もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

水中フェスティバル

2024年06月05日 13時57分20秒 | タイ歌謡
 チェンマイから東にバスで1時間足らずの山間部のマンサンパラン村は、水はけの良い赤土の土壌だったため稲作が難しかったこともあり、かつてはタピオカの原料であるキャッサバ芋の栽培で食いつなぐ、タイ北部にありがちな村のひとつだった。
 それが1976年の乾期の終わり頃に、ふらりとこの地を訪れた高僧が石くれだらけの赤土を指先でほぐし、口に含んで吟味したのち、ぺっ、と吐き出すと何事か呟き、村長の家に来て、言った。
「次のข้างขึ้นวันพระจันทร์ครึ่งเสี้ยว(上弦の半月の日の夕刻)、陽の沈む頃にもういち度来るから、村の大人を集めておくように」と言い残して、サマネーンと呼ばれる見習いの少年僧を残して、ひとりチェンマイに向かった。
 残された少年僧は、村長が家に招き入れようとしても薄く微笑んでそれを断り、朝の托鉢を終えると村じゅうの土を味わって回り、夜は村の広場にある紫鉚樹(しきょうじゅ)の木の下に小枝を敷き、その上に広げた風呂敷状の万能布で眠った。
 やがて約束の日に、高僧は両手に抱えたライチの苗木とともに現れ、これを植えて、毎年増やしていきなさいと穏やかに言った。「ライチの実は10年も経たぬうちに食べられるようになって、そのまま増えていけば外に売ることもできて生活が豊かになることでしょう。キャッサバ芋もこれまで通り育てて食べなさい。ライチが実るのは年にいち度だけだからね」と、細かい育て方を伝えた。
「とてもありがたい話ですが」不安そうに村長が言った。「こんな枯れた土地に、ライチというような高級な果物が育つものなのでしょうか。枯らしてしまうような気がするのだけれど」
 穏やかに、薄く微笑んで僧は腰を落として赤土を掌で弄んだ。「こういう枯れて水はけの良い赤土だからライチが育つのです。もし枯らしてしまったら、来年の今頃◎◎寺へおいでなさい。新しい苗木を差し上げましょう」
「ありがとうございますお坊様」村長は地面に平伏した。額と両手に赤土がつくのも厭わずに頭上で合掌(ワイ)した。「恐れながらお坊様、お名前は何とおっしゃるのでしょう」
「え。名前か……」僧侶は空を仰いだ。「ええと。きみ、今朝は何を食べたね?」
「มันสำปะหลัง(マンサンパラン)でございます」マンサンパランというのはキャッサバ芋のことだ。村長は答えた。今朝だけじゃなく、いつだってナンプラー味のキャッサバしか食べてなかったが、余計なことは言わない。
「ほほう。マンサンパランか……。うん。それが、わたしの名前だ」
「……ลาก่อน(さようでございますか)」村長は恭しく合掌した。他にしようがない。そのようなお名前は嘘でございましょう、などと言えない荘厳さが村人を圧倒していた。
 そして高僧は、少年僧と共に元来た道を帰っていった。

 それから半世紀も経とうとした今では、ライチ畑が村いち面に広がっていて、キャッサバ畑は村の外れに移された。タイ人なら知らぬ者のないライチの一大産地として名を馳せている。村の名も僧の名に因んで「マンサンパラン村」とした。おそらくその名は、その場の思いつきの名だというのは当時の村人ならわかっていたが、僧がそう言うならそうなのだ。
 村の名はキャッサバに因んだが、役場はห้องโถงหมู่บ้านลิ้นจี่(リンチー村役場)という。リンチーってのはライチのことだ。もうひとつ。ライチの名に因んだのが小学校で、โรงเรียนประถมลิ้นจี่(リンチー小学校)という。ライチ小学校。普通の読み書きも教えるが、カリキュラムの6割はライチについて学ぶ。最初、県にライチについての学校だと申請しても難癖をつけて認められなかったので、村長が県を飛び越えてバンコクの文部省に直談判したら、それを聞いた大臣が「いいな、それ」とウットリして許可を出した。「よかったら毎年ソンクラン明けにライチを大臣室に送ってくれ」と、堂々と賄賂を要求したと明るい新聞だねになった。

 だからキャッサバ村のライチ小学校では、毎朝子供たちがライチの校歌を歌って、ライチについて学ぶ。大人のクラスもあって、全国からライチを育てたい人や、ただのライチ好きが学びに集まるのだ。
 ライチは土が固まって水はけが悪くなったりしなければ連作障害もなく、荒れた土壌でライチに向いた条件であれば栽培の難しい植物ではない。ていうかキャッサバ村のライチは植えてしまえば収穫まで、ほとんど放置状態だ。
 実が枝から離れると急速に味が落ちるので、売るときは枝葉つきで収穫し、その状態で売るから出荷時の荷姿が大きい。可食部に対して枝葉などの無駄な体積が多いってことだ。だから安いものではないが、庶民に手が出ないという程の高価でもない。ただ年にいち度しか旬がないことと、足の速さの特性上、半分は冷凍や缶詰に回す。味は落ちるが、それでもよく売れる。
 ライチ小学校の校歌は、村人なら誰でも歌える。みんな卒業生だからね。

 と、長々と続けてしまったが、ライチ小学校のくだりは作り話だ。ライチ村があるって話も嘘だし、そこを訪ねた高僧がいたってのもデタラメだ。1976年もテキトーに出てきた数字で、その年には児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件があったけど、ライチは関係ないな。ない。つまりここまでの話は全部おれの作り話なんだけどタイだったら、いかにもありそうな感じだから、本当にあるかもしれないね。
 たぶん、ないだろうが。
สาวนาห่วงพี่ (ลิ้นจี่)
 นุ้ย สุวีณา(ヌイ・スウィーナ)が歌うสาวนาห่วงพี่ (ลิ้นจี่) という歌だ。このタイトルは日本語だと「好きな人を心配する娘(ライチ)」ってことになる。この歌手は今のところ一発屋といって良く、4年まえのこの曲だけが小ヒットした。
 1983年ソンクラー県うまれ。プロの歌手になったのは最近で、本業はゴムのタッピングボールを作るニッチな稼業だそうで、経済的に厳しかったんで歌を歌いました、と言う。幼い頃は貧困で引っ越しを繰り返したと言うが、つまり夜逃げってことだろう。
 ちょっと変わった人みたいで、ラムカムヘン大学の人文学部でマスコミ専攻の学士資格を持ってるから偏差値は高かったようだ。小ヒットが1曲だけでは経済的に大逆転とはいかなかったようで現在も南部のソンクラーで借家住まいだと所属レーベルに書かれていて、そんなことを書いてるのもタイらしくて笑っちゃった。ただ、このヒットのお陰でローカルラジオ局で番組を持たせてもらったということで、少しは余裕もできたのだろうか。
 名前のนุ้ย(ヌイ)は、渾名だろう。よくある渾名で、意味はバターとか脂肪のことだ。太ってなくてもそう名付けられたタイ人は多く、ほんとタイ人の渾名ってわかんねぇ。

 ところで歌詞は、何でこれがヒットした? と思うくらいひどい。メロディーは昔のタイ歌謡っぽい作りで、いかにも南部のおばさんに歌わせたのは正しい。

野原の冬は 娘にとって寒いもの
別れた彼氏が 何年もいなくて寂しい
戻ってこなかった うまくいかなかった
一年間 どこに行ってたのか
死ぬことも考えた 戻って来て

戻ってきて わたしに何かプレゼントをしてよ
小さな子 ねえ 彼はそれを何て呼んでいたっけ
赤くて 食べても美味しいもの
食べたいけど 思いつかない
ねえ 一体どんな子だっけ
そう! ライチ ライチ ライチ ライチ
忘れないでね ライチを10キロ買ったのよ

一人で 本当に孤独で どこにも行けなかった
わたしに感心がなかった 見栄っ張りな男
わたしが怖いのは 彼が上流社会の少女と出会うこと
彼の愛が失敗するのが怖い 大都市社会のせいで
農家の娘は 胸の大きな女性は時代遅れではないかと心配してる

都会はとっても忙しい
ねえ 重大な病気があるのよ 何ていうんでしたっけ
誰であろうと 確実に死ぬ
昨日 テレビで言ってたの
ねえ それは何の病気? 
エイズ エイズ エイズ エイズ
エイズがあるから デートするときは注意してね

 前半がライチ推しで、後半は唐突なエイズの注意喚起。いきなりすぎるだろ。これはちょっと補足説明すると、ラムヤイ(竜眼)、ランブータン、ライチの缶詰を食べるとエイズに罹る恐れがあるというデマが当時のタイで広まったせいか。マスコミが「缶詰でエイズに感染することはない」とキャンペーンを張った程で、果物の缶詰ってのが存在するのは加熱殺菌できるから存在するんだってことに考えが至らなかったのか。
 ただエイズは関係ないが、生のライチは食べ過ぎると低血糖症になって最悪命に関わるとも言うが、大量に食べ続けない限りは大丈夫だ。1日に10粒以内なら毎日でも気にすることもないそうで、そんなにたくさん食べられるものではない。
 それよりも気をつけるべきはドリアンで、ドリアンを酒と一緒に摂取すると胃の中で異常発酵して倒れることはよく知られていて、これで死んだ外国人観光客もいる。ガイジンはそんなこと知らないから「お! 旨いなこれ!」とドリアンばか食いしつつ酒を飲んだりしがちだ。

 と、ここまで書いて我に返った。ワープロソフトの画面の最上部にタイトルが表示されるんだけど、その「水中フェスティバル」ってのを見て、「え…………?」という声とともに、ぴたり、と意識が動きを止めた。
 なんだっけ。これ。
 けっこうウキウキでワープロソフトを開いたのは憶えてる。
 水中、これはわかる。水の中だ。フェスティバル。これもわかる。祝祭だ。
 でも、この二つの単語の結びつきが、わからない。なんだっけな。すっげぇ面白い話だった。ような気がする。それなのに、まっっったく思い出せない。
 タイトルと内容が違うってのは、このブログでは珍しいことではなく、与太話が長くなりすぎてタイトルの話題になるまえに力尽きたとか、ボリス・ヴィアン方式の「北京とも秋とも関係ないからタイトルを北京の秋とした」みたいなのがいち度あった。あと「こちら側のどこからでも切れます」のような、ありがちな決まり文句がタイトルになってるときは、それを念頭に置いていながら微妙に内容がズレるということが多い。
 だが書いていて、その初志を忘れたのは初めてかもしれない。まあ、そういうお年頃だししょうがない。面白いからタイトルは、そのまま残すことにした。ていうか、水中フェスティバルについては、タイトルで書いたから、もういいんじゃないか。そのうち思い出して、それでも面白かったら「水中フェスティバル(2度目)」みたいなタイトルで書けば良い。
 もの忘れの多い年頃ってことでもない。若い頃はボンヤリしていたので今よりももの忘れが多かった。それが40歳ころに、あることを習慣づけたら、もの忘れがピタリと止まった。その習慣が何だったかは忘れたけど。

 そんなことより、ちょっと感動したのがパパ活詐欺で逮捕された「頂き女子りりちゃん」こと渡邊真衣被告(25)の獄中書簡をツイッター(X)に書き起こして投稿している人がいて、その記事が凄い。最近りりちゃんが思い出した余罪の告白が凄くて、歴とした犯罪なのに読む者の胸を打つという希有な手記になっていた。
 りりちゃんは、オオカミに育てられた方がシアワセだったかもしれない。愛は知らないが、不幸はとてもよく知っている。だからといって詐欺をはたらいて良いわけではないが、マイナス札の等価交換という知恵で浮世に立ち向かった。
←画像クリックでツイッターに飛ぶよ
 凄い迫力だ。ツイートが削除されるかもしれないので念のため、このツイートだけ青い字のテキストで貼っておこう。

前回、ごくちゅう日記で「拘留されている男性から婚姻届が届いた」ことを書いた。
あの文章を書き終えたあと、「結婚かあ...」と、ちょっとほっぺた熱くしながら結婚について考えた。「結婚している自分とは、一体どんな感じかしらん」という乙女チック夢想にひたっていた。

そしたら、ハッと思い出した。私は、そういえば、結婚している...!!
私は、20さいの頃から 今まで ずっと人妻の身なのであった。
他の誰かと愛の誓いを結ぶことを禁じられている身なのであた。

私が結婚した理由は、20さいの頃、指名していたホストのYくんのことが、私、好きだったからです。Yくんのことが すきですきで 大好きでたまらず結婚しました。よく知らないベトナム人の男性と。

ある日、夏のデリヘル、出会った日本人のお客様に言われました。
「ベトナム人と結婚したら、お金たくさん渡してあげられるよ」って。
私は、0.1秒も迷いもせず「したい」と答えたんです。気持ちはキラキラでした。
だって、そのお金、Yくんにもっていってあげたら 喜んでもらえると思ったから。
Yくんに「まいちゃん いい子」って思ってもらえると思ったから。
だから 結婚しました。

ベトナム人の方とは、大阪城に行ったり、買い物したり、パクチー食ったり、数回 デート というものをしなければならない日々が続きました。

ベトナム人の彼は、デートのたび「ゲンキ ナイネ?ダイジョブ?」と声をかけてくれて優しかったです。私は、(元気なわけ ありますかいな)と思いながらも「うん」と笑顔な私を作りました。ベトナム人の彼の優しさに応えて「たおしいね」なんて はずんだ声も おまけにだしました。

たのしい わけ ありません。私は「デート」なんてうまれてこのかたしたことなかったんです。

令和元年、夏がおわってしまいそうで、ぽっかり寂しげな季節の頃。
私は、1人、平塚(地元)市役所に向かっていました。
私とベトナム人の彼の名前が書かれた、婚姻届を提出しにいくためです。

私は、なんだか わくわく していました。
「結婚」というものに対して、一応女の子らしく、華やかな憧れがあったからです。
「これから、私、結婚しちゃうんだ...」って、現実味のない現実に ドキドキ 胸を高鳴らせていました。市役所に向かうために、自分の足が踏み出す一歩一歩が「結婚」という現実を私に近づけてきました。

市役所について、お仕事中のお姉さんに 婚姻届をだしました。
「みょーじは 私の ”渡邊” のままで」って伝えました。
お姉さんに「手続きおわりました」って伝えられました。
私の結婚が、おわりました。

市役所をでて、「あっけなかったな」って思いながら、歌舞伎町に帰るため平塚駅に向かいました。

私は わかんないけど 帰り道 涙でました。
涙が勝手にあふれでてきて、私の歩く視界のじゃましてきて、うざかったです。「涙だる」とか思って。でも、涙止まりませんでした。
なんかわかんないけど 涙流して 帰りました。

全部 これで よかったんです

(令和6年5月26日(日))

 犯罪者が何言ってやがるとか、文体に知性がないとか、そういうのを横に置いといて、強烈だ。嘘と事実が平衡を保っている。犯罪と誠実が、不誠実と愛がギリギリで釣り合って、それが残像に成り果てている。それが残像のくせに両手でガッシリ心を掴んで揺さぶりにきた。その巨大な熱量を金銭で量って我が物とするシステム。資本主義的にも高度だよね。
 最初から最後まで、ひとり残らず悲しみを届け与えるマイナス札の天使。りりちゃんに勝てる気がしない。ていうか勝ってはいけない。これは勝ったら負けな勝負だ。

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