― 妖元山 麓 ―
頂(いただき)にたなびく暗雲は、ついに山を越え平地全体を取り囲んだ。
そびえる山を震わせる激しい豪雨と轟く雷鳴の音は、麓に控えたキイの後詰め部隊の目も耳も塞いでしまう。山上で起こっていたキレイ率いる部隊の惨敗、それに伴う命の危機は、彼らには見えなかった。
動く人影も、逃げ惑う足音も、敵の喚声も、味方の悲鳴も、必死に土を蹴る馬蹄も、ただ雷光と雷鳴に消えてゆく。
「無事だろうか…兄上は…」
キレイの実弟、後詰め部隊1千の大将であるキイは徐々に不安を覚えていた。
「タクエン。すでに兄上が出撃してから一刻(2時間)余、オウセイがついているとはいえ大丈夫であろうか…」
「キイ様。おそらくその不安は、的中しているものかと」
「やはりそう思うかタクエン」
「兄君キレイ様は、機智兵法に明るく、兵を手足の如く動かす御方。今回の奇襲作戦において、攻め手の進軍速度が大事なのは百も承知のはず。そのような御方が、後詰め部隊にこれほど報せを怠るとなると…」
「タクエン、このキイはどうすれば良い。やはり救出に後詰めの兵を出すべきか」
「いえ、いけません。何が起きているか判らない箇所に闇雲に兵を進めても、それは喜んで火中の栗を拾いに行くようなもの。圧倒的不利になるだけでございます」
「流石は参謀従事タクエン。この状況で冷静で居られる事が羨ましい。私は今、感情的になっている。兄を」
「キイ様、貴方は後詰め部隊の大将です。薄情者と言われるやもしれませぬが、貴方が迂闊に動いて情勢が浮き足立てば、他の兵士たちの心も動揺しますぞ。それをお判りくだされ」
「そうは言うが…。たった一人の兄の危機を黙って見ていられるほど、私は薄情に出来ていないのだ」
「私が今より早馬を駆けて、ジャデリン将軍の所へ行って参ります。必ずや多勢の援軍を率いて参りましょう。それまでは何卒(なにとぞ)、出撃を我慢してくだされ」
「わかった。頼んだぞタクエン」
「それでは…失礼いたしまする」
礼一つ浮かべたタクエンは、即座に後詰め部隊の中から足の強そうな馬を探し出し、それに跨(またが)ると、供の者も付けず、ただ一騎、雨晒しの荒野を西へ西へと駆けた。
「兄上…どうか、ご無事で…!」
キイは押し殺した声で山上を見上げながら、その拳を震わせた。
将として…いや、天下に二つと無い、たった一人の弟として。
大将キイの心中は、今まさに張り裂けんばかりであった。
― 妖元山 中央山道 ―
その頃。
オウセイ率いる騎馬隊がキレイを救出したのも束の間、長く続く豪雨が山上から流れ出す土砂を止められず、緩やかな傾斜は濁流となって騎馬隊の足の速さを奪っていく。土砂が流れた事で、突き出した岩肌は鋭さを増し、騎馬隊の進む中央山道は想像を絶する悪路となっていた。
ドドドドドドドッ!
しかもその後方には、すでに頂天教軍の迫撃部隊が間近に迫っており、雷鳴の合間に聞こえる喚声は、逃げ惑う官軍の兵達の焦燥感を煽ってゆく。
「オウセイ!後方の騎馬隊が、迫撃を受け始めたぞ!」
「ご安心めされい!拙者の指揮した精鋭たる騎馬隊に、逃げる者はおりませぬ!皆、立派に戦って死ぬでしょう!」
「オウセイ…私が無様な戦をしてしまったせいだ…すまん。腹の中では、さぞ私を怒っているだろうな」
「はっはっは!若も、人並みにくだらんことを申されるようになったか!いつも眉一つ動かさず人を殺す冷酷無比な恐将が、初めての敗戦で臆しなされたかな!」
「な、なに!誰が臆するものか!ただ、感傷的になっていただけだ!喋る暇があるなら、早く馬を走らせよ!」
「それでこそ、若でございます!このオウセイ、命尽きようとも必ず!若を守ってみせまする!はいやぁっ!」
オウセイの手に握られた手綱が、強く馬の体を打つ。
雨を弾き、風を斬りながら、大きく吠える馬の嘶(いなな)きとオウセイの声が、弱気になっていたキレイの心には、どれほど響いただろう。
オウセイは感じていた、自分の胴をしっかりと掴むキレイの腕の力が増してゆくのを。
後方から聞こえてくる、聞きなれた部下達の悲鳴を振り切り。
視線に飛び込んでくる、悪路に次ぐ悪路を見事な馬術で駆け下りて行く。
「「「 ワ ー ー ッ ! ! 」」」
だが、頂天教軍の兵達が迫撃を止める事は無かった。
勢いもそのままに後方の騎馬隊を蹂躙し始めたかと思うと、今度は落馬して往生した官軍の兵達を、命乞いも聞かずに無残に殺害してゆく。
勇猛果敢な1千5百の騎馬隊が、次々に敵の手にかかり、雨露が大地の赤を消してゆく。
キレイを救うべき動いた騎馬隊は、今ではオウセイ直属のたった百騎の武者達だけであった。被った騎馬隊の被害は甚大であり、未だ迫撃を続ける頂天教軍との兵力の差は、最早歴然であった。
ジャーン!
ジャーン!
「「「 ワ ー ー ー ー ッ ! ! 」」」
だが、頂天教軍の執拗な追撃は容赦のないものだった。
山道を駆け下りるオウセイ達の前で、銅鑼の音と兵達の喚声がけたたましく響くと、山道を囲うように生い茂る林伝いから、槍を持った頂天教軍の凡そ5百の別働隊が、道を塞ぐように現れたのだ。
「おおお…オウセイ!敵の伏兵だぞ!」
予測も出来ない事態に、顔の青ざめ始めたキレイは、差し迫る部隊を指で指しながら、オウセイに言った。味わった事のない絶体絶命の窮地の光景は、猛将オウセイの腕でさえ震わせた。
「ええい!こうなれば強行突破いたしまする!若!拙者の体にしっかりと御掴まりなされ!」
「む、無謀だオウセイ。あの敵兵を打ち崩す間に、迫撃部隊が追いつくぞ」
「では山道を避け、迂回して林道へ飛び込むまでのこと!」
「無茶だ。あれは林道ではなく、獣道だ。馬が走れる道ではないぞ!」
オウセイは、指し示す林道の暗闇を見た。
騎乗したオウセイ達の背丈と同じ程に育つ葉や草は刃のように鋭く、木々は鉄の鏃のように尖り、まばらに植えられた林がそれを覆うように永延と伸びてゆく。群生する植物の猛々しさから見るに、それは山に生きる野生の者だけが入る事を許された険しい獣道であった。
「やってみなければわかりませぬ!」
「もう良い、オウセイ」
「若!何を…」
「天は、あくまでも私を嫌ったのだ。描く野望も、繋いできた命も、今生これまでだ。介錯を頼む…今は潔く死のうではないか…!」
「自害など…!そのような雑兵の考えは、お捨てなされ!若!」
騎馬隊を挟むように差し迫る頂天教軍山道上下数千の兵。
その最中、大将でありながら自分の背中で一方的に弱々しくなるキレイの姿に、オウセイは憤った。そして憤りは言葉となり、オウセイは大声でキレイを一喝した。
「若がここで死ぬとあらば、何のために我らが生きてきたのでしょうか!」
一喝は、周囲を守る騎馬隊の兵士達にも聞こえた。
悪路を進んだ馬は豪雨に濡れてなお湯気が立つほど汗をかき、突破を繰り返した武者達の呼吸は乱れ、体は疲れ果てていた。
だが、彼らには一つ。疲弊していない一つの結束があった。
それは、故郷を出て今まで付き従ってきたオウセイへの忠義心であった。
「それっ!我らは前の敵を防ぐぞ!」
「ならば私は後ろを防ぐ!オウセイ将軍!後は任せましたぞ」
「オウセイ将軍!どうか、ご無事で!」
「お二人が逃げる時間ぐらいは、稼いでみせまする!」
「我らがオウセイ将軍のためなら、この命など惜しくないわ!」
騎馬武者達は、大きく槍を天へ掲げながら口々に言った。
「お、お前たち…忠義に命を賭すつもりか」
言葉を聞いたオウセイは、張り詰めた顔と目で兵士達を見た。
そして…目蓋を閉じて、首を前にのめらせ兵士達の見守る中、頭を深々と下げた。
オウセイ直属の騎馬武者達は、上官であるオウセイのその姿を見ると、負傷して重くなる腕や足を奮い立たせ、次々に迫る無数の敵軍の中へ飛び込んでいった。
「…若!行きますぞ!」
「あ、ああ…」
忠義に溢れ、勇敢な兵士達の姿を背にオウセイは、再び手綱を強く握り、馬の腹を蹴りたてて駆けた。馬蹄の音は、林道の獣道へと消えてゆく。その後ろから聞こえる、頂天教軍に飛び込んだ騎馬武者達の最期の声が、ただオウセイの心を痛ませるのだった。
(…天よ!若を殺せず、さぞかし面白くなかろう。だが見ていただろう!我らが忠節の臣下が一人でも居る限り、例えお前が百難与えても若は殺せぬぞ!…殺せぬぞッ…!)
心の中で天を仰ぐオウセイの騎馬は、キレイを抱え、ただ闇雲に薄暗い獣道を進んでゆく。
上空を包む黒雲は、まだ晴れる兆しも見えなかった。
― 封城(フウジョウ) 宮中 ―
一方、こちらも早馬を走らせていた参謀従事タクエンは、ジャデリン率いる南部官軍が占拠していた居城『封城』に辿り着き、軍議中であったジャデリンと面会し、濡れた衣類を叩き乾かす事もなく、ただ郡将達の前で平伏していた。
「急使か?そのようにずぶ濡れで参って。如何致した」
「火急の用にて推参仕り、軍議中のご無礼申し訳ありません。私は、官軍大将キレイの参謀従事を勤めまする、タクエンと申す者にございます」
「して、そのタクエンが、何をしに封城へ参ったのだ?」
「はっ!大将キレイが頂天教軍の本拠地妖元山へと向かいましたが、悪天候により危機に瀕し、おそらくこのままでは全滅も…そこでジャデリン将軍に、お頼み申す儀がございます」
「ふむ、申すがよい」
「つきましては南部官軍の兵3千をお借りしたい!」
「なんじゃと!」
ジャデリンは、タクエンの法外な願いに対して思わず憤慨した。
椅子の肘掛けについていた手を、ワナワナと怒りに震わせながら上へ持ち上げると、バンッと音を立てるように木製の肘掛けを叩いて鳴らせる。
「お前は知らんのだ!兵3千を貸すという意味が!お前のような若輩が、ぬけぬけと良く申すわ!顔も今日知った程度のお前に、軍の半数以上を貸してやる義理など、わしにはない!」
「無理は承知の上でございます。何卒大将を救うため、お聞き入れくだされ」
「馬鹿も休み休み言え!お前の大将キレイは、わしとの約束を破ったのだぞ。互いの官軍が進軍する時には、両軍とも必ず事前に報告を行う約束だったはず。お前の大将が行ったことは、抜け駆けも同じこと!規律あって軍を任される将が、規律を破るなど言語道断ではないか!」
「大将キレイは若く、功名に走ったのは事実です…ですがジャデリン将軍。良くお考えくだされ。今ここで援軍を送らねば、頂天教軍は勢いを取り戻し、官軍5千の兵が無駄死にすることは必定…!」
「だまらっしゃい!!!そのように『もっともらしく』物を言えば、わしが兵を出すと思うか!自らの功名に走り、抜け駆けした官軍の大将が危機に陥ったからといって、それを救うために我々の兵をよこせとは、なんだ!白々しく虫の良い事を申す無礼者め!」
「無礼は敵に勝ってから重々に詫び申します。今は、私にただ黙って兵をお貸し与え下され!でなければ大将キレイの命が危ういのです」
「その忠義心は立派だが…!それはそれ!これはこれじゃ!危機に陥ったとて、それは自業自得!わしが怒らぬ内に、早々に立ち去れ!我々は軍議で忙しいのだ!」
ジャデリンは手を数度空中に振ると、跪くタクエンを散々邪険に扱った。
傲慢な態度を放つキレイに対して、元々良い感情を持っていなかったジャデリンは、始めから援軍を出すつもりは無かった。タクエンの話した事情も、彼の怒りの火に油を注いだ。互いに結んだ約束を反故にされ自分より若い者に抜け駆けを許し、諸将の前で面子を潰されてまで援軍を出すほど、ジャデリンはお人好しでは無かった。ジャデリンとタクエンを見守る郡将達も、このジャデリンの裁きには、「最も」だと概ね納得して、誰も官軍の仲間であるキレイを救おうとするタクエンに賛同する者は居なかった。
「…このままでは…」
タクエンは跪きながら、席を立つジャデリンの眼を引こうと一計を案じた。
「…宮中にて御免!」
「うっ!?貴様、なにをする!!」
タクエンは、自らの腰に差した短刀を抜き喉元へ突き立てた!
前にキレイが行いかけたことだが、宮中や軍議において武器を抜くことは、たとえどんな者であっても軍においては最大の無礼であり、帝国に仕える者なら、それがどのような理由であっても『してはならない』禁忌の所業であることを知っていた。
「私の言が通らねば、仕方ありませんな!この短刀で我が喉を突き、この忠義の心と引き換えにジャデリン将軍に援軍をお願い致す所存でございます!」
ザワザワ…ザワザワ…
鬼気迫るタクエンの喉元へ少しずつ近づく、ギラリと光る銀色の刃。
見た郡将の誰もが動揺を隠しきれず、ざわめく城内は、あっという間に緊張感に包まれた。
思わず席を立つジャデリンだったが、刀を抜く動揺よりも先に怒りが出た。
「ふざけるな!汚らしいお前の血で、城内を汚すつもりか!大将が大将なら、部下も部下だな!無礼極まりない厚顔どもめ!」
そして、ジャデリンは城内の郡将達に眼をやりながら言った。
「死する忠義など見苦しい!誰か!そやつを止めよ!」
ジャデリンの号令によって、今までざわめいていた郡将達が、一斉にタクエンを捕らえようと近づいてゆく。タクエンは、ジャデリンの冷たい仕打ちと近づく諸将を見て焦った。一か八かで考えた一計が、これほど脆く崩れるとは予想していなかったからである。
(苦肉の策で出した私の忠義など、皆から見ればこの程度か…!ならば!)
タクエンは心を決めて、自らの命を張って賭けに出た。
「我が命のなんと軽いこと…くっ!」
瞬間、死を賭した演技が始まった!
首の皮に刀を当てて眼を瞑りながら、タクエンは郡将達全員に聞こえるように、城内に響き渡るような大声で叫んだ。
「私が大将と崇(あが)め!忠節を誓う将軍が、むざむざと敵の手に惨殺された姿を見るのなら!私は潔くこの場で自害し!冥府地獄で臣下の忠節を真っ当します!止めなさるなジャデリン将軍!無礼は地獄にて詫び申そうーッ!!」
叫んだ後、クワッ!と眼を開くタクエン。
近づく郡将達の前で、思い切り己の喉元に短刀を突き刺そうとした!
あわや宮中が血に染まる…!
その時、郡将の中から一人の大男が飛び込んだ!
「愚か者がーッ!」
張り裂けんばかりの大声と、バキッ!と柄が折れるような鈍い音がすると、首筋を捉えていた短刀はタクエンの手を離れ、空中に舞い、郡将の頭を飛び越えて、宮中の壁へと突き刺さった!
「それがしの前で、そのように無駄死にするつもりでござるか!」
間一髪、短刀を蹴り上げたのは、ミレム達三勇士の一人、豪傑のスワトであった。
「何故です!何故止めます!」
蹴りの反動で横へと倒れたタクエンは、周りでたじろぐ郡将達の泳ぐ目を見て、迫真の演技を続けた。だが、計算づくのタクエンの演技に対して、真顔で話すスワトは本気だった。
「愚か者!君臣の間に恩を感じ、その忠節を重んじるのであれば、なぜ説得の途中で自害などするでござる!たとえ相手に心通じなくとも、真の臣下であれば、相手を最後まで説いて振り向かせてみるものでござろう!それがしも臣下の身ではあるが、今のお主のように命を売り物の如く粗末にし、自害で人の心を動かすような愚を忠節とは思わんでござる!」
「…」
低く通る声。赤く強張る顔。
節々から異常なほど感じられる、スワトの忠義に対する熱意の表れは凄まじいものだった。
一計を案じて、軽々しく命を賭そうとしたタクエンには、このスワトという人物が、想像以上に大きく見えていた。
スワトは、踵を返すように振り返り、ただ状況に立ち尽くしていたジャデリンにも言った。
「御大将ジャデリン将軍にも一言申したいでござる!それがしのような弱将にも、忠節というものがあり申す!忠節とは、君臣を繋ぐ絆!信帝国築かれて二百年経てども、帝と我々がその絆を断った事はござらん!たとえ将が誰であれ、帝に忠節を誓う兵の一人には変わり有りませぬ!危機に瀕した味方があらば、救うのが人の道でござらぬか!なぜ無碍にも使者の忠節を拾わず、援軍を送ろうとせぬのでござりましょうか!!」
「む、むむ…それは」
スワトの強烈な言葉の羅列に、ジャデリンを含む郡将達は思わず言葉を失い、黙ってしまった。戦続きで忘れかけていた義と人の道を説かれれば、信帝国に仕える軍人として誰一人、返す言葉は無かったのである。
「スワトの言葉!最もかと思います!」
刹那的な沈黙の後。
調子を見計らい、郡将の中から一声が聞こえる。
智将ミケイを先頭に、三勇士のミレムとポウロが、バツの悪そうな苦々しい顔を浮かべるジャデリンの前に出てゆく。先頭に立ったミケイは、一度コホンと咳払いすると、いつもより声高にジャデリンに言った。
「ジャデリン将軍。抜け駆けをされた悔しいお気持ちは、このミケイ、重々お察しいたします。ですが天下のジャデリン将軍が、なんと器量の小さいことでしょう。お味方が困っているのなら、兵3千などといわず、必要なら全軍で助成すべきです」
ミケイの言葉に、ジャデリンは思わず声をあげた。
「なんじゃと!?我らの全軍で味方を救えと申すか!」
「はい全軍です。あそこまで言われて断るジャデリン将軍ではございますまい」
「む…むむう」
ミケイはすでに、面子を潰されて意固地になるジャデリンの心中を察していた。
だからこそ、わざと挑発するように声高な発言を繰り返した。
「はっはっは、まあジャデリン将軍のお心もわからなくもない。不本意でしょうから、援軍の指揮は私がとりましょう」
「なんだと!」
「なあに私の策と用兵術と、ミレム達三勇士の力があれば、頂天教軍の本拠地など簡単に勝ち取れましょう。わざわざジャデリン将軍の手を煩わさずとも…」
「おのれ!わしを愚弄するつもりか!」
「いえいえ、ただジャデリン将軍は感情の起伏豊かな方ですからな。些細な感情で、我々の邪魔をなされられても困りますし…」
「ぬううううううう!!!!おのれミケイ!!!!!」
ジャデリンは、ミケイの挑発にまんまと乗ってしまった。
顔を真っ赤にして憤慨すると鬼のような形相を浮かべ、手足体全てをワナワナと怒りに震えさせた。それを見た郡将達は、宮中に血の雨が降るのではないかとあたふた様子を窺っていたが、冷めた目と口で諭すミケイには、ジャデリンを言い負かすには余りある理屈が幾千もあった。
「このおおおおおおおお!!!」
一方的な口論を続けさせられる中、ますますジャデリンは怒りを露にし、ついには自分の座っていた椅子を担ぎ上げると、力いっぱい空中に放り投げた!椅子は放物線を描き、石造りの壁に物凄い勢いで激突し、木材を撒き散らしながら四散した。
ブゥン!バキィィィィ!
ブゥン!バキィィィ!!
ジャデリンは、言い負かされる度に物を投げた。
撒き散らされるあらゆる破片を避けるため、城内の群将達は右往左往しながら、ジャデリンのとめどない怪力ぶりに肝を冷やした。
そして、ついにジャデリンはミケイに口説き落とされた。
「はぁっ…はぁっ…くそ!わかった!わかった!4千でも5千でも、いくらでも兵を出してやる!」
「おお、ついにご決心いただけましたか…」
「だがミケイ!援軍を指揮する大将は、このジャデリンだ!勿論これは、お前の挑発に憤慨したから指揮をとるのではない!帝に忠節を誓う将兵を救わんがため、命を呈して心を動かそうとした、その使者タクエンのために指揮をとるのだ!」
「ははっ!少々見ないうちに城内が散らかりましたが、これを見て誰もジャデリン将軍が憤慨して兵を出すなどとは、つゆぞ思いますまい!では、私は準備をいたしまするので、これにて失礼を…」
「…ぬぬぬぬ!おのれ毎回一言多い男じゃっ!!!!!!」
宮中を立ち去る三勇士と、ミケイの後姿を見ながら、ジャデリンは憤慨する己の心を止めることが出来なかった。散らかされた城内で腰を抜かした郡将達にジャデリンが気付くと、怒れる獅子は吠えるように鳴いた。
「お前たち!そこで何をしておるか!!!戦じゃ!さっさと戦の準備せい!!!!!!!」
蜘蛛の子を散らすように、そそくさと城内を立ち去ってゆく将軍たち。
ジャデリンもまた、ドシドシと足音を立てて戦の準備に消えていった。
静かになった宮中を去り、妖元山の麓で待つ後詰め部隊の下へ一人早馬を駆けるタクエンの心中は、複雑なものであった。
(上手く援軍は呼び込めたが…。力攻めの腕力だけと思っていた南部官軍にも、恐ろしい才能を持った連中がいたものだ。ジャデリンの気性の粗を良く突いたミケイの進言といい、あのスワトとかいう男の忠義心といい。キレイ様の野望には、ちと目障りになるかもしれませんな…)
目の前で弱まってゆく風と雨粒の量を、その時タクエンは感じられなかった。
目先よりも遠い未来に起こるであろう、己の心に宿る確かな不安を抱え、タクエンの早馬は濡れた荒地を進んだ。遠くに見える妖元山の黒雲は、次第に晴れ間を覗かせていた。
頂(いただき)にたなびく暗雲は、ついに山を越え平地全体を取り囲んだ。
そびえる山を震わせる激しい豪雨と轟く雷鳴の音は、麓に控えたキイの後詰め部隊の目も耳も塞いでしまう。山上で起こっていたキレイ率いる部隊の惨敗、それに伴う命の危機は、彼らには見えなかった。
動く人影も、逃げ惑う足音も、敵の喚声も、味方の悲鳴も、必死に土を蹴る馬蹄も、ただ雷光と雷鳴に消えてゆく。
「無事だろうか…兄上は…」
キレイの実弟、後詰め部隊1千の大将であるキイは徐々に不安を覚えていた。
「タクエン。すでに兄上が出撃してから一刻(2時間)余、オウセイがついているとはいえ大丈夫であろうか…」
「キイ様。おそらくその不安は、的中しているものかと」
「やはりそう思うかタクエン」
「兄君キレイ様は、機智兵法に明るく、兵を手足の如く動かす御方。今回の奇襲作戦において、攻め手の進軍速度が大事なのは百も承知のはず。そのような御方が、後詰め部隊にこれほど報せを怠るとなると…」
「タクエン、このキイはどうすれば良い。やはり救出に後詰めの兵を出すべきか」
「いえ、いけません。何が起きているか判らない箇所に闇雲に兵を進めても、それは喜んで火中の栗を拾いに行くようなもの。圧倒的不利になるだけでございます」
「流石は参謀従事タクエン。この状況で冷静で居られる事が羨ましい。私は今、感情的になっている。兄を」
「キイ様、貴方は後詰め部隊の大将です。薄情者と言われるやもしれませぬが、貴方が迂闊に動いて情勢が浮き足立てば、他の兵士たちの心も動揺しますぞ。それをお判りくだされ」
「そうは言うが…。たった一人の兄の危機を黙って見ていられるほど、私は薄情に出来ていないのだ」
「私が今より早馬を駆けて、ジャデリン将軍の所へ行って参ります。必ずや多勢の援軍を率いて参りましょう。それまでは何卒(なにとぞ)、出撃を我慢してくだされ」
「わかった。頼んだぞタクエン」
「それでは…失礼いたしまする」
礼一つ浮かべたタクエンは、即座に後詰め部隊の中から足の強そうな馬を探し出し、それに跨(またが)ると、供の者も付けず、ただ一騎、雨晒しの荒野を西へ西へと駆けた。
「兄上…どうか、ご無事で…!」
キイは押し殺した声で山上を見上げながら、その拳を震わせた。
将として…いや、天下に二つと無い、たった一人の弟として。
大将キイの心中は、今まさに張り裂けんばかりであった。
― 妖元山 中央山道 ―
その頃。
オウセイ率いる騎馬隊がキレイを救出したのも束の間、長く続く豪雨が山上から流れ出す土砂を止められず、緩やかな傾斜は濁流となって騎馬隊の足の速さを奪っていく。土砂が流れた事で、突き出した岩肌は鋭さを増し、騎馬隊の進む中央山道は想像を絶する悪路となっていた。
ドドドドドドドッ!
しかもその後方には、すでに頂天教軍の迫撃部隊が間近に迫っており、雷鳴の合間に聞こえる喚声は、逃げ惑う官軍の兵達の焦燥感を煽ってゆく。
「オウセイ!後方の騎馬隊が、迫撃を受け始めたぞ!」
「ご安心めされい!拙者の指揮した精鋭たる騎馬隊に、逃げる者はおりませぬ!皆、立派に戦って死ぬでしょう!」
「オウセイ…私が無様な戦をしてしまったせいだ…すまん。腹の中では、さぞ私を怒っているだろうな」
「はっはっは!若も、人並みにくだらんことを申されるようになったか!いつも眉一つ動かさず人を殺す冷酷無比な恐将が、初めての敗戦で臆しなされたかな!」
「な、なに!誰が臆するものか!ただ、感傷的になっていただけだ!喋る暇があるなら、早く馬を走らせよ!」
「それでこそ、若でございます!このオウセイ、命尽きようとも必ず!若を守ってみせまする!はいやぁっ!」
オウセイの手に握られた手綱が、強く馬の体を打つ。
雨を弾き、風を斬りながら、大きく吠える馬の嘶(いなな)きとオウセイの声が、弱気になっていたキレイの心には、どれほど響いただろう。
オウセイは感じていた、自分の胴をしっかりと掴むキレイの腕の力が増してゆくのを。
後方から聞こえてくる、聞きなれた部下達の悲鳴を振り切り。
視線に飛び込んでくる、悪路に次ぐ悪路を見事な馬術で駆け下りて行く。
「「「 ワ ー ー ッ ! ! 」」」
だが、頂天教軍の兵達が迫撃を止める事は無かった。
勢いもそのままに後方の騎馬隊を蹂躙し始めたかと思うと、今度は落馬して往生した官軍の兵達を、命乞いも聞かずに無残に殺害してゆく。
勇猛果敢な1千5百の騎馬隊が、次々に敵の手にかかり、雨露が大地の赤を消してゆく。
キレイを救うべき動いた騎馬隊は、今ではオウセイ直属のたった百騎の武者達だけであった。被った騎馬隊の被害は甚大であり、未だ迫撃を続ける頂天教軍との兵力の差は、最早歴然であった。
ジャーン!
ジャーン!
「「「 ワ ー ー ー ー ッ ! ! 」」」
だが、頂天教軍の執拗な追撃は容赦のないものだった。
山道を駆け下りるオウセイ達の前で、銅鑼の音と兵達の喚声がけたたましく響くと、山道を囲うように生い茂る林伝いから、槍を持った頂天教軍の凡そ5百の別働隊が、道を塞ぐように現れたのだ。
「おおお…オウセイ!敵の伏兵だぞ!」
予測も出来ない事態に、顔の青ざめ始めたキレイは、差し迫る部隊を指で指しながら、オウセイに言った。味わった事のない絶体絶命の窮地の光景は、猛将オウセイの腕でさえ震わせた。
「ええい!こうなれば強行突破いたしまする!若!拙者の体にしっかりと御掴まりなされ!」
「む、無謀だオウセイ。あの敵兵を打ち崩す間に、迫撃部隊が追いつくぞ」
「では山道を避け、迂回して林道へ飛び込むまでのこと!」
「無茶だ。あれは林道ではなく、獣道だ。馬が走れる道ではないぞ!」
オウセイは、指し示す林道の暗闇を見た。
騎乗したオウセイ達の背丈と同じ程に育つ葉や草は刃のように鋭く、木々は鉄の鏃のように尖り、まばらに植えられた林がそれを覆うように永延と伸びてゆく。群生する植物の猛々しさから見るに、それは山に生きる野生の者だけが入る事を許された険しい獣道であった。
「やってみなければわかりませぬ!」
「もう良い、オウセイ」
「若!何を…」
「天は、あくまでも私を嫌ったのだ。描く野望も、繋いできた命も、今生これまでだ。介錯を頼む…今は潔く死のうではないか…!」
「自害など…!そのような雑兵の考えは、お捨てなされ!若!」
騎馬隊を挟むように差し迫る頂天教軍山道上下数千の兵。
その最中、大将でありながら自分の背中で一方的に弱々しくなるキレイの姿に、オウセイは憤った。そして憤りは言葉となり、オウセイは大声でキレイを一喝した。
「若がここで死ぬとあらば、何のために我らが生きてきたのでしょうか!」
一喝は、周囲を守る騎馬隊の兵士達にも聞こえた。
悪路を進んだ馬は豪雨に濡れてなお湯気が立つほど汗をかき、突破を繰り返した武者達の呼吸は乱れ、体は疲れ果てていた。
だが、彼らには一つ。疲弊していない一つの結束があった。
それは、故郷を出て今まで付き従ってきたオウセイへの忠義心であった。
「それっ!我らは前の敵を防ぐぞ!」
「ならば私は後ろを防ぐ!オウセイ将軍!後は任せましたぞ」
「オウセイ将軍!どうか、ご無事で!」
「お二人が逃げる時間ぐらいは、稼いでみせまする!」
「我らがオウセイ将軍のためなら、この命など惜しくないわ!」
騎馬武者達は、大きく槍を天へ掲げながら口々に言った。
「お、お前たち…忠義に命を賭すつもりか」
言葉を聞いたオウセイは、張り詰めた顔と目で兵士達を見た。
そして…目蓋を閉じて、首を前にのめらせ兵士達の見守る中、頭を深々と下げた。
オウセイ直属の騎馬武者達は、上官であるオウセイのその姿を見ると、負傷して重くなる腕や足を奮い立たせ、次々に迫る無数の敵軍の中へ飛び込んでいった。
「…若!行きますぞ!」
「あ、ああ…」
忠義に溢れ、勇敢な兵士達の姿を背にオウセイは、再び手綱を強く握り、馬の腹を蹴りたてて駆けた。馬蹄の音は、林道の獣道へと消えてゆく。その後ろから聞こえる、頂天教軍に飛び込んだ騎馬武者達の最期の声が、ただオウセイの心を痛ませるのだった。
(…天よ!若を殺せず、さぞかし面白くなかろう。だが見ていただろう!我らが忠節の臣下が一人でも居る限り、例えお前が百難与えても若は殺せぬぞ!…殺せぬぞッ…!)
心の中で天を仰ぐオウセイの騎馬は、キレイを抱え、ただ闇雲に薄暗い獣道を進んでゆく。
上空を包む黒雲は、まだ晴れる兆しも見えなかった。
― 封城(フウジョウ) 宮中 ―
一方、こちらも早馬を走らせていた参謀従事タクエンは、ジャデリン率いる南部官軍が占拠していた居城『封城』に辿り着き、軍議中であったジャデリンと面会し、濡れた衣類を叩き乾かす事もなく、ただ郡将達の前で平伏していた。
「急使か?そのようにずぶ濡れで参って。如何致した」
「火急の用にて推参仕り、軍議中のご無礼申し訳ありません。私は、官軍大将キレイの参謀従事を勤めまする、タクエンと申す者にございます」
「して、そのタクエンが、何をしに封城へ参ったのだ?」
「はっ!大将キレイが頂天教軍の本拠地妖元山へと向かいましたが、悪天候により危機に瀕し、おそらくこのままでは全滅も…そこでジャデリン将軍に、お頼み申す儀がございます」
「ふむ、申すがよい」
「つきましては南部官軍の兵3千をお借りしたい!」
「なんじゃと!」
ジャデリンは、タクエンの法外な願いに対して思わず憤慨した。
椅子の肘掛けについていた手を、ワナワナと怒りに震わせながら上へ持ち上げると、バンッと音を立てるように木製の肘掛けを叩いて鳴らせる。
「お前は知らんのだ!兵3千を貸すという意味が!お前のような若輩が、ぬけぬけと良く申すわ!顔も今日知った程度のお前に、軍の半数以上を貸してやる義理など、わしにはない!」
「無理は承知の上でございます。何卒大将を救うため、お聞き入れくだされ」
「馬鹿も休み休み言え!お前の大将キレイは、わしとの約束を破ったのだぞ。互いの官軍が進軍する時には、両軍とも必ず事前に報告を行う約束だったはず。お前の大将が行ったことは、抜け駆けも同じこと!規律あって軍を任される将が、規律を破るなど言語道断ではないか!」
「大将キレイは若く、功名に走ったのは事実です…ですがジャデリン将軍。良くお考えくだされ。今ここで援軍を送らねば、頂天教軍は勢いを取り戻し、官軍5千の兵が無駄死にすることは必定…!」
「だまらっしゃい!!!そのように『もっともらしく』物を言えば、わしが兵を出すと思うか!自らの功名に走り、抜け駆けした官軍の大将が危機に陥ったからといって、それを救うために我々の兵をよこせとは、なんだ!白々しく虫の良い事を申す無礼者め!」
「無礼は敵に勝ってから重々に詫び申します。今は、私にただ黙って兵をお貸し与え下され!でなければ大将キレイの命が危ういのです」
「その忠義心は立派だが…!それはそれ!これはこれじゃ!危機に陥ったとて、それは自業自得!わしが怒らぬ内に、早々に立ち去れ!我々は軍議で忙しいのだ!」
ジャデリンは手を数度空中に振ると、跪くタクエンを散々邪険に扱った。
傲慢な態度を放つキレイに対して、元々良い感情を持っていなかったジャデリンは、始めから援軍を出すつもりは無かった。タクエンの話した事情も、彼の怒りの火に油を注いだ。互いに結んだ約束を反故にされ自分より若い者に抜け駆けを許し、諸将の前で面子を潰されてまで援軍を出すほど、ジャデリンはお人好しでは無かった。ジャデリンとタクエンを見守る郡将達も、このジャデリンの裁きには、「最も」だと概ね納得して、誰も官軍の仲間であるキレイを救おうとするタクエンに賛同する者は居なかった。
「…このままでは…」
タクエンは跪きながら、席を立つジャデリンの眼を引こうと一計を案じた。
「…宮中にて御免!」
「うっ!?貴様、なにをする!!」
タクエンは、自らの腰に差した短刀を抜き喉元へ突き立てた!
前にキレイが行いかけたことだが、宮中や軍議において武器を抜くことは、たとえどんな者であっても軍においては最大の無礼であり、帝国に仕える者なら、それがどのような理由であっても『してはならない』禁忌の所業であることを知っていた。
「私の言が通らねば、仕方ありませんな!この短刀で我が喉を突き、この忠義の心と引き換えにジャデリン将軍に援軍をお願い致す所存でございます!」
ザワザワ…ザワザワ…
鬼気迫るタクエンの喉元へ少しずつ近づく、ギラリと光る銀色の刃。
見た郡将の誰もが動揺を隠しきれず、ざわめく城内は、あっという間に緊張感に包まれた。
思わず席を立つジャデリンだったが、刀を抜く動揺よりも先に怒りが出た。
「ふざけるな!汚らしいお前の血で、城内を汚すつもりか!大将が大将なら、部下も部下だな!無礼極まりない厚顔どもめ!」
そして、ジャデリンは城内の郡将達に眼をやりながら言った。
「死する忠義など見苦しい!誰か!そやつを止めよ!」
ジャデリンの号令によって、今までざわめいていた郡将達が、一斉にタクエンを捕らえようと近づいてゆく。タクエンは、ジャデリンの冷たい仕打ちと近づく諸将を見て焦った。一か八かで考えた一計が、これほど脆く崩れるとは予想していなかったからである。
(苦肉の策で出した私の忠義など、皆から見ればこの程度か…!ならば!)
タクエンは心を決めて、自らの命を張って賭けに出た。
「我が命のなんと軽いこと…くっ!」
瞬間、死を賭した演技が始まった!
首の皮に刀を当てて眼を瞑りながら、タクエンは郡将達全員に聞こえるように、城内に響き渡るような大声で叫んだ。
「私が大将と崇(あが)め!忠節を誓う将軍が、むざむざと敵の手に惨殺された姿を見るのなら!私は潔くこの場で自害し!冥府地獄で臣下の忠節を真っ当します!止めなさるなジャデリン将軍!無礼は地獄にて詫び申そうーッ!!」
叫んだ後、クワッ!と眼を開くタクエン。
近づく郡将達の前で、思い切り己の喉元に短刀を突き刺そうとした!
あわや宮中が血に染まる…!
その時、郡将の中から一人の大男が飛び込んだ!
「愚か者がーッ!」
張り裂けんばかりの大声と、バキッ!と柄が折れるような鈍い音がすると、首筋を捉えていた短刀はタクエンの手を離れ、空中に舞い、郡将の頭を飛び越えて、宮中の壁へと突き刺さった!
「それがしの前で、そのように無駄死にするつもりでござるか!」
間一髪、短刀を蹴り上げたのは、ミレム達三勇士の一人、豪傑のスワトであった。
「何故です!何故止めます!」
蹴りの反動で横へと倒れたタクエンは、周りでたじろぐ郡将達の泳ぐ目を見て、迫真の演技を続けた。だが、計算づくのタクエンの演技に対して、真顔で話すスワトは本気だった。
「愚か者!君臣の間に恩を感じ、その忠節を重んじるのであれば、なぜ説得の途中で自害などするでござる!たとえ相手に心通じなくとも、真の臣下であれば、相手を最後まで説いて振り向かせてみるものでござろう!それがしも臣下の身ではあるが、今のお主のように命を売り物の如く粗末にし、自害で人の心を動かすような愚を忠節とは思わんでござる!」
「…」
低く通る声。赤く強張る顔。
節々から異常なほど感じられる、スワトの忠義に対する熱意の表れは凄まじいものだった。
一計を案じて、軽々しく命を賭そうとしたタクエンには、このスワトという人物が、想像以上に大きく見えていた。
スワトは、踵を返すように振り返り、ただ状況に立ち尽くしていたジャデリンにも言った。
「御大将ジャデリン将軍にも一言申したいでござる!それがしのような弱将にも、忠節というものがあり申す!忠節とは、君臣を繋ぐ絆!信帝国築かれて二百年経てども、帝と我々がその絆を断った事はござらん!たとえ将が誰であれ、帝に忠節を誓う兵の一人には変わり有りませぬ!危機に瀕した味方があらば、救うのが人の道でござらぬか!なぜ無碍にも使者の忠節を拾わず、援軍を送ろうとせぬのでござりましょうか!!」
「む、むむ…それは」
スワトの強烈な言葉の羅列に、ジャデリンを含む郡将達は思わず言葉を失い、黙ってしまった。戦続きで忘れかけていた義と人の道を説かれれば、信帝国に仕える軍人として誰一人、返す言葉は無かったのである。
「スワトの言葉!最もかと思います!」
刹那的な沈黙の後。
調子を見計らい、郡将の中から一声が聞こえる。
智将ミケイを先頭に、三勇士のミレムとポウロが、バツの悪そうな苦々しい顔を浮かべるジャデリンの前に出てゆく。先頭に立ったミケイは、一度コホンと咳払いすると、いつもより声高にジャデリンに言った。
「ジャデリン将軍。抜け駆けをされた悔しいお気持ちは、このミケイ、重々お察しいたします。ですが天下のジャデリン将軍が、なんと器量の小さいことでしょう。お味方が困っているのなら、兵3千などといわず、必要なら全軍で助成すべきです」
ミケイの言葉に、ジャデリンは思わず声をあげた。
「なんじゃと!?我らの全軍で味方を救えと申すか!」
「はい全軍です。あそこまで言われて断るジャデリン将軍ではございますまい」
「む…むむう」
ミケイはすでに、面子を潰されて意固地になるジャデリンの心中を察していた。
だからこそ、わざと挑発するように声高な発言を繰り返した。
「はっはっは、まあジャデリン将軍のお心もわからなくもない。不本意でしょうから、援軍の指揮は私がとりましょう」
「なんだと!」
「なあに私の策と用兵術と、ミレム達三勇士の力があれば、頂天教軍の本拠地など簡単に勝ち取れましょう。わざわざジャデリン将軍の手を煩わさずとも…」
「おのれ!わしを愚弄するつもりか!」
「いえいえ、ただジャデリン将軍は感情の起伏豊かな方ですからな。些細な感情で、我々の邪魔をなされられても困りますし…」
「ぬううううううう!!!!おのれミケイ!!!!!」
ジャデリンは、ミケイの挑発にまんまと乗ってしまった。
顔を真っ赤にして憤慨すると鬼のような形相を浮かべ、手足体全てをワナワナと怒りに震えさせた。それを見た郡将達は、宮中に血の雨が降るのではないかとあたふた様子を窺っていたが、冷めた目と口で諭すミケイには、ジャデリンを言い負かすには余りある理屈が幾千もあった。
「このおおおおおおおお!!!」
一方的な口論を続けさせられる中、ますますジャデリンは怒りを露にし、ついには自分の座っていた椅子を担ぎ上げると、力いっぱい空中に放り投げた!椅子は放物線を描き、石造りの壁に物凄い勢いで激突し、木材を撒き散らしながら四散した。
ブゥン!バキィィィィ!
ブゥン!バキィィィ!!
ジャデリンは、言い負かされる度に物を投げた。
撒き散らされるあらゆる破片を避けるため、城内の群将達は右往左往しながら、ジャデリンのとめどない怪力ぶりに肝を冷やした。
そして、ついにジャデリンはミケイに口説き落とされた。
「はぁっ…はぁっ…くそ!わかった!わかった!4千でも5千でも、いくらでも兵を出してやる!」
「おお、ついにご決心いただけましたか…」
「だがミケイ!援軍を指揮する大将は、このジャデリンだ!勿論これは、お前の挑発に憤慨したから指揮をとるのではない!帝に忠節を誓う将兵を救わんがため、命を呈して心を動かそうとした、その使者タクエンのために指揮をとるのだ!」
「ははっ!少々見ないうちに城内が散らかりましたが、これを見て誰もジャデリン将軍が憤慨して兵を出すなどとは、つゆぞ思いますまい!では、私は準備をいたしまするので、これにて失礼を…」
「…ぬぬぬぬ!おのれ毎回一言多い男じゃっ!!!!!!」
宮中を立ち去る三勇士と、ミケイの後姿を見ながら、ジャデリンは憤慨する己の心を止めることが出来なかった。散らかされた城内で腰を抜かした郡将達にジャデリンが気付くと、怒れる獅子は吠えるように鳴いた。
「お前たち!そこで何をしておるか!!!戦じゃ!さっさと戦の準備せい!!!!!!!」
蜘蛛の子を散らすように、そそくさと城内を立ち去ってゆく将軍たち。
ジャデリンもまた、ドシドシと足音を立てて戦の準備に消えていった。
静かになった宮中を去り、妖元山の麓で待つ後詰め部隊の下へ一人早馬を駆けるタクエンの心中は、複雑なものであった。
(上手く援軍は呼び込めたが…。力攻めの腕力だけと思っていた南部官軍にも、恐ろしい才能を持った連中がいたものだ。ジャデリンの気性の粗を良く突いたミケイの進言といい、あのスワトとかいう男の忠義心といい。キレイ様の野望には、ちと目障りになるかもしれませんな…)
目の前で弱まってゆく風と雨粒の量を、その時タクエンは感じられなかった。
目先よりも遠い未来に起こるであろう、己の心に宿る確かな不安を抱え、タクエンの早馬は濡れた荒地を進んだ。遠くに見える妖元山の黒雲は、次第に晴れ間を覗かせていた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます