼むと、フグの干物を水で戻したやつの鍋で、「えー……。こんな食い方しちゃうのォ……」と少し悲しくなった。マズくはないが、なぜ干そうと思ったのか。アワビやナマコみたいに、いち度干したのを戻すと旨いというものでもない。昔、助惣鱈を干したものがあって、あれを水で戻して煮付けた奴は、正直震えが来るほどマズい。身欠きニシンならまだ趣があっていいものだが、山の年寄りはどこで買うんだか干した助惣鱈を戻して甘辛に煮付けたのを今でも食う。おれたちの世代が魚肉ソーセージ食って喜ぶのと似てる。干した助惣鱈ってのは、行ったことはないが、地獄の食堂では、こういうのが亡者に出されてくるのではないかと思うような食い物だ。だって地獄に冷蔵庫なんてないだろう。冷蔵庫は死んでも地獄なんかに行かないからだ。で、干したフグなんだが、まあ、食材への考えが日本人とは違うんだろうし、他国の者がガタガタ言うことではないんだろうが、「えー。干しちゃうのォ……」という感想しか思い浮かばなかった。
 日本人だけがフグをわかっているというつもりはない。日本人なら誰だってフグが好きって話でもない。
 だって日本人でも会津の人はフグを食わない。会津若松市にフグを食わせる店は一軒もないのだ。市場で売ってもいない。誰も買わないし、誰も食わないからだ。
 なんで、って、そんなの簡単で、フグは長州の者が食うものだからだ。
 今でも戊辰戦争の恨みを忘れない。
 いやいや。それもう150年もまえの話だろ。今でも根に持ってんのかよ、とお思いかもしれんが、根に持ってる。恨み骨髄だ。
 ずいぶんまえ。おれが福島県に住んでいた頃に、山口県の人が用事で来たことがあり、昔世話になった人だったので家に泊めた。福島での用件も簡単に片付き、時間が余って「どこか観光でもしましょうか。この時期磐梯山が綺麗ですよ」と提案すると、山歩きかぁ、それよりも会津に行くのはどうか、と言う。お城もあるんだよね、と。
 え。会津は未だにフグ屋がないような土地で、長州の人だとわかるとどうなるかわかりませんよ、と言っても、でも良い所らしいじゃないの、と普通の観光客みたいなことを言う。
 なるほど、一般の山口の人の気持ちは、こんな感じなんだなー、と半ば呆れながら「いいですか。ぜったいに長州人だと覚られないように」と念を押したら、あ。う、うん。と不思議そうに頷いた。おれは蝦夷地の出身だから、まあ関係ないといえば関係ないが、会津には知り合いも多く、会津の人の長州人への気持ちを知っていた。ちょっとやそっとの恨みじゃない。憎悪がまだ生きている。できれば復讐したいとさえ思っている。
 えー。会津の人って、そんな陰湿なんですか、などと言ってはいけない。
 さらに遡ること文久の改革の後、京都見廻組や新撰組の主力だった会津藩士は逆賊だった尊王攘夷派の薩長土肥、とくに薩長からは蛇蝎の如く嫌われたもので、これも会津の人に言わせると「逆賊が盗っ人猛々しい」としか思ってない。お国のために成敗したのにと思っていても、一方で新政府軍の薩長出身者には恨みしかなく、会津で狼藉の限りを尽くした。薩摩藩士の嗜みとして男色は有名で、薩摩の者は少年を片っ端から犯しまくったが、それでも犯した少年を全員惨殺するということはなく、殺戮も程ほどだった。が、長州人は女子供を片っ端から犯し、さらに虐殺・略奪の限りを尽くした。男子はもちろん惨殺する。老人や赤児であろうと容赦せずに殺戮したのが長州人で、その惨状は怨嗟と共に子孫に語り継がれた。あいつらは人間じゃねぇ。ケダモノだ。いやケダモノだって、あんなことしない。ケダモノ未満だ。どこの世界に鶴ヶ城を壊すケダモノがいるかよ。いくら会津人に筋違いな恨みがあろうとて、わしらは長州人の一般人には何の手出しもしてはおらぬ。それが奴らときたら、という訳で、未だに放射性物質よりも嫌われている。ムリもない。ムリもないよ。酷すぎるもん。
 東北人特有の陰湿さ、などと言われることがあるのは知っている。でもね、こちとら征夷大将軍坂上田村麻呂からこっち、蝦夷(えみし)であれば穴掘って埋められてきた民なんである。その埋めた土を蝦夷の平民に踏み固めさせ踊らせたのが起源の「ねぶた祭り」なんである。蝦夷の末裔としては、弥生人の流れを汲む者たちに、うっすらマイルドでライトな殺意すら持つな、と言われて、そう努めているわけである。だから、まあ、うっすらと気持ちがわかる。会津の民の気持ちなら、わかっちゃうんである。うっすらと。ウルトラマイルドに。
 150年まえの事でも、これだ。こないだの戦争から80年ちかく経とうとしているが、そんなもんで消えるルサンチマンなんて、「あのとき唐揚げと卵焼き盗ったよね」くらいが基準だろうか。満腹時だったら許してくれるんだろうが。
"ดาวใจ ไพจิตร" เพลงทำไมถึงทำกับฉันได้ จากรายการเพลงเอกเสียงนี้ที่คิดถึง
 さて、今日の歌だが、今回も前回に続いて日本の昭和歌謡のタイ語バージョンだ。この歌もオリジナルが日本の歌だと知る者はタイに殆どいない。歌のタイトルはทำไมถึงทำกับฉันได้(なぜあなたは私にこんなことをしたの)という所から、まったく想像できない。元歌は森進一の歌唱で有名な「港町ブルース」だ。元歌の作詞は公募の一般人。それを歌謡曲の体裁に補作したのが、なかにし礼で、作曲は猪俣公章。バッキングのピアノが「たたた・たたた」と三連符を刻み続けてドゥーワップっぽいテイストを加えて、都会的雰囲気を醸している。これはアレンジの森岡賢一郎先生の力量で、この人の作曲・編曲は三連符の使い方が巧い。タイ語バージョンでは三連符は遣われず、抑えたバラッドに仕上げてる。タイでは日本の歌どころか作曲者がจงรัก จันทร์คณา(ジョンラック・チャンカナ)ということになってる。数多くのヒット曲を残した大家で、何でこの人の名がクレジットされたのか。本人が著作権を主張したのかどうかも、すでに故人でもあるので追及はできないね。
 ところで、このMVの歌手なんだが、どこかで見たことがあると思ったら、中華街で売ってるお面じゃないか、と思ったが、よーく見るとちょっと違う。じつは歌手としては大御所で、ヒット曲は数百とも言われる歌姫なんだが、名前の前にด๊อกเตอร์(ドクター)が付く。ドクターってのは英訳ではなく、タイ文字をカタカナ表記でドクターだ。え? なんでドクター? というと、理由は簡単で医師免許を持ってて、実際に医師であった時期もあったからだ。ああ、なるほど。歌手が忙しくて医療活動をする時間がなかったのだな、と思うだろうが、これも違う。歌手として滅法有名だが、事業家としても大成功している。博士号も一つや二つじゃなくて医学博士・芸術関係だけでなく、獣医学の博士でもあり、法学・経済学などの博士号も多数持ってる。論文を書くのが楽しいんだって。若い頃に書いたルククルンの論文は、インテリ歌手のバイブルだって言うんだけどね。最近の歌手は字を読めるけど本を読まないのよね、って嘆いていて笑った。チュラロンコン大学を優秀な成績で卒業したということで、この人は今年70歳で、その当時チュラロンコンは文句なしでタイで最も優秀な大学だった。今では二番手だが。
 事業家として名を馳せてるというのも、小さな屋台を引いているという規模じゃなくて、劇場やオペラハウスを持ってる。小劇場なんかじゃなくて500席の劇場を4つ持ってる。スパとリゾートホテルも持ってるし、病院も経営してる。そりゃ患者を診てる時間なんかないわな。あと芸能プロダクションやバンドも。歌手なんて趣味だ。30年まえに旦那と死に別れて未亡人なんだが、男と付き合ってる時間がないのよ、と笑っているそうで、成人した孫だけでも11人いるから寂しくないと。

↑近影みたいな中華街のお面と、若い頃の一枚
 若い頃は美人で才媛だから、そりゃ凄い人気だったそうだ。「いろいろと嫉妬されました。でも成長しない人には三つのタイプがあって、①怠け者②憶病者③嫉妬深い者の3タイプは人としてダメです」と静かに微笑んでいる。おれの知ってるタイ人じゃねぇな。まあ成功してる人が、こういうことを言うと、ぐうの音も出ないって奴で、疎まれそうなもんだが、人格と見た目で好かれてるものだから、タイ人も素直に「ホー」って感心してるようだ。
 そういえば、タイ人って明らかに上の存在には、わりと素直に従うんだった。捻くれてないのよ、おれなんかと違って。
 歌詞だ。タイの港町を巡るご当地ソングかと思ったら、海峡を背伸びして見たりしてない。ていうか港町カンケーない。

かつて自分は 慈悲深く愛されていたのだと気づいた
でも 打ち砕くように 私の心を切り裂いた
私は同情され 労られて やっと心を取り戻した
私の心から 薬を蒸留して
私の体で温め いつも愛で甘やかして
私はいつだって あなたに何もかも与えた
なのに なぜ私にこんなことができるの
10万バーツ?
それが あなたが受けた恨みの報いかしら
私はあなたに 何の影響も与えられなかった
あなたを慰め 笑わせて 善意と 何よりも忠誠心で接したのに
なぜ 私にこんなことができるの

あなたは誰に怒っているの
その復讐を 誰かに返すのではなく 間違ったことに 私に返した
業(カルマ)を受け入れるため 私を消耗させるため 恨んだから 
あなたは私を傷つけるふりをしたのね
私はあなたを愛しています いつもあなたを愛しています
それなのに なぜ あなたは私にこんなことができるの

私を殺してください そうすればあなたの痛みは治るから
それとも あなたは恨み続けるの?
あなたが大きな復讐をするという噂 みんなが知っているのね
間違った関係の人を 解放してね
私は断言しましょう あなたは破滅します 満足してないわ
私はあなたを愛しています 誰よりもあなたを愛しています
それなのに なぜ あなたは私にこんなことができるの

 わりとガチめの恨み節で、タイ歌謡にしては珍しいが、それでも現在進行中で愛してるって言う所がタイっぽい。そういえば、すんなりと運命を受け入れてしまうということは、これまでになん度も書いたが、同時に情け深いんであった。
 歩く二律背反とえばタイ人で、昔からカネで転ばないタイ人なんていない。買えないタイ娘なんて、いないぞ、という話は屡々聞いたものだが、ぜんぜん違う。なん度も書いたが、肉や野菜みたいに売られているタイ人娘は確かにいるが、普通のタイ娘は身持ちが固い。結婚するまで肉体関係を持たないのはあたりまえで、そんなんだから生涯男性と付き合うこともなく純潔だか何だかを守り抜いて死んでいくタイ女の何と多いことか。ソースはいくらでもあって、義妹も、その叔母もそうだ。まえにいたタイの事務所で働いていた事務員さんたちのうち、50代でまだ処女というのも数人いる。さすがにこれからも恋人を見つけるのは難しかろう。
 なるほど。身持ちの固いのは、井村屋のあずきバーよりも固いのだな。そして柔らかいのはフードコートの(これ牛乳で薄めただろ)みたいなミックスソフトクリームよりも柔らかくてユルいってわけだ、と思うだろうが、話は多様性なんていう簡単なことではなく、固いのもユルいのも、同じタイ人の貞操観念がもたらすものなんだと思う。固いのは貞操観念で、これがいち度解放されると、あとは何でもアリで、貞操を手放したあとの性道徳が、特定の配偶者のみに向かって解放されることも多いが、不特定多数に向かうことだってある。その代償が愛情だったり通貨だったりする違いはあっても、そのメカニズムが自然に発動している、という印象がタイ人にはある。
 まあ、こういうのはどこの国も似たようなものかもしれない。西洋系の外国人に多いんだが「ジャパニーズ・ガールは、いつでもどこでも誰とでもデキるよね」と言う者は多いし、昔は援交と言い、今はパパ活と言って売春と言わないのは同じで、日本でだって性行為の代償が、愛情なのか通貨なのか、それとも単に快楽なのか、あるいは研究結果や異国情緒かもしれず、いっぽうで男なんかカンケーない。手ェ握るどころか半径が身長くらいのバリア張って男を寄せ付けないのもいて、あの固い固いあずきバーだって時間が経てば溶けて硬度を失うのに、ガードが生涯ダイヤモンド並みに固いという金剛ガールもいる。多様性ってことなら、そこだ。
 いきなりだが、むかし鈴木いづみというひとがいて、向田邦子を評して「オトコと暮らしたことのない女」とバッサリ切り捨てていて、これには「すげぇ……」としか思えなかった。もちろんオトコと暮らしたことのない女はダメっていう話じゃない。名人とか達人の名を欲しいままにした向田邦子だが、それをひと言で「ああ……ねぇ……」とねじ伏せてしまう。
 鈴木いづみは紛う方なき天才だったが、幼い娘の前で縊死してしまう。秀才の向田邦子はそんなこと絶対にしなかっただろうが、事故死だ。両極端な女たちは、どちらも脚本なしで壮絶なドラマで最期を締めくくった。誰も望まない形で。
この記事についてブログを書く
« ビートルズなんて知らないよ | トップ | いかがでしたか »

タイ歌謡」カテゴリの最新記事