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ことりのあしあと

ほんのわずかなじかん、立ち止まって耳をすませて自分を見つめたい。そんなあしあとをペタペタとのこしています。

雨の朝、星の夜。

2012年02月24日 01時32分22秒 | 日記
雨の朝でした。

自転車が使えない。
いつもより少し早く家を出ることをせまられる雨。

いつもより、少し早く起きて、
少し早く子どもたちを起こしたつもりだったけれど、
さいごはいつもの時間。
つまり、時間に追われる朝。

追い出すようにむむちゃんを見送り、
引きずるようにぷうちゃんを連れ出す。

ぷうちゃん、走らなきゃ間に合わないよ。
悲鳴のように。

こんな日に限って荷物が重い。
えいえい、と、足早に歩く。

振り返ると、今にも泣き出しそうな顔で、
ぎゅっと唇をかむようにして、
ぎゅっと傘を握りしめて、
小走りにぷうちゃんが追ってくる。

泣きだしたくなる。

誰も何も悪くないのに、
うまくまわらない。

せめて、笑顔でむむちゃんを送り出せたら。
せめて、笑顔でぷうちゃんとこの道を歩けたら。

ぷうちゃんの傘に手を添える。
怖い顔のまま。

はっとした様子で見上げたぷうちゃんは、
力強く前を向きなおる。

保育園に着いて、ぷうちゃんも、私も、ほっとする。

ぷうちゃんのロッカーにばたばたと荷物をしまうと、
ぷうちゃんはいつもとおんなじピカピカの笑顔で、
ぴょんと跳ねてハイタッチをして、
ご機嫌にバイバイと手を振った。

ぷうちゃん、ありがと。
うまく笑えず、目が雨に霞む。

駅へと急ぐ。
いつもと同じ時間の地下鉄に間に合った。
間に合うんだったら、もっと、、、。

すべて、朝からの雨のせい。


むむちゃんに、ぷうちゃんに
時間を戻して笑顔で声をかけたい。
こんな日に限って夜遅い会議の日。
子どもたちに明日まで会えない。

帰り道、雨上がりの風吹く澄んだ空。
星がきらめく。
今日の後悔を明日はしない。
明日は笑って過ごせるように。

はやく、明日になあれ。

福島に行ってきました。いわき市小名浜地区復興支援ボランティアセンター

2012年02月22日 15時27分27秒 | 日記
日曜日は日帰りで、福島に行きました。

訪ねたのは、
小名浜地区復興支援ボランティアセンター
http://onahama-volunteer.jimdo.com/

NPO法人ザ・ピープルの理事長吉田恵美子さんが
4月に立ち上げたボランティアセンター。
http://www.iwaki-j.com/people

古着リサイクルや小規模作業所の立ち上げやボランティアの育成などと、
男女平等の啓発の講座等を実施してきたピープルの
すでにたくさん積み上げられていた
人の縁と、経験を
この震災後にぎゅぎゅっとつぎ込んで、
運営されている小名浜ボラセン。

自らも住民であり、というところにぐっと足を置いているからこそ、
仮設にいる地域の人たち、避難しないで生活している被災した人たちと、
向き合うことができて、ニーズを細やかにすくいとることができ、
それをボランティアさんとともに、手当していくことができる。

2時間弱の訪問時間内に聞いた話は、
とうてい昨年3月からこの2月までに行われてきたモノとは
信じることのできないくらい、幅広く、大きな仕事ばかり。
現地で見なければ、リアルにそれを想像することが
できなかったに違いない。

吉田さんという人の懐の広さと、
あるものを使っていこうとする押し出していく力に、
まいりました、感服!
そばにいたら、ついて行きます!
と、思わず言いたくなるだろう。

福島という地域の中にある、
原発との関わりでそこにすまう人たちの心模様、人間関係に、
どのような影を落としているのか、
しみじみと、知ることのできた、二時間だった。

要らぬ気苦労を背負わせてごめん。
夕日に向かって走るスーパーひたちの中で、
奥歯をかみしめて謝る。


複雑さは、そこにがんとしてある。
複雑さに配慮せずになにをか急転換させることには躊躇を感じる。
しかし、負の遺産を、残し続けてはいけないんだ。
恨まれることも含めて、いま、しなくてはならない決断もあろう。
原発について、なんだか覚悟が決まった。

「芝の家」に、ふらっとお散歩 ~コミュニティカフェというものだそうだ。

2012年02月22日 15時27分00秒 | 日記




東京都は港区にある芝の家
http://www.shibanoie.net/

港区と慶應義塾大学の協働モデル事業として、
ふらっとよれる居場所づくりをしている。

本当にふらっと寄れてしまったのでした。
訪問、と内心、構えていたのですが、
ふらりと入って、ふらりと座って、
お話相手になってくださる人たちがいて。

お昼時、ビル街のサラリーマンの人が
お弁当を持ってお昼タイムを過ごしに来たり。

縁側の窓ごしに、おひなさま、飾って~、
とご近所の方からの差し入れ。

何だろう、と覗いているひとがいれば、
窓から縁側へひょいっと出て、こういう場所です、
よっていきませんか。と、声をかける。

ワンコインで、セルフサービスのお茶、飲み放題。
それだけが、かかる費用。

もとはオフィスビルだったそうです。
床は板を張って、
窓辺は格子にして、縁台を置いて、
古い背の低いちゃぶ台を置いて。

水、金、土は子どもたちには楽しみな
お手玉、けんだま遊びの日。
学校帰りの待ち合わせ、
暇つぶし、もちろん遊びを目的にやってくる子もいるそうです。

そう、こんな場所がほしいのです。
よりみちのいえ。

道のりは遠い。
同じようにはできないのは承知。
だけど、エッセンスはおんなじ。
力を抜いて、気長に願おう。

願えば叶う。
0からはじめたって、
願えば、願い続けていさえすれば、
叶うのです、夢というものは。

ほっくり癒やされて、帰ってきました。
疲れたら、また行こう。

ちなみに、この力の抜けた居場所は
コミュニティカフェに総称されるらしい。
カフェとつくから、子どもには縁遠い活動の形だと
思っていたけど、違いました。
ひとつひとつ、現場で教えてもらえることは多いです。

全国コミュニティカフェネットワーク
http://blog.canpan.info/com-cafe/

http://blog.canpan.info/com-cafe/

『フィンランドの子育てと保育』から、育つことを待つ形、見守る形とは…

2012年02月18日 08時54分49秒 | 日記
フィンランドの子育てと保育を読む。

うっとりするような仕組みにため息。
及びのつかない、豊かな子どもの育つ環境に、ため息。
人としての底力を育むという点で、
圧倒的にかなわないなぁ、と思う。
特に心にとまった四つ。


ひとつめ
ネウボラは、
おなかに誕生してから、就学するまでをサポートしてくれる場所。
ひとりの子どもの情報は、
すべてネウボラに集まっていて、
行く病院、保育園のこと、受ける社会保障、アレルギーとか、障害とか、
それらに対応する機関への橋渡しをしてくれる。
橋渡しだけではなく、親の承諾を得てカルテや成長の記録を共有しているから、
日常の心配や、時折の不安をもってネウボラに行けば、
成長の様子を的確に把握してくれている前提で、
話ができるそうです。
文字通り、ともに子ども育ちを見守り支えてくれる存在として、
個々人ではなく、ネウボラという機関がある。
それは、本当に頼もしくて、安心して日々を暮らせるだろうな、
と、思うのです。

ふたつめ
つぎは、早期教育計画表づくりのために
親に対して子どもについてたずねる質問の内容です。

身近な存在、たいせつな人はだれか
とくにどんなことに喜びを感るか
うれしさ、悲しさはどのように表れるか
どういう状況のとき、助けを求めてくるか
けんかのときにどのようにふるまうか

発達の~、発育の~、立ったのは~、
跳ねたのは~、この言葉が出たのは~、
とか、そういうのではないのです。
その子がどんな子か、知るための質問になっている。
示されて、なるほど、と、思います。

みっつめ
静かな声。
赤ちゃんが保育園に入る前と後では、泣き声の声量が変わります。
やさいかった泣き声は、保育園に入るとたちまち力強くなります。
たくましくなったと考えてもよいのでしょう。
集団の中で、力強く泣くことは生き延びるスキル。
でもフィンランドでは保育園でも子どもたちは静かなのですって。
大きな声で強く自己を主張しなくても、
静かな声で静かに主張しても、聴いてもらい、
受けとめられるから、
大きな声を出す必要がないのですって。
子どもがにぎやかなのは、子どもの特性と思ってしまっていた。

よっつめ
昨年11月に行ったフィンランドのヨキネン先生の講演会の中でも
お話されていたことなのですが、
保育は、親のためのサービスではなくて、
保育を受けることそのものが、子どもの権利なのですって。

権利の主体者としての子ども、を、
根のところにしっかり据えると、
そういう表現にあらわれてくるんだ。
もういちど、あらためて、しみじみと思う。


生まれ出てくる命を社会が育むとは、こういう形なのか、
ひとりひとりの命を、個性を、大切にすると、こういう形にあらわされるんだ、
具体的な実践の姿の中に、理念を見ると、
言葉の表面だけでおなかに落ちきれなかったものたちが、
すっとおさまっていく。

フィンランド、良い国だなぁ。
この国が、この国なりに、
子どもたちを大切にする「形」ってどんなだろう。
理念や、理屈や、キャッチフレーズではなくて、
具体的な姿、具体的な実践に
落とし込んだイメージを見いだし、試みていくことが
きっと、今とても、必要な作業なのだと思う。