もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

あてどころに尋ねあたりません

2021年04月08日 18時51分37秒 | タイ歌謡
 うちの奥さんがまだ婚約者だった頃、頻繁に朝早く、おれの事務所に来て中華粥や、豆乳と油炸鬼(パトンコー - ปาท่องโก๋)のセットなんかの朝食を気前よく持ってきてくれた。マクドナルドのハンバーガーを持ってきたこともいち度あって、その選択の基準がわからない。訊けば、じぶんと同じものをふたつ買っていただけのことだった。考えてみたら、朝食はいつもコーヒーとトーストみたいに決まったメニューで、それも同居を解消されて独り暮らしになると、特典だった朝食も解消されていたので、朝食の献立が日替わりになるのは面白かった。ついでに机の上に蘭の花を活けてくれたりして、なんだかむかし話で良い報いを受ける登場人物みたいに甲斐甲斐しかった。朝食代を払うと申し出ても受け取らず、そういえばこの人の実家は没落したとはいえ名家だったと思い出した。では夕食を御馳走いたします。そう提案すると、微笑んで鷹揚に頷くのだった。
 顧みると、それまでおれが共に暮らした女のひとたちは、朝おれが起こしたり、朝食を作って食べさせることはあっても、おれが世話をされたことはなかったので、面映ゆくもあり、新奇でもあった。これは、同居を始めた最初の朝に、女性が朝食の準備を始めても、それを制しておれが作ったからだ。そして人並みの女性よりは、おれの方が料理が手早く、巧かったから、朝の支度はおれになるのが常だった。好きなひとのために朝食を作るのは楽しいことだったし、美味しいと喜ばれるのは単純に嬉しかった。
 ところが、同居するようになって一方的に朝食を作られることを嫌がったのがうちの奥さんで、タイの一般の女性がそうであるように、料理の経験が殆どないにもかかわらず料理を作りたがった。何でもあなたが独りでやるのは、イヤ。涙ながらに訴えるので、では一緒に作ろうということになったが、料理は一緒に作ると、こよなく楽しいのだった。
 それまでは何とも思ってもいなかったくせに、蘭の花も急に好きになった。デンドロビウム・ファレノプシスという名前は長くてしつこいが、デンファレと略すのは、気持ちが悪いので、もっぱらタイ語でกล้วยไม้(クルアイマイ)と呼んでいた。婚約者が来ない日には、じぶんで花を買うようになっていた。いちばん好きな花は、ひまわりだったが、タイでひまわりの花を売っているのを見たことがない。ひまわりは、そこらじゅうに咲いていて、ありふれた物なのに、家に飾るとアタマが良さそうには見えないからだろうか。そういえば近年デパートなどに花屋が出店するまで、いっぱんに花を買うにはサヤーム博物館近くのパーククローン市場(ตลาดปากคลอง)へ赴くか、街を歩く花売りから買うしかなく、花売りはひまわりなどは売らないのだった。あれは大きすぎて、たくさん持てない。一輪が高く売れるのなら、それでもいいのだろうが、そのへんに咲く花を高く買う者はタイにはいない。あと、稀に、ごく稀に屋台とすら言えないような小さな花屋がある。机ひとつ。その上に花を載せて売っている。おれが知っているのはバンラックの小さなホテルの前に出ている店で、遠近法を無視したような身長の低い娘が売り子だった。背が低いだけでなく、顔も手足も小さいので、比率は大人と変わらないのに、大きめなフィギュア人形のような風情で、距離感を狂わせるのだった。おれはここで花を買っていたが、愛想の良いときと、そっけない日があって、極端な気分屋なのだった。ある日娘がふたり並んでいて、遠近法だけでなく焦点までおかしくなる技能を発動させていた。見間違いかと眼を凝らしたが、やはり二人いる。訊けば双子だということで、愛想が二種類あったのは、そういうことだったのだと得心した。その頃から、この姉妹はおれと会っても言葉で挨拶せずに、眉をくい、と上げるだけの簡易版になり、おれも眉で返すようになっていた。ここでもひまわりを売るのを見たことがない。
 ひまわりは、種なら軽食としてどこの便利店(コンビニエンスストア)でも買える。ひまわりの種は、タイ人にとても人気の間食だった。あれは、とても良いもので、おれがパン生地に練り込んで焼くのは、ひまわりの種か胡桃を軽くローストしたものが多い。でなければグラノーラとかミューズリーなどと呼ばれるもの。干しぶどうは、年にいち度か、二度。ひまわりの種が、いちばん好きかもしれない。

 蘭の花を見ると、バンラックの病院の裏手にあるヴェトナム人の女主人がやっている食堂の上海炒飯(ข้าวผัดเซี่ยงไฮ้ - カオパットシァンハイ)のことを思い出す。
 上海炒飯。どのへんが上海なのか、まったく理解できなかったのだが、あれはナムプリックシァンハイ(น้ำพริกเซี่ยงไฮ้ - 上海辛味噌)という辛いペーストを使うからで、そこに、あの店では溜まり醤油みたいなメイラード反応の濃いシーウダムと呼ばれる調味料を混ぜる。このシーウダムを使わない店も多く、どうやらそちらが基本のレシピみたいだが、ここはシーウダムを使う方向でお願いしたい。
 まず、大ぶりの海老を上海辛味噌と油で炒める。次に加えるのは荒微塵に切ったパッカナーの茎と人参だ。この野菜に火が通りかけたら飯(なるべく熱い飯がいい)を投入。パラパラに炒めたらシーウダムで味を決めて、最後に豚の叉焼を賽の目に切ったのを手早く炒め合わせて出来上がりだ。あれはタイの炒飯の完成形の一つだと思う。
 あの香りと味が、ありありと蘇ってくる。今日は分葱を刻んだのを多めに散らしてもらって、ついでに目玉焼きも付けちゃおう。そして半分に切ったライムを、きゅ、と絞って、ナムプラーとライム汁漬けの刻んだ唐辛子をパラパラとあしらって手早く混ぜて頬張るのだと想像すると、いよいよ思い詰めてしまう。こうなるともう替えがきかない。あの店の上海炒飯でなきゃ食べられない。何かの事情で店が閉まっていても、他の店の上海炒飯では駄目なのだった。蘭の花と上海炒飯の関係がわからないだろうが、べつにそれで良い。直接の関係はないからだ。
 蘭の花。
 食堂の女主人が命からがらヴェトナムから逃げてきて、タイに辿り着いたのは1970年代初頭のことだったという。国境を超えることは、その少女にとって難しいことではなかった。兄の後をついて歩いていればよかったから。そしてタイで暮らしていくことに不安を感じることもなかった。バンコクの雑踏の中で兄と、はぐれるまでは。
 たいせつなひとの手を離してはいけない。それが知らない土地なら、なおのことだ。じっさい、兄は雑踏を前に手を繋ごうと、右手を差し伸べたのだった。それを、なんだか気恥ずかしくて、もう子供じゃないのだと断ったのを、今でも後悔している。とても後悔している。
 兄を見失ったあと、たぶん一瞬のことだと思うのだが呆然とした。ひどく長い時間に感じたが、おそらく、ほんの僅かな間だったと思う。呆然とした何もない時間があった。それから我に返って兄の名を、叫んだ。声を限りに叫ぶってのは、ああいうのを言うのだ。あれ以来、大きな声を出したことがない。やがて通りは暗くなり、人の往来は少なくなったが、兄はどこにもいなかった。おかしい。いなくなった場所に留まるのが、最善の方法ではないか。けれども、兄の姿はどこにもない。翌日も待った。その翌日も待った。そして空腹に耐えきれず、歩きだして、彼女は兄を見失った場所を、見失った。あれは、どこだったのだろう。
 今なら携帯電話があるから、こんなことにはならないだろう。難民だろうが携帯電話くらいは持っている。だが、当時は違う。言葉すら理解できない世界にひとり、ぽつんと残されたのは、まるでひとり大海に放り出され、漂うようなものだった。あのときは、しがみついて身体をひととき休める漂流物すらなかった。
 なん度も、あの場所を探した。だが、はっきりしたところは、わからない。どこかの交差点のロータリーだった。タクシン大王像のあるウォンウィエンヤイの交差点が記憶の情景に近いのだが、あれはチャオプラヤー川の向こうで、あのとき橋を渡った覚えがない。それに大きすぎるし、遠い。アヌッサワリーチャイソムーラプーンの交差点も大きすぎる。でも、あれではないとも言い切れない。それともアヌッサワリープラチャ-ティーパッタイか。あるいは中華街のウォンウィエン22(イーシップソン)カラカダーか。この7月22日ロータリーという意味は何なのか。女主人は手当り次第に様々な人に訊いたが、誰も7月22日が何の日なのか知らなかったという。
 ああ。あれはタイが第一次世界大戦に参戦した日じゃなかったかな(さっき検索したら参戦表明の日だった)。あのロータリーの近くにジュライホテルっていう安宿があったでしょう? あれは、そこから名付けたのですと、おれが答えると、ふうん。あなたは物識りだなぁ、と、女主人は興味なさそうに言った。戦争の話だったからかもしれない。
 ともかく、若き日の女主人が市場の下働きの職を得たのは僥倖としか言いようがなかった。タイの国籍はおろか、身分を証明するものは一切なく、当時は若い娘だったから、どこかへ売り飛ばされる恐れもあった。腹を空かせて市場を歩いていたらヴェトナム語が聞こえてきて、声の方向だけを頼りに、そこへ辿り着いて「おねがいです。働かせてください。何でもします」そう言うのがやっとで、それだけ言って、その場にへたり込んだという。その市場の名がサムヤーンというのを知ったのは、なん日か経ってのことで、少女を助けたヴェトナム女たちは二階の食堂エリアで越南料理の店をやっていた。「おなかが空いているのね」と訊かれて、少女は首を振ったが、米麺の汁物を差し出されると、躾も忘れて一瞬のうちに平らげた。まるで物静かな猫みたいに、がふ、がふ、とささやかな音とともに咀嚼もそこそこに呑み込んだ。
「何でもすると言ったわね」背の高い方の女が訊いた。「ただ、うちの店はとても小さくて、人手も足りているの。でも、たしか下の階の米屋さんが人を探していたから、明日訊いてみるわ。ああ、市場は早い時間に閉まっちゃうでしょ。だから明日。もし駄目でもお店はたくさんあるから心配しないで」そう言って女はしゃがみ込んで少女と同じ目の高さで微笑んで、肩に優しく手を置いた。「今夜はうちにいらっしゃい。身体を洗いましょ。お名前は?」
 少女はハインホアと名乗った。
「そのときだね」初老のハインホアは言った。「わたしはタイに来て、初めて泣いたよ。誰かに招待されたのでもなく、ただ逃げて勝手に押しかけてきた子供だよ。身寄りもない小汚い娘を助けてくれたの。ヴェトナムじゃ誰も助けてくれなかった。タイは豊かだから、ここに住めば、わたしも豊かになれると思ったよ」
 彼女はタイに暮らした年数の方がヴェトナムに居た期間よりも圧倒的に長いにもかかわらず、ヴェトナム訛りが抜けない。おれと女主人の会話を聞いて、妻は「あなたはヴェトナム語もできるのか」と驚いていたが、そうじゃない。あれはタイ語だ。「えっ。何を言っているのか、さっぱりわからなかった。じゃあ、あなたの喋っていたのも、タイ語だったの?」そうだよ。いつもきみと話してるタイ語だ。よく聞けばわかる筈だよ。「えー……」
 ヴェトナムから来た少女は、市場で米屋の下働きとして、ささやかな生活を始めた。住まいは米屋の倉庫に粗末な部屋があったのだが、ヴェトナム食堂の二人の姉さんの部屋にいることが多く、本当の姉妹みたいに可愛がってもらった。暮らしに慣れ、業務用の30kgの米袋も運べるようになるうち、食費を切り詰めて蘭の花を一輪、買った。
 そして街路樹の葉をいち枚、そっと引き抜いて放射線状の模様にハサミを入れ、これを蘭の花の後ろに添えた。ついでに路傍に咲く小さな、名も知らぬ地味な花を蘭の両脇に従え、これを輪ゴムで結わえて、何かの調味料の瓶をよく洗って、これに活けた。ささやかではあったが、花束だった。
 花束なんて、ひさしぶりね。ヴェトナムの生活がまだ楽しかった頃以来だ。そしてハインホアは花束に祈った。わたしは、生きています。こんなに遠くまで来てしまったけれど。おねがい。わたしをお守りください。それから、父と母に祈り、とても大切だった兄のために祈って、落涙した。父と母は生きているのだろうか。タイに逃げて来るとき、その話題を兄に言うのは躊躇われた。兄も決してその話はしなかった。ああ。それにしても兄は、どこにいるのだろう。きっと生きている。それは間違いない。こんな平和な国で、人が理不尽に死ぬわけがない。
 その花束をみて、花ならパーククローン市場(ตลาดปากคลอง)が安いと背の低い方の姉さんが言い、いち度ハインホアは行ってみたが、百本単位の束でないと売らないと言われ落胆した。いちおう値段を訊いてみると、その花束は彼女が一輪を買う値段の、ほんの数倍だった。安いけど、そんなに要らないなぁ。ありがと、と言って、その日は帰ったのだった。
 花束に祈る日々を繰り返すうち、ハインホアの小さな花束は市場で評判になっていた。あら、良いわね。私にも作ってちょうだい。お金は払うから。他の人のためにも作るうち、それが宣伝にもなって、副業で作る花束は、順調に増えていった。最初は自らの花代が出ればいいと始めたことだったが、百本単位の花を市場で買って捌いた。とうぜん余りが出て、米屋の主人に言って店頭で売らせてもらった。売れたら、儲けの半分を差し上げます。花の仕入れ値は小売で買ったときの価格を伝えたので、仕入れが相当に高いと言ってあるが、じっさいにはタダみたいに安かったので、本当は半分ということはなかった。米屋の主人はそんなことは知らなかったから、何もせずに儲かるならと快諾した。
 その利益で食費が賄えた。それどころか部屋も借りられるようになり、その部屋で花束を作るようになり、生産性も向上した。その頃には花に添える葉に入れる鋏の切り込みも花問屋に任せるようになっていた。同じ値段でだ。値段の交渉は、面白くて好きだった。
 やがて、いよいよ花束を作るほうが忙しくなり、独立して花屋を始める頃には店舗を構えられる程の貯蓄もできていた。だが、彼女は小さく移動販売することにこだわった。市場で売ったあと、移動式の店舗なら他の場所へ出張して売ることができたからだ。すごく売れる場所が見つかったら、店を構えてもいいかもしれないけど、いつ駄目になるかわからないので、機動性の確保を優先した。いつでも逃げられるようでないと駄目なのだ。この国だって、いつ戦争になるとも限らない。少女が、いっぱしの娘になった頃には純金の装身具が、身につけていると肩が凝るほど溜まっていた。服の下だから他人にはわからないが、じゃらじゃらと純金が増えていくのは気持ちの良いものだった。とても安心できる。いざとなったらこの装身具をつけたまま逃げて、売りながら食いつないでいける。銀行なんて信用できない。
 それからも花の販売は順調だった。貯蓄も増え、食費の節約を考える必要もなくなった。暇ができると兄とはぐれた場所を探したが、未だにそれがどこだったのかわからぬままに、記憶は日々薄れていく。なんだか兄の行方と引き換えに裕福になっているような気がした。
 兄に宛てた手紙を書いたこともある。交差点に面する店舗に木の壁があれば、そこに手紙を画鋲で留めた。ここは、と思われる4つのロータリー交差点それぞれに手紙を留め置いた。なかでもウォンエンヤイの交差点に置いた手紙は翌日にはなくなっており、喜んでもう一通書いて置いてきたら、そのまた翌日には「ここに手紙を留めないで」と書かれた紙が画鋲で留められていた。他の手紙は雨に朽ちるまで、そこに留まっていたという。
 手紙は届かない。ハインホアは思った。私も、この手紙と同じで、行きたい目的地の地番が空欄なのだ。行きたい所はある。はっきりしている。でも、それがどこなのか。住所を知る手立てがないのだ。そこが、この世のものかどうかすらわからない。
 花束に祈り続ける日々だった。
 やがて、彼女の花束を真似た商品が見受けられるようになって、彼女は食堂を出した。いつしかできた恋人の作る料理が美味かったから。
 花の良いところは数日で朽ちることだった。数日経てばまた買ってくれる。でも料理はもっと良い。いち日になん度も(20世紀まではタイ人は1日5食が普通だった)食べる。そして、あの人のつくる料理はとても美味しいのだ。これは兄さんにも食べさせたかったな。店の名前は、じぶんの名前をそのまま使った。もしかしたら、兄が店を見つけて、来てくれるかもしれない。
 厨房で料理を手伝い、店頭で花も売った。おれみたいに、花を買いに来た客に声をかけるのだ。「よかったら、料理も食べていって。おいしいのよ」と。
 さいきん彼女の頭を過るのは、わたしは兄に捨てられたのではないか、という考えだった。だって冷静に考えて、あのまま二人でいたら、二人とも死んでいたかもしれない。
 もちろん、その考えが当たっていたとしても、それを咎める気にはならない。
 兄は、わたしがいなければ、うまくやっていける確率が高かったと思う。
 たぶん、もうすれ違ってもわからないだろう。はぐれた頃の兄の顔の記憶が、この頃は鮮明でなくなってきた。
 食堂で、ヴェトナム料理は出さないのかと、よく訊かれるのだが、そのつもりはない。
 タイに来て、なん度もヴェトナム料理を食べる機会があった。姉さんたちが作った料理は好きだったし、それはとても美味しいものだったが、どれも馴染みのない料理ばかりだった。記憶にすらない、とても遠い料理。
 そうだ。わたしのヴェトナム料理って、白いご飯にニョクマム(タイのナムプラーと同様の魚醤)を振りかけただけのものだった。良くて、せいぜい野菜の茹でたものが付くくらい。それにもニョクマムをかける。うちの野菜には、どういうわけか必ず砂が混じっていた。あんな食事は、もういやだ。
 今日も、女主人は花束に祈る。日課だから。昔と違うのは、具体的な願をかけないことだ。兄が元気でいますように。お金が儲かりますように。そんなの、意味がない。神や仏にも祈らない。あのひとたちは、なにもしてくれないと知っているから。
 ただ、花には世話になった。花にだけは感謝している。
 ヴェトナム人の名は、漢字で書き表せることが多く、ハインホアの名も、そうだった。
 漢字だと「幸花」もしくは「幸華」と書く。

เธอ - COCKTAIL「Official MV (Cut Version)」
 さて、今回の歌はCocktailというグループの「เธอ(彼女)」という曲だ。もう7年近くまえの曲。再生回数が凄いね。2億近い。いつも言ってることだが、タイの人口は日本のだいたい半分です。これはショートバージョンなんだけど、オフィシャルのメインの方のMVは11分もあるけど、再生回数は2千万回くらい。やっぱり長すぎるんだ。半分以上がドラマ仕立てなんだもん。
 MVを見てもらえばわかることだが、舞台がヴェトナムですね。今でもあの先の尖った笠を被ってんじゃないかな。おれの知る限り21世紀にもなって、あんな笠を被ってんのはヴェトナム人と新潟県民だけです。新潟県民のルーツはヴェトナム人だからね。ヴェトナム語で「美味しい」ってのは「コシヒカリ」と言いますからね。ウソだけど。
 MVだ。ヴェトナム戦争なんだよ。ヴェトナム戦争で亡くなった恋人たちが、またタイとヴェトナムで転生して前世の記憶に導かれて出会っちゃうという。そんなストーリー仕立てになってる。
 まあアレです。テラワーダ(上座部)仏教ですからね。生まれ変わって人生を無限に繰り返すのが前提つうか常識だ。いやいや。おかしいだろ、それ。転生のときにロスが出て、次世では人生が薄まっちゃうんじゃないかと思ったり、いや、そもそもヒトの人口って増え続けてるから、人生を薄めるのは当然だな。あー、そんじゃ太古のヒトに比べて現代人は幸福も不幸も薄味なんだろうかとか、そういう根本が間違ってる話に緻密な細部を考察しちゃダメだ。
 このMVではヴェトナム戦争当時、タイ兵士とヴェトナム娘が恋に落ち、そして二人とも犬死にしてしまうんだが、それから50年経って転生したタイ人がなぜか前世の兵士が撮った写真を手にヴェトナムに引き寄せられる。そこで、まんまと次世のヴェトナム娘と出会うんだが、女性はこのタイ男が気になるものの、遠ざけてしまう。そしてタイ男が、このヴェトナム娘とばったり会ったときに、思わず抱き寄せてしまうが、娘は当然、嫌がって逃げる。そりゃそうだ。知らない男がいきなり抱きついてくるんだから。そして、それを追いかけて走る男はクルマに轢かれてしまう。たいへんだ。この事故の瞬間を見た娘は、そこで前世の記憶をいっぺんに取り戻し、男の名を叫んで男に駆け寄る、と。まあそういうMVで、これは娘が前世の記憶を取り戻さなかったら、ただのアタマのおかしいストーカーですね。
 しかし、この手のドラマツルギーがタイ人にはピンポイントで琴線に触れるようで、「生まれ変わり系物語」は跡を絶たず、そして高い確率でヒットする。パターンとしては善良で貧しい娘が恋をして、その娘に横恋慕したカネモチの性格の悪い娘が、善良な娘を罠に陥れ、冤罪で死刑にしてしまうという輪廻が、なん度か繰り返され、しかし現世では罠を暴いて逆転、恋も成就というハッピーエンドで視聴者は納得、というのが勝ちパターンだ。
 だから今だったら疫病とジェンダー問題と時事ネタを絡めた話はどうか。
― 男同士のカップルの片割れがパートナーの病気を治すための伝説の薬草を求めてビルマの霊山に行くが、そこでクーデターに巻き込まれ、共産主義の大物と戦う羽目になる。その黒幕を倒すにはスーチーの父にしてビルマ建国の父、アウンサウンが日本での修行時代に安倍晴明の子孫から授かった妖刀「マチカネトリニティ」でなければならないが、その妖刀はカカボラジ山頂に刺さったままで、選ばれし勇者でなければ引き抜くことができないという。そして、その脇に自生する植物「ネコノコメカミ」こそが伝説の薬草だと知る。その薬草は非常に固く、脇の妖刀でなければ刈り取れない。なぜそんなことを知っているかというと、彼の祖父が50年まえに妖刀を引き抜き、薬草を刈り取り、魔王ゼンゼンと戦っていた伝説の勇者だったからだった ー
 とかね。
 テキトーなストーリーなら、すらすら思いついちゃうね。タイ人が喜びそうな要素で組み立てたんだが、うちの奥さんにどうかと訊いたら、笑いながら「面白そう」って言ってたから、興味のある方は、アイディア料なしで差し上げますので、書いてみるといい。
 タイのドラマは新しいものを取り入れるのに躊躇がなくて、数年まえには悪霊祓い師が退治した悪霊をUSBメモリースティックに封じ込めるってのがあって、すげえなと感心した。家に持ち帰ってメモリをクリーンアップしたあとにデフラグしても蘇るのがいたりして、おのれ血迷うたか、とか言うのかな。
 さて、曲の歌詞だ。ヴェトナムのVの字もないですね。タイの歌詞としては、これもバカっぽい部類だと思う。理解しやすくて良いのかもしれない。

視覚に頼っている限り 私たちが近くにいることは わからない 
いつも 私の心は 思い出で 目を覚ます
私たちが初めて会った時から あなたと私は一緒にいる定めだった
あの日から 私の心は震えている
私たちが遠く離れて暮らすなど できないこと
お互いの心変わりが おそろしい

降りしきる雨の中 私はあなたに会った
彼女の目の輝きはまだ続いていて 今でも私を魅了する
私たちの愛は朽ちることなどないはず 
でも季節が繰り返したせいで 心は移ろったのでしょうか

ねえ あなた あなたはまだ私が恋しいですか 
二人がまだ出会うまえ べつべつな時間を過ごしていたとき
私たちは遠い べつべつの存在だった
私はあなたの写真を見ると 涙が落ちる

朝露 
心に冷たい風が吹き 私の優しい愛を運び去った 
あなたの心に それが届けばいいのに

時間は日々少しずつ人々の心を変えていく
それでも私にあるのは あなただけ 
いつも私の心に

私はあなたの写真を見ると 涙が落ちる

 ヴェトナム戦争なんてタイは関係ないじゃんと思う人もいるかもしれないが、そうでもない。ヴェトナム戦争の原因ってことなら、タイよりも日本のほうがよっぽど遠因に関わってるけどね。日本の太平洋戦争への参戦は、東南アジアの国々の独立を促したとか寝言を言う人もいるけど、まあ確かにそういった側面もあるだろうが、あんなものは方便でしょ。本気でアジアの独立を考えていた奴は、ほんの僅かだ。結果的に、たまたまそうなったのを自らの手柄にしちゃいかん。つうか、アジアの国々で「日本のおかげで独立できました。ありがとう」なんて本気で思ってる国はない。恨みこそすれ、感謝はないよね。
 だいたいのタイ人が、ヴェトナム戦争に関して思っているのは、「まーったく、ぐっちゃぐっちゃに掻き回して、収集つかなくなって逃げたよな、アメリカは」ってことに尽きる。「あいつら、ロクなもんじゃねぇよな」って思ってる。
 1965年から、合衆国の要請で、タイ王国もヴェトナムに派兵してます。その数、10,450人。うち351人死亡。1,358人が負傷してます。まあ、アメリカを良く思ってないのはタイだけじゃなく、東南アジアはみんなそうだと思う。タイも東南アジア条約機構(SEATO)なんかに加盟するんじゃなかったよね。機関名と裏腹に東南アジアの国の中で加盟してたのはタイとフィリピンだけだし。
 
 おれはヴェトナムとは、あんまり関わりがなくて、1990年代にいち度行っただけだ。そのとき、街に出たら、とにかくカネを盗まれる。スリだらけだったんだ。むかしから紙幣は高額紙幣、中額紙幣、低額紙幣というふうに別けてポケットに入れていた。ズボンの右、左、シャツの胸ポケットという感じ。で、いち度の外出で二度掏られることもあって、とにかく泥棒だらけだった。しかも腕が良いから、掏られても、そのときはわからない。あとになって「あ? カネがねぇぞ」ってなる。今では、そんなことはない、っていうんだけどね。
 少しずつ紙幣を掏られ続けるってのは、あれはけっこうメンタルを削られるもので、段々とイヤになる。つまらなくなる。だから、ヴェトナムに行かないかという話があっても、「いや。いいわ」と答えることになる。まあ今は違うらしいけど。
 そんなもんで、もうヴェトナムには、行かないな。
 あ。あとね、ポケットに紙幣を入れておく場合、いちばん良いのは胸ポケットです。
 胸ポケットが、いちばん盗まれ難い。
 でも、腕利きのスリの標的になったら、もう駄目。スリにもマイスターみたいなのがいて、そういうのに狙われたときは何やってもダメだから。だから、とにかく大金は持たないってことだね。財布はホテルか銀行のセフティー・デポジットに預けておくと、そんなに盗まれることはありません。盗まれるとしても、たまにです。
 
 しっかし、ちょっと探せば転生ソングって多いんだね。これなんかもそうで、タイ語がわからなくても、だいたいわかる。そもそも難しいこと言ってないし。
อสงไขย : หญิง ธิติกานต์ อาร์สยาม [Official MV]
 もうタイの黒魔術とかいろいろてんこ盛りだね。まあ楚人の流れを汲む人々だからね。陰陽道に通じててあたりまえだ。人形に針刺すくらいは余裕だったね。
 転生ソングファンの方は、Youtubeで「ละครการกลับชาติ MV」のキーワードで検索すると転生ソングが、わらわら出てくるので、お好きなだけどうぞ。

 いつだったか、うちの奥さんに、「ねえ。来世もタイに来て、わたしを見つけてくれるんだよね」と訊かれたことがあって、転生なんて信じてなかったが、「おう。もちろんだ」って答えてから、(え。おれ来世もニホンジンなの?)とか、(いや。そもそも来世とか)って思うんだけど、でもアレだ。また、この人と結婚できるんだったら輪廻転生も悪くないな。いや、ぜひお願いしたい、と思った次第だ。どうかひとつ、よしなにお願いいたします。誰にお願いしてるんだかわからないけど。


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