辛亥=シンガイ=新改・侵害・心外・・・
セイメイの変・・・
清明=セイメイ・・・清(シン)と明(ミン)の王朝のヘン?
=声明・姓名・生命・声名・聖名・正明
狛犬・・・狛猫?
愛新覚羅・・・心外であるカナ・・・別部=ベップ=捌分
アイを阿多らしく覚える
羅(うすもの・あみ・ラ)
あみ・鳥あみ・鳥をとる網
あみする・網にかけて捕らえる
残らずつかみとる
つらねる・つらなる・並ぶ
薄い絹・うすもの
新羅
加羅
阿部羅(あべら)
甲羅
雀羅(じゃくら)
綺羅星(きらぼし)
阿修羅
羅刹(らせつ)
阿羅漢(あらかん)
羅漢柏(あすなろ)
紫羅欄花(あらせいとう)
沙羅双樹の花の色
森羅万象
羅馬尼亜(ルーマニア)
↓↑
辛 亥 革 命
(シン ガイ カク メイ)
1911年・・・1+9+1+1=10+11=1+0+1+1=3
1×9×1×1=9
干支 辛亥
宣統三年
(清 宣統2年12月1日
~
宣統3年11月12日)
(日本 明治四十四年
(皇紀2571年)
~
1912年
干支 壬子
(清 宣統3年11月13日
~
12月25日
グレゴリオ暦2月12日)
(中華民国元年 グレゴリオ暦2月12日)
(日本 明治四十五年1月1日~7月30日)
(皇紀2572年)
↓↑
11月某日
フリードリヒ・ニーチェ
「ツアラツウストラ」
(ツァラトゥストラはかく語りき)
2月21日
日米通商航海条約が調印
日本関税自主権回復(小村寿太郎)
3月29日
コルトM1911
アメリカ軍に制式採用
↓↑
4月22日
清華学堂(清華大学)設立
↓↑
5月9日
清が幹線鉄道国有化令を発布する
↓↑
6月15日
ニューヨーク州で
C-T-R(IBM)創業
↓↑
7月1日
ドイツ帝国軍艦が
モロッコのアガディール港に寄港
フランスを威嚇する
(アガディール事件)
7月13日
第3次
日英同盟協約締結
7月24日
イェール大学
歴史家ハイラム・ビンガム3世
マチュ・ピチュ遺跡を発見
↓↑
8月18日
イギリスで議会法が制定
下院の優越が法制化
8月21日
イタリア人
ビンセンツォ・ペルージャ
が
ルーブル美術館の
「モナリザ」を盗む
↓↑
9月14日
ロシア帝国首相
ストルイピンが狙撃される
9月29日
北アフリカ
オスマン帝国領をめぐって
イタリア王国が
オスマン帝国に宣戦布告
(イタリア・トルコ戦争)
↓↑
10月10日
・・・拾月拾(ひろう)日
足月足(たら・たり・たる・たれ・たろ)日
清
武昌新軍が蜂起
辛亥革命開始
↓↑
11月4日
モロッコに関し
独仏協定締結
モロッコではフランスの権益が認められ
ドイツが仏領コンゴの一部を獲得
11月30日
外モンゴル(モンゴル国)
清から独立宣言
11月某日
メキシコ革命・・・墨西哥=MEXICO
農民派の
サパタ
蜂起
11月某日
フランス映画『ジゴマ』日本公開
字語眞?
↓↑
12月14日
ロアール・アムンセン・・・賂蛙亜留・編務選?
南極点到達・・・・・・・・難局・難曲
↓↑
日付不詳
ヘイケ・カメルリング・オネス
超伝導現象発見
↓↑
1911年10月10日
清
武昌 新軍が蜂起
辛亥革命 開始
共和革命・・・・協和?
10月
「孫文」
の影響を受けた革命軍が
武昌と漢陽を武力制圧
「黎元洪」
を都督として
中華民国軍政府が成立宣言
清国は革命軍制圧に失敗
15省が次々と独立を宣言
↓↑
1911年12月29日
上海で
「孫文」
中華民国
大総統に選出
1912年2月12日
清最後の皇帝
「溥儀」・・・溥儀=フギ=不義・付議・附議・伏木?
退位
清国滅亡
アジアで史上初の
独立
共和制国家
中華民国
誕生
勃発日
10月10日
に因んで
「双十革命」・・・双十革命=双足革命=双拾革命
とも称す
辛亥革命は
第一革命とされ
「袁世凱」
に鎮圧された
第二革命
護国戦争が
第三革命
・・・三革命=サン書く名・・・?
↓↑
スローガン
「駆除韃虜
恢復中華
創立民国
平均地権
(打倒清朝
回復中華
樹立民国
地権平等)」・・・地権平等
・・・知権別府(びょう?)同?
別府(ベップ・ベフ・びゅう・びょう)
別府 (吉富町) - 福岡県築上郡吉富町の地名
「びょう」と読む
別府 (宇佐市) - 大分県宇佐市の地名
「びゅう」と読む
別府(錦 町)- 熊本県球磨郡錦町
「びゅう」と読む
上別府=うえんびゅう
かみべっぷ
かんびゅう
びにう・びふ・びぶ
びゅう・びゆう
地名はビュウ(別府)
鹿児島県 いちき串木野市
荒川の小字の
別府から発祥
福岡市 別府(べふ)
糟屋郡
志免町別府(べふ)
遠賀町 別府(べふ)
築上町 別府(べふ)
吉富町 別府(びょう)
宇佐市 別府(びゅう)
↓↑
別府=神社の領地・収穫米の収蔵地
別府=ベップ=別部=捌附
別府=ビョウ=廟・苗=艹+田
描=扌(手)+艹+田
猫=ねこ・根子
秒=禾+少
眇=目+少
鋲=金+兵
錨=金+苗
病=疒+丙
屛=尸+并・・・屏風
渺=氵+眇
氵+目+少
氵+目+小+丿
ビョウ
はるか・果てしなく広がるさま
かすか・きわめて小さくはっきりと見えないさま
α+眇
眇緲篎
渺(かすか)
渺(はるか)
渺渺(ビョウビョウ)
渺茫(ビョウボウ)
↓↑
雲烟縹渺(ウンヱンヒョウビョウ)
非常に遠くまで
薄く長く伸びている雲や霞の様子
雲烟=雲と霞=雲煙
縹渺=遠くにかすかに見えること=縹緲・縹眇
↓↑
烟波縹渺(エンパヒョウビョウ)
水面がもやなどでぼやけてい
空と水面の境界がよくわからない風景
縹渺=ぼやけて、はっきりと区別できない様子
↓↑
往事渺茫(オウジビョウボウ)
昔のことは
遠くかすんではっきりとしない
往事=過ぎ去った過去のこと
渺茫=はるか遠い様子
広くて果てしない様子
↓↑
虚有縹渺(キョウヒョウビョウ)
ぼうっとしていて
はっきりとしない様子
虚有=実質的な内容が存在しないこと
↓↑
虚無縹渺(キョムヒョウビョウ)
何もなく
どこまでも広がっている風景
「虚無縹緲・虚無縹眇」
↓↑
神韻縹渺(シンインヒョウビョウ)
芸術作品にある
表現できないほどのすぐれた趣
神韻=神業
↓↑
別府=びゅう・・・WHY びゅう?
=謬・繆・・・誤謬
繆(あやまる)
繆(いつわる)
繆(たがう)
繆(まつわる)
繆(もとる)
乖繆(カイビュウ)=食い違う・そむきたがう
悖繆・悖謬(ハイビュウ)=言動が
正しい道理から外れていること
↓↑
辛 亥 革 命
↓↑
三民主義
救国主義(孫文)
対外的な
中国の国際的地位の平等
内的には
国民の政治的平等と経済的平等
当初
民族主義は
清朝専制支配の
打倒と
統一的独立国家の建設
辛亥革命後
五族共和を
「民権主義」は
君主制に代えて
人民主権の
共和制国家の
樹立と
五権分立
(立法権・司法権・行政権・考選権・糾察権)
「民生主義」は
同盟会の時期には
土地所有の集中と
地主の利益独占を防ぐための
〈地権平均〉
による土地問題の解決
辛亥革命後
大資本家の企業利益独占防止
〈資本節制〉による社会問題の解決
当時の中国では
最も急進的な
ブルジョア民主主義革命の綱領
民生主義における
地権平均も
地価の上昇分を
地主から
国家に吸収するにとどまり
地主の土地所有権を保存
人民大衆を
革命に
立ち上がらせるにはいたらなかった・・・
↓↑
民生主義
1896~97年
ヨーロッパ亡命中の
「孫文」
が資本主義の弊害
富の分配の不公平に基づく
社会問題の発生を見て
中国でも起こるであろう
社会問題を
未然に防止するために構想
1905年(光緒31)
中国同盟会の結成
「民族・民権・民生」の
三大主義を発表
「H.ジョージ」
の土地単税論の影響を受けた
〈地権平均〉
土地の申告価格に基づいて課税し
地価上昇分を国家に納め
国民全体に還元
を
「民生主義」
の最も重要な要とした
革命後の12年
〈地権平均〉
〈資本節制〉
が主要な内容とし
24年
国民党第1回全国代表大会宣言で
労働者農民
への援助の方針が追加
耕す者に田の主張が掲げられ
地主制廃止の方向が示された
↓↑
辛亥革命
広義では
清末期からの一連の革命運動から
中華民国成立まで
比較的長期間の政治的運動
「袁世凱」
を中心とする
北洋軍閥により撤回され
地権平等も実現しなかった
↓↑
「康有為」
1840年(道光20年)
アヘン戦争
清は欧米列強と外交で対峙
一部官僚と知識人により
1860年代~1890年代
「洋務運動」
が発生
欧米の知識を導入し
殖産興業
富国強兵
を目指す政治活動が提唱
北宋より続いてきた
文官偏重の
伝統的な政治体制の改革は限定的で
1894年(光緒20年)・・・弐拾年・念撚・念粘
日清戦争
で日本に敗れ
洋務運動の限界が露呈
↓↑
「康有為」
を中心とする改革派は
明治維新をモデルとして
立憲君主制を維持しながら
政治・社会制度に
大幅な改革を求める内容の上奏
1895年(光緒21年)
光緒帝
の支持を獲得し
1898年(光緒25年)
「戊戌変法」
が実行
改革は保守派の反発を招き
改革は
103日で失敗
改革派は海外亡命
↓↑
1900年(光緒26年)
「義和団の乱」
進駐した八カ国連合軍
(オーストリア=ハンガリー帝国
フランス、ドイツ国、イタリア王国
大日本帝国
ロシア帝国、イギリスとアメリカ)
によって北京を占領
保守派の間にも
改革の必要性が認識
「戊戌変法」
と同様の改革案が提出・実行
1906年(光緒31年)9月1日
憲政移行の方針を定めた
『欽定憲法大綱』を発表
1910年(宣統2年)
中国初の議会として
中央に
資政院
新疆省を除く各省に
諮議局
を発足させ
1911年(宣統3年)5月
内閣が設置
内閣成員の半数が
満洲人
内皇族が5名の
皇族内閣で
憲政移行失望・・・
↓↑
新軍編成
清末期
八旗
及び
漢人緑営
を主体とする
清中央軍は実質的な戦力を喪失
「太平天国」鎮圧で
各地方の兵力に依拠し
日清戦争では
旧式軍隊の落伍が顕在化
1901年(光緒27年)
陸軍の全面改革を実施
全国に
新式陸軍36鎮を設置
その内
6鎮を朝廷直属
他は
各地方巡撫・総督の管轄
幹部養成に各地に
軍学堂
が設置
一部地域では
留学生を軍官に積極的に採用
↓↑
反清思潮
清末の政治的閉塞感から
漢人の間に
反満意識が形成
太平天国で
満洲人排除
が政治主張
1890年代
明末の著作に刺激を受け
満洲人排除が発生
清朝打倒の
革命運動家は
反清
復明思想
を利用し
「鄒容」
による
『革命軍』著作が生まれ知識人に拡大
「孫文」
などの革命勢力は
満洲人を満洲に追い出し
漢人の明王朝が支配していた
黄河・長江流域
その周辺地域に
漢人の国家建設を目指した
辛亥革命後
革命スローガンは
「打倒韃虜」
から独立の動きを見せた
チベット、モンゴル
などの少数民族を
漢族の支配下に置こうと
「五族共和」
を唱え始めた
↓↑
辛亥革命
興中会(華南地区)
華興会(湖南地区)
光復会(蘇浙滬地区)
後に成立した
中国同盟会
により実行
他に
共進会(長江流域)
文学社
同盟会中の
丈夫団
などが革命に関与
中国同盟会は
全国革命組織
が緩やかに団結した連合体であり
同盟会会員は
各地に様々な
外郭組織を構築
↓↑
指導者
孫文
黄興
宋教仁
蔡元培
趙声
章炳麟
陶成章
など・・・
・・・これらの漢字の名前、姓名の意味・・・ヘン?
↓↑
革命の主要な政治主張
清打倒
共和制政体
の確立
1894年11月24日
興中会は
「満洲駆逐
中華回復
衆議政治の確立」
を活動骨子
1904年2月15日
華興会
「満洲駆逐
中華回復」
を政治主張
1905年8月20日
中国同盟会
「満洲駆逐
中華回復
民国建国
地権平等」
を綱領に定め
「民族主義
民権主義
民生主義」
が唱えられた
↓↑
1890年代
武力革命によって
清を打倒し
フランスやアメリカのような
共和制を確立していこうと唱えた
初期の革命思想
海外に居住する
留学生
華僑青年
による
革命団体もまた海外で組織化
1890年
「楊衢雲」
を中心とする
輔仁文社が香港で成立
1894年11月24日
「孫文」
サンフランシスコで
興中会
を結成、革命に必要な軍資金の調達を開始
両者は
1895年1月
に香港で合併
興中会の名称で活動を継続
10月26日
広州で初めての武装蜂起
「広州起義」を起こして失敗
香港へ入国禁止された
「孫文」
はロンドンに活動拠点を移動
翌年には清による
「孫文誘拐事件」が発生
国際的に報道されて
「孫文」
の名が広く知れ渡った
↓↑
1900年
「義和団の乱」
1901年
「北京議定書」
により列強の中国進出
清国知識人の間に危機感
日清戦争以降
日本への留学生は
1904年には
2万人を越えた
留学生の多くが
官費留学生だったが
革命思想が浸透し
留学生による各種団体が設立
民主革命の必要性が広く訴えられた
留学の革命参加者
章炳麟
鄒容
陳天華
などがおり
彼らは後に国内革命組織の根幹を構成
1904年
日露戦争が勃発
清朝は中立を宣言
主戦場は
清国満洲地区
外国軍隊が
自国領土内で戦闘を行う事態に
救国の声が高まり
「黄興」
が指導する華興会
「陶成章」
「蔡元培」
が指導する光復会
江蘇の
励志学会
強国会
四川の
公強会
福建の
益聞会
漢族独立会
江西の
易知社
安徽の
岳王会
広州の
群智社
等、各種革命団体が設立され
相互に提携することは少なく
地方色の強い個別運動だったが
清打倒
漢族の共和制
による政権樹立を共通の目的としていた
漢族による
18省での政権樹立を目指し
東北三省
新疆
チベット
内モンゴル
は当初活動範囲から除外されていた
革命活動は
反清を掲げる地下組織と提携
華興会(湖南地区)は哥老会
光復会(蘇浙滬地区)は青幇
興中会(華南地区)は三合会
と密接な関係を構築
↓↑
1905年夏
「孫文」
は日本で
興中会
華興会
光復会
等の各団体を団結させることに成功
8月20日
東京で
中国同盟会が組織化
「駆除韃虜
恢復中華
創立民国
平均地権」
を定めた綱領が
『民報』
(旧名は華興会機関紙の
『二十世紀之支那』
同盟会成立後に改称)
上に発表
同盟会は
大衆への啓蒙を通じて
革命運動を大衆運動へと拡大
『民報』は
「章炳麟」
「陶成章」
らが主筆となり
「胡漢民」
「汪兆銘」
が執筆
「康有為」
「梁啓超」
が主編した
保皇派機関紙
『新民叢報』
と論戦
↓↑
他の革命団体
↓↑
共進会
1907年7月
同盟会の一部より
長江流域での
革命発動を行うべきと主張する
「劉揆一
焦達峰
張伯祥
孫武」
などが東京にて組織化
同盟会と共に
武昌起義を指導
↓↑
日知会
1906年2月
「劉静庵」
を代表成立
「孫武
張難先
何季達
馮牧民」
など百名以上が参加
後に
同盟会
湖北分会機関となった
↓↑
南社
1906年
江南地区
「陳去病」・・・陳=陳列の
去=除去・・・帰去来?
病=やまい
等により
黄社、神交社、匡社
等の文学団体が設立
1909年
南社が誕生
文学作品を通した新思想の啓蒙
↓↑
文学社
1911年1月30日
振武学社は
文学社と改名
「蔣翊武」
を社長
「詹大悲」
・・・詹=厃+儿+言
⺈+厂+儿+言
セン
よく喋る・口数が多い
つまらないことをしつこく言う
みる・一点をみる
足す・足りる
「詹諸(センショ)」
月にいるヒキガエル(蟾蜍・蟇蛙)
引き換える
月自体
譫(うわごと)=言+詹
譫(たわごと)
譫妄(センモウ)
幻覚などを伴う軽度の意識障害
アルコール中毒や
高熱、認知症などで起こる
譫言・囈言(うわごと)
大=一+人
悲=非+心
を文書部長
「劉復基」・・・劉+復+基
を評議部長に選出
新軍内部の
青年軍人組織
革命思想の新軍内部への
浸透と武器調達を担当
武昌起義で指導的な役割を果たした
↓↑
1900年代
清国では日本留学熱で
辛亥革命直前には
数万人が日本留学
1905年
中国同盟会が東京で成立
日本で軍事教育を受けていた
同盟会会員による
丈夫団
も結成
日本留学生の指導者
「孫文
黄興
宋教仁
胡漢民
廖仲愷
・・・廖=广+翏
广+羽+㐱
广+羽+人+彡
リョウ
むなしい
がらんとして
うつろ(虚ろ・空ろ)
廖(むな)しい=虚しい
朱執信
汪精衛(汪兆銘)」
等
↓↑
清末期
各地で
洪門(天地会)五房の
長房青蓮堂
二房洪順堂
三房家后堂
四房参太堂
五房宏化堂
四川発祥の
哥老会
などの秘密結社が結成
反清活動を展開
↓↑
哥老会
は
華興会
↓↑
青幇は
光復会
↓↑
三合会は
興中会
とそれぞれ親密な関係を構築
「孫文」
もかつては
広東省由来の
洪門二房洪順堂会派の
致公堂の会員で
清打倒
↓↑
海外華僑
辛亥革命
の重要な役割
海外華僑は
それぞれの居住地で
同盟会に対する
資金援助を行うと同時に
帰国後出身地で
革命団体を組織化
多くの武装蜂起に参加
1894年11月
「孫文」
がサンフランシスコで
興中会を結成し
20数名の華僑が参加
黄花崗72烈士
でも海外華僑が29名
↓↑
新軍兵士
1908年以降
革命運動は
群集運動から
新軍内の同調者獲得に重点が移り
革命人士は新軍内で秘密裡に
革命思想の普及
科挙制度の廃止により
多くの青年知識人が
新軍に加盟
文学社社長の
「蔣翊武」
「劉復基
詹大悲
王憲章
張廷輔
蔡大輔
王文錦」
などが新軍内部のメンバー
↓↑
1907年9月~10月
清朝は
資政院
諮議局
を設置
士紳及び商紳への参政の機会を提供
1909年
新疆省を除く各省に
諮議局が設置され
士紳、商紳が選挙により
諮議局に選出
各省の
諮議局による
間接選挙で
資政院の民選議員(98議席)が選出
士紳、商紳は
本来は立憲派であったが
その後発足した内閣が
朝廷主導であったことに
失望、武昌起義以降
立憲派も
辛亥革命に参加
↓↑
外国人
辛亥革命を支持する日本人
「梅屋庄吉」・・・梅の屋の庄の吉
などの支援が顕著で
多くの革命団体が
日本で組織・運営され
「北一輝」
を初めとする日本人も同盟会に参加
武装蜂起に
参加した日本人にも多くの死亡者
↓↑
1895年~1911年
興中会
同盟会
により
合計10回の武装蜂起が実行
失敗したが
革命思想を中国に普及
↓↑
第一次
広州起義
1895年春
香港を中心とする興中会は
第一次
広州起義を計画
「陸皓東」・・・陸=阝+坴
皓=白+告
東=比企詞・寅卯辰
により革命旗
「青天 白日旗」・・・白の日の旗
がデザイン
10月26日
「孫文」
「楊衢雲」
・・・衢=行+瞿
彳+亍+䀠+隹
彳+一+丁+目+隹
彳+二+亅+目+隹
彳+一+亅+目+隹
ク
ちまた
みち
よつつじ
わかれみち
四方に通じる大通り・よつつじ
よこみち・えだ・わかれみち
は
「鄭士良
陸皓東」
を率いて武装蜂起による
広州占拠準備するが漏洩
「陸皓東」
逮捕され失命
香港当局は清朝の圧力により
両名に5年間の入国を禁止
「孫文」
の日本、アメリカ、ロンドン等への
海外亡命生活
各地で
革命宣伝
活動資金の募金
↓↑
恵州起義
1900年
「義和団の乱」
華北地方は無政府状態
6月
「孫文
鄭士良
陳少白
楊衢雲」
及び
「宮崎滔天
平山周
内田良平」
などが横浜から香港に到着
イギリス当局により入国を拒否
9月25日
「孫文」
は黒龍会の支援の下
馬関を経て台湾に移動
台湾総督府民政長官と会談
台湾総督府の
広州武装蜂起の支持を獲得
「孫文」
は台北市に武装蜂起司令部設置
10月8日
「鄭士良」
等に命じ
恵州三洲田(深圳三洲田)で
武装蜂起指示
(恵州起義
庚子革命・庚子首義
三洲田首義等)
決起軍2万人に拡大
台湾総督府官僚の態度が変化
補給と軍人の参加の
約定が覆され
革命軍は物資補給に困窮し解散
武装蜂起では
「史堅如」
「山田良政」
などが落命
「孫文」
は決起失敗後
日本当局により日本に移送
↓↑
1907年5月
革命党
三合会
の
「許雪秋
陳芸生
陳涌波
余紀成」
により武装蜂起決行
黄岡城(潮州饒平県)占拠
(黄岡起義)
「許雪秋・・・・
陳芸生」・・・
はシンガポール華僑で
シンガポールで同盟会に参加
黄岡起義後
清朝は
潮州総兵
「黄金福」・・・黄金の福
を派遣して武装蜂起を鎮圧
革命党員200名が殺害
6日間で
「黄岡起義」失敗
↓↑
第2回恵州起義
1907年
黄岡起義に呼応すべく
「孫文」
は恵州に人員を派遣して武装蜂起を指示
6月2日
「鄧子瑜
陳純」
等少数の三合会は
恵州から20里ほど離れた
七女湖
で清軍の武器を強奪
5日
泰尾に侵攻し清軍守備兵を撃退
楊村、三達、柏塘
等で清軍を撃破
帰善、博羅、龍門各地の会党も
武装蜂起に呼応
革命軍は200余名の規模
清 水師提督
「李准」
は革命軍鎮圧に出動
黄岡起義が失敗し
革命軍への支持喪失
梁化墟にて革命軍は解散
一部香港
大部分は
羅浮へ逃亡
↓↑
安徽起義
1907年7月6日
光復会の
「徐錫麟」
は安徽省安慶で武装蜂起
「徐錫麟」
は
安徽巡警処会弁
兼
巡警学堂
監督
を務めており
学校卒業式の当日
巡撫恩銘を視察した後に
学生を率いて革命軍を組織し
戦闘が開始
4時間の激戦の末に革命軍は崩壊
「徐錫麟」
捕えられ処刑
↓↑
欽州起義
1907年8月
広東省欽州
(広西の那彭、那麗、那矺三郷)
で民衆反乱
「孫文」
は会党指導者
「王和順」・・・王の和への
順(したがう・随う・遵う)
を
「中華国民軍都督」として連絡役とし
9月には欽州の占拠を計画したが失敗
「王和順」
はベトナムに帰還
↓↑
鎮南関起義
1907年12月2日
黄明堂は
「孫文」
の指導を受け入れ
「鎮南関都督」の名目で
中越国境の鎮南席砲台を攻撃
「孫文
黄興
胡漢民」・・・胡(えびす)漢(よこしま)民(たみ)
なども自ら砲台攻撃作成に参加
広西提督調
「陸栄廷」
は4000の軍勢により革命軍を包囲
鎮南関起義失敗以降
清朝は
「孫文」等に対する捜索を
安南に拡大し
「孫文」
はシンガポールに移動
武昌起義成功まで
中国に足を踏み入れることはなかった
↓↑
欽州、廉州起義
1908年2月
「黄興」
はベトナムを本拠地に
200名の勢力により
広東欽州
廉州
で計画
14日
作戦
↓↑
河口起義
1908年4月
雲南省河口での武力蜂起計画
4月30日
「黄明堂」
がベトナムより雲南河口に侵攻
「黄興」
も指揮に参加
5月26日
清軍により河口が陥落
参加者はベトナムに撤退
↓↑
庚戌新軍起義
1910年2月12日
「黄興
胡漢民」
及び新軍内の
「倪映典」
は広州警察と新軍との衝突に乗じ
広州新軍を組織し武装蜂起
戦死者100余名
逮捕者100余名
を出し
100名以上の参加者が香港に撤退
武装蜂起失敗
↓↑
黄花崗起義(第二次広州起義)
1910年11月13日
「孫文」
はマレー半島のペナンに
「趙声
黄興
胡漢民
鄧沢如」
等を召集
同盟会の行動方針決定の会議を招集
地方での武装蜂起全て失敗
広州での武装蜂起で
清軍との全面対決方針を決定
↓↑
1911年4月
「趙声
黄興」
等は広州で武装蜂起を指揮
清軍の間で市街戦展開
革命軍は崩壊
武装蜂起失敗
↓↑
マレー半島での
革命活動
1911年12月16日
「孫文」
と軍事顧問であった
「荷馬李」
・・・荷の馬の李(木ノ子・すもも・守桃)?
は陳金鐘大廈に滞在
革命活動は
当時
マレー半島は中国本土以外で
華人人口が最も密集し経済的にも発展
「孫文」
は数度にわたりマレー半島を訪問し
現地の華人に対し革命への参加を呼びかけ
多くの華人から支持
↓↑
武昌起義
1911年3月
武漢新軍内部に文学社が組織化
共進会は
陸軍第八鎮
第16協第32標
に集中して会員を集め
武昌起義の段階で
5,000名の兵士が
文学社及び共進会に加入
新兵総数の3分の1に達した
文学社と共進会は
新興知識層による革命組織であり
新軍兵士は革命の潜在力となるため
両者は新軍兵士を主要な工作対象とした
↓↑
1911年5月9日
清朝
鉄道の国有化政策実施
民間資本により建設された
粤漢線
川漢線
の買収を発表
国有化政策は
湘、鄂、川、粤の民衆の反発を招き
四川省が中心となり
保路運動が展開
↓↑
6月17日
四川民間各団体により
「四川保路同志会」結成
四川諮議局議長の
「蒲殿俊」
が会長に、副議長の
「羅綸」
が副会長に選出
8月5日
成都で川漢線鉄道会社の臨時株主総会開催
8月24日
市民によりゼネスト実施
9月1日
川漢鉄道会社の株主総会指導で
「抗糧抗捐活動」が実施
9月7日
四川都督
「趙爾豊」
は保路同志会の指導者を拘束
鉄道会社と同志会を弾圧
激昂した民衆が
総督衙門で請願行動を起こすと
「趙爾豊」
は清兵に発砲を命令
請願行動中の市民30名が射殺
(成都血案)
9月8日
成都近郊の農民は
同盟会
会党組織である
哥老會の指導の下に
保路同志軍を組織して
武装蜂起、省城を包囲し、清兵との交戦
9月25日
同盟会会員
「呉玉章
王天傑」
等は栄県の独立を指導
清朝は端方に
湖北新軍の一部を指揮させて
四川での革命運動の鎮圧を命じた
↓↑
「蔣翊武
孫武」
湖北新軍は
「張之洞」
による訓練された
「鄂軍」であり
中級軍官以下多くの人材が官費で
日本に留学
革命党の影響力
共進会
文学社
の影響を強く受けた
保路運動が民衆蜂起に変化した後
命令を受けた
「端方」
は湖北新軍を率いて
四川鎮圧に向かったが
それにより
武漢の清朝勢力が弱まったことを
好機と捉えた
革命党人士は
革命蜂起の絶好の機会と捉えた
↓↑
1911年9月24日
文学社
共進会は
武昌で
双方の責任者と
新軍代表60余名で会議を開催
武装蜂起の
統一指揮部(起義総指揮部)を組織
文学社の
「蔣翊武」
が総指揮に
共進会の
「孫武」
が参謀長に
共進会の
「劉公」
が政治準備局総理に選出
起義総指揮部は
武昌小朝街85号文学社機関に
準備局は
漢口
ロシア租界
宝善里14号に設置
1911年10月6日(旧暦8月15日)
武装蜂起が確認
準備不足により
10月16日に延期
↓↑
10月9日
「孫武」
はロシア租界で
爆弾を製造している際に爆発事故発生
負傷
ロシア当局の調査を逃れるために逃亡
武装蜂起の文書や旗などが押収され
秘密工場の隣に居住していた
「劉公」自宅より
「劉公」の弟である
「劉同」が連行
湖広総督の
「瑞澂」・・・澂=すます=澄=瀓
がこの事件の発生を知るや
全市に警戒命令を発し
革命党関係者の逮捕に当った
文学社の
「蔣翊武」
は清朝当局の動きを知り
予定を早めて武装蜂起を決定
各方面に文書を送付
9日夜
「彭楚藩
劉復基」
が起義総指揮部で逮捕
「楊宏勝」
が弾薬輸送中に逮捕
10月10日
深夜に3名は斬首
↓↑
新軍工程営後隊正目(班長)の
「熊秉坤」・・・熊の秉の坤
等は予定を早めて蜂起を決定
隊官の
「呉兆麟」
を決起軍臨時総指揮
「熊秉坤」
を参謀長とすることを決定
1911年10月10日20時
「程正瀛」・・・程の正の瀛(エイ)
による武昌起義は発動
決起兵士は
軍の武器庫を襲撃
文学社
共進会
の影響を受けた大部分の兵士が呼応
「呉兆麟
熊秉坤」・・・熊を秉(とる)坤(未申・コン)
は決起部隊を指揮し総督府を攻撃
南湖砲隊の砲撃の下
夜明け前には
総督衙門を占拠
湖広総督
「瑞澂」
は逃亡
↓↑
10月11日未明
決起軍
湖北省諮議局大楼會議室に集結
新軍八鎮十五協二十九標二営司務長の
「蔡済民」・・・蔡の済の民
により会議が招集
軍政府の組織と都督人選が議論
革命党の
「呉醒漢
徐達明」
等10数名以外
湖北諮議局議長
「湯化竜」
副議長
「張国溶」
及び議員
旧軍官
「呉兆麟」
が参加
会議は
「湯化竜」
が議長となり進行
「呉兆麟」
により第21混成協統領
「黎元洪」
を都督とすることが提案
立憲派により承認
革命党勢力は
「黄興
宋教仁」
は武昌におらず
「彭楚藩
劉復基
楊宏勝」
は被害を受け
「孫武」
は爆発事故で負傷
「蔣翊武」
は逃亡中であった
「黎元洪」・・・黎(くろ・黎明)の元の洪(洪水)
を都督
「湯化竜」
を民政総長(一説には総参謀)
に選出決定
↓↑
10月11日
中華民国
湖北軍
政府成立
11日午前
武昌全域が決起軍の支配下
夜には謀略処が設置
謀略処により
中華民国軍政府鄂軍都督府
(中華民国湖北軍政府)
の成立が宣言
同時に軍政府の檄文と
『安民布告』が発表
国号を
「中華民国」
と改め
清朝年号の「宣統」を廃止
黄帝紀元の採用を発表
「宣統3年」を
「黄帝紀元4609年」とした
軍政府は
参謀部、軍務部、政事部、外交部を設置
諮議局大楼を事務所とし
十八星旗を軍旗とした
謀略処は軍政府名義により
『布告全国電』
や
『通告各省文』
などの電信を全国に発信
↓↑
10月12日
革命党人である
第二十一混成協第四十二標士兵
「胡玉珍
邱文彬
趙承武」
等は漢陽で武装蜂起を決行、支配下に置く
「趙承武」
は漢口を攻略
武漢三鎮は革命勢力下に置かれた
↓↑
武昌起義後の
各省の呼応
清は北洋軍を派遣し
武漢三鎮江北漢口
漢陽を攻撃
以前罷免されていた
北洋軍の
「袁世凱」・・・凱=豈+几・・・凱歌・凱旋
が再び召還され
北洋軍内部の人心動揺を抑えた
革命軍は
陽夏防衛戦を展開したが
北洋軍に敗北
11月27日
江南武昌に撤退
47日間の作戦の中で
1万人強の死傷者
武昌防衛堅持
中国14省が
清朝からの独立を宣言
内地十八省中で清朝の統治が及ぶのは
甘粛
河南
山東(途中で独立取消)
直隷
のみとなり
独立した各省では
一部が革命党の主導を受け
大部分は諮議局メンバーによって
政治運営が行われた
清朝は
直隷、河南、山東、甘粛
と清朝の本拠地
満洲の
東三省(奉天、吉林、黒竜江)
を掌握していたほか
内モンゴル王公たちも
清朝支持を表明
北方では勢力を保持
↓↑
10月22日
湖南共進会の
「焦達峰・・・焦(あせる)達の峰
陳作新」・・陳の作の新
は会党及び新軍で組織した部隊を率いて
長沙で武装蜂起決行
湖南巡撫
「余格誠」・・・余(あまり)の格の誠(まこと)
を敗走させ
巡防営統領
「黄忠浩」・・・黄の忠告?
を斬首
決起軍は
中華民国
湖南軍政府の成立を宣言
「焦達峰」を都督
「陳作新」を副都督
とし
『討満清檄文』を発表
↓↑
10月22日同日
陝西同盟会の
「井勿幕・・・井の勿の幕
銭鼎
景定成」・・景の定を成
は陝西袍哥会と連絡し
会党と新軍の革命メンバーが協力し
武装蜂起
2日間の戦闘の後に西安を制圧
護理巡撫
「銭能訓」
・・・銭(セン・ぜに)=金+戔
を
能(よく)
訓(よむ)
は逃亡
西安将軍
「文瑞」・・・文の瑞
は自殺
決起軍により
秦隴復漢軍政府の成立が宣言
日知会の旧会員であり
新軍隊官の
「張鳳翽」
が都督に選出
↓↑
10月23日
江西同盟会の
「林森
蔣群
蔡蕙」
等は
九江の新軍での武装蜂起実行、独立宣言
翌日には
九江軍政分府が成立
第二十七混成協第五十三標標統の
「馬毓宝」
・・・毓(はぐくむ)
=毎+㐬(云+川(爪)?)
トツ
リュウ
子が生まれる
突出する=突
はたあし=旒
が九江軍政分府都督に選出
↓↑
10月29日
山西同盟会会員
新軍標統の閻錫山は
「姚以階
黄国梁
温寿泉
趙戴文
南桂馨
喬熙」
等の人と協力し、新軍により
太原起義を発動
山西巡撫
「陸鍾琦」
を殺害して
山西軍政府の成立を宣言
「閻錫山」
を都督に選出
12月12日
「曹錕」
による反撃により太原から撤退
↓↑
10月29日
直隷では灤州兵諫が発生
新軍第二十鎮統制
「張紹曽」
と第三十九協協統
「伍祥禎」
四十協協統
「潘矩楹」
第二混成協協統
「藍天蔚」
第三鎮第五協協統
「盧永祥」
等が協力し
直隷灤州より清朝政府に対し
最後通牒要求12条を提出し
年内の
国会開設
憲法草案の起草
責任内閣制の採用
と
皇族の
国務大臣就任の制限を求めている
↓↑
10月30日
雲南同盟会
「李根源」
は新軍標統
「蔡鍔
羅佩金
唐継尭」
等と協力し新軍による
重九起義を発動
翌日には
昆明を占拠して雲南軍政府が成立
雲貴総督
「李経羲」
を送還し
「蔡鍔」
を都督に選出
↓↑
10月31日
南昌同盟会の
「蔡公時」
は新軍による武装蜂起を実行
江西軍政府が成立し
「李烈鈞」
を都督に選出
↓↑
11月3日(旧暦九月十三日)
上海同盟会、光復会、上海商団の
「陳其美
張承槱
李平書
李英石
李燮和」・・・燮=やわらげる・整える・調和する
=爕・㸉・夑
等は上海で武装蜂起を決行
「張承槱
劉福標」
等が組織した
「青幇洪幇」
による決死隊
「李平書
李英石」
による上海商団の武装集団
「李燮和」
と連絡を取った呉淞地区で
蜂起した軍・警察蜂起部隊の
「朱家驊
徐霽生」・・・霽=雨+齊=はれる・空が晴れる
等により組織され
中国敬死団がその中心となった
4日
江南制造局を占拠
上海光復が実現
8日
中華民国
軍政府
滬軍
都督府が成立
「陳其美」・・・陳(陳列)其の美
を都督に選出
↓↑
11月4日(旧暦九月十四日)
貴州革命党の
「張百麟」
を中心として
新軍及び陸軍学堂学生により
武装蜂起が実行され
貴陽を占拠
大漢貴州軍政府が成立
貴州新軍第一標教官
兼
講武堂堂長
陸軍小学堂総弁の
「楊藎誠」
を都督、趙徳全を副都督に選出
↓↑
深夜より未明
杭州に駐在する
新軍第二十一鎮
第八十一標標統代理
「朱瑞(浙江光復会会員)」
隷下部隊の軍官
「呂公望(同盟会会員)」
同盟会会員の
新軍第八十二標
「周承菼」
および
隷下部隊の軍官
「呉思豫
蔣百里
蔣百器
楊廷棟
呉肇基」
光復会の
「王文慶」
上海より
漁民120名からなる
決死隊
(長 蔣介石、同盟会)
を率いて武装蜂起を決行、杭州を攻撃
陸軍警察(憲兵)執事官の
「童保暄(浙江光復会会員)」
は城站に臨時総司令部を設置
「童保暄」・・・童(わらべ)保暄(喧嘩)
が臨時総司令官
「葛政恩・・・葛(つる)政(まつり)の恩(おん)
黄雲秀」
が参謀
「朱瑞」
に指揮された
第八十一標第一、二営は
旗営を包囲
第三営(兪煒)
決死隊第4隊(長 王金発・光復会)は
保国寺軍機局と附属陸軍小学を
砲兵営は隍山を占領
「葛敬恩」
の指揮する騎兵連は総司令部の掩護を担当
「顧乃斌」・・・顧=雇+頁+乃+文+武
率いる第八十二標第三営
と決死隊主力(張伯岐 率いる第1、2隊
董夢蛟 率いる第3隊)
「尹鋭志(光復会、女性)」・・・尹(イン)
等は撫台衙門を
第5隊は旗城門下を占拠
「楊廷棟」
が兵を率いて巡撫府を包囲
巡撫
「増韞」
を捕虜
5日午後
代表署理として杭州将軍
「德済」
が軍政府に投降
革命勢力は杭州を支配
浙江革命軍を名乗り
「周承菼」
が総司令に就任
都督には
「童保暄」
を立てる予定であったが
最終的に立憲派
浙江諮議局議長の
「湯寿潜」
を都督に選出
↓↑
11月5日
江蘇省の
立憲派
紳商
は江蘇巡撫
「程徳全」
に対し蘇州の独立宣言を要求
江蘇革命軍政府が成立
「程德全」
が都督に就任
↓↑
安徽同盟会の
「呉暘谷」
等は標炮営を指揮し武装蜂起、省城安慶を攻撃
立憲派勢力は
安徽巡撫
「朱家宝」
に対し独立を勧告
11月8日
安徽諮議局は独立を宣言
「朱家宝」
を都督に
「王天培」・・・王の天の培(つちかう)
を副都督に選出
↓↑
11月6日
広西諮議局在は省城の桂林で
清朝からの離脱独立を決定
広西の独立を宣言
当初
清朝巡撫
「沈秉堃」
が都督とされたが
数日後に
清軍提督
「陸栄廷」
が政変により都督に就任
↓↑
11月9日
福建同盟会の
「鄭祖蔭
彭寿松
許崇智」
陸軍第十鎮統制の
「孫道仁」
等により福州で武装蜂起
清朝総督
「松寿」
は自殺
ー----
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の
移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/11
↓↑
干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
↓↑
現在の「ボクのHP」は「モウ君の総合目次」として
モウ君の総合目次 (bake-neko.net)
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm
↓↑
追加添文
「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB
セイメイの変・・・
清明=セイメイ・・・清(シン)と明(ミン)の王朝のヘン?
=声明・姓名・生命・声名・聖名・正明
狛犬・・・狛猫?
愛新覚羅・・・心外であるカナ・・・別部=ベップ=捌分
アイを阿多らしく覚える
羅(うすもの・あみ・ラ)
あみ・鳥あみ・鳥をとる網
あみする・網にかけて捕らえる
残らずつかみとる
つらねる・つらなる・並ぶ
薄い絹・うすもの
新羅
加羅
阿部羅(あべら)
甲羅
雀羅(じゃくら)
綺羅星(きらぼし)
阿修羅
羅刹(らせつ)
阿羅漢(あらかん)
羅漢柏(あすなろ)
紫羅欄花(あらせいとう)
沙羅双樹の花の色
森羅万象
羅馬尼亜(ルーマニア)
↓↑
辛 亥 革 命
(シン ガイ カク メイ)
1911年・・・1+9+1+1=10+11=1+0+1+1=3
1×9×1×1=9
干支 辛亥
宣統三年
(清 宣統2年12月1日
~
宣統3年11月12日)
(日本 明治四十四年
(皇紀2571年)
~
1912年
干支 壬子
(清 宣統3年11月13日
~
12月25日
グレゴリオ暦2月12日)
(中華民国元年 グレゴリオ暦2月12日)
(日本 明治四十五年1月1日~7月30日)
(皇紀2572年)
↓↑
11月某日
フリードリヒ・ニーチェ
「ツアラツウストラ」
(ツァラトゥストラはかく語りき)
2月21日
日米通商航海条約が調印
日本関税自主権回復(小村寿太郎)
3月29日
コルトM1911
アメリカ軍に制式採用
↓↑
4月22日
清華学堂(清華大学)設立
↓↑
5月9日
清が幹線鉄道国有化令を発布する
↓↑
6月15日
ニューヨーク州で
C-T-R(IBM)創業
↓↑
7月1日
ドイツ帝国軍艦が
モロッコのアガディール港に寄港
フランスを威嚇する
(アガディール事件)
7月13日
第3次
日英同盟協約締結
7月24日
イェール大学
歴史家ハイラム・ビンガム3世
マチュ・ピチュ遺跡を発見
↓↑
8月18日
イギリスで議会法が制定
下院の優越が法制化
8月21日
イタリア人
ビンセンツォ・ペルージャ
が
ルーブル美術館の
「モナリザ」を盗む
↓↑
9月14日
ロシア帝国首相
ストルイピンが狙撃される
9月29日
北アフリカ
オスマン帝国領をめぐって
イタリア王国が
オスマン帝国に宣戦布告
(イタリア・トルコ戦争)
↓↑
10月10日
・・・拾月拾(ひろう)日
足月足(たら・たり・たる・たれ・たろ)日
清
武昌新軍が蜂起
辛亥革命開始
↓↑
11月4日
モロッコに関し
独仏協定締結
モロッコではフランスの権益が認められ
ドイツが仏領コンゴの一部を獲得
11月30日
外モンゴル(モンゴル国)
清から独立宣言
11月某日
メキシコ革命・・・墨西哥=MEXICO
農民派の
サパタ
蜂起
11月某日
フランス映画『ジゴマ』日本公開
字語眞?
↓↑
12月14日
ロアール・アムンセン・・・賂蛙亜留・編務選?
南極点到達・・・・・・・・難局・難曲
↓↑
日付不詳
ヘイケ・カメルリング・オネス
超伝導現象発見
↓↑
1911年10月10日
清
武昌 新軍が蜂起
辛亥革命 開始
共和革命・・・・協和?
10月
「孫文」
の影響を受けた革命軍が
武昌と漢陽を武力制圧
「黎元洪」
を都督として
中華民国軍政府が成立宣言
清国は革命軍制圧に失敗
15省が次々と独立を宣言
↓↑
1911年12月29日
上海で
「孫文」
中華民国
大総統に選出
1912年2月12日
清最後の皇帝
「溥儀」・・・溥儀=フギ=不義・付議・附議・伏木?
退位
清国滅亡
アジアで史上初の
独立
共和制国家
中華民国
誕生
勃発日
10月10日
に因んで
「双十革命」・・・双十革命=双足革命=双拾革命
とも称す
辛亥革命は
第一革命とされ
「袁世凱」
に鎮圧された
第二革命
護国戦争が
第三革命
・・・三革命=サン書く名・・・?
↓↑
スローガン
「駆除韃虜
恢復中華
創立民国
平均地権
(打倒清朝
回復中華
樹立民国
地権平等)」・・・地権平等
・・・知権別府(びょう?)同?
別府(ベップ・ベフ・びゅう・びょう)
別府 (吉富町) - 福岡県築上郡吉富町の地名
「びょう」と読む
別府 (宇佐市) - 大分県宇佐市の地名
「びゅう」と読む
別府(錦 町)- 熊本県球磨郡錦町
「びゅう」と読む
上別府=うえんびゅう
かみべっぷ
かんびゅう
びにう・びふ・びぶ
びゅう・びゆう
地名はビュウ(別府)
鹿児島県 いちき串木野市
荒川の小字の
別府から発祥
福岡市 別府(べふ)
糟屋郡
志免町別府(べふ)
遠賀町 別府(べふ)
築上町 別府(べふ)
吉富町 別府(びょう)
宇佐市 別府(びゅう)
↓↑
別府=神社の領地・収穫米の収蔵地
別府=ベップ=別部=捌附
別府=ビョウ=廟・苗=艹+田
描=扌(手)+艹+田
猫=ねこ・根子
秒=禾+少
眇=目+少
鋲=金+兵
錨=金+苗
病=疒+丙
屛=尸+并・・・屏風
渺=氵+眇
氵+目+少
氵+目+小+丿
ビョウ
はるか・果てしなく広がるさま
かすか・きわめて小さくはっきりと見えないさま
α+眇
眇緲篎
渺(かすか)
渺(はるか)
渺渺(ビョウビョウ)
渺茫(ビョウボウ)
↓↑
雲烟縹渺(ウンヱンヒョウビョウ)
非常に遠くまで
薄く長く伸びている雲や霞の様子
雲烟=雲と霞=雲煙
縹渺=遠くにかすかに見えること=縹緲・縹眇
↓↑
烟波縹渺(エンパヒョウビョウ)
水面がもやなどでぼやけてい
空と水面の境界がよくわからない風景
縹渺=ぼやけて、はっきりと区別できない様子
↓↑
往事渺茫(オウジビョウボウ)
昔のことは
遠くかすんではっきりとしない
往事=過ぎ去った過去のこと
渺茫=はるか遠い様子
広くて果てしない様子
↓↑
虚有縹渺(キョウヒョウビョウ)
ぼうっとしていて
はっきりとしない様子
虚有=実質的な内容が存在しないこと
↓↑
虚無縹渺(キョムヒョウビョウ)
何もなく
どこまでも広がっている風景
「虚無縹緲・虚無縹眇」
↓↑
神韻縹渺(シンインヒョウビョウ)
芸術作品にある
表現できないほどのすぐれた趣
神韻=神業
↓↑
別府=びゅう・・・WHY びゅう?
=謬・繆・・・誤謬
繆(あやまる)
繆(いつわる)
繆(たがう)
繆(まつわる)
繆(もとる)
乖繆(カイビュウ)=食い違う・そむきたがう
悖繆・悖謬(ハイビュウ)=言動が
正しい道理から外れていること
↓↑
辛 亥 革 命
↓↑
三民主義
救国主義(孫文)
対外的な
中国の国際的地位の平等
内的には
国民の政治的平等と経済的平等
当初
民族主義は
清朝専制支配の
打倒と
統一的独立国家の建設
辛亥革命後
五族共和を
「民権主義」は
君主制に代えて
人民主権の
共和制国家の
樹立と
五権分立
(立法権・司法権・行政権・考選権・糾察権)
「民生主義」は
同盟会の時期には
土地所有の集中と
地主の利益独占を防ぐための
〈地権平均〉
による土地問題の解決
辛亥革命後
大資本家の企業利益独占防止
〈資本節制〉による社会問題の解決
当時の中国では
最も急進的な
ブルジョア民主主義革命の綱領
民生主義における
地権平均も
地価の上昇分を
地主から
国家に吸収するにとどまり
地主の土地所有権を保存
人民大衆を
革命に
立ち上がらせるにはいたらなかった・・・
↓↑
民生主義
1896~97年
ヨーロッパ亡命中の
「孫文」
が資本主義の弊害
富の分配の不公平に基づく
社会問題の発生を見て
中国でも起こるであろう
社会問題を
未然に防止するために構想
1905年(光緒31)
中国同盟会の結成
「民族・民権・民生」の
三大主義を発表
「H.ジョージ」
の土地単税論の影響を受けた
〈地権平均〉
土地の申告価格に基づいて課税し
地価上昇分を国家に納め
国民全体に還元
を
「民生主義」
の最も重要な要とした
革命後の12年
〈地権平均〉
〈資本節制〉
が主要な内容とし
24年
国民党第1回全国代表大会宣言で
労働者農民
への援助の方針が追加
耕す者に田の主張が掲げられ
地主制廃止の方向が示された
↓↑
辛亥革命
広義では
清末期からの一連の革命運動から
中華民国成立まで
比較的長期間の政治的運動
「袁世凱」
を中心とする
北洋軍閥により撤回され
地権平等も実現しなかった
↓↑
「康有為」
1840年(道光20年)
アヘン戦争
清は欧米列強と外交で対峙
一部官僚と知識人により
1860年代~1890年代
「洋務運動」
が発生
欧米の知識を導入し
殖産興業
富国強兵
を目指す政治活動が提唱
北宋より続いてきた
文官偏重の
伝統的な政治体制の改革は限定的で
1894年(光緒20年)・・・弐拾年・念撚・念粘
日清戦争
で日本に敗れ
洋務運動の限界が露呈
↓↑
「康有為」
を中心とする改革派は
明治維新をモデルとして
立憲君主制を維持しながら
政治・社会制度に
大幅な改革を求める内容の上奏
1895年(光緒21年)
光緒帝
の支持を獲得し
1898年(光緒25年)
「戊戌変法」
が実行
改革は保守派の反発を招き
改革は
103日で失敗
改革派は海外亡命
↓↑
1900年(光緒26年)
「義和団の乱」
進駐した八カ国連合軍
(オーストリア=ハンガリー帝国
フランス、ドイツ国、イタリア王国
大日本帝国
ロシア帝国、イギリスとアメリカ)
によって北京を占領
保守派の間にも
改革の必要性が認識
「戊戌変法」
と同様の改革案が提出・実行
1906年(光緒31年)9月1日
憲政移行の方針を定めた
『欽定憲法大綱』を発表
1910年(宣統2年)
中国初の議会として
中央に
資政院
新疆省を除く各省に
諮議局
を発足させ
1911年(宣統3年)5月
内閣が設置
内閣成員の半数が
満洲人
内皇族が5名の
皇族内閣で
憲政移行失望・・・
↓↑
新軍編成
清末期
八旗
及び
漢人緑営
を主体とする
清中央軍は実質的な戦力を喪失
「太平天国」鎮圧で
各地方の兵力に依拠し
日清戦争では
旧式軍隊の落伍が顕在化
1901年(光緒27年)
陸軍の全面改革を実施
全国に
新式陸軍36鎮を設置
その内
6鎮を朝廷直属
他は
各地方巡撫・総督の管轄
幹部養成に各地に
軍学堂
が設置
一部地域では
留学生を軍官に積極的に採用
↓↑
反清思潮
清末の政治的閉塞感から
漢人の間に
反満意識が形成
太平天国で
満洲人排除
が政治主張
1890年代
明末の著作に刺激を受け
満洲人排除が発生
清朝打倒の
革命運動家は
反清
復明思想
を利用し
「鄒容」
による
『革命軍』著作が生まれ知識人に拡大
「孫文」
などの革命勢力は
満洲人を満洲に追い出し
漢人の明王朝が支配していた
黄河・長江流域
その周辺地域に
漢人の国家建設を目指した
辛亥革命後
革命スローガンは
「打倒韃虜」
から独立の動きを見せた
チベット、モンゴル
などの少数民族を
漢族の支配下に置こうと
「五族共和」
を唱え始めた
↓↑
辛亥革命
興中会(華南地区)
華興会(湖南地区)
光復会(蘇浙滬地区)
後に成立した
中国同盟会
により実行
他に
共進会(長江流域)
文学社
同盟会中の
丈夫団
などが革命に関与
中国同盟会は
全国革命組織
が緩やかに団結した連合体であり
同盟会会員は
各地に様々な
外郭組織を構築
↓↑
指導者
孫文
黄興
宋教仁
蔡元培
趙声
章炳麟
陶成章
など・・・
・・・これらの漢字の名前、姓名の意味・・・ヘン?
↓↑
革命の主要な政治主張
清打倒
共和制政体
の確立
1894年11月24日
興中会は
「満洲駆逐
中華回復
衆議政治の確立」
を活動骨子
1904年2月15日
華興会
「満洲駆逐
中華回復」
を政治主張
1905年8月20日
中国同盟会
「満洲駆逐
中華回復
民国建国
地権平等」
を綱領に定め
「民族主義
民権主義
民生主義」
が唱えられた
↓↑
1890年代
武力革命によって
清を打倒し
フランスやアメリカのような
共和制を確立していこうと唱えた
初期の革命思想
海外に居住する
留学生
華僑青年
による
革命団体もまた海外で組織化
1890年
「楊衢雲」
を中心とする
輔仁文社が香港で成立
1894年11月24日
「孫文」
サンフランシスコで
興中会
を結成、革命に必要な軍資金の調達を開始
両者は
1895年1月
に香港で合併
興中会の名称で活動を継続
10月26日
広州で初めての武装蜂起
「広州起義」を起こして失敗
香港へ入国禁止された
「孫文」
はロンドンに活動拠点を移動
翌年には清による
「孫文誘拐事件」が発生
国際的に報道されて
「孫文」
の名が広く知れ渡った
↓↑
1900年
「義和団の乱」
1901年
「北京議定書」
により列強の中国進出
清国知識人の間に危機感
日清戦争以降
日本への留学生は
1904年には
2万人を越えた
留学生の多くが
官費留学生だったが
革命思想が浸透し
留学生による各種団体が設立
民主革命の必要性が広く訴えられた
留学の革命参加者
章炳麟
鄒容
陳天華
などがおり
彼らは後に国内革命組織の根幹を構成
1904年
日露戦争が勃発
清朝は中立を宣言
主戦場は
清国満洲地区
外国軍隊が
自国領土内で戦闘を行う事態に
救国の声が高まり
「黄興」
が指導する華興会
「陶成章」
「蔡元培」
が指導する光復会
江蘇の
励志学会
強国会
四川の
公強会
福建の
益聞会
漢族独立会
江西の
易知社
安徽の
岳王会
広州の
群智社
等、各種革命団体が設立され
相互に提携することは少なく
地方色の強い個別運動だったが
清打倒
漢族の共和制
による政権樹立を共通の目的としていた
漢族による
18省での政権樹立を目指し
東北三省
新疆
チベット
内モンゴル
は当初活動範囲から除外されていた
革命活動は
反清を掲げる地下組織と提携
華興会(湖南地区)は哥老会
光復会(蘇浙滬地区)は青幇
興中会(華南地区)は三合会
と密接な関係を構築
↓↑
1905年夏
「孫文」
は日本で
興中会
華興会
光復会
等の各団体を団結させることに成功
8月20日
東京で
中国同盟会が組織化
「駆除韃虜
恢復中華
創立民国
平均地権」
を定めた綱領が
『民報』
(旧名は華興会機関紙の
『二十世紀之支那』
同盟会成立後に改称)
上に発表
同盟会は
大衆への啓蒙を通じて
革命運動を大衆運動へと拡大
『民報』は
「章炳麟」
「陶成章」
らが主筆となり
「胡漢民」
「汪兆銘」
が執筆
「康有為」
「梁啓超」
が主編した
保皇派機関紙
『新民叢報』
と論戦
↓↑
他の革命団体
↓↑
共進会
1907年7月
同盟会の一部より
長江流域での
革命発動を行うべきと主張する
「劉揆一
焦達峰
張伯祥
孫武」
などが東京にて組織化
同盟会と共に
武昌起義を指導
↓↑
日知会
1906年2月
「劉静庵」
を代表成立
「孫武
張難先
何季達
馮牧民」
など百名以上が参加
後に
同盟会
湖北分会機関となった
↓↑
南社
1906年
江南地区
「陳去病」・・・陳=陳列の
去=除去・・・帰去来?
病=やまい
等により
黄社、神交社、匡社
等の文学団体が設立
1909年
南社が誕生
文学作品を通した新思想の啓蒙
↓↑
文学社
1911年1月30日
振武学社は
文学社と改名
「蔣翊武」
を社長
「詹大悲」
・・・詹=厃+儿+言
⺈+厂+儿+言
セン
よく喋る・口数が多い
つまらないことをしつこく言う
みる・一点をみる
足す・足りる
「詹諸(センショ)」
月にいるヒキガエル(蟾蜍・蟇蛙)
引き換える
月自体
譫(うわごと)=言+詹
譫(たわごと)
譫妄(センモウ)
幻覚などを伴う軽度の意識障害
アルコール中毒や
高熱、認知症などで起こる
譫言・囈言(うわごと)
大=一+人
悲=非+心
を文書部長
「劉復基」・・・劉+復+基
を評議部長に選出
新軍内部の
青年軍人組織
革命思想の新軍内部への
浸透と武器調達を担当
武昌起義で指導的な役割を果たした
↓↑
1900年代
清国では日本留学熱で
辛亥革命直前には
数万人が日本留学
1905年
中国同盟会が東京で成立
日本で軍事教育を受けていた
同盟会会員による
丈夫団
も結成
日本留学生の指導者
「孫文
黄興
宋教仁
胡漢民
廖仲愷
・・・廖=广+翏
广+羽+㐱
广+羽+人+彡
リョウ
むなしい
がらんとして
うつろ(虚ろ・空ろ)
廖(むな)しい=虚しい
朱執信
汪精衛(汪兆銘)」
等
↓↑
清末期
各地で
洪門(天地会)五房の
長房青蓮堂
二房洪順堂
三房家后堂
四房参太堂
五房宏化堂
四川発祥の
哥老会
などの秘密結社が結成
反清活動を展開
↓↑
哥老会
は
華興会
↓↑
青幇は
光復会
↓↑
三合会は
興中会
とそれぞれ親密な関係を構築
「孫文」
もかつては
広東省由来の
洪門二房洪順堂会派の
致公堂の会員で
清打倒
↓↑
海外華僑
辛亥革命
の重要な役割
海外華僑は
それぞれの居住地で
同盟会に対する
資金援助を行うと同時に
帰国後出身地で
革命団体を組織化
多くの武装蜂起に参加
1894年11月
「孫文」
がサンフランシスコで
興中会を結成し
20数名の華僑が参加
黄花崗72烈士
でも海外華僑が29名
↓↑
新軍兵士
1908年以降
革命運動は
群集運動から
新軍内の同調者獲得に重点が移り
革命人士は新軍内で秘密裡に
革命思想の普及
科挙制度の廃止により
多くの青年知識人が
新軍に加盟
文学社社長の
「蔣翊武」
「劉復基
詹大悲
王憲章
張廷輔
蔡大輔
王文錦」
などが新軍内部のメンバー
↓↑
1907年9月~10月
清朝は
資政院
諮議局
を設置
士紳及び商紳への参政の機会を提供
1909年
新疆省を除く各省に
諮議局が設置され
士紳、商紳が選挙により
諮議局に選出
各省の
諮議局による
間接選挙で
資政院の民選議員(98議席)が選出
士紳、商紳は
本来は立憲派であったが
その後発足した内閣が
朝廷主導であったことに
失望、武昌起義以降
立憲派も
辛亥革命に参加
↓↑
外国人
辛亥革命を支持する日本人
「梅屋庄吉」・・・梅の屋の庄の吉
などの支援が顕著で
多くの革命団体が
日本で組織・運営され
「北一輝」
を初めとする日本人も同盟会に参加
武装蜂起に
参加した日本人にも多くの死亡者
↓↑
1895年~1911年
興中会
同盟会
により
合計10回の武装蜂起が実行
失敗したが
革命思想を中国に普及
↓↑
第一次
広州起義
1895年春
香港を中心とする興中会は
第一次
広州起義を計画
「陸皓東」・・・陸=阝+坴
皓=白+告
東=比企詞・寅卯辰
により革命旗
「青天 白日旗」・・・白の日の旗
がデザイン
10月26日
「孫文」
「楊衢雲」
・・・衢=行+瞿
彳+亍+䀠+隹
彳+一+丁+目+隹
彳+二+亅+目+隹
彳+一+亅+目+隹
ク
ちまた
みち
よつつじ
わかれみち
四方に通じる大通り・よつつじ
よこみち・えだ・わかれみち
は
「鄭士良
陸皓東」
を率いて武装蜂起による
広州占拠準備するが漏洩
「陸皓東」
逮捕され失命
香港当局は清朝の圧力により
両名に5年間の入国を禁止
「孫文」
の日本、アメリカ、ロンドン等への
海外亡命生活
各地で
革命宣伝
活動資金の募金
↓↑
恵州起義
1900年
「義和団の乱」
華北地方は無政府状態
6月
「孫文
鄭士良
陳少白
楊衢雲」
及び
「宮崎滔天
平山周
内田良平」
などが横浜から香港に到着
イギリス当局により入国を拒否
9月25日
「孫文」
は黒龍会の支援の下
馬関を経て台湾に移動
台湾総督府民政長官と会談
台湾総督府の
広州武装蜂起の支持を獲得
「孫文」
は台北市に武装蜂起司令部設置
10月8日
「鄭士良」
等に命じ
恵州三洲田(深圳三洲田)で
武装蜂起指示
(恵州起義
庚子革命・庚子首義
三洲田首義等)
決起軍2万人に拡大
台湾総督府官僚の態度が変化
補給と軍人の参加の
約定が覆され
革命軍は物資補給に困窮し解散
武装蜂起では
「史堅如」
「山田良政」
などが落命
「孫文」
は決起失敗後
日本当局により日本に移送
↓↑
1907年5月
革命党
三合会
の
「許雪秋
陳芸生
陳涌波
余紀成」
により武装蜂起決行
黄岡城(潮州饒平県)占拠
(黄岡起義)
「許雪秋・・・・
陳芸生」・・・
はシンガポール華僑で
シンガポールで同盟会に参加
黄岡起義後
清朝は
潮州総兵
「黄金福」・・・黄金の福
を派遣して武装蜂起を鎮圧
革命党員200名が殺害
6日間で
「黄岡起義」失敗
↓↑
第2回恵州起義
1907年
黄岡起義に呼応すべく
「孫文」
は恵州に人員を派遣して武装蜂起を指示
6月2日
「鄧子瑜
陳純」
等少数の三合会は
恵州から20里ほど離れた
七女湖
で清軍の武器を強奪
5日
泰尾に侵攻し清軍守備兵を撃退
楊村、三達、柏塘
等で清軍を撃破
帰善、博羅、龍門各地の会党も
武装蜂起に呼応
革命軍は200余名の規模
清 水師提督
「李准」
は革命軍鎮圧に出動
黄岡起義が失敗し
革命軍への支持喪失
梁化墟にて革命軍は解散
一部香港
大部分は
羅浮へ逃亡
↓↑
安徽起義
1907年7月6日
光復会の
「徐錫麟」
は安徽省安慶で武装蜂起
「徐錫麟」
は
安徽巡警処会弁
兼
巡警学堂
監督
を務めており
学校卒業式の当日
巡撫恩銘を視察した後に
学生を率いて革命軍を組織し
戦闘が開始
4時間の激戦の末に革命軍は崩壊
「徐錫麟」
捕えられ処刑
↓↑
欽州起義
1907年8月
広東省欽州
(広西の那彭、那麗、那矺三郷)
で民衆反乱
「孫文」
は会党指導者
「王和順」・・・王の和への
順(したがう・随う・遵う)
を
「中華国民軍都督」として連絡役とし
9月には欽州の占拠を計画したが失敗
「王和順」
はベトナムに帰還
↓↑
鎮南関起義
1907年12月2日
黄明堂は
「孫文」
の指導を受け入れ
「鎮南関都督」の名目で
中越国境の鎮南席砲台を攻撃
「孫文
黄興
胡漢民」・・・胡(えびす)漢(よこしま)民(たみ)
なども自ら砲台攻撃作成に参加
広西提督調
「陸栄廷」
は4000の軍勢により革命軍を包囲
鎮南関起義失敗以降
清朝は
「孫文」等に対する捜索を
安南に拡大し
「孫文」
はシンガポールに移動
武昌起義成功まで
中国に足を踏み入れることはなかった
↓↑
欽州、廉州起義
1908年2月
「黄興」
はベトナムを本拠地に
200名の勢力により
広東欽州
廉州
で計画
14日
作戦
↓↑
河口起義
1908年4月
雲南省河口での武力蜂起計画
4月30日
「黄明堂」
がベトナムより雲南河口に侵攻
「黄興」
も指揮に参加
5月26日
清軍により河口が陥落
参加者はベトナムに撤退
↓↑
庚戌新軍起義
1910年2月12日
「黄興
胡漢民」
及び新軍内の
「倪映典」
は広州警察と新軍との衝突に乗じ
広州新軍を組織し武装蜂起
戦死者100余名
逮捕者100余名
を出し
100名以上の参加者が香港に撤退
武装蜂起失敗
↓↑
黄花崗起義(第二次広州起義)
1910年11月13日
「孫文」
はマレー半島のペナンに
「趙声
黄興
胡漢民
鄧沢如」
等を召集
同盟会の行動方針決定の会議を招集
地方での武装蜂起全て失敗
広州での武装蜂起で
清軍との全面対決方針を決定
↓↑
1911年4月
「趙声
黄興」
等は広州で武装蜂起を指揮
清軍の間で市街戦展開
革命軍は崩壊
武装蜂起失敗
↓↑
マレー半島での
革命活動
1911年12月16日
「孫文」
と軍事顧問であった
「荷馬李」
・・・荷の馬の李(木ノ子・すもも・守桃)?
は陳金鐘大廈に滞在
革命活動は
当時
マレー半島は中国本土以外で
華人人口が最も密集し経済的にも発展
「孫文」
は数度にわたりマレー半島を訪問し
現地の華人に対し革命への参加を呼びかけ
多くの華人から支持
↓↑
武昌起義
1911年3月
武漢新軍内部に文学社が組織化
共進会は
陸軍第八鎮
第16協第32標
に集中して会員を集め
武昌起義の段階で
5,000名の兵士が
文学社及び共進会に加入
新兵総数の3分の1に達した
文学社と共進会は
新興知識層による革命組織であり
新軍兵士は革命の潜在力となるため
両者は新軍兵士を主要な工作対象とした
↓↑
1911年5月9日
清朝
鉄道の国有化政策実施
民間資本により建設された
粤漢線
川漢線
の買収を発表
国有化政策は
湘、鄂、川、粤の民衆の反発を招き
四川省が中心となり
保路運動が展開
↓↑
6月17日
四川民間各団体により
「四川保路同志会」結成
四川諮議局議長の
「蒲殿俊」
が会長に、副議長の
「羅綸」
が副会長に選出
8月5日
成都で川漢線鉄道会社の臨時株主総会開催
8月24日
市民によりゼネスト実施
9月1日
川漢鉄道会社の株主総会指導で
「抗糧抗捐活動」が実施
9月7日
四川都督
「趙爾豊」
は保路同志会の指導者を拘束
鉄道会社と同志会を弾圧
激昂した民衆が
総督衙門で請願行動を起こすと
「趙爾豊」
は清兵に発砲を命令
請願行動中の市民30名が射殺
(成都血案)
9月8日
成都近郊の農民は
同盟会
会党組織である
哥老會の指導の下に
保路同志軍を組織して
武装蜂起、省城を包囲し、清兵との交戦
9月25日
同盟会会員
「呉玉章
王天傑」
等は栄県の独立を指導
清朝は端方に
湖北新軍の一部を指揮させて
四川での革命運動の鎮圧を命じた
↓↑
「蔣翊武
孫武」
湖北新軍は
「張之洞」
による訓練された
「鄂軍」であり
中級軍官以下多くの人材が官費で
日本に留学
革命党の影響力
共進会
文学社
の影響を強く受けた
保路運動が民衆蜂起に変化した後
命令を受けた
「端方」
は湖北新軍を率いて
四川鎮圧に向かったが
それにより
武漢の清朝勢力が弱まったことを
好機と捉えた
革命党人士は
革命蜂起の絶好の機会と捉えた
↓↑
1911年9月24日
文学社
共進会は
武昌で
双方の責任者と
新軍代表60余名で会議を開催
武装蜂起の
統一指揮部(起義総指揮部)を組織
文学社の
「蔣翊武」
が総指揮に
共進会の
「孫武」
が参謀長に
共進会の
「劉公」
が政治準備局総理に選出
起義総指揮部は
武昌小朝街85号文学社機関に
準備局は
漢口
ロシア租界
宝善里14号に設置
1911年10月6日(旧暦8月15日)
武装蜂起が確認
準備不足により
10月16日に延期
↓↑
10月9日
「孫武」
はロシア租界で
爆弾を製造している際に爆発事故発生
負傷
ロシア当局の調査を逃れるために逃亡
武装蜂起の文書や旗などが押収され
秘密工場の隣に居住していた
「劉公」自宅より
「劉公」の弟である
「劉同」が連行
湖広総督の
「瑞澂」・・・澂=すます=澄=瀓
がこの事件の発生を知るや
全市に警戒命令を発し
革命党関係者の逮捕に当った
文学社の
「蔣翊武」
は清朝当局の動きを知り
予定を早めて武装蜂起を決定
各方面に文書を送付
9日夜
「彭楚藩
劉復基」
が起義総指揮部で逮捕
「楊宏勝」
が弾薬輸送中に逮捕
10月10日
深夜に3名は斬首
↓↑
新軍工程営後隊正目(班長)の
「熊秉坤」・・・熊の秉の坤
等は予定を早めて蜂起を決定
隊官の
「呉兆麟」
を決起軍臨時総指揮
「熊秉坤」
を参謀長とすることを決定
1911年10月10日20時
「程正瀛」・・・程の正の瀛(エイ)
による武昌起義は発動
決起兵士は
軍の武器庫を襲撃
文学社
共進会
の影響を受けた大部分の兵士が呼応
「呉兆麟
熊秉坤」・・・熊を秉(とる)坤(未申・コン)
は決起部隊を指揮し総督府を攻撃
南湖砲隊の砲撃の下
夜明け前には
総督衙門を占拠
湖広総督
「瑞澂」
は逃亡
↓↑
10月11日未明
決起軍
湖北省諮議局大楼會議室に集結
新軍八鎮十五協二十九標二営司務長の
「蔡済民」・・・蔡の済の民
により会議が招集
軍政府の組織と都督人選が議論
革命党の
「呉醒漢
徐達明」
等10数名以外
湖北諮議局議長
「湯化竜」
副議長
「張国溶」
及び議員
旧軍官
「呉兆麟」
が参加
会議は
「湯化竜」
が議長となり進行
「呉兆麟」
により第21混成協統領
「黎元洪」
を都督とすることが提案
立憲派により承認
革命党勢力は
「黄興
宋教仁」
は武昌におらず
「彭楚藩
劉復基
楊宏勝」
は被害を受け
「孫武」
は爆発事故で負傷
「蔣翊武」
は逃亡中であった
「黎元洪」・・・黎(くろ・黎明)の元の洪(洪水)
を都督
「湯化竜」
を民政総長(一説には総参謀)
に選出決定
↓↑
10月11日
中華民国
湖北軍
政府成立
11日午前
武昌全域が決起軍の支配下
夜には謀略処が設置
謀略処により
中華民国軍政府鄂軍都督府
(中華民国湖北軍政府)
の成立が宣言
同時に軍政府の檄文と
『安民布告』が発表
国号を
「中華民国」
と改め
清朝年号の「宣統」を廃止
黄帝紀元の採用を発表
「宣統3年」を
「黄帝紀元4609年」とした
軍政府は
参謀部、軍務部、政事部、外交部を設置
諮議局大楼を事務所とし
十八星旗を軍旗とした
謀略処は軍政府名義により
『布告全国電』
や
『通告各省文』
などの電信を全国に発信
↓↑
10月12日
革命党人である
第二十一混成協第四十二標士兵
「胡玉珍
邱文彬
趙承武」
等は漢陽で武装蜂起を決行、支配下に置く
「趙承武」
は漢口を攻略
武漢三鎮は革命勢力下に置かれた
↓↑
武昌起義後の
各省の呼応
清は北洋軍を派遣し
武漢三鎮江北漢口
漢陽を攻撃
以前罷免されていた
北洋軍の
「袁世凱」・・・凱=豈+几・・・凱歌・凱旋
が再び召還され
北洋軍内部の人心動揺を抑えた
革命軍は
陽夏防衛戦を展開したが
北洋軍に敗北
11月27日
江南武昌に撤退
47日間の作戦の中で
1万人強の死傷者
武昌防衛堅持
中国14省が
清朝からの独立を宣言
内地十八省中で清朝の統治が及ぶのは
甘粛
河南
山東(途中で独立取消)
直隷
のみとなり
独立した各省では
一部が革命党の主導を受け
大部分は諮議局メンバーによって
政治運営が行われた
清朝は
直隷、河南、山東、甘粛
と清朝の本拠地
満洲の
東三省(奉天、吉林、黒竜江)
を掌握していたほか
内モンゴル王公たちも
清朝支持を表明
北方では勢力を保持
↓↑
10月22日
湖南共進会の
「焦達峰・・・焦(あせる)達の峰
陳作新」・・陳の作の新
は会党及び新軍で組織した部隊を率いて
長沙で武装蜂起決行
湖南巡撫
「余格誠」・・・余(あまり)の格の誠(まこと)
を敗走させ
巡防営統領
「黄忠浩」・・・黄の忠告?
を斬首
決起軍は
中華民国
湖南軍政府の成立を宣言
「焦達峰」を都督
「陳作新」を副都督
とし
『討満清檄文』を発表
↓↑
10月22日同日
陝西同盟会の
「井勿幕・・・井の勿の幕
銭鼎
景定成」・・景の定を成
は陝西袍哥会と連絡し
会党と新軍の革命メンバーが協力し
武装蜂起
2日間の戦闘の後に西安を制圧
護理巡撫
「銭能訓」
・・・銭(セン・ぜに)=金+戔
を
能(よく)
訓(よむ)
は逃亡
西安将軍
「文瑞」・・・文の瑞
は自殺
決起軍により
秦隴復漢軍政府の成立が宣言
日知会の旧会員であり
新軍隊官の
「張鳳翽」
が都督に選出
↓↑
10月23日
江西同盟会の
「林森
蔣群
蔡蕙」
等は
九江の新軍での武装蜂起実行、独立宣言
翌日には
九江軍政分府が成立
第二十七混成協第五十三標標統の
「馬毓宝」
・・・毓(はぐくむ)
=毎+㐬(云+川(爪)?)
トツ
リュウ
子が生まれる
突出する=突
はたあし=旒
が九江軍政分府都督に選出
↓↑
10月29日
山西同盟会会員
新軍標統の閻錫山は
「姚以階
黄国梁
温寿泉
趙戴文
南桂馨
喬熙」
等の人と協力し、新軍により
太原起義を発動
山西巡撫
「陸鍾琦」
を殺害して
山西軍政府の成立を宣言
「閻錫山」
を都督に選出
12月12日
「曹錕」
による反撃により太原から撤退
↓↑
10月29日
直隷では灤州兵諫が発生
新軍第二十鎮統制
「張紹曽」
と第三十九協協統
「伍祥禎」
四十協協統
「潘矩楹」
第二混成協協統
「藍天蔚」
第三鎮第五協協統
「盧永祥」
等が協力し
直隷灤州より清朝政府に対し
最後通牒要求12条を提出し
年内の
国会開設
憲法草案の起草
責任内閣制の採用
と
皇族の
国務大臣就任の制限を求めている
↓↑
10月30日
雲南同盟会
「李根源」
は新軍標統
「蔡鍔
羅佩金
唐継尭」
等と協力し新軍による
重九起義を発動
翌日には
昆明を占拠して雲南軍政府が成立
雲貴総督
「李経羲」
を送還し
「蔡鍔」
を都督に選出
↓↑
10月31日
南昌同盟会の
「蔡公時」
は新軍による武装蜂起を実行
江西軍政府が成立し
「李烈鈞」
を都督に選出
↓↑
11月3日(旧暦九月十三日)
上海同盟会、光復会、上海商団の
「陳其美
張承槱
李平書
李英石
李燮和」・・・燮=やわらげる・整える・調和する
=爕・㸉・夑
等は上海で武装蜂起を決行
「張承槱
劉福標」
等が組織した
「青幇洪幇」
による決死隊
「李平書
李英石」
による上海商団の武装集団
「李燮和」
と連絡を取った呉淞地区で
蜂起した軍・警察蜂起部隊の
「朱家驊
徐霽生」・・・霽=雨+齊=はれる・空が晴れる
等により組織され
中国敬死団がその中心となった
4日
江南制造局を占拠
上海光復が実現
8日
中華民国
軍政府
滬軍
都督府が成立
「陳其美」・・・陳(陳列)其の美
を都督に選出
↓↑
11月4日(旧暦九月十四日)
貴州革命党の
「張百麟」
を中心として
新軍及び陸軍学堂学生により
武装蜂起が実行され
貴陽を占拠
大漢貴州軍政府が成立
貴州新軍第一標教官
兼
講武堂堂長
陸軍小学堂総弁の
「楊藎誠」
を都督、趙徳全を副都督に選出
↓↑
深夜より未明
杭州に駐在する
新軍第二十一鎮
第八十一標標統代理
「朱瑞(浙江光復会会員)」
隷下部隊の軍官
「呂公望(同盟会会員)」
同盟会会員の
新軍第八十二標
「周承菼」
および
隷下部隊の軍官
「呉思豫
蔣百里
蔣百器
楊廷棟
呉肇基」
光復会の
「王文慶」
上海より
漁民120名からなる
決死隊
(長 蔣介石、同盟会)
を率いて武装蜂起を決行、杭州を攻撃
陸軍警察(憲兵)執事官の
「童保暄(浙江光復会会員)」
は城站に臨時総司令部を設置
「童保暄」・・・童(わらべ)保暄(喧嘩)
が臨時総司令官
「葛政恩・・・葛(つる)政(まつり)の恩(おん)
黄雲秀」
が参謀
「朱瑞」
に指揮された
第八十一標第一、二営は
旗営を包囲
第三営(兪煒)
決死隊第4隊(長 王金発・光復会)は
保国寺軍機局と附属陸軍小学を
砲兵営は隍山を占領
「葛敬恩」
の指揮する騎兵連は総司令部の掩護を担当
「顧乃斌」・・・顧=雇+頁+乃+文+武
率いる第八十二標第三営
と決死隊主力(張伯岐 率いる第1、2隊
董夢蛟 率いる第3隊)
「尹鋭志(光復会、女性)」・・・尹(イン)
等は撫台衙門を
第5隊は旗城門下を占拠
「楊廷棟」
が兵を率いて巡撫府を包囲
巡撫
「増韞」
を捕虜
5日午後
代表署理として杭州将軍
「德済」
が軍政府に投降
革命勢力は杭州を支配
浙江革命軍を名乗り
「周承菼」
が総司令に就任
都督には
「童保暄」
を立てる予定であったが
最終的に立憲派
浙江諮議局議長の
「湯寿潜」
を都督に選出
↓↑
11月5日
江蘇省の
立憲派
紳商
は江蘇巡撫
「程徳全」
に対し蘇州の独立宣言を要求
江蘇革命軍政府が成立
「程德全」
が都督に就任
↓↑
安徽同盟会の
「呉暘谷」
等は標炮営を指揮し武装蜂起、省城安慶を攻撃
立憲派勢力は
安徽巡撫
「朱家宝」
に対し独立を勧告
11月8日
安徽諮議局は独立を宣言
「朱家宝」
を都督に
「王天培」・・・王の天の培(つちかう)
を副都督に選出
↓↑
11月6日
広西諮議局在は省城の桂林で
清朝からの離脱独立を決定
広西の独立を宣言
当初
清朝巡撫
「沈秉堃」
が都督とされたが
数日後に
清軍提督
「陸栄廷」
が政変により都督に就任
↓↑
11月9日
福建同盟会の
「鄭祖蔭
彭寿松
許崇智」
陸軍第十鎮統制の
「孫道仁」
等により福州で武装蜂起
清朝総督
「松寿」
は自殺
ー----
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の
移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/11
↓↑
干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
↓↑
現在の「ボクのHP」は「モウ君の総合目次」として
モウ君の総合目次 (bake-neko.net)
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm
↓↑
追加添文
「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB
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