もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

幽玄としている (Jugendstil)

2023年02月23日 16時58分22秒 | タイ歌謡

 英語の俳句(Haiku)ってのがあって、ルールはふたつだ。
・五七五であること。
・季節感のある語(季語に相当する語)を入れること。
 ただ英語の場合、五七五ってのが、音節(シラブル)での勘定になる。つまり母音の数だと理解して良く、たとえばカタカナでアップルと書けば四文字だが、アルファベットでAppleなら母音が二つだから、二になる。アポ、と書けば二文字で同じだけれど、何だかよくわからない。五七五っぽい英語というと真っ先に思い浮かぶのが「クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル」であるが、実のところ俳句ではないらしい。クリアウォーターなんて春らしい語感なんだが。
Creedence Clearwater Revival - Have You Ever Seen The Rain (Official)
 で、英語の俳句の場合、きちんと音節を五七五にしても日本語の俳句みたいなリズムは生まれない。だって「a」も「desk」「strength」も「scrunch」も1音節の語だ。これでは日本人の思う五七五のリズムが出るわけがないし、無理に五七五の音節で作っても俳句のグルーヴ感は出ない。もうリズム以前の代物だ。だから当然「まあ自由律俳句ってのもあるようだし、べつに五七五の音節は強制じゃなくてもいいか」ってことになる。
 それから季語。日本の歳時記みたいな決まりがあるじゃなし、大根とか葱が冬だって? 一年中あるじゃん。ていうか、そもそも「べつに季節に囚われなくたっていいんじゃね?」てことで、これも強制ではなくなった。
 では、(英文)俳句って何? って感じだが、「そうだね。短いポエジーで、三つに別れてりゃ良いんじゃないの。二つでもいいけど。まあ一つでもいいか」と、かなり自由だ。
 俳句なんて、あの制約がキツいから面白いと思うんだが、五七五の魔法のかけようがないんじゃ、しょうがない。「俳句的なヴァイヴスっていうの? ノリっていうか。ゼンのスピリットみたいな。そんで、なんか良い感じの」になるしかなかったんだろうね。そこまでして詠みたかったんなら、もう好きなようにしろってことだ。

 最初に日本の俳句に触れて感動した人がいたんだろうね。「おー、いえー。これはナイスですね」って感動して、「オーケー。ミーも作っちゃうもんね」って思った人がいた。
 小泉八雲が、芭蕉の句を紹介している。
Old pond / Frogs jumped in / Sound of water.
 わかるよね。「ふるいけや かはづとびこむ みずのおと」の句だ。
 ぜんぜん五七五じゃない。音節だと二四五だ。でもハーン先生は「もうね。五七五とか無理。そこは無視だな」と思ったに違いない。あと「かはづ」が春ってのも心底理解できたかどうか。「水田に水を張るのが春でしょ。その頃から、あっちでゲロゲーロ、こっちでゲロゲーロ。鳴・く・ん・だ・よ」って青空球児・好児が二人がかりで説明しても「んー。春かなぁ……。てか、そこ重要? れそいかとんほ?」って感じだったかもしれない。

 だが、しかし。
 やっぱ俳句ってぇ、ぉ音だと思うの。音の……なんて、言うの? ぅ美しさ? にぃほんごぉの、響きってぇいうのくぁなぁ。(イヤでなければ桃井かおりさんの声で脳内再生していただきたい)意味なんて、二ぃの次でぇ、いぃいんじゃないかしゅらぁ?
 というわけで、俳句の音訳という暴挙に挑む。
 やっぱ、ばせをだ。ばせを。旧仮名遣いなら「ばせう」が一般的なのに敢えて、ばせをと名乗る。松尾芭蕉だね。現代語訳で松尾ばなな。それを「松尾ばににゃん」とか言っちゃう感じだろうか。ギャル芸能人か。
She's kiss you
It was needs meal
Say me nock eight
 読めばすぐわかる。「静けさや 岩に滲みいる 蝉の声」の音訳だね。
 シーズキスユー イッワズニーズミール セイミーノックエイッ
 もう完璧じゃないか。
 これを自動翻訳にかける。
彼女はあなたにキスしています
食事が必要でした
ノック8って言って
 思いがけずポエジーに溢れている。こんなに感動的だとは。解説するまでもないが、要は「口づけされても気付かぬほど空腹だった私の心の扉を開くには、八回もノックしなくてはならないことだったよ」という喪失からの復活を詠んでいる。
 いちおう、よその国の人の英訳も載せておくか。
What stillness! / The voices of the cicadas / Penetrate the rocks.
 Reginald Horace Blyth
 和訳すると「何という静けさ! 蝉の声 岩を貫く」だ。なにこれ。風情も何もあったもんじゃない。もう、おれの音訳の方が断然良い。やはり幽玄が身についてるのは、お米の国で箸の国の人だからだ。それは中国人もタイ人も同じで、アジアの人々は俳句を詠むのがうまい。うそだけど。

 どんどん行く。次も、ばせを。
Not clouse you
To what moon on do more got
You may note
 夏草や つはものどもが 夢のあと

 これも自動翻訳にかけると「あなたを閉じないで 月にもっとやります あなたは気づくかもしれません」となる。なるほど。「己を過信するな。月から俯瞰するほどの客観視で、自己発見をしろ」ってことだ。良いこと言ってんじゃん。

 まだまだ行く。
To be neon day
You may ware car let know on
Car kick me group
 旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる
 翻訳すると「ネオンの日になるために あなたは車を知っているかもしれません 車蹴りグループ」ってことで、つまり「輝ける日々を送りたいなら クルマが必要不可欠だなんてのは古い考えだ。俺達は、そんなものは蹴飛ばそうじゃないか」という句だね。

 面白くなってきた。
Sir me drain of
At meet tea hush
More girl me girl what
 五月雨を 集めて早し 最上川
 意味は「おれ様の排水 お茶の静けさで もっと私に女の子 女の子って何」つまり「おれの小便が茶のように静かで、もっと若い娘に聞かせたい。ところで若い娘って何なんだ」ってことか。これはとっくの昔に答が出ていて、浜口庫之助が「若い娘は、うっふん」と言い切っている。ほらほら黄色いさくらんぼ。

 どんどん行く。
Arrow me you
Sad neon go to
A man no girl was
 荒海や 佐渡によこたふ 天の川
 翻訳は「あなたを矢印にしてください 悲しいネオンに行く 男でも女でもなかった」か。ちょっと訳が違うような気もするが、そもそも原文が英文として間違ってるからね。つまり解説すると「あなたを矢印にしてください 悲しいネオンに行く 男でも女でもなかったことだよ」ということだね。なるほど。そうか。もっとわかりやすく言うと、「矢印でネオンで男でも女でもない」ってことだ。要は矢印のネオンだな。そこを目指せ、と。ネオンがよく出てくるよね。芭蕉の本質が、ネオンだったとは。

A saga own nee
True be tall a let tea
more rise me
 朝顔に つるべ取られて もらい水
 これは「佐賀での自己の膝 お茶をしましょう もっと立ち上がれ」という訳で、そのまんまだ。裏の意味で「スネかじりに茶まで出した上に仕送りも増やす」という甘やかしっぷりを詠んだものだ。

 最後だ。
Her know me
He name us not a reef
not a reef car not
 春の海 ひねもすのたり のたりかな
 あたりまえのことだ。「彼女は私を知っている 彼は私たちをサンゴ礁ではないと名付けた サンゴ礁でも車でもない」つまり、何者でもないのだから、大きく出るな、ってことだ。「大きく出るな」はトーマス・エジソンの座右の銘ではないと断言できる。野口英世もたいがいロクデナシだったが、あの人は迷惑なだけで悪人ではない。エジソンはいかん。いけ好かないアメリカじじいの見本みたいな奴だ。

 いやあ。くだらないねぇ。これで英語世界のハイカー(俳人)を敵に回してしまった。みんなマジメにやってるのに。いや、おれだってふざけているわけではない。日本語の俳句を英語に音訳したものを和訳すると、味わい深い物がある、ということなんだが、よく考えたら少しふざけているかもしれない。少しふざけるのは仕様なんだから勘弁して貰いたい。
 さて、タイのハイク事情はどうかとググってみたら、ちゃんとマジメにやってる同好の士がいる。こっちは基本日本語で作っていた。タイ語でไฮคุ(ハイク)って言うんだね。音訳だ。
 わかりやすく解説した動画もあって親切なんだが、最後の方で平仮名5・7・5文字で、あなたもハイクを作ってみましょう、と出てくる例が「つてもめに ねもはもたねも あららんげ」というもので、意味がわかりにくい。「伝も目に 根も葉も種も 荒らんげ」ってことだろうか。植物が荒ぶってるのが目に伝わってくることであるよ、というね。違うような気もするが。動画の説明は凡茶というひとの解説書に倣ったもので、凡茶というひとの俳句が紹介されて、そのあとに与謝蕪村の句が引き合いに出される。途中までマジメなんだが、この動画を作った人の解説はふざけてないのに、ネットで拾ってきたと思われる「おそ松さん俳句」を引用してしまい、その句が「何故だろう ちんこシコると 気持ちいい」ってのが唐突に登場して驚くが、解説はマジメだ。Youtubeのコメント欄で指摘しても恥ずかしいだろうし、面白いから放ってある。その後で平仮名のレクチャーがあり、いろんな文人の俳句が列挙される。中に尾崎放哉の「咳をしても 一人」があったりして、それ自由律俳句だよね、と突っ込みたくなるが、まあ拾いものの画像だから、しゃあない。で、最後に、さっき書いた「つてもめに……」の句が出てくる。これの出所が不明で、文字の並びがガタガタでヤッツケ感がすごいので、自分でテキトーにモンタージュしちゃったものか。
กลอนไฮคุ
 これ、タイの俳句同好会みたいのがあって、そこの同人が作ったっぽい。同好会の活動発表のHPもあって、そのタイトルも「しぜんかんしょうとはいく」と日本語で書いてある。
 この中にタイ人が作った日本語俳句が発表されてて、俳句だけ平仮名表記。そしてローマ字で発音表記をして、タイ語で解説、という趣向だ。
 初っ端から「こちの前 こううんだつ いいきもち」という句で、「こちの前」はタイ語解説で判断すると「 ประดับอยู่หน้าบ้าน (家の前に飾る)」という意味のようだ。ひょっとして「うちの前」と言いたかったのだろうか。「こううんだつ」は「ไม้นามมงคลแห่งโชคลาภ (幸運の木)」。なるほど。幸運が立ってるから「こううんだつ」ってことか。「いいきもち」は「อุ่นจิตสบายใจ (心の平和)」だそうだ。まあ、わからないでもない。
 これはヤバい扉を開いてしまったかな、と不安をおぼえたが、2句目からはシロウトにもわかりやすい水準になっていた。3句目は「バナナある 木といっぱいの かじつとめ」。かじつとめ? 舵勤め? 果実と芽ってこと? 解説には「ผลิดอกออกผลงาม (美しい花)」とあったが、細かいことを気にしてはいけないのだろう。その他「かぜつよく 木がゆれうごき きれいだよ」や「花きれい いろたくさんで ここちいい」、「大きな木 きいろいはっぱ うつくしや」があり、伊藤園の「おーいお茶」のラヴェルに紛れ込ませても遜色ない。ただ、季語の概念がすっぽ抜けており、それはしょうがないんだろう。いや。季語がないってことではないのか。あるとしたら、それは夏の一択。春も秋もない。冬なんて絶対にない。
 うちの奥さんの名言「タイにはฤดู(季節)なんてない。あるのは普通の日と雨の日の二種類だけ」という、ハンフリー・ボガートに言わせても違和感のないセリフが物語るように、季語が意味をなさない。一年中暑いから。そうでないのは雨の日だけ。
 一応ฤดู(季節)って単語はあるんだけど、ฤดูฝน(雨期)って単語は個人的経験では10年にいち度聞くくらいか。

"กูเป็นมาเบิดเเล้ว" น้ำแข็ง ทิพวรรณ Official MV
 今日の歌は「กูเป็นมาเบิดเเล้ว(あたしは爆発しちゃったよ)」って曲で、じっさいに爆発したわけじゃない。末井昭さんのお母さん(好きな男と抱き合ったままダイナマイトを爆発させた心中で絶命)じゃないんだからね。「アッタマにきちゃった」くらいの意味だ。
 歌っているのはน้ำแข็ง ทิพวรรณ(ナムケン・ティッパワン)という1997年生まれのカーラシン県出身のイサーン娘。น้ำแข็ง(ナムケン)ってのは直訳だと「硬い水」つまり「氷」だ。もちろん渾名だろうが、珍しい渾名ではある。
 イサーン訛りが抜けないし抜く気もないんだろう。歌が巧いね。イサーン歌謡なのに趣味の良い歌唱法だ。師匠が良かったのかと思ったら、そうではなく独学だって。曲にも恵まれて良かったね、と思ったら、作詞・作曲ともにナムケンの自作だった。これまでにリリースした曲は殆ど自身によるもので、イサーンのインディーズ・レーベルのยังบ่าวชัยภูมิ(ヤングバオチャイヤプーム)楽団の専属歌手というんだが、このレーベル会社の社長がナムケン本人だった。てことは、バンドもこの娘の持ち物なのか。会社には楽曲の権利を10,000バーツで売ったといい、ずいぶんと安いが、自分の会社なら問題ないのか。
 このMVだとわかり難いけど、いつもこんな地味な格好なわけじゃなくて、水着でグラビア撮ってたり、美人歌手として売り出してる。モーラムの女王チンタラーさんとのデュエットもあり、何かの人気投票で1位に輝いたりもして、人気急上昇中だ。地方主催の、ショボい人気投票じゃなくても2022年の全国ルクトゥンアワードにもノミネートされたから、人気は本物だ。瞳の色が薄くて外国人の血でも入っているのかという感じだが、これはカラーコンタクトをつけているわけでも片親が外国人でもなく、イサーンの人で瞳の色の薄い人ってのは、ちょくちょくいる。あれ、なんなんだろう。
 さて、歌詞だが、それほど技巧が鏤められているってこともないが、言い回しが言文一致(しかもイサーン語の)で、このあたりは斬新だ。訳詞の中に「心は犬」なんて言ってるが、タイ人って犬を可愛がるのは好きだけど、形容で「犬」が出てきたら、それはもう、とことんサイテーな奴って意味になる。強烈な罵倒語だ。同様に「愚かな水牛」ってのもあって、水牛は可愛いというし、大切にするけれど、形容で「水牛」というととんでもない間抜け野郎って意味しかない。スラングにしても、かなり下品なので、歌詞に遣われるのを聞いたのは、初めてだ。モーラムなのにロックスピリットが横溢してんのね。

もう なん度も経験した
バケツが爆発したんだ 違ったかな?
世の中ぜんぶの いちゃつく奴ら
悲しくてゲロが出る 目に浮かぶ涙
奴らの言葉に ぞっとする

抱擁という言葉
それは すべてを正当化しちゃう
煙草でも吸おう どんどん吸えばいい
いいかい よく聞いて
心がいっぱいなのに それでもハグが必要なのか
なんだかなあ 我慢できるかい こんな感じ

あたしはもう 怒りが爆発だよ 愚かな人 不運な人
人々は謙虚になり 涙を流すべき
愚か者は水牛 心は犬 あたしはもう アタマにきてんのよ
なにこの ぬかるみ 別の愚かな ぬかるみ そうでしょ
狂おしいほど 何度も抱きしめる
あたしがどれだけ 彼を憎んでいたかを反省して あたしはあきらめた

あたしがどれだけ 彼を憎んでいたかを反省して あたしはあきらめた

 これは今風のモーラムだが、モーラムには定型の正調モーラムとも言うべき形式がある。
 そもそもモーラムってのはラム(ลำ)を歌うって意味で、ラムってのは物語のことだ。古い古いモーラムとは、叙事詩みたいなもんで、イサーン考古学の寓話の殆どが網羅されているという。口承文学だね。今のモーラムとはあんまり似てないけれど、コンセプトとしては、ここで形ができあがってる。ここに楽器が加わって音楽らしくなったのがหมอลำกลอน(モーラム・クロン)といって、だいたい20世紀になってからだ。これが時代と共にアップテンポになったものがหมอลำกลอนซิ่ง(モーラム・クロン・シン)。さらに庶民にもキーボード・ドラムス・ギターなどが普及して、もっと進化したものがหมอลำหมู่(モーラム・ムー)、หมอลำเพลิน(モーラム・プルーン)で、このあたりから庶民の欲望が爆発して、歌垣と結びついたのか、とんでもなく下品な歌詞を男女の掛け合いで歌うという、たぶん世界でも屈指の下品芸能として開花し、イサーン庶民に受け入れられる。猥談ってレヴェルじゃない、春歌にしても日本のを100倍は下品にしたような歌詞に聴衆が笑い転げていたわけで、それはそれで文明としては高い。洗練や気品とは無縁だったけれども。
 そこに「お下劣なのは、ちょっと」と、生活の一部を切り取ったようなお上品な歌詞の歌を引っさげて出てきたのが、モーラムの歌姫チンタラーさんだ。モーラムを芸術的に高めて全国区にしたという功績があり、一方で下品さを漂白して骨抜きにしたと疎んじる向きもある。これがせいぜい30年まえ。
 いずれにせよ彼女の登場によって近代モーラムはひとつの完成を迎えた。この定型が、次のようなものだ。
น้ำตาหล่นบนเขื่อนลำปาว : จินตหรา พูนลาภ อาร์ สยาม [Official MV]
 ①最初は無拍子のテンポ・ルバートで始まり、②朗々と歌い上げ、次にリズムが刻まれて、歌詞をメロディーに乗せて歌う。これで盛り上がったところに、③場合によってはさらにアップテンポになり、ラップ唱法に切り替わって物語をまくし立てる。
 これ、アジア音楽のテンプレートに沿っている。
 日本に流れ着いた雅楽もそうで、「序破急」ってやつだ。
 宮内庁式部職楽部なんてのがあって、神社での神事に越天楽が流れたりしてて、日本独自の音楽と思われがちだが、古いアジアの音楽で、要するに当時最先端の洋楽だ。中国大陸・朝鮮半島・越南あたりからの音楽が日本に流れ着いて、日本風にアレンジされたものもある。ただ、よその国では絶滅して残ってないので雅楽の宮内庁式部職楽部は「世界最古のオーケストラ」なんて言われてる。物持ちが良いんだね。政権が変わると歴史書を始めとした書物を燃やしてしまうので、中国の古い書物は、日本を探すしかないのと同じだ。
 猿楽なんかで、日本文学のドラマツルギーの基本に序破急があると教わるんだが、その序破急ってのは元々雅楽の構成を指す。世阿弥が雅楽の音楽理論を猿楽のストーリー展開に転用というか援用したのが最初だ。
 ――「序」が無拍子かつ低速度で展開され、太鼓の拍数のみを定めて自由に奏され、「破」から拍子が加わり、「急」で加速が入り一曲三部構成を成す(Wikipediaより)――とある。正調モーラムと同じだ。ちゃんとアジアの音楽構成を踏襲している。
 ところで俳句は序破急ではない。上五(かみご)・中七(なかしち)・下五(しもご)であって、必ずしも物語性を必要とするものではないからだ。
 序破急の構成はないけれど、日本にも物語を詠む歌謡があって、何かと言えば河内音頭だった。下世話なところと、リズムが裏に回ってファンキーなところがモーラムと似ている。違いと言えば河内音頭が時事を歌うことが多く(代表的な河内十人斬りなんていう演目は内容が三面記事そのものだ)、いっぽうモーラムはエロを追求した。この違いはどこから来たのか。共通点は、感情の爆発にベクトルがないこと。純粋に爆発している。指向性というものが、ない。
 河内音頭といっても大阪の河内地区だ。越南(ヴェトナム)の河内(ハノイ)ではない。
 河内音頭とモーラムが通底してることについて、書きたい気持ちもあるが、もう良い加減長いし、メンド臭くなった。そのうち気が向いたら書くかもしれない。

(Jugendstilといえばクリムトだよね)
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