鮎の俳句日記

その日の徒然を載せていきます

苗代桜

2012-04-13 20:10:30 | 句鑑賞 Ⅰ(土)




下呂市 佐和  苗代桜
ホームページより おかりしました。




      水張田のさかさ桜に魂とらる



        平成17年  柴田由乃






下呂市の苗代桜の句である
この桜の花の咲くのを見て苗代の準備始めたことから 苗代桜という。

山際の水田の奥にたつ 二本の姉妹桜で 樹齢約400年
樹高は 大きいほうが30メートル
小さいほうが25メートルの大木である

毎年満開ころになると 夜ライトアップがされ
二本の桜が幻想的な姿を となりの水田に映し出す
桜は上をむいて見るものと思っているとここの桜は違う
農道から水田の中を覗きこむのである。

昼間の水張田と異なり
夜ライトアップされた水田の水は 鏡のように反射する
そうすると天空の真っ暗闇の中に淡い桜の姿がいっそうの深みをまして
逆さに映しだされるのである。

「息を呑むような」
という言葉があるが まさにぴったりの形容である

この句はそれを「魂を取られる」と表現しているのである


俳句の対話術より
今津大天













写真は この桜とはちがいますが

水に映った桜もきれいです。

今日の大垣の桜は散り始めました。

花吹雪と 

花筏の

春の風景画でした。






明日から また桜です。

吉野の桜を見にでかけてきます。


神 仏

2012-04-04 21:10:57 | 句鑑賞 Ⅰ(土)




  白魚飯神も仏も吾の味方


       柴田由乃  平成14年




これは本質的に神仏との付き合いの深さの問題である。
人間でも付き合いの深い人の言うことは
簡単に信ずることができるし
また そう信じても大きな間違いてはない。
それと同じことが神仏とのつきあいについても言えるのではないか

いつも 神仏のことを考えている人
そういう人なら
神仏が現れてもすぐに感応可能だろう。
また いつも神仏の助けを求めている人も
簡単に神仏に感応できるだろう。

こういう経験を重ねて行くなら
神仏と親しい関係を結ぶことも 不可能ではない。
問題は神仏が具体的な人間の味方になるかどうかだが
これは神仏と人間の間に友情が成立すれば 可能だろう。
また、そうでなくとも阿弥陀如来なら
だれでも 助けてくれるはずである。
このことが 確信できるなら
「神も仏も吾の味方」との
断定表現はけっして大げさでも荒唐無稽でもない。

今津大天
俳句の対話術より





神 仏はあるという
それも いつも 私の味方であるという。

人はいつでも 頼りたいものがあります。
神仏にそれを求めるのは当然の人の行い

阿弥陀さまは いつも みていてくださるのです。

教えられた気がいたします。

先生

2012-03-28 11:19:10 | 句鑑賞 Ⅰ(土)








       春興や余生小粋にしたたかに



          柴田由乃  平成12年





私の所属している 名誉主宰の
柴田由乃先生が 一昨日亡くなられました。


私は俳句を習い始めて日が浅いです。
その 由乃先生に習い始めたきっかけは
ただ 単にカルチャーが ちかくにあったというだけです。

でも 良い先生で 出会いを大切にしていました。
その先生が とうとう お亡くなりになってしまいました。

私には
「俳句は下手でいいのよ 心のあるものを詠いなさい」
と おしえてくださいました。

難しいことは いわなくていい 心のあるものを と

この 先生は 幼いころ 三つぐらいの時に
両親に死に別れていられ 数奇な運命を歩かれました。

苦労していられるだけ 私たちには良くしてくださいました。



先生のお句に

          ふらここや揺られ死ぬ日のこと思ふ


             柴田由乃 平成8年





この句にご主人の大天先生が句評をつけていられます。


後ろから死者に背を押され
また 前からも死者に手を引かれ
ふらここは 揺れ続ける
死と死の往還 それが 人生なのである。

地が揺れ 天が傾き 加速度の増減に
五臓六腑が悲鳴をあげる
この時もし自分の体感を失ったならば
地面に叩き付けられるだろう
死とはもしかしてふらここから落っこちるようなものかもしれない。

「ふらここ」というのは単に生の運動ではない。
どうゆう訳か 存在には
生と死が合わせ鏡のように組こまれているのである。

この句では「ふらここ」が生と死の
微妙なバランスを表しながら
いつかはそこから降りなくてはならないという
離脱の必然をも感じさせている。

俳句の対話術
今津大天 より


「ふらここ」というのは ブランコのこと
由乃先生 ブランコから 落とされてしまったのかな。



2012-03-20 11:35:20 | 句鑑賞 Ⅰ(土)






            凧糸のなくなるまでを天へ解く




                   柴田由乃



「つちくれ」平成14年5月号より


「凧糸のなくなるまでを天に解く」 とは
風を孕んだ凧の圧力と凧糸の感覚を手にかんじながら
慎重に糸を伸ばしていくのである

凧揚げの感覚は、普段は感ずることのできない
大空を糸を通した手の感覚で捉えることにある
また 大空の中の飛翔感を凧を通して味わうことにもあるのだろう

もし 凧糸が軽くて無限に強かったとしたら
凧はどこまでも天に向かって揚がっていくかもしれない

この句を読んで
「あなたの手が届くよりも更に先へ手を伸ばし
手の届かないことは何もないのだということを思い出すように」との
神の言葉が思い浮かんだ

人間は物分りが良すぎて
すぐ自分に限界を置く
せめて 「凧糸のなくなるまでを天に解く」のが よいだろう

この句は運命の糸を全部使いきり
解き放って天に向かおう と言っているのだ。


          今津大天「俳句の対話術」より





凧は春の季語です。
春の季節風にあおられて高く高く揚がる凧

その凧糸に限界がなかったら
それも やはり 程ほどがいいと作者は言っていてくれるのでしょうか。

人生を考えさせられる
良い句です。


芽ぐむ

2012-03-13 19:58:24 | 句鑑賞 Ⅰ(土)




        木々芽ぐむ月の満つるを力とし



             柴田由乃




「つちくれ」平成14年より


昔から月の力が人間の精神や生理に大きな影響のあることは知られているが

揚句はその力が植物にも及ぶことを詩的に表している


「月の満つるを力とし」というは措辞は、擬人法を越えた文字通りの関係を想起させる。

木々の芽ぐむ命の力と月が満ちていく力との間の相関、
大自然の不思議な働きを感じとった句である

これからの人間には、自然を単に科学的、
客観的な証明可能性や利用可能な資源や今はやりの地球環境保全問題として扱うのではなく
木々と月とが語り合うように、人間も心や直感で自然と語る必要があるだろう。

俳句において季語は表現の束縛でなく
自然よりの贈り物であり、自然と人間の新しい関係を築くための僥倖だと言えるだろう。



俳句の対話術より

今津大天




春の朧の季節がまいりました。

その月は人間にも 植物にも 力を及ぼすという。

あの 「かぐや」が住んでいる月

月を愛でるには良い季節になってまいります。





句鑑賞 花

2012-03-09 21:13:17 | 句鑑賞 Ⅰ(土)




今年初めて見た桜です。

この枝だけ花が開きかけていました。

今日はそれにちなんで この句を選びました。




混み合ひて目あかぬ花もありぬべし


            浜 明史


               句集「人日」より





この句を読んで 混みあってついに咲かぬままになる花もあるのかと
不思議な感じがした。

もちろん この句は 
花を咲かせている桜の木を愛でているのだが
その光景を逆説的に「目あかぬ花もありぬべし」と 言ったところが おかしい

この句を団塊の世代の人が読むと
感慨はいっそう深いものとなる
本来花の多さは木の勢いの盛んなことを示す
それと同様に 人口の多さ 密度の高さはその国の勢いを示すといえるだろう
しかし その余りの多さゆえ 返って 
その中には目のあかぬ花となる運命の人もいるのかと
わが身を振り返って思う

しかし 評者は
「目あかぬ花もありぬべし」
の 言葉の背後に
「目あかぬ花などあるわけがない」
との 真実が表出されているとも感じる


今津大天
俳句の対話術より


句鑑賞 寒紅

2012-03-07 18:23:36 | 句鑑賞 Ⅰ(土)






        寒紅や鬼火が程のうらみごと



           柴田由乃




好ましいことではないが
この世はうらんだり 恨まれたりの業を積んでいきているのが常である

全然人をうらんだことの無い人は幸せである
しかし そういう人でも
一度も人に恨まれたことがないかどうかとなると
自信がもてないのではないか。

この句の核心は「鬼火が程のうらみごと」と言ったところにある

鬼火とは「火の玉」「陰火」「ゆうれいび」をさす
この句のすごさは
なんといっても「鬼火」という言葉の迫力が一番大きい

そこに「うらみごと」が連なり
その上に「寒紅や」と駄目が押されているのだから
この句にはとてつもない作用がある
(とくに評者には 恐ろしい)

その作用を中和するように 「鬼火が程の」と言われてである

これによって もしかしたら
鬼火が程の「小さなうらみごと」のことを言っているのだろう と一時読者を安心させるが
しかし 本当はは「ちいさい」のではなく
鬼火のように不気味に燃える「うらみごと」かもしれないのである。

身口意の三業と言う言葉をご存知だろうか
「体と言葉と心の行い」 と言う仏教語である

仏教では
この (過去から現在に至る)三つの行いがその人と
その人の現在と未来の環境を形つぐるというのである。

したがって 現在の不幸を嘆く前に
自らの行いを反省し 新しい業の種をまかぬよう
三業を清浄にせよ というのが 仏陀の教えなのである

己の思念と言葉と行為で人を傷つけず
人の助けになるようにせよ いうのだから
これが できれば だれもが仏である

その意味で 揚げ句は 仏になれぬ わが身を
女人なるが故の業をなげいた句ともとれる

言葉と行為の元となるのが心 思念である

だから 
まず第一に心を清浄に保たねばならない
しかし 心というのはゆらゆらととられどころがない
従って 良い心にはよい言葉と よい行為を添えてやるのがよい

仏像の手の印は 実は思念調え心を鎮める効果もあるのではないか
それは 仏の手の印と同じ形を作ってはたして悪念を抱けるかどうか
実験してみるとよいが しかし もしかしたら ことは
それほど簡単なことではないのかもしれない。




今津 大天

「つちくれ」句鑑賞より




柴田由乃氏と今津大天氏はご夫婦です。
柴田先生は 若いころからのお名前で句を発表されていますので
れっきとした ご夫婦

(とくに評者には 恐ろしい)

由乃先生は 歯に絹をきせぬ言い方はされますが
心は お優しいかたです。

(とくに)に つい にんまり してしまいました。

鬼はどこにも いるものらしい。
今年も一年無事に暮らせますように。



句鑑賞 春の句

2012-03-05 14:09:38 | 句鑑賞 Ⅰ(土)





        のこる世は神と綱引き独活膾




              柴田由乃





「のこる世」というのは、余生、のこされた人生という意味だが

「神と綱引き」というのは 神は綱をあの世の方へと引っ張るが
自分は引かれまいとして踏ん張っているということである。

「独活膾」の「独活」の文字が結局は一人で生き
そして 死んでいく人生を間接的に表しているようで おもしろい季語である。

しかし「神と綱引き」というのは 神との競争とも取れる
神と競争するなんて不遜な考えだが しかし 神は
本当は神と競争するような人間が出てくるのを待ち望んでいるのではないか

何しろ神が人間を作ったのだ
その人間が神より劣っているわけがない。
(もし 神より人間が劣っていたら それは神がへまをしたことになる)

人間には最高に達する権利がある 知恵も能力もある
最高と言うのは もちろん神である

だから 神と 綱引きをして 勝ったらいいのではないか


       「つちくれ」 句評
        今津大天 より





残る 余生 健康にも自身がなくなり 体も 弱ってきます
そんな時 人は神によって生かされているのを感じるものなのでしょうね。

そうなんです、神に勝て 人生を 楽しんで長生きしましょう。

季語の独活 句に妙に マッチして いいですね。


句鑑賞  小春日

2012-03-04 09:50:23 | 句鑑賞 Ⅰ(土)



小春は冬の季語ですが あえてこの句評をお知らせしたく載せてみます。





   小春日や人とはいへぬ身を拭かる


               柴田由乃




作者は 腸の手術ををし その後腸閉塞を併発し
まともな食事が一度も出来ない状態が何ヶ月も続いている

体重も十キロ以上減ってしまった
一番悔しい思いをしているのは本人であるが
病気は自分持ちである。
病気を人のせいにする訳にはいかない。
当人がそのことを一番よくしっている
しかし 端から見ていても愚痴をいいたくなってあたりまえと思うが
愚痴らしい愚痴を未だきいたことがない

その作者が「人とはいえぬ身」と嘆いた
俳句の嘆きには偽者が多いが これは本物の嘆きである

私が作者から学んだ大切なことのひとつに
「正直」がある
己を正直に客観的に述べる
普通の人なら脚色したりするところも 作者はあくまで真正直である

病院にいって することは
ただ 一緒にいるだけ
それが 重要な日課となった。

「つちくれ」 12月号
朱帖抄鑑賞より  今津大天




この句は私たちの結社の先の主宰の句です。

今 大病にかかられて 身を病院に おかれています。

その ベットのなかからの 叫びの句です。


悔しい思いをしていられるのは 御本人が一番でしょう。
しかし その連れ合いである 大天先生も同じ想いでいられるのでしょう。

この 句と 句評に ご夫婦の強い絆を感じています。

そして 句を詠んでいく上で大切なこと
それは 自分の心に真正直であれ

自分の身が思うようにならない
そんなときにも 大切なことを導いてくださっているのを感じる句です。



句鑑賞 お遍路

2012-03-03 13:16:18 | 句鑑賞 Ⅰ(土)




遍路びと太平洋に手を洗ふ

            柴田由乃



この句は「第42回全国俳句大会」の応募句で 特選と入選を得た句である。

技巧の「ぎ」の字も無いような荒削りな表現に心を揺さぶられたかのようだった。

選者からは「太平洋に手を洗ふ」といっても足摺岬かも知れないし
静岡の海岸かも知れない
これだけでは 何所でもよいが"
遍路びとがその場所をきっちりと限定している。

しかも 遍路「びと」が仮名書きにされているのも たとえ 自分のことであっても
情景が客観視され 描写が確かなものになっている。

この句はこのように細かいところに気を配った句で
作者はきっと良い師の指導を受け
また 後進の指導にも細かいところに気を配っているのが分かる
との 講評をいただいた。


この年は3月上旬と下旬の2回 車で区切り打ち遍路に行った
その2回目は 18番阿波の恩山寺から36番土佐の清滝寺であった

この句は途中室戸岬に立ち寄った時の句である
荒々しい海岸に出て太平洋で手を洗ったのである
太平洋に比べてわが身の余りの小ささと無意味を知った

しかしこの句では 己の小ささよりも太平洋で手を洗うことによって
太平洋とつながったかのような遍路びとの大きさがむしろ心にせまってくる。

お遍路は旅の厳しさを大師との同行二人と念じて耐えて歩く
車遍路でも大変なのに 歩き遍路の辛さ 厳しさは想像を絶する

8月の区切り打ちでは初めて歩き遍路の人と宿で話ができた。
若い女性がいたのには おどろいた

人々は自分より大きな何かとの繋がりを求めている
信仰と言うのは必ずしも明確な形をとるとは限らないが
遍路というもの 何か大きなもの 確かなものを求めての旅なのだ

この句はその大きなものとの繋がりを
「太平洋に手を洗ふ」と捉えたとも取れる。

今津大天 俳句の対話術より




春になりました。
お遍路には良い季節になりました。

良い季節でも厳しい 山あり谷ありの道です。
お大師さまとの 遍路みち 
太平洋で禊をされた 
お大師様とのより大きな つながりを感じます。