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コジキジゲン

オセッカイはワガミをホロボすカモ

2024-08-12 22:48:52 | 古事記字源

 1994年7月5日 21時5分生
 (O)
 節入日(当月) 1994年7月7日17時36分
   5~7
         立運1994年7月(00歳)庚午・偏印
         大運2015年2月(20歳)癸酉・劫財
           2025年2月(30歳)甲戌・食神
 年柱 甲┏戌(辛丁戊)食神・偏官冠帯⇔甲辰・食神24
 月柱 庚┗午(丙 丁)偏印・正財 胎⇔壬申・比肩08
 日柱 壬┗辰(乙癸戊)   偏官 墓⇔乙巳・傷官09
 時柱 辛 亥(戊甲壬)印綬・比肩建禄⇔丁亥・正財12
    午未空亡

 行運判定
 立運・・・始点は生月干支
 大運
 順行運 男の陽年 女の陰年・・・?
 逆行運 男の陰年 女の陽年・・・?
 ・・・「根拠」の説明が「?」・・・

 陽干年=甲・丙・戊・庚・壬
 陰干年=乙・丁・己・辛・癸

 立運の算出
 大運年齢の始点・・・生月干支

 立運の算出
 誕生日の前後の月節の入日
 節入り日=月の節気の区切り

 順行運
 生日から
 「次の節入り日」
 までの日数を
 3で割った数
 立運年数
 ・・・立運期間=親(養父母)の庇護の運?

 逆行運
 生日から
 「前の節入り日」
 までの日数を
 「3」で割った数が
 立運年数

 余り「1」は
 4ヶ月を立運に加える

 余り「2」は
 8ヶ月を立運に加える

 ・・・数字「3」は
    1年間=12ケ月
    を「3区分」したモノ・・・ナゼ?
 ・・・生月の節入り区間の
   「気の強弱・旺弱」のバランス・・・?
    

 生月干支「立運」以後の
 一干支は大運10年間・・・
ーーーーー
 宗=宀+示・・・家を示す・宇宙を示す
   宀+二+小
   宀+二+亅+ハ
   ・・・有漢、無理
       次の鈎(鍵=金+建)の言葉
         鉤・鑰
      宗女=壹與・壱与
         臺與・台与
         ダイ=第=竹+弟
            弟=おと
           =おとたちばなヒメ
      ↓↑    ↓↑
      弟橘媛(おとたちばなひめ)
          音 立 場名秘め?  
     『日本書紀・景行天皇四十年』
     「日本武尊 の 妃」
     『古事記』
     「倭建命の后・弟橘比売命」
      穂積氏
      忍山宿禰 の娘
      日本武尊との間に
     「稚武彦王」を生む
      ↓↑
      相模灘(さがみなだ)
      での入水自殺
     「妾、御子に易(かわ)りて
      海の中に入らむ
      御子は遣はさえし
      政遂げて
      復奏したまふべし」
      と、まをしたまひて
      海に入りたまはむとする時に
      菅畳八重=艹+宀+㠯(以)
           田+冖+且(冃+―)+八
                月=肉(ジク)
            +重(千+口+十+十+一)
      皮畳八重=乛+ノ+l+又
           皮=𠬱 𠰎 𡰻 𤿌 𤿤 𥬖
      絹畳八重=       
      を波の上に敷きて
      その上に下りましき
      是に其の暴自ら伏ぎて
      御船得進みき
      ここに其の后歌曰ひまひしく
     「さねさし
      相武の小野に
      燃ゆる火の
      火中に立ちて
      問ひし君はも」
      と、うたひたまひき。
      かれ、七日の後
      その后の御櫛
       ・・・「櫛=𠂉=髪挿し」
      海辺に依りき。
      すなわち
      その櫛を取りて
      御陵を作りて治め置きき
 ↓↑
 宗=シュウ
   ソウ
   むね
   みたまや
   祖先をまつるところ
   祖先・同じ祖先をもつ一族
   むね・おおもと
   根本・中心となるもの
   とうとぶ・たっとぶ
   敬い重んじる
   神仏の教え・開祖の思想
   ある信仰する団体
   ↓↑
   ・・・宗像(むなかた)
         胸形・棟形
   宗像三女神(サンジョシン)
   宗像大社(福岡県宗像市)
   が総本宮
   全国各地に祀られ
   三柱の女神の総称
   天照大神と
   素戔嗚=スサノオ=須佐之男
   の誓約(ウケイ)で生まれた
   宗像大神(むなかたのおおかみ)
   道主貴(みちぬしのむち)
   とも呼ばれ
   「道」・・・軌道
        ・鬼道・気道・詭道
        ・起動・機動・綺堂
   の最高神として
   航海の安全や交通安全などを
   祈願する神様
   ↓↑
   日本から大陸、朝鮮半島への
   海上交通の平安を守護する神
   海北道中の島々
  (沖津宮・沖ノ島、中津宮・筑前大島)
   と
   辺津宮・宗像田島に祀られ
   古くから重視された神々
   ムナカタの表記
   「胸形・胸肩・宗形」
 ↓↑
 沖津宮「田心姫神(タゴリヒメ)」
 中津宮「湍津姫神(タギツヒメ)」
 辺津宮「市杵島姫神(イチキシマヒメ)」
 の
 三女神は
 天照大神
 と
 素戔嗚(須佐之男)
 との
 誓(うけい)
 から
 生まれた
 素戔嗚(須佐之男)が
 たばさんでいる剣を
 天の真名井ですすぎ
 口で噛みくだいて
   ・・・相模にカミにカミて
      相模国 (さがみのくに)
      相模(サガミ・さがむ)
      相模=相摸・・・相撲(すもう)
      東海道     あい、打つ
      神奈川県の大部分・相州
      ↓↑
     「相模女」の略
     「さがむ=相模=さがみの古称」?
      ↓↑模=木+莫  莫(サク・バク
                 ない・なかれ)
                 砂漠・沙漠
         幕府・勤皇佐幕
幕=莫+巾
          ボ・モ
          のっとる
          かた
          同形の物をつくるための型
          真似る・似せる
          相互に模す・模擬・摸擬・模様
          相似・相対
          曖昧模糊(アイマイモコ)
          暗中模索(アンチュウモサク)
          混水模魚(コンスイモギョ)
          細心臨模(サイシンリンモ)
          装模作様(ソウモサクヨウ)
          泣き出しそうな空模様

        摸=扌+莫
          扌+艹+旲
          扌+艹+日+大
          バク・ボ・モ
          さぐる・手探りする
          うつす・まねる
          手本のまねをする
          掏摸(すり)
          模擬・摸擬(モギ)
          模索・摸索(モサク)
          模写・摸写(モシャ)
          模する・摸する(モする)
          模造・摸造(モゾウ)
          模す・摸す(モす)
          模倣・摸倣(モホウ)
          模本・摸本(モホン)
          暗中摸索(アンチュウモサク)
          混水摸魚(コンスイモギョ)
          細心臨摸(サイシンリンモ)
 
     「相模祢乃     相模嶺の
      乎美祢見<可>久思 小峰見そくし
      和須礼久流    忘れ来る
      伊毛我名欲妣弖  妹が名呼びて
      吾乎祢之奈久奈  我を音し泣くな
      ↓↑
      ???
      さがむねの・・・・性(さが・業)
               食色性也
               食欲と性欲は
               生まれつきの欲求で
               取り除くことはできない
              「食と色は性なり」

      業=业+䒑+未・・・性(さが・業)?
        业+丷+一+木
        业+丷+一+十+八
        ギョウ・ゴウ
        わざ・つとめ・仕事
        技術・技能
        なりわい・生活のための仕事
        すでに・もはや・まえに
        ごう
        前世の善悪の行為によって
        現世で受ける報い
        理性によって制御できない心の働き
        业=・业・亚・並
        亚⇔晋(すすむ)
          並(ならぶ)
          普(あまねし)
          亜= ̄+口+‖+_
             ̄+中+_
          亞= ̄+十+_
 
      をみねみそくし・・乎=か・や・コ・ヲ
               禰=袮=ネ・チ
               デイ・ネ
               かたしろ・みたまや
               父のおたまや
               父の霊廟
               かたしろ
               戦争に持っていく位牌
      わすれくる・・・・話素例句留
      いもがなよびて・・意化何名予備弖
      あをねしなくな」・祢=禰=示+爾
     〈万・三三六二〉
      ↓↑
     「さがみ=相模」
      平安中期の女流歌人
      相模守
      大江公資(おおえのきんより)
      の妻
      脩子(シュウシ)内親王に仕え
      多くの歌合に参加
      家集に「相模集」がある
      ↓↑
      佐賀=佐賀藩
        =江藤新平=紅葉山文庫
         佐賀の乱
      佐賀県
      北緯33度14分57秒
      東経130度17分58秒

      お茶や唐津・伊万里・有田
      などの陶磁器の産地
      玄界灘と有明海の2つの海に接し
      令制国
      肥前国東部に相当
      明治の府県制成立で
      佐賀県と長崎県に分立
      地理地形
      佐賀平野
      杵島丘陵
      天山
      脊振山地
      脊振山
      筑後川
      多良岳
      東松浦半島
      北松浦半島
      玄界灘
      有明海

      佐賀藩
      唐津藩
      に二分されていた
      
      佐賀藩
      幕末期に
      明治維新の中心
      薩長土肥の一
      大隈重信
      江藤新平
      などを輩出
 ↓↑
 キリとして吐き出し生まれ
 娘たちに
 「あなたたち三神は
  道中(みちなか=玄界灘)に降臨し
  天孫を助け奉り
  天孫に祭(いつ)かれよ」
 と命じられた
  ↓↑
 『古事記・神代上巻』
 「この三柱の神は
  胸形君等の
  もち拝(いつ)く
  三前(みまえ)の大神なり」
 宗像氏(胸形氏)ら
 筑紫(九州北部)の
 海人族が祀る神であった・・・
   ↓↑
   改宗(カイシュウ)
   宗規(シュウキ)
   宗教(シュウキョウ)
   宗旨(シュウシ)
   宗祖(シュウソ)
   宗徒(シュウト)
   宗派(シュウハ)
   宗風(シュウフウ)
   宗門(シュウモン)
   ↓↑
   邪宗異端(ジャシュウイタン)
    少数派に信じられ
    人の心を惑わす宗教
   「邪宗=道理に外れた
       人を惑わす有害な宗教」
    少数の人によって
    信じられている主張や学説、宗教
    邪宗・・・鬼道=卑弥呼=邪馬台国
    異端邪宗(イタンジャシュウ)
    異端邪説(イタンジャセツ)
   ↓↑ 
   宗廟社稷(ソウビョウシャショク)
    国家や朝廷、政府
   「宗廟=君主の祖先を祭る建物」
   「社稷=土地の神と
       五穀の神を祭った建物」
   ↓↑ 
   釈迦に宗旨なし
   宗旨の争い釈迦の恥
   宗旨を変える
   大根を正宗で切る
ーーーーー
 ↓↑
 頻=步+頁=頻=歩+頁
   止+少+頁
 ヒン・ビン
 しきりに
 しきる
 しきりに・たびたび・しばしば
 みぎわ・水辺・水ぎわ
 せめる・さしせまる・切迫する
 ならぶ・近づいてならぶ
 ひそめる・しかめる・まゆをひそめる・顔をしかめる
 しきる・たびたび・しばしば
 ↓↑
 顰=ヒン・ビン
   しかめる・ひそみ・ひそめる
   顔をしかめる・眉間にしわを寄せる
   異体字「颦」
 顰=頻+卑
   步+頁+卑
   步+頁+甶+丿+十
   止+少+頁+卑
   止+少+頁+´+田+ノ+十
   止+小+丿+頁+卑
   止+小+丿+頁+´+田+ノ+十
   止+小+丿+丆+目+ハ+´+田+ノ+十
 卑+α・・・「卑弥呼」
 卑俾婢陴郫萆捭啤埤崥
 渒猈庳牌脾椑焷琕㪏稗
 裨睥痺碑㗗㼰㽡䇑鹎禆
 碑箄粺蜱綼聛諀豍貏䚜
 䠋䡟頻錍頻鞞䫌髀䰦鵯
 䱝䴽瀕蘋嚬㰋鼙朇颦
 ↓↑
 顰面(しかめづら・しかめっつら・しかめつら)
 顰(しか)める
 顰(ひそみ)
 顰める(ひそめる)
 顰蹙(ヒンシュク)
 一顰一笑(イッピンイッショウ)
 顔を顰(しか)める
 「西施の顰(ひそ)み」・・・西の施しを顰む
  に倣(なら)う      摸倣(モホウ)?
 顰みに倣う
 顰みを学ぶ
 顰蹙(ヒンシュク)を買う
 眉を顰(ひそ)める
 ・・・「眉輪王=目弱王」の潜み・・・
     圓大臣=円大臣(葛城円)=都夫良意富美
    『古事記』
     坂合黒彦皇子は
    「都夫良意富美」の館に逃げこむ前に
    「雄略天皇=大泊瀬幼武天皇」
     に討たれ
     差出した屯倉は5ヶ所
     眉輪王を殺して自害した
     死没 安康天皇三年(456年)
     主君 履中天皇・眉輪王
     父  「玉田宿禰o葦田宿禰」
     兄弟姉妹
      黒媛(履中天皇妃)?
        蟻臣?
        葛城毛媛(吉備上道田狭の妻)?
     子  葛城韓媛(雄略天皇妃)
    ↓↑       ↓↑
    雄略天皇
    安康天皇3年11月13日~雄略天皇23年8月7日
    先代  安康天皇
    次代  清寧天皇
    陵所  丹比高鷲原陵
    諡号  雄略天皇・・・・「倭王武」?
    和号  大泊瀬幼武天皇
    諱   大泊瀬幼武=大泊瀬=幼武?
    別称  大泊瀬幼武尊
        大長谷若建命
        大長谷王
    父   允恭天皇
    母   忍坂大中姫=応神天皇皇孫
    皇后  草香幡梭姫皇女=仁徳天皇皇女
    子女  清寧天皇
        栲幡姫皇女
        磐城皇子
        星川稚宮皇子
        春日大娘皇女=仁賢天皇后
  ↓↑
 『宋書』列伝
 夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)
 兄の興が死んで
 弟の武が王に立ち
 武は
 「使持節
  都督
  倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
  七国諸軍事
  安東大将軍
  倭国王」
 と自称
 順帝
 昇明二年(478年)
   ・・・ユリウス暦  478年
      干支     戊午⇔ボゴ・ボギュウ
      日本
      雄略天皇   22年⇔幼武尊
                要部見事
      皇紀    1138年
      中国
      宋     昇明02年⇔証明・證明・正銘
      北魏   太和02年⇔大和・対話・碓倭
      柔然   永康15年⇔英考・裔交・衣斐行
      朝鮮
      高句麗 長寿王66年⇔長重
      百済  三斤王02年⇔参勤・纂筋・簒金武
      新羅  慈悲王21年⇔字比・示碑・事日
 武(倭武王)は
 ↓↑
 宋(宀+木・宀+十+八)
 に
  「上表文」=上の表(龶+𧘇)
          =土+一+ノ+𠄌+㇏+ノ
          =十+一+一+𠄌+㇏+ノ
          =≡+丨+𠄌+㇏+ノ
           (ǂ+衣)の文
        トのーの士の
        衣(亠)+(𧘇=ノ+𠄌+㇏+ノ)
         (亠+イ+_+乀+′)
         (亠+ノ+丄+乀+′)
       =ジョウ・ヒョウ・ブン
        ジョウ=譲(譲渡・ゆずる=妥)
           =言
            +
            㐮(六+𠀎+𧘇)
            ジョウ・ショウ
            のぼる・あげる
            はらう・たすける
            なべぶた
            襄(亠+口+口+𠀎+𧘇)
            𠀎=卄+二(𠄠)
             =꡷+☰
             =丨+丨+三(☰)
        表=ヒョウ=標=木+西+示
              十+八+西+示
              十+八+囗+兀+ニ+ハ+亅
              拾+捌
        文=亠+乂=ブン=分=八+刀
         =紊(紋・雯・頒・旻・汶・彣)
   ↓↑
   宋音(ソウオン)
   宋学(ソウガク)
   宋朝(ソウチョウ)
   唐宋音(トウソウオン)
   ↓↑
   宋襄之仁(ソウジョウのジン)
   宋襄の仁
   必要のない情けをかけると
   自らが災いを被る・・・
   ↓↑
 「津波はまず各々が逃げることが大切」
 ・・・地震津波災害時の標語
 「津波てんでんこ」
 「てんでんばらばらで逃げろ」
 「津波が来たら
  取る物も取り敢えず
  肉親にも構わずに
  各自てんでんばらばらに
  一人で高台へと逃げろ」
 「自分の命は自分で守れ」
 周りの人々に対する救助・・・はソレからだ
 先ずは
 災害状況の中で
 己個人の
 他者に対する救助能力の限界を知れ
 薄情でも
 個々人
 自分自身の命を第一に確保せよ
 「てんでんバラバラに急いで早く逃げよ」
 然る後、
 己の余裕と救済手段があれば
 他者を助けるコトがデキるカモ・・・デある
 ・・・「庭の草むしり」で頭によぎる・・・
 ・・・「冬に家の中で飛び回る蠅」と
     友達になろうとした自分の末路が・・・
 ・・・「風呂場の油槽」で
    「もがいている虫を助けて」・・・
    「カンダタ(犍陀多)」の地獄への
    「再転落」が頭をよぎる・・・
 「余計なお世話」は「我が身を滅ぼす」
 「余計なお世話」は「我が身も他者も滅ぼす」
 ・・・「釈迦=ぽち」はエゴイストカモ・・・
 天国を保証するからイノチを捨てろと云う
 ・・・「基督=移鼠」はサギ師カモ・・・
 それでも「ヨシ」と云う人間がワンサカ・・・?
   ↓↑
  「宋襄=宋の国の
      襄公という人名」
  「仁=哀れみや思いやり」
   ↓↑
   楚との戦闘で
   楚の軍が
   川を渡っている最中の
   陣形が崩れたところを
   攻めてはどうかと
   部下に進言され
   襄公は
   人の困難につけこむものではない
   と言い
   攻めずにいたが
   自軍は大敗した・・・故事
   余計な「仁」は自軍敗北の原因となる
   出典
  『春秋左氏伝』
  「僖公二二年」
   僖=亻+喜
     亻+壴+口
     亻+十+豆+口
     亻+十+豆+口
     キ
     たのしむ
     よろこぶ
     楽しむ・喜ぶ・楽しみ
     めでたいさま
   公=八+ム
   二二年=爾(邇・字)拾似撚(念・捻)
 ↓↑
 武(倭武王)は
 宋
 に上表文を奉り
 順帝は
 「武」を
 「使持節
  都督
  倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
  六国諸軍事
  安東大将軍
  倭王」
 に除す・・・・・・「百済」の文字が除外
 『宋書』倭国伝
 ↓↑
 478年
 遣使の上表文
 「東は毛人55国を征し
  西は衆夷66国を服す。・・・55+66=121
  渡りては海北95国を平ぐ・・・」
 ↓↑
 宋の漢字自体の意味
 宋=宀(家の屋根)+木(木の柱)
   人の暮らす場所
   「宇宙=空」
   に向かって伸びようとする
   「樹木」
 ↓↑
 宋(紀元前1100年~紀元前286年)
 周代の諸侯国の一(前286)
 周の「公旦」が
 「殷 (イン) 」の
 「紂王 (チュウオウ) 」の異母兄
 「微子啓」を封じた国
 殷=㐆+殳
   㐆+几+又
   イン
   あかい(赤い)
   おおい(多い)
   さかん(盛ん)
   にぎやか=賑やか
   ・・・「にぎはやひ・・・賑囃比・二義葉耶比?
       邇芸速日(饒速日)」命
   ねんごろ(懇・懇切丁寧)=慇=殷+心
        悼(いた)む・追悼
   ていねい(丁寧)
   ゆたか(豊=豐=山+丰+丰+豆)
       豆(高坏・まめ・トウ)の
       異体字
       痘 梪 𣅋 𣅣 𤽋 䇺 𧯚 𧯝 𧯜 荳 繁
          豆=𠮛+丷+一
   㐆=厂+ヨ+𠃌
     百+勹
     一+白+勹
     イン・帰る
     よる・すがる・帰依する
     身をかえす
     からだの向きをかえる
   =古代中国の王朝名
    雷の鳴りひびく音の形容
    磤=石+殷
      イン
    雷鳴・雷の轟き響く音
    雷鳴・雷音=lion?
    稲妻・稲夫
    殳=几(ノ+乙・ノ+⺄)+又
     =ほこ・シュ・ズ
    あかい・赤黒い色・黒みがかった赤
    稲妻・稲夫
 ↓↑
 殷(イン)の宗族
 「微子啓」
  微=彳+山+兀+攵
  子=了+ー
  啓=戸+攵+口
    もうす・ひらく・ケイ・ケ
    開放・開け放す
    教え導く・教え諭す
    理解させる
    物事を始める
    物事を起こす・開拓する
    先に立って導く
    軍の先鋒・先払い
    申し述べる・申し上げる
    公文書・上申書
    拝啓・・・
    立春・立夏
   =㣲=彳+山+𠮛(旨)+攵
         𠮛=うまい
         豆=𠮛+䒑
    顕微鏡・微笑・微細・微小・微傷
     ビ・ミ
     かすか
     はっきりしない・はっきり見えない
     わずか・小さい・細かい
     ひそか(密)に
     こっそりと目立たないように
     おとろえる・勢いや力がなくなる
    「なかりせば」
    「なかったならば・なかったとしたら」
     数の単位
     一の百万分の一
     微か・幽か(かすか)
     機微(キビ)
     極微(キョクビ・ゴクビ)
     軽微(ケイビ)
     忽微(コツビ)
     粉みじん・粉微塵(コナミジン)
     慎微(シンビ)
     衰微(スイビ)
     微温湯(ヌルマユ)
     木端微塵(コッパミジン)
     至微至妙(シビシミョウ)
     酒飲微醺(シュインビクン)
     身軽言微(シンケイゲンビ)
     神妙入微(シンミョウニュウビ)
     浅酌微吟(センシャクビギン)
     大道微意(タイドウビイ)
     談言微中(ダンゲンビチュウ)
     低唱微吟(テイショウビギン)          
     機微に触れる(きびにふれる)
     白璧の微瑕(ハクヘキのビカ)
     微に入り細を穿つ(さいをうがつ)
     微塵もない(みじんもない)
     モナリザの微笑(びしょう)
     アルカイク・スマイル
    (アルカイック・スマイル
     仏語 archaïque
     アーケイック
     英語 Archaic smile)
     古代ギリシアの
     アルカイク彫像の表情
     紀元前6世紀の第2四半期
     顔の感情表現を極力抑えながら
     口元だけは微笑む形
     無表情にもかかわらず
     口元に笑みをたたえたような表情
アルカイスム
仏語 archaïsme
    文体上の擬古趣味・古体
     アーケイズム
     古代人の素朴な表現に
     ならおうとする文学・芸術上の主義
     復古主義
 ↓↑
 宋(紀元前1100年~紀元前286年)
 「微子啓」
 が封ぜられ
 「商邱(シヨウキユウ)に都し
 「殷の遺民=倭(ワ・ゥエィ)」?
 を統治した
 後に
 紀元前286年
 「斉・魏・楚」
 の三国に滅ぼされた
 ↓↑
 南北朝時代の
 宋
 南朝最初の王朝
 東晋の武将
 「劉裕」
 が恭帝の禅譲を受けて建国(960年~1279年)
 都は
 「建(犍)康」
 八世で武将の
 「蕭道成(シヨウドウセイ)」
 に帝位を譲った
 「劉宋」
 五代十国の統一王朝
 「趙匡胤(チヨウキヨウイン)」
 汴京(ベンケイ=開封)
 に都して建国(960年~1279年)
 遼(リヨウ)・西夏の圧迫を受け
 1127年
 金軍の侵入によって江南に移り(靖康の変)
 臨安(杭州)に都
 これ以前を北宋
 元軍に滅ぼされるまでを南宋
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 宋(ソウ)
 960年~1279年
 「趙匡胤」
 が五代最後の後周から禅譲を受けて建国
 春秋時代の「宋」
 南北朝時代の「宋」
 などと区別するため
 帝室の姓から
 「趙宋」とも呼ばれる
 宋は
 「趙匡胤」
 が宋州(河南省商丘市)の
 帰徳軍節度使であったことに由来
 通常
 金に華北を奪われ南遷した
 1127年以前を北宋
    以後を南宋
 首都は開封
 南遷後の実質上の
 首都は臨安
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 北宋
 後周の殿前都点検(近衛軍長官)
 「趙匡胤」
 が後周最後の皇帝から禅譲を受けて建国
 急死して
 弟の
 「趙匡義(太宗・趙光義)」
 が跡を継ぎ中国統一し
 科挙制度の充実を図った
 科挙制度は子の
 「真宗」の代で完成
 ↓↑
 1004年(澶淵の盟)
 北方の遼が南下
 「真宗」
 は遼に対して毎年財貨を贈ることで和睦
 遼の侵攻と同時に西の
 西夏が宋に反旗を翻し
 1044年(慶暦の和約)
 財貨を贈ることで和睦
 ↓↑
 六代皇帝
 「神宗」
 は
 「王安石」
 を登用して国政改革
 農民や坑戸・畦戸などの保護と
 大商人・大地主の抑制を目的とした施策
 で
 富裕階層(士大夫)と
 その出身官僚(旧法派)の激しい妨害を受けた
 1115年
 満州から南下した
 「女真族」は「金」を建国
 宋は金と共同で
 遼を攻撃する協定(海上の盟)を結び
 1121年
 に遼を滅ぼしたが
 金を牽制するため
 遼の残党と協力を画策し
 1127年(靖康の変)
 金の攻撃を受けて開封は陥落
 皇帝「欽宗」
 太上皇「徽宗」
 多数の皇族が北方へ拉致された
 欽宗の弟
 「趙構」
 は、南遷して
 杭州で皇帝即位を宣言
 以降は南宋と呼ばれる
 ↓↑
 南宋
 「趙構」
 1127年即位して
 高宗となり、宋を再興
 「岳飛」
 らの活躍によって金に強固に抵抗するが
 「秦檜」
 が宰相に就任すると
 金と和平を結び
 「岳飛」
 は殺された
 「秦檜」
 の死後に
 金の4代皇帝
 「海陵王」が南宋へ侵攻
 金の皇族の
 「完顔雍(烏禄)」
 が反乱を起こし
 「海陵王」は殺され
 「完顔雍」は金の世宗となり
 宋と和平を結ぶ
 高宗は退位し
 太上皇となり、養子の
 「趙慎」
 が即位して孝宗となった
 ↓↑
 孝宗時代
 宋金関係は安定
 孝宗は無駄な官吏の削減
 乱発気味の「会子(紙幣)」の引き締め
 荒廃した農村の救済
 江南経済の活性化などの改革し
 戦乱から復興
 1189年
 孝宗が退位して上皇
 「趙惇」
 が即位して
 「光宗」となり
 1194年(慶元の党禁)
 孝宗が崩御
 「韓侂冑」
 らにより光宗は廃位させられ
 反対派に対する大量弾圧
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 「韓侂冑」
 は金がタタールなどの侵入に悩まされていたので
 北伐軍を起こすが失敗
 1207年
 金の要求で
 「韓侂冑」
 を殺して塩漬けの首を送り和睦
 1233年
 モンゴル帝国は
 金の首都開封を陥落させ
 南に逃げた金の最後の皇帝
 「哀宗」
 を宋軍と協力して追い詰め
 1234年
 金滅亡
 1235年(モンゴル・南宋戦争)
 宋軍は北上し
 洛陽・開封を回復
 モンゴル軍と戦闘
 長江流域を挟み一進一退
 「クビライ」
 が「襄陽」を陥落させる頃には
 内部崩壊
 1276年
 モンゴルの
 「バヤン」
 に臨安を占領され滅亡
 1279年(崖山の戦い)
 南走の一部の皇族・官僚・軍人らも
 広州湾の崖山で元軍に撃滅され
 宋は完全に滅びた
 ↓↑
 元代末期に現れた
 「韓林児(小明王)」
 が
 北宋皇帝
 徽宗後裔(僭称)を名乗って
 宋(大宋)を再興
 後に
 明建国の
 「朱元璋(洪武帝)」
 に取って代わられた
 ↓↑
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