もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

竜巻とゲリラ

2022年07月29日 19時58分44秒 | タイ歌謡
 ここで書くものに登場するのは、ヘンなタイ人とばかな日本人とニコニコっぽい華人ばかりだが、他にアメリカンな友人もいる。やはり飲んだくれでデタラメで、いつもおれと騒ぐのが好きなお調子者だったが、職業は大学の教授だった。じつはインテリだったのだ。
 飲んでいたときに同席の者が、大学の先生と聞いて「英語を教えているのですか」と訊いたら、いえ、そういうのではないのです、と落胆していた。歴とした社会学とか数学とかそういった専門の教授で、その分野と大学名を書くと特定されそうなので、その辺は伏せておくが、その点においては大した人物だったらしい。おそらく、そこに持ちうる才能と努力を使い果たし、それ以外の個人的な生活がデタラメになってしまったものと思う。とはいえ、おれみたいにオールマイティーなデタラメさは持ち合わせていなかった。半端者だ。デタラメに関しては。
 英語を教えているのかと訊かれて否定したときの口ぶりは、そういう不良ガイジンと一緒にするなよなぁ、という誇りと、まあでも専門的な知識があるだけで、それは英語を話せるってだけの状態と、大きな違いはないかもね、という逡巡と、そもそも先生なんてロクなもんじゃないよな、というような韜晦が綯い交ぜになっていたのではないか。そういう男だったのだ。ビルとでも呼ぼうか。ぜんぜんウィリアムって感じのしない男だったが。
 ビルは日本語も上手く、価格を値切るときに「勉強してください」って言っても通じるよ、という雑談をして、「何デスカソレハ。勉強トでぃすかうんとノこもん・ぽいんと、ワカラナイヨ」と言った。そうだな。ディスカウントの道はビジネスの勉強ってことじゃないかな、とテキトーに言うと、「オー。ワタシハ見マス(I see)」と納得していた。
 そんな会話はすっかり忘れていたら電話があって「ツウジタヨ。ベンキョー。ツウジタネ」と嬉しそうにはしゃいでいて、その頃から友達になった。恵比寿の立ち飲み屋で飲んでいたら、飲み足りないから私の自宅で飲みましょうというようなことを言う。インテリなアメリカンならへべれけになるまで飲まないだろうと思っていたら、もうへべれけだった。でも面白いから自宅に行ったらギターがあって、勝手にブルーズを弾いたら「おー、いえー」と合わせてテキトーに歌い出す。ドクター・ジョンのファンだそうで、それなら12小節の定型ブルースが好きなわけだと納得して騒いでいたらビルは電話で友人を呼び出し、もうブルーズで大騒ぎの夜になった。あとから来たもう一人のブルーズファンはスイス人で、「なんでスイス人なのにブルーズ?」って訊いたら、おまえだってニホンジンなのにブルーズじゃん、って笑ってた。わかってないな。ブルーズの本場は日本だぞ。気が付いたら外が明るくなっていて、スイス人が「今日のクラス(授業)は二日酔いだな」って言ってて、おまえも大学教授なのかよと驚いた。ただの飲んだくれじゃなかったのだ。「ねえ。もっと良いギターを買おうよ」とか言ってるので、じゃあ今度おれのを持ってくるよ。一つ余ってるんだと約束した。ギターを衝動買いして、当時の奥さんに酷く怒られていたのだ。それ以来、この3人は毎週のように騒ぐようになる。楽しかった。

 こないだ電話した時のことだよ。知り合いのいる学校に。スミスさんはいらっしゃいますか、って日本語で。ビルはそう言って酒を飲んだ。そしたらさぁ、女の人が「しつれいですが」って言うんだ。
 あー。言うね。失礼ですが、って。
 うん。でも知らなくてね。「しつれいですが」って、「Excuse me but」ってことだよね。そのあとに当然何か言うと思うじゃないの。だから黙って、次に何を言うのかな、って待ってたんだ。そしたら、もういち度言うんだよ。「しつれいですが」って。
 あははは。
 もうコンフュージョンだよね。えー? 失礼だったのは、わたしでしたか? それともサムシング失礼な理由が他にある? どうしていいかわかんなくて。それで「What do you want?」って訊いちゃったんだよね。
 わははは。そりゃしょうがない。
 しょうがないよね。ノー・ジンジャーだよね。とビルはくだらなくて、わかり難い洒落を言った。

 ビルが恥ずかしそうにそう言ったのは、「What do you want?」って訊いちゃったってことで、これはどう説明したらいいのかな。「What do you want?」は直訳だともちろん「どうしてほしい?」って意味だけど、「どうした?」みたいなニュアンスが強くて、まあ言い方によるけど、ぶっきらぼうに突き放すように言うと「何だってんだよ」が近い。ビルのは、そんな言い方だった。
 たとえば気まずそうにしている男女がいて、それが夫婦か恋人かは知らないけど、男が女性に突き放すように「What do you want?」って言ってるところに、たまたま通りかかって、それが聞こえたら「うっわー。意地悪だなぁ」って思うのが普通だ。
 だから、この「失礼ですが」って話を聞いた者は「わあ。What do you want? って答えちゃったのか。わははは。いや、それにしてもそんな言葉を引き出してしまう失礼ですが、ってセリフもアレだよな。知らなきゃ、そうなるわな。うははは」ってなるんだけど、この笑い話は聞く人を選ぶ。日本語と英語の両方がそれなりに理解できないと面白くない。
 もっとも、「失礼ですが」って訊いた女性は怒ってないと思う。「What do you want?」って返されて怒るほどに英語を知ってるなら、「May I have your name?」くらいは訊いてる筈で、外国の人に「失礼ですが」なんて訊いていないだろう。
 つうことで、こんな話を書いてもしょうがなかった。読まされる人は面白くないからだ。

 いち度、ビルと喋っていて「エキセントリック」って単語を遣ったら、「ワーオ。きみはインテリゲンチャだなあ」と言う。へえ。インテリゲンチャって、英語でも言うんだ。あれの元はロシア語だよな。と思ったが、言うのはやめた。「そんなトーゼンのことを言ってどうする」みたいに思われたらイヤだな、と逡巡したのだ。それはともかく、エキセントリックくらい誰でも言うだろうと言ったら、「ふつうのアメリカンが遣わない言葉だ。インテリゲンチャしか遣わないね」と言う。そうなの?
「うん。今みたいに良い意味で普通と違う場合にはそんな風に発音するけどね」酒を飲む。「迷惑な変人を陰で揶揄するような場合はエキセーントリックって、そう。セーントリックね。2種類の言い方とニュアンスがあるよね」
 ふうん。
 なんだか、そんな風にインテリ認定された単語がもう一つあったはずだが、忘れた。

 ビルとの会話は、割と早い時期から二カ国語で行われた。だいたい二人とも酔っているので異国の言葉を喋るのが面倒になる。また、ビルの日本語の水準とおれの英語の水準が同程度だったので、いつともなく酔うとビルは英語で話し、おれは日本語で話すようになった。
 ときどき知らない単語が出てきたときに、それを質問するといった具合で、これはお互いラクだった。店で飲んでいてもそんなふうで、お互いに自国語で話して笑い転げているものだから、その場に居合わせた他の客も、ちょっと気にはなっても、その半分しかわからないから興味をなくす。これはいいよ。なんか勝手に喋ってる感じっていうか相手を尊重してないようで尊重してるみたいな、まあそんなの錯覚なんだけど、対等な感じがいいんだ。それも錯覚なんだけどね。
 うちの奥さんと、このシステムを取り入れたことがあって、まあ楽しかったけど、数日でうちの奥さんが日本語を面倒くさがって、「พูดภาษาไทยซิ(やっぱりタイ語で話してちょうだい)」って言われて元に戻った。息子と喋るときは、おれが日本語で、息子がタイ語ってことが多い。

 湾岸戦争の頃、しばらくビルと連絡が取れないことがあって、でも、そんなのはお互いに珍しいことではなかったので、そんなに気にしていなかったが、あるときビルが「飲みに行こう」と現れ、思い返してみたら、半年ほども会ってなかった。
 Long time no see. ビルは、そう挨拶したが、おれはその挨拶を普通に言う慣用句だと知らず、ビルがふざけて、わざと間違ったカタコトの英語を言ったんだと思っていた。
 Where've you been so long ?(長いこと、どこに行ってたの)と訊いてみた。
「フィリピンの南部だよ」ビルは言った。「結婚してきたんだ」
 エクスキューズミー? そりゃ訊き返す。
「南部の島だよ」
 ミンダ・ナーオ?
「そう! その発音」ビルは微笑む。「スゴイネー。ミンダナーオの発音を知ってる日本人に初めて会ったよ」
 ナイストゥーミートユー。
「おー、いえー。行ったことがありますか。ミンダナーオ」
 いや。まだ。それより結婚したと言った?
「イグザクトリー」ビールを飲んだ。「結婚したよ」
 ミンダナオから来たガールと?
「そうだよ。でも来てない」
 ?
「ミンダナーオで結婚して帰ってきた。ワイフは日本に来てない」顔が曇った。
 ああ、そうか。ヴィザが取れないのかな、そう思ったが、全然違った。
 話は、こうだった。
 ミラ(仮名)とは会ってすぐ、仲良しになった(We hit it off)。2回、休暇を延長したかな。日本に行こうと誘ったけれど迷った挙げ句、行けないって言うんだ。Dutyがある、って。それが片付いたら日本でもどこでも付いていくって言うんだけど。うん。ぼくのワイフはミンダナーオ独立運動の女性ゲリラ兵士なんだ。紹介したいんだけど、一緒に行くってのも命懸けで、ぼくの両親にも会わせてない。両親は、ぼくの結婚をあまり良く思ってないね。
 このやろう。また面白い話を、と思ったが、顔が真剣だったから冗談ではないのだと、すぐにわかった。
 なんだ、そのぼうけんは。
 おれもときどき波瀾万丈みたいに言われることがあるが、ビルのはスケールが違う。
 まいった。負けた気がした。こういうのは勝ち負けじゃないんだろうが。
 しかしすげえな。ねえ。奥さんは、腰にナイフを……
「持ってないよ」
 えー。先の尖った靴は履いてるよね。
「何だそれは」笑った。「履いてないよ」
 顔に戦闘用のペインティングしてるだろ、とか、片手が義手なのか、とか訊きたかったが、やめた。
 おめでとう。幸福な結婚。
「ありがとうベリーマッチ」
←波瀾万丈(クソコラを作ってみた)
ดอกฟ้าในมือโจร - พูลศรี เจริญพงษ์
 いいね。良い曲だ。録音が古いのは1958年公開の映画「盗賊の手に青い花(ดอกฟ้าในมือโจร)」の主題歌で、歌のタイトルも同じ。おれの生まれる前年だから64年まえ。どんな話なのか、タイ語のネットには記述がまったくない。
 スローなワルツのルククルンで、タイらしい旋律だ。歌っているのはプーンシー・チャルンポン(พูลศรี เจริญพงษ์)という人で、なんとスンタラポーン楽団の歌姫の一人だった。これは凄いことなんだけれど、こんな事実を知って興奮する日本人は、おそらくおれを含めて5人もいないと思う。スンタラポーン楽団てのは1939年設立の、主に第二次世界大戦後に活躍したタイ初のプロフェッショナルなレギュラー楽団だ。ルククルンをタイに知らしめたグレートな楽団なんだ。
 歌手のプーンシーさんは、まだご存命で87歳。流石に現役での歌唱は引退してるが、チャリティーや政府の広報活動に参加することはあるようだ。若い頃は歌手だけでなく女優もこなしていた。生まれはバンコクのバーンモーというから、チャオプラヤ川と都心に近い。戦争時に田舎に疎開したものの、1946年にはバンコクに戻ってきた。学業があまり好きではなかったので、13歳からは家政科に通ったというから、家は裕福だったんだろう。昔のルククルン歌手は良家の子女ばっかりだ。
←映画「盗賊の手に青い花(ดอกฟ้าในมือโจร)」ポスター
 つうことで、この歌も伴奏はスンタラポーン楽団だと思うんだけれど、なーんのクレジットもないので断定はできない。とはいえ、その時期に他にこんなバンドがあったとは思えない。プーンシーさんは往年のスターで、二つ名どころか三つ名があって、本名の他にひとつは「澄んだ歌声(ดุเหว่าเสียงใส)」、もうひとつは「サイヨークの黄金の歌声(เสียงยูงทองแห่งไทรโยค)」といったというのね。サイヨークってのは、カンチャナブリのほうにある地方なんだが、プーンシーさんと関係ないはずで、まえに「クメール・サイヨーク」で説明したように、「タイ人の美しい心の故郷」みたいな意味で言ってるんだと思う。あるいは「クメール・サイヨーク」が十八番だったとか。正直、そんなに巧くは聞こえないんだが、それは昔のタイの歌手の水準が低かったからだ。
 昔の淡谷のり子さんの歌を今聴いたって「なんだ。ヘタクソじゃん」て思われて終わりだ。でも、当時はあれで巧かったの。それを聴いて育った世代の一般人が同レヴェルになって、その中から巧いのがでてきて、またそれを聴いて育った世代から、もっと巧いのが出てくる。楽器の演奏もそうで、昔超絶技巧と言われたテクニックも、子供の頃から聴いた世代はイメージトレーニング済みで、簡単に演奏できちゃう。そういうもんだ。ただクラシックみたいに昔とっくにピークを極めたジャンルは、革命的な技術なんて滅多に出てこない。
 ここは是非新しい録音でオラウィーさん辺りが歌ってないかと探したんだが、どういうわけか、このオリジナル以外は男性歌手の歌ばかりだった。そんなら、いいや。
 歌詞だ。

花のように美しく 大地の上に立つ母ペッチニルマニー(オニキスの精だそうだ)
母は善行の化身 美しい女性
品行方正 美女の花として
星空の上に立つ
けれども残念なことに
それは盗賊の手にある花
金色の檻の中の鳥のように 心重く
明るく飛び跳ねる日を夢見ている
彼の言葉を聞いて 優しくしましょう
盗賊の手に花
あなたはとても愛しいお方
もしも ご加護があるなら 女神に祈りましょう
慈悲深く ご加護をお与えください
昼と夜のように
太陽と月のように
盗賊の手と 青い花

金色の檻の中の鳥のように

 たいしたことはない歌詞だが美文調で、タイ語の音がうつくしい。
 内容は「すっごく美人で気高い女の人なのに、オトコがねぇー」って歌で、なんだこりゃ。ウチのことか。

 ビルの結婚生活は5年も続いたんだろうか。でも二人で過ごした時間はトータルで3ヶ月もあったかどうか。
 おれがタイから戻って久しぶりに連絡して、ビールを一箱贈ったら「オ中元、初メテモラッタネー」と喜んでいた。事務所の事務員さんに頼んだら、お中元だと思って手配したらしく、ビルは熨斗紙に昂揚していた。「結婚シタヨ。ナマエハY子ネー」と日本人の名前を言っていて、おお、初めての再婚だな、などと余計なことは言わず、おれも結婚したよ。名前はหだ、と答え、お互いに良かったね、おめでとう、と言い合った。

 ミンダナオには、結婚に失敗した女ゲリラがいた。まだゲリラを続けているのか、それとも引退したのか、生きているかさえもわからないが、ミンダナオはまだ、独立していない。
 ビルは、故郷のカンザスに帰った。日本人の妻を連れて。
 知り合ってすぐの頃、カンザスのトーネードが怖い、と言った。トーネード? トーネード川風、袂に入れて、っていうアレか。数秒考えて思い至った。トルネード。竜巻のことだ。
 ああ……。竜巻……。うん。そう言うことしかできなかった。竜巻なんて見たこともないし、竜巻の話題なんて、人生で初めてだった。
「オー。エヴリワンこんな感じなんだ。南部のアメリカンに地震の話をするようなもので、同意は得られないんだ」と言う。
 そんなに、凄いの?
「スゴイヨー。人が死ぬね。エヴリシング Blow away だよ。家も飛ぶね。人も、馬も」
 すげえな。
「スゴイヨー。あんな恐怖は、ない」きっぱり断言した。
 ビルが故郷に帰ったのは東日本大震災のまえだった。それは本当に良かったと思う。
 タイは、いい。地震がない。竜巻もない。ゲリラも南部以外いない。インドネシアからの津波が来たことはあったが。

 そういえば、いつだったかタイのWikipediaでチェ・ゲバラの項を読んだことがあって、冒頭の概要の終わり頃に「トラックの後部に描かれる神聖なもの(ศักดิ์สิทธิ์บนท้ายรถบรรทุกだったかな)」という記述に笑った。
 今見てみると、さすがに削除されていたが、間違ってはいない。
 タイのトラックの後ろには、ゲバラかアル・パチーノの肖像が描かれていて、タイ人の殆どはゲバラのことなど知らない。今となってはパチーノも怪しいものだ。


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