「インパクト3着…差された/凱旋門賞」(2006年10月2日8時29分 日刊スポーツ)
「ディープインパクトが凱旋門賞で3着」と言ったところで、競馬ファンでない人には、何のことかチンプンカンプンでしょう。
それがどうした? という程度のニュースとしてしか認識されないと思われます。
しかし、競馬ファンにとっては、おそらくたいへんな関心事だったに違いありません。
私は過去に競馬ファンだった時期があるので、その盛り上がる気分は何となくわかります。
このニュースで言えば、「ディープインパクト」と「凱旋門賞」に関する知識(というか記憶)が問題になります。
「ディープインパクト」という馬が、どういう血統の元に生まれたか、どれほど強い馬か、どういうレースに出てどういう勝ち方をしたのか、その出場したレースに勝つ事がどれほど大変な事か、その時騎手は誰だったか、その時馬券は取れたのか・・・。
そして、凱旋門賞というフランスの競馬のレースがどれほどすごい賞で、それに勝つ事がどれほど大変な事なのか。
そうした一つ一つの記憶が集積され、そして「凱旋門賞」出場という夢の晴れ舞台へとつながって、ファンの期待と興奮は否が応でも高まっていった・・・、といった感じであったろうと思われます。
日本の強い馬が海外のレースに出るんだな、程度の推測は、競馬ファンでなくてもつくと思いますが、先述のような記憶の有無によって、この話題に対する思い入れは、大きく異なるものとなります。
実際、競馬の話題というのは、他のどの話題にもまして、話している人たちの盛り上がり方が激しい気がします。
以前、例えばバイト先等、何かの機会で、初対面同士のグループが会話をするような機会に何度か出くわしましたが、そこにいた人全員が競馬ファンだとわかった時の話の盛り上がり方はハンパではありませんでした。
「競馬」には、競馬のファンでなければわからない類の面白さがあり、それが余計に、ファン同士の共感を高める効果をもたらすのかもしれません。
また、競馬はギャンブルであるという面もあるでしょう。
馬券を買わずに、純粋に競技だけを楽しむ競馬ファンというのは、ほとんどいないと思います。
いくら勝った、いくら負けた、という話題は、競馬ファン同士の間で交わされる話題の中でも、最もポピュラーなものの一つであると言えるでしょう。
何かちょっと悪い事に手を染めているかのような、共犯関係的になる心理も働いて、共感性を高めているのかもしれません。
逆に言えば、競馬ファンでない人にとって、競馬の話題というのは、敷居が高く、かなり付いて行くのに苦労を要するものであると言えるでしょう。
私自身は、6~7年ほど前までは、「競馬ファン」であった時期がありました。
ほぼ毎週のように、馬券売場や競馬場に行っては馬券を買い、また、好きな馬がレースに出るとなると、地方の競馬場まで追いかけに行った事もありました。
地方競馬の雰囲気を味わいたくて、旅行のついでに、地元の地方競馬場で半日過ごした事もあります。
当時在籍していた会社の競馬ファンの人同士で、G1レースの予想勝負をしていた事もありました。
そんな私でしたが、6~7年前くらいから、何となく競馬場から足が遠のいてしまいました。
理由はと言えば、うーん、何というか、他にもっと面白い事ができたから、としか説明のしようがないですね。
まぁ、競馬自体に、だんだん興味が持てなくなってきた、という事もありますが、競馬の問題というよりは、自分自身の変化の方が大きかった気がします。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、別に馬が逃げ切ろうが、最後に追い込もうが、別にどっちだっていいじゃないの、馬はただ必死になって走ってるだけで、それを人間様がああだこうだと勝手に解釈して盛り上がってるだけの事で、それを毎週毎週追いかけて1年また1年過ぎて行く、って何だかなぁ、・・・というような気分に、だんだんなっていってしまったんですね。
「おまえのような奴は最初から競馬なんか好きではなかったのだ。今さらゴチャゴチャ勝手なこと言ってんじゃねーよ」と競馬ファンからはお叱りの言葉を頂いてしまいそうな事を書いてしまいました。
気分を害されましたら、お詫び致します。
別に競馬自体を否定する気は全くありませんで、ただ、過ぎてしまえば、あれだけ夢中になっていた時間が、全く別次元の話のように思えてしまうのが、我が事ながら不思議だなー、と思えてしまうのです。
もちろん、夢中だった自分の気持ちはよく覚えていますから、その気持ちの原理というか中身は、わかるんですけどね。
不思議だなー、と思うのは、競馬ファンであった時期と、過ぎてしまった時期との、気持ち(競馬を見る目とでも言いますか)の差の激しさ。そして、その「差」というのが、案外簡単な事で飛び越えられてしまうのだな、という事です。
「ディープインパクトが凱旋門賞で3着」と言ったところで、競馬ファンでない人には、何のことかチンプンカンプンでしょう。
それがどうした? という程度のニュースとしてしか認識されないと思われます。
しかし、競馬ファンにとっては、おそらくたいへんな関心事だったに違いありません。
私は過去に競馬ファンだった時期があるので、その盛り上がる気分は何となくわかります。
このニュースで言えば、「ディープインパクト」と「凱旋門賞」に関する知識(というか記憶)が問題になります。
「ディープインパクト」という馬が、どういう血統の元に生まれたか、どれほど強い馬か、どういうレースに出てどういう勝ち方をしたのか、その出場したレースに勝つ事がどれほど大変な事か、その時騎手は誰だったか、その時馬券は取れたのか・・・。
そして、凱旋門賞というフランスの競馬のレースがどれほどすごい賞で、それに勝つ事がどれほど大変な事なのか。
そうした一つ一つの記憶が集積され、そして「凱旋門賞」出場という夢の晴れ舞台へとつながって、ファンの期待と興奮は否が応でも高まっていった・・・、といった感じであったろうと思われます。
日本の強い馬が海外のレースに出るんだな、程度の推測は、競馬ファンでなくてもつくと思いますが、先述のような記憶の有無によって、この話題に対する思い入れは、大きく異なるものとなります。
実際、競馬の話題というのは、他のどの話題にもまして、話している人たちの盛り上がり方が激しい気がします。
以前、例えばバイト先等、何かの機会で、初対面同士のグループが会話をするような機会に何度か出くわしましたが、そこにいた人全員が競馬ファンだとわかった時の話の盛り上がり方はハンパではありませんでした。
「競馬」には、競馬のファンでなければわからない類の面白さがあり、それが余計に、ファン同士の共感を高める効果をもたらすのかもしれません。
また、競馬はギャンブルであるという面もあるでしょう。
馬券を買わずに、純粋に競技だけを楽しむ競馬ファンというのは、ほとんどいないと思います。
いくら勝った、いくら負けた、という話題は、競馬ファン同士の間で交わされる話題の中でも、最もポピュラーなものの一つであると言えるでしょう。
何かちょっと悪い事に手を染めているかのような、共犯関係的になる心理も働いて、共感性を高めているのかもしれません。
逆に言えば、競馬ファンでない人にとって、競馬の話題というのは、敷居が高く、かなり付いて行くのに苦労を要するものであると言えるでしょう。
私自身は、6~7年ほど前までは、「競馬ファン」であった時期がありました。
ほぼ毎週のように、馬券売場や競馬場に行っては馬券を買い、また、好きな馬がレースに出るとなると、地方の競馬場まで追いかけに行った事もありました。
地方競馬の雰囲気を味わいたくて、旅行のついでに、地元の地方競馬場で半日過ごした事もあります。
当時在籍していた会社の競馬ファンの人同士で、G1レースの予想勝負をしていた事もありました。
そんな私でしたが、6~7年前くらいから、何となく競馬場から足が遠のいてしまいました。
理由はと言えば、うーん、何というか、他にもっと面白い事ができたから、としか説明のしようがないですね。
まぁ、競馬自体に、だんだん興味が持てなくなってきた、という事もありますが、競馬の問題というよりは、自分自身の変化の方が大きかった気がします。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、別に馬が逃げ切ろうが、最後に追い込もうが、別にどっちだっていいじゃないの、馬はただ必死になって走ってるだけで、それを人間様がああだこうだと勝手に解釈して盛り上がってるだけの事で、それを毎週毎週追いかけて1年また1年過ぎて行く、って何だかなぁ、・・・というような気分に、だんだんなっていってしまったんですね。
「おまえのような奴は最初から競馬なんか好きではなかったのだ。今さらゴチャゴチャ勝手なこと言ってんじゃねーよ」と競馬ファンからはお叱りの言葉を頂いてしまいそうな事を書いてしまいました。
気分を害されましたら、お詫び致します。
別に競馬自体を否定する気は全くありませんで、ただ、過ぎてしまえば、あれだけ夢中になっていた時間が、全く別次元の話のように思えてしまうのが、我が事ながら不思議だなー、と思えてしまうのです。
もちろん、夢中だった自分の気持ちはよく覚えていますから、その気持ちの原理というか中身は、わかるんですけどね。
不思議だなー、と思うのは、競馬ファンであった時期と、過ぎてしまった時期との、気持ち(競馬を見る目とでも言いますか)の差の激しさ。そして、その「差」というのが、案外簡単な事で飛び越えられてしまうのだな、という事です。