もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

ヒゲとボイン

2024年02月17日 10時54分08秒 | タイ歌謡

 料理を作るのは好きだが、仕上げの盛り付けはべつに好きという程ではないので奥さんにやってもらって、おれは調理器具を洗ったりしてるのが楽しい。(よし。できた)というところで台所が綺麗に片付いていると嬉しくなるのだった。とはいえ、まな板なんかは料理と並行して、とっくに洗い済みで最後に空いた中華鍋一つなんかだから、すぐに終わってしまう。洗い終えた器具を片付けて、最後の最後には使った包丁を研いで全行程の終了とする。楽しみは最後に取っておくタイプだから。
 刃物を研ぐのは子供の頃から大好きで、料理で使ったときは研ぐ理由になるから大っぴらに実行する。荒・中・細・仕上げと、4種類の砥石を持ってはいても、ほぼ毎日研いでいるから荒砥石や中砥石なんて滅多に使わない。なんなら料理と関係なく研いだりもするが見つかると、「อา อีกแล้ว(あー。またやってる)」と言われてしまうので隠れて研ぐことになり、悪いことをしてる訳でもないのにその姿を想像すると人食いヤマンバみたいで穏当とはいえない。
 しかも、うちの奥さんは研ぎ澄まされた包丁を怖がる。切れない包丁の方が危ないというのは、包丁をいつも研いでいる者の言うことで、料理の得意でない者は切れ味の良すぎる刃物をイヤがる。だから、うちの包丁はおれ専用の物と、おれ以外の者が使う切れない物との2種類ある。奥さんのは見るからに切れないから「少しだけ研ごうか」と提案したら、「お願いですからやめてください」と丁寧に断られた。刃物に関してだけはわかり合う努力をお互いに放棄して久しい。いち度、鶏肉を切るのが大変だからと、「今日の料理はわたしが作りますが、鶏肉を切るのだけはあなたがやってください」と依頼されたことがある。鶏の皮付きの肉を切れない包丁で切るのは難しく、ぐにぐにと刃を往復させるうちに皮が剥離してしまうのがイヤなようだった。オーケーまかせろ、と料理鋏でスパスパ切っていたら、「อ้าว ตัดมันด้วยกรรไกรเหรอ?(アーオ↘。ハサミで切るのォ?)」と拍子抜けしていたが、確かにこれなら皮が剥がれないのね、と感心していた。「皮付きの鶏肉は鋏だね」と教えると、日本人って凄いなと感心していた。でも日本人関係ないと思う。そういう勘違いは新婚の頃に多く、油揚げの油抜きをするのを横で見ていてひどく感心していたり、ジャガイモの面取りにも感動していた。いち番気に入っていたのはカマボコの飾り切りで、教えてくれとせがむので、なん種類か伝授した。林檎の皮を剥くのは難しいけど、カマボコは簡単だと鼻息も荒く練習していた。そんなことをしても味は一緒だよと言っても「これが日本料理なのね」と間違った捉え方をして実家や友人たちに振る舞っていた。のちに日本に住むようになって、カマボコの飾り切りなんて誰もやってないということに衝撃を受けていたんだが、タイで果物がカービングの細工を施されて出てくることがないのと同じだと言うと「あー!」と納得していた。そんなもんだよね。

 ところで、もうホトボリも冷め始めた時期で、指名手配されていたのが名乗り出たアレだ。「桐島、逃亡やめるってよ」のニュースに正直(あー。いたな。そういえば)くらいの感想だったんだが、あっという間に生きるのもやめて逃げ切ってしまった。彼の人生についてあれこれ言うつもりはない。が、クズ野郎のまま逃げ切ったのは、いただけない。裁かれるべきクズだったと思っている。過去にも書いたように、あの世代で熱心にサヨクしていた連中が、キライだ。
 ちゃんとしたサヨクってのも、ごく少数いて、その人らはサヨクだけどまあマトモだから良いとして、でも大方の元サヨクはロクでもない。あ。誤解を招く言い方だから言い添えておくが、ちゃんとしたサヨクってのは日本共産党関係ではない。あれは全然ちゃんとしてない。知らないだけで、マトモな人物もいるのかもしれないが、そんな人は見たことも聞いたこともない。私刑(リンチ)の横行ということにかけては相撲界と双璧をなしている集団だ。
 多くのサヨクを生み出した団塊と呼ばれる勢力は人数が矢鱈と多くて、十年くらいまえ、ある会社の社長という団塊世代の男と話していたら有機化学っぽい話題になり、楽しく語らっていたんだが、「いやじつは若い頃は火炎瓶なんかも作っていて。あれ塩カル(塩化カルシウムのことだと思われる)混ぜると良いんだよ」と言ったので、その場で絶交を言い渡した。大人になって「あなたとは絶交だ。帰ってください」と言ったのは、このときだけだ。
 あとになって考えたが、塩化カルシウムが炎上の触媒か何かとして作用するとは考え難く、イオン結合だから灯油には溶けない筈だ。じゃあ、塩化カルシウムは顆粒のままで、ヒトの皮膚に付着すると爛れるってことかな、と思い当たって殴らなかったことを後悔した。塩化カルシウムは融雪剤として凍った道路に撒いて使われるもので、寒冷地では手軽に入手できてタダみたいに安い。
 おれはウヨクでもサヨクでもないが、半端なサヨクと頭の悪いウヨクが大嫌いだ。
 吉本隆明も好きではないが、彼の「転向」を批判した元サヨクで、責任取った者は一人でもいたのだろうか。何のオトシマエもつけてないのが大勢ではないのか。せめて「ごめんなさい。間違ってました」と言えないのか。己の行動を深く後悔し、日陰者として生きる人はいないのか。
 と詰め寄ったところで、当のサヨクは「うっせー。ノホホンと何も考えずにいた奴に俺たちを詰る資格はねぇ!」とか言いそうだが、こちとら真剣にノホホンとしていたんだよ。あんなインチキな扇動を「思想」だなんて騙される程ばかではない。
 まあ、昔いちおう読んだよね資本論。の入門書だけど。
 商品て、欲望なんです。と書くと宇能鴻一郎のエロ小説文体みたいだが、これは(なるほど)と思った。でも、原材料を仕入れて労働者にあれこれさせて製品として高く売る、その金額差が搾取だ、ってのが、(まあ、そういうこともあるかもしれんが、その差額をみんなで納得できるように分ければいいんじゃないの? それでも不満なら自分で会社作ればいいだろ)と思った。なーに労働者の憎悪を煽ってんだよ。そこにルサンチマン持ってくると、ひとが下品になっちまうでしょ。ヤだな、そういう集団って。カッコ悪いじゃん。
 この手の主張ってのは死刑囚の永山則夫なんかも「俺が悪いんじゃなくて、社会が悪い」みたいなこと言って、(いや違うって。悪いのはおまえのアタマだっての)と心の中で突っ込んだ日本人は多かったと思う。人のせいにして良いことと、してもしょうがないことがあるんだよ。オトナなら誰でも知ってることなのに。
 ただね、おれたちみたいなタイプは、ばかだから判断基準が宗教でも思想でもなく、カッコいいか悪いかなんだよね。
 団塊の世代で共産思想に共鳴して革命を志した人よりも(え。マルクス主義だって言えば乱暴にアバレてもいいんすか。じゃ、おれマルクス主義になるっす)というような動機の人が多かったんではないか。あと「搾取された誇りを取り戻せ」って石や火炎瓶投げて良いって、そんな憂さ晴らしはダメですよ、って言って聞かせるオトナがいなかった。こないだまで八紘一宇とか言ってたけど戦争に負けて(すいませんすいません。おれたちの言うことは全部デタラメでした)ってしょんぼりしてるオトナばっかりだったから、そりゃ増長もするよね。そこへ与えられた共産主義思想だもんね。
 ひゃっほう! 革命だ! ぶっ壊していいんだってよ。って、実際に資本論って国家を壊す処方箋みたいなことが書かれてるしムチャクチャやりたい連中には、またとない福音だ。大昔の犯罪集団に親鸞の歎異抄を与えて「悪人てのは業(ごう)でやむにやまれず悪いことをするもので、正直に生きてるってことだから、だいじょうぶ。成仏できる」ってお墨付きあたえたようなもので、昔は織田信長が成敗してくれたけど、団塊世代には「その免罪符はイカンぞ!」と叱ってくれるマルチン・ルターもいなかった。代わりに頑張ったのは公安か。
 ところで、なんでおれたちシラケ世代とか、くびれ世代と呼ばれている世代が、団塊を冷静に見られるかというと、子供の頃に団塊の連中が東大で放水を盛大にぶっかけられて逃げ惑ったり、あさま山荘でデカい鉄球ぶっつけられて降参したりしてたのをテレビで見て(だめだ。こいつらは、だめだ)と叩き込まれ、だから共産主義にも(どうせロクなもんじゃねぇな)という色眼鏡を最初からかけていたからだろう。軍国主義もダメだったし共産主義もダメみたいだ。じゃあ何を信じればいいのか、ってオモチャを与えられなかった世代だ。
 だから上の世代には(なにが面白くて生きてんだ、こいつら)と思われていた。だって「面白けりゃ何でもいい」って言うわりには楽しそうじゃないんだもん。
 面白いのなんてあたりまえのことにしてしまって、その先だよ、なんて言う奴はあんまりいないし、そういうことを言う奴は疎まれちゃうから、おれたちの世代は口を開けて面白いものを待ってる大勢の奴らと、自分で面白くなろうとする少数派がいる。共通してんのはどっちもポリティカルなことを考えるのが苦手ってことか。スカみてぇな世代だが、石や火炎瓶を投げたりはしない。
 もちろん団塊でも石や火炎瓶投げてたのは、一部の人間だけどね。
 ただ、団塊で「戦争反対! 米帝はヴェトナムで人殺しをやめろ!」みたいなことを真剣に思っていた人はいたんだと思う。でも、おれたちは(このお兄さんたちは便乗して騒いでるだけだよな)って人が多かったのを知ってるから、団塊連中を信用できない。60年代はゲバルトやってて70年代はニューファミリーとか言って、80年代はバブルでグルメを気取ってた。ちょうどチェルノブイリの放射性物質のせいで売れなくなったスパゲッティが「そうだニホンジンに食わせて処理しよう」とバカスカ入ってきて「やっぱイタリアンだわ。オッソブーコよ」などと半目になってるから、それ何ですかと訊くと「あら知らないの? 骨髄を食べる料理よ」と合ってるような違うようなことを言って踊りまくってた連中だぞ。
 戦時中なんかに満州辺りで馬賊だったようなタイプが団塊世代に生まれると全共闘で暴力担当になったのはわかるが、その手のタイプはおれたちの世代で何やっていたかというと、せいぜいブルース・リーの真似して「アチョー」って叫んでヌンチャク振り回すくらいか。小物で従順。逃げると見せかけて後ろから膝かっくん、ってタイプ。それがおれたちの世代だ。おれたちの世代とひとくちに言っても(世代で括るなよ。違うタイプもいるんだぞ)という意見は尤もだ。
 高島暦っていうインチキ臭い冊子があって、九星ごとに吉凶の運勢が記されている。でもこれ、生まれ年が同じだと運勢が同じで、てことは早生まれとか遅生まれを別にすれば同級生は皆同じ運勢ってことで、そのことに気がついたのは中学生の頃だったから、書店に平積みになってるのを見て(ばっかじゃねぇの)と思っていた。まぁ実際には北海道弁で(はんかくさいんでないかい)と思った筈なんだが、思い出は標準語に補正されて蘇るよね。要は(しょうもねぇ)と思った。でも向こうの立場で考えたら、何言ってんだ。同級生が犇めく教室に隕石が直撃して全滅してしまえば「ほんとだ。みんな同じ運勢だ」ってなるじゃんって理論か。
 とはいえ、つまり世代論なんてのは高島暦みたいなものだと言いたいのですね、という意見はまったく違う。高島暦はインチキだけど、世代論ってのはインチキ臭い一面はあっても、同世代が受ける社会的な影響は概ね似たようなものだから、インチキと断じることもできない。
 たとえばおれは1950〜1964年生まれの「シラケ世代」であり、また1955~1964年生まれの「新人類世代」にも被ってる。シラケ世代は、さっきも書いたように団塊のやり方を見て(そうか。このやり方はダメなのか)とテレビの画面越しに見せつけられ、かといって(じゃあ、こいつに立ち向かえば良いんだな)という対象も見つけられなかった奴が多い。やがて長じてヴィデオゲームや漫画・アニメにどっぷり浸かってオタクの嚆矢となった世代だ。主義・主張を持つとロクなことにならないと思い込んでいるので、上の世代からは「何を考えているのかわからない」と評された。
 団塊が、戦争に負けて価値がひっくり返った上の世代を見て(だめだ。こいつらのやり方じゃダメだ)と、権威なんてぶっ壊せとか、オトナの言うことなんか信じちゃイカンとかいう価値観を作ったように、それまでの世代が次の世代の価値観を作ることは多い。それと別に世の中の仕組みが変わって世代の価値観に影響する。
 おれたちの次の世代は「バブル世代」と呼ばれる連中で、その次は「氷河期世代」か。今どきとやかく言われがちな「Z世代」も自分たちでなろうとして、ああなったのではなく、Z世代を作ったのは、それ以前に続いた世代のおれたち全員だ。結果に原因があるのはあたりまえのことなんだよ。

 ところで、いつまで経ってもヒゲとボインの話にならない。ヒゲとボインといえば小島功で、黄桜酒造のかっぱもそうだなと思うが、かっぱに関しては清水崑の跡を引き継いだだけだ。すでに、このエントリーの書き始めで「ヒゲとボイン」の話を書こうと思っていたのにここに来て、どうでも良くなってしまった。いつものことだよね。
 というわけで、決めた。ヒゲとボインの話は書かない。タイトルで書いたから、もういいよね。気になる人はテキトーに想像してくれ。
ไข่ของผม นมของหนู - ERROR99【MUSIC VIDEO】
 今日の歌はメジャーデビューして半年くらいのバンドERROR99のไข่ของผม นมของหนู(ぼくの卵、あたしの牛乳)という歌だ。「ヒゲとボイン」で検索したら出てきた曲だが、ヒゲもボインも関係ない。タイ語で言う「おっぱい(นม)」は乳という意味で、だからおっぱいも牛乳も同じ単語だ。日本語でもそうだね。
 歌詞は、タイで実際にあった学校の給食費を着服して高級車を買った事件のことを歌っている。そんな歌を聴きたいか? と思うのも無理もない話で、だからYoutubeの再生数も大したことないんだが、メッセージが社会的だったせいか音楽メディアだけでなく一般紙までもがこぞって取り上げた。歌詞の内容もさることながら、グループの音楽がアイリッシュスタイルということで、確かにそれは珍しい。編成もバンジョーとアコーディオンがいるけどバグパイプもフィドル(ヴァイオリン)もいなくてティンホイッスルという安っぽそうな縦笛もいない。アイリッシュそのものとは言い難いが、演奏形態の野暮ったさは言われてみればアイリッシュ風味かもしれない。それだけなら隙間産業的なバンドってだけなんだが、バンド活動じたいは5年くらいタイの音楽祭で評価され続け、しかもシンガポールなどの外国でも評価されて、今般は大手レーベルのグラミー社と契約を果たした。たしかに演奏は巧い。アイリッシュというより、モーラムにもこれに似たリズムパターンがあるから、それに似たアイリッシュを融合させたのか。タイ人にはとっつきやすいかもしれない。
 まあいい。歌詞だ。

大人になっての学校での不正行為は いけないこと
詐欺師がいるって 誰もが知っているけど みんな黙っている
大人になったら不正行為をするもの 誰もが不正行為をする
クルアおばさんは 取締役全員が汚職の責任があると認めた

お皿の底にこびりついたご飯 豚肉のカレー
奴らは 私のタンパク質をすべて盗んで 食べちゃった

ぼくの卵 あたしの牛乳
腐ると臭い 教育は何の役にも立たない
煮込み卵 残り半分
食べて 騙す

あの家では ネズミのミルクだ 卵が高級車に化けた
お腹が太って丸くなるくらい 食べよう 学校全体が知っている

誠実で忍耐強く 善を行い国に奉仕する人になりなさい
大人になったら浮気はしない 細心の注意を払うように心がける
常に騙そうとする人がいると 知っているだけでは決して十分ではない
死ぬ時が来たら それを受け入れてもいいのかな

お皿の底にこびりついたご飯 豚肉のカレー
奴らは 私のタンパク質をすべて盗んで 食べちゃった

ぼくの卵 あたしの牛乳
腐ると臭い 教育は何の役にも立たない
煮込み卵 残り半分
食べて 騙す

 二月にしては暖かい日になったのは、北海道でも100年ぶりくらいらしくて、やっぱり温暖化なのか。さっぽろ雪まつりが終わってからで良かったね、と思った。観光客の頭上に雪像が崩れ落ちたりしたらシャレにならないからね。
 さっぽろ雪まつりは、開催前日の夕方から市民に開放されるんだけど、このときに見に行くと人が少なくていい。ただ、10年くらいまえだったか自衛隊とモメたかサヨクの人が騒いだかして、自衛隊が雪は運んできても雪像作りをしなくなって、雪像の質が劇的に下がった。あれを憶えてる人には、今の雪まつりは見る価値がないと思う。アーティストなんて呼ばれてる人を連れてきていろいろやってるようだが、自衛隊の足下にも及ばないのね。あの雪像を見て「いや国を守ってろよ」と文句言うやつなんかいなかったんだが、サヨクに言わせると暴力装置だから反対したんだろうか。
 おれはウヨクではないが、東日本大震災のときの自衛隊さんには感謝している。道民って震災で酷い目に遭ったのは離島くらいだし、サヨクっぽい人が多いから、自衛隊さんは人気がないんだが、おれは自衛隊の人を見るにつけ心の中で(がんばってね)くらいは思ってる。思うだけだから、つくづく何の役にも立ってないけどね。でも好きかキライかで言うなら、自衛隊は好きな方だと思う。ありがとう、くらいは言った方がいいのかな。でも誰に。
 というわけで、道を走る自衛隊の車両を温かい目で見るくらいだな。なんていうか、あの人達は活躍しない方が世の中のためには良いもんね。自衛隊の活躍なんてのは戦争か大災害の非常時だもんね。だから一般人からは文句言われてるくらいで丁度良いのかもしれない。報われない職業の一つだよね。せいぜい、おれみたいなのが微笑むだけだもんね。
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