goo blog サービス終了のお知らせ 

日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

仕事、好きですか?

2017-05-04 18:08:39 | ものの見方 考え方
こんにちは。
風爽やかな五月、そんな一日でした、皆さんのところは如何でしたでしょうか。

                        

先日から申しておりますが、この連休中もずっとお仕事の方もおられる事と思います。
お疲れ様でございます。

その仕事ですが、しなくてはならないからしておられるでしょうか、当然仕事をして、究極には食べていくため
ではありますけれど。
仕事の最中、しんどいと感じつつ、しておることも多々ありますよね、これも当然。
ですけれど、しなくてはならない、と思いながらしていると、どこかで自分がつまづく気がします。
その仕事に就く際に、何かこうしたい、と希望を持って取り組んでいたとしても、なかなかそればかりでは
出来ないことも多くあるとも感じます。
難しい、と感じる場面にも直面するかもしれませんね。

                        

ところで、自分自身、オバサンなんですけれど、結構車が好きでして^^;。
とはいえ、マニュアルは乗れません;。
えーっと、言い訳させてもらうとですね、免許を取りにいくとき、主人に今更マニュアルなんざ使うことも少なかろうから
オートマだけで取りに行け、と言われまして。
イヤイヤ、ある日、山ん中で動けなくなりました、折りしも此処へ軽トラがあります、でもミッション車で自分乗れません;
とかなったら、どうするんね?
と聞くと、そんときゃ、そんときでなんとかなる、とにかくおまえ、オートマにしとけ、と言われてそのままオートマ限定と
なった次第です。
そんな人間ですので、えらそげに、車好きです、なんて胸張って言えないんですけどもね;。

ま、そんな自分の事情はさておいて(すみませんね、脱線ばかりで)
最近は、ユーチューブ等で様々な車の映像も出ておりますね。
それこそ千差万別ですけれど。
そういう中で、ある中古車屋さんなのですが、ご自分方が扱っておられる車を自分達でまず試しに乗ってみて、その映像を
そのままアップされているものがあります。
(取り扱っておられる車が外車ということもあり、結構お高いものばかりではありますけれど)
元々、その方々が車がお好きということもあるのでしょうけれど、車を走らせながら色々とご自分なりに感想を
述べつつ、時にはアクセル吹かしつつ、ともすれば男の子が大好きなおもちゃを与えられたかのごとく、楽しそうに
走らせておられます。
あくまでも仕事の中の一環としてなさっておられるわけですけれど、見ているこちらまで楽しくなりそうな、その
彼らの表情を見ているだけで、つい釣られて笑ってしまいそうです。
(車が好きでもなんでもない方にとっては、どうでもいい話かとおもいますけど、すみません)
この、仕事ではあるけれど、自分の好きなことだからこそ楽しんで出来ている、だからこそ活き活きしているし
何より彼ら自身が面白いと感じている、その様が伝わってくるのが何よりも楽しい、そう思います。

人間、自分の好きなことをしている時は瞳孔が開いているそうです。
(逆に嫌いなことをしている時は、目が死んでいるとかいいますよね。)
テンションも上がるし、声も自然と大きくなっているし、ともすれば時間すら忘れて、やっていることそのものに
没頭しています。
これが自分自身の大好きな趣味だとそうだけど、仕事となるとそうはいかない、そう皆さん考えておられるでしょうね。
確かに仕事で、そこまでのめり込めないし、そもそも仕事は楽しめるものではない、と思っておられるのが普通かもしれません。
ですけれど、その仕事の中でもどこかで、これ面白いとか楽しいとか、ふと気づくと時間忘れてやっていたということが
ないでしょうか。
これは、先ほどの例で出させて頂いた車屋さんの話とは、また違う種類のことかもしれません。
全くの楽しい、面白い、ばかりだけでは語れない部分かと思います。
それでも、どこか自分がその部分に対して興味が持てるところがあるのでは、と思います。

ねばならない、でするのではなく、まず自分がそのことに対して気持ちが入っていけるか、楽しく感じられるか
そこから考えてみてもいいのではないのかな、そう思います。

こう書きながら、そりゃ無理だよ、と感じている方もまだまだ多いと思います。
単純に、お金を稼ぐために仕事はするもの、そう考えている人の方が多いでしょう。

でも、続けていこうとするならば、やはり好きでないと続かない、そうも思います。
イヤイヤやっても、目が死んでるだけ、気持ちもウツウツするだけ、そう思います。

それでも、今の仕事を続けるなら、ちょこっとでもいいので楽しい部分を見つけてみてください。
自分の楽しめることを見出してみてください。
ほんの少しですが、見える世界が違ってくるかもしれませんよ。

                          

やれやれ、自分でもどうこの話、着地出来るか、ヒヤヒヤものでした。
ものすごく生意気なことを書かせて頂きまして、すみませんです;。

でも、どうせ生きるなら、人生楽しい方がいいですもんね。
笑える人生、一緒に過ごしましょう。

                        














コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一番美味しかったのは?

2017-05-02 16:05:21 | ものの見方 考え方
こんにちは。
快晴ではありませんが、高層雲というのか筋雲が見えたりして爽やかな日ですね。
天候がやっと季節に追いついてきた?という感じでしょうか。

                       

そんな五月、折りしも連休でもあり、皆さんお出かけの方も多いのではと思います。
(もっちろん、先日申しました如く、お仕事の方もいらっしゃるかと思ってますよ)
行楽となると、お弁当はつきものですね。
奥様やお母さんに作ってもらったお弁当を持って出かける、そうして現地で食べるこのお弁当がこれまたなんとも
美味しく感じられるものですよね。

そうした中で、これまで食べたそれらのお弁当、どこで何を食べたのが一番美味しく感じられましたか?
景色の良い場所で、仲の良い家族と食べたお弁当でしょうか、それとも気の置けない友人らとワイワイ言いながら
食べたランチでしょうか。

自分はですね、これまでで一番美味しいと思い、印象に残っているお弁当があります。
どこかの高い仕出し弁当だったのか、はたまた自分で詰めてったおにぎり弁当だったのか。

                       

実は、そのどちらでもなく、美味しいと感じたのは、どこにでも売っているようなコンビニのお弁当です
それはどうしてなのか、ですよね。
よほど、コンビニの中でも高いのを選んだからなのか、出来立ての熱々ご飯を入れてもらったからなのか。
いえ、そのどちらでもありません。

昨日、この五月は正五九の御祓い(しょうごくのおはらい)と称して、神棚を祀っておられるあちこちの信者さんのお宅へ
参らせて頂くと書いておりましたが、お弁当はそんな時に買って食べたものです。
                      
たまたま出向いた先は、島の方でして、そこへ渡り、島にあるコンビニで買い求めたものだとおぼろに記憶しております。
もう随分昔の話ですし、お弁当の種類もそれほどあるわけでもなかったかと思います。
ともあれ、お弁当を買い、御祓いの時間までまだあるようでしたので、車の中で一人そのお弁当を広げ、いっただきま~すと
食べ始めました。
その時、ふとそのお弁当を包んでいた周りのビニールシートを見ると、それを製造した日付と場所が印刷されていました。
時刻は午前2時、場所はその居た場所から数十キロ離れた工場のようでした。
中に入っている具は、お世辞にも高いものなど入っていません。
それこそ、赤いウィンナだとか卵焼きだとか、ありきたりなおかずとおにぎりです。

でも、その時、その作られた時刻を見て、自分が寝ている時間にこの工場の人たちは、これらの弁当に詰めるおかずを
たとえそれが既製のものを使っていたとしても、一つ一つ自分たちで焼いたり揚げたり、またご飯を型に入れておられるのだな
と感じたんですね。
それがそのひと達の仕事だから当たり前じゃないか、と言われそうですが、全く知らない人たちが、自分とは離れた場所で
黙々と夜中にこのお弁当を作って下さっているんだなと感じると、もうなんだかそれだけで、車の中で一人感激してしまい
「ありがとうございます~!」と無性に嬉しくなり、件の赤いウィンナが殊更美味しく感じられたのでした。

なんだ、そんなことか、と此処まで読まれた方は拍子抜けされたかもしれませんね。
ですが、このお弁当一つを取ってみても、その中に入っている惣菜の一つ一つ、それぞれが様々な人の手により作られ、また
それを運搬する人がおり、それを店頭に並べるひとがいて・・・と考えると、この小さなお弁当の中には、一体どれほどの
人の手が加えられているのか。
そう感じたとき、それを作る工場を建てた人、その資材を運んできた人、その資材を元から作った人、と順々に考えていくと
それこそ膨大な人の数や手間が連綿と繋がって、今のこのお弁当になっているんだ、そう思えたのです。
そう思うと、鳥肌が立つほど感動してしまい、このお弁当が本当に美味しく感じられたのでした。
                       
                
                    
これはこのお弁当に限らず、どのようなことにもいえると思います。
世の中、全てという程、流通しているものには人の手が加えられている、そう思います。

そういう風に考えていくと、世の中、どこかで誰かに繋がっていますよね、自分一人ではない、誰かのお世話に
日々なりながら暮らしている、そう感じます。

もしかすると、今日すれ違った人、あなたとどこかで関係しているのかもしれませんね。


一つのお弁当から感じた今日のお話でした。
明日は美味しいお弁当もって、何処かへ出かけてみられますか?
作って下さった人に感謝しながら、ね。

                        



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の妄想

2017-04-28 15:24:32 | ものの見方 考え方
こんにちは。
もうじき五月ですが、そんなじきに相応しい五月晴れの日です。
清清しいですね。

                        

持てる知識の中でしか、物事は語れない。

ふと、頭の中に浮かんできた言葉を忘れぬうちにと、こうし書き留めてみました。
意味があるのかと問われると、いえ特に意味など考えもせず、ただ書いてみただけ、という感じです。

ですが、確かに物事って自分の考える範囲でしか推し量れませんよね。
自分のそれまで知っている事でしか考えられない。
その範疇を超えると、まずは驚きとか疑問とか、あるいは怖いという感情が出てくるのだと思います。
または、理解を超えたところでの感動とか。

それを人に伝えようとして、言葉を探してみたり、絵に描いてみたり、そばにカメラがあればそこを切り取るように
写してみたり、方法はそれぞれなのだと思います。
そこのところが自分ではない、別の人に同じように伝われば、これはまた素敵なことに繋がっていくのだろうなと思います。

幼い子供らは言葉のボキャブラリーが少ない分、より素直に笑ったり、驚いたり、はたまた泣いてみたりしますが
それを見ているこちら側は不思議と楽しい感情がわいてくるように思います。
泣いている子は、ちょっとしんどいね、と思うことも確かにありますが、それすらも時としたは微笑ましく思えたりもします。
(この場合はいつもとは限りませんよね、ケースバイケースともいえるかと)

ある事を見ているのに、或いは感じているのに、それを他の人にどう伝えるか。
または系統立てて、的確に伝承していくのか。
その努力をしていく中で、自分達は言葉を操り、道具を作り、様々な方法で隣人に伝えよう、伝えたい、と模索してきたのではと感じます。

知らない間同士では、どういう反応なのでしょうね。
最初は、どこかぎこちなくなるし、まず相手を自分にとって友好的と見るかどうかで、その後の対応も随分異なってくるのでは
と思います。
本当は仲間として仲良くし、お互いの知識を交換したいけれど、相手がどう反応してくるのかわからない。
そうなると迂闊に近寄ることも難しい。
これが先ほど書いたように、幼い子供同士だと言葉が通じずとも、いつの間にか意志の疎通が出来ていて、仲良くやっていたりします。
知識も何も、そんな小難しいことは関係なく、まずは相手と通じてみようとする。
そうして、お互いに心地よく感じることをしてみて、いつの間にか笑って過ごしてたりします。

本当はそんなことが出来れば、お互いに詮索したりけん制したりせずとも、笑いあいながら過ごせていけるのでは、と思います。

なかなかそうはいっても、今の世の中、ままならぬ事のほうが多いのも、これまた事実です。
自分の方が相手よりも優位にいたい、もっと言えば出し抜きたい、そんな風に考えている立場の人もいるようです。
ですが、そうして、より自分の方が、とよい意味での競争となればこれはこれで、また物事も発展していくきっかけになるのでしょう
けれど、自分ひとりだけが上位にいたいとすれば、大きな摩擦の元になっていくのだろうと感じます。

なかなか堂々巡りのようで、そのスパイラルからは抜け出しにくいのかもしれません。
ですが、そこのところを少し視点を変えてみると、物事も違ったように感じられてくるのでは、とも思います。
同じような位置、高さで見ているから、相手と同じように感じてしまい、自分もしんどくなる。
それを相手よりも、ちょっとだけ視点をずらしてみると、あれ、こんなこともあるのかな、と別の側面が見えてくる。
そう感じてくれば、今までどうしてそこのところで、同じように思い、あるいは悩んでいたのかな、とも思えてくるのではと感じます。

同じように笑うためには、同じ方向を向くことも大事だけれど、違う側面も感じることも大切なのかな、と
こうして書きながら思えてきました。


最初の  持てる知識の中でしか、物事は語れない。
からは、どう考えてもずれまくった話となりましたが、今日は自分の頭の中の妄想をそのまま文章にしてみました。
起承転結できていないのは、いつものことながら、平にお許しを。

                     


明日からゴールデンウィークの方も多いのでしょうね。
あちこちへお出かけになられるのでしょうか。
それとも、全く関係なくお仕事の方もおられることでしょう。
どんな過ごし方であれ、どうぞ一日一回は、笑いを忘れずに^^。

稚拙なブログへのお付き合い、今日も有難うございました。

                      

                     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不ぞろいでいいんじゃない?

2017-04-21 14:35:38 | ものの見方 考え方
こんにちは。
起きた時は、どんより曇り空でしたが、今は晴れてきて気持よくなってきております。

                 

こんな雲とか出てたんですけれど

                 

今はこんな感じ。
風がまだちょっと冷たく感じるので、自分では半袖を着るほどにはない、そんな気候でしょうか。


そんな今日ですが、ご近所の方からお花を頂戴しました。
ご自分の家のハウスで育てて出荷されておられるのですが、そんな花の中で、どうにも曲がっていたり丈が短かったりで、いわば
商品にならないものを持って帰っていいよとおっしゃり、それならばと遠慮なく頂いたものです。

                 

ご覧のように、結構ごっそり頂戴したので、後ほどご近所さんにお裾分け分けさせていただくつもりです。
どこかの歌詞みたいに、♪バケツの中で、それぞれ誇らしげに咲いてますよ^^♪
頂戴した方が言われた如く、伸びすぎていたり、丈が短かったり、或いは曲がっていたりと様々ですが、当然そのどれもが綺麗に同じ花を
咲かせています。
それでも、そのような不揃いのものだと、たとえ出荷しても値がつかないと言われるようですね。
どうしてなんでしょうね。

われわれ日本人は、野菜等もそうですが、なんでも規格に当てはめて、それ以外は除外してしまう傾向にあるようですね。
最近は、ずいぶんそれも緩和されてきているようですけれど、それでもきゅうりとかの曲がってしまったものとかは出荷しても
上記の花のように、市場では見向きもされないようです。

お花にせよ、野菜にせよ、その香り、または味は全く変わらないのに、どうしておんなじように揃っていないと価値が無いと
決めてしまうんでしょうね。

なんでも枠に当てはめて、それから外れるとすぐさま仲間はずれ。
本質的には、全くなんの落ち度もないのに、蚊帳の外。
どこか変だと感じませんか。


そもそも、そのどれもが全て同じというのは、最初から決められた規格の中で作る「物」であるならば、それは揃って
いなければ、不都合も出てくるかと思います。
こっちとあっちの大きさが違っていれば、何かと不便で困りますしね。

しかし、自然の中で出来てきたものは、その全てが同じような大きさ、形で出来上がるとは限りませんよね。
似ているようでも、どこか違う、でも違うからこそ色々あって面白いのでは、と感じます。

全てが同じでいいのなら、なんでも一種類のもの、それだけで事足りるわけでしょうが、それじゃあ、面白みも
何にも無く、ただ単調なだけに思えます。

そう考えていると、ふと「クローン」という言葉が思い浮かびました。
ここでちょっとググってみると(すみません、大々的にカンニングです^^;)
「生物体の細胞から無性生殖的に増殖し、それと全く等しい形質と遺伝子組成を受け継ぐ別の個体」
と出ています。

ふぅ~ん、なるほど、ってちょっと分かったような分からんような自分ですけど;。

つまりは、隣にある個体とこっちに新しく出来た個体は、丸々そっくりそのまま、何一つ変わることなく全部一緒ということ
でしょうか。


先ほど、物ならば、同じものでないと何かと不都合があるのでは、と書きました。
確かに製品ということで見れば、同じものが作られないと色々支障が出てくるかと思います。
同じ部品を用いて、同様のものを作る過程においては。

しかしですね、完成したこの製品がヒトの手にわたり、そのヒト個人の物になったときは、どうでしょうか。
たとえば、車。
最近は車に乗る方は少なくなってきているとはいえ、やはり生活に無くては困るものかと思います。
(地域にもよるかと思いますが)
ご自分の手元に来た車、どんな車にせよ、自分のものであるならば、どのように手を加えても(それが法に触れなければ)
ある意味、その方の個性としての車になるのではと思います。
これが服であったりしても、同じ服を着たとしても、着るヒトが一手間加えるだけで、最初の印象とはかなり変わってくるのでは
と思います。


と、ことほど左様に自分のものになるものに対しては、ヒトって結構個性を求めたりしますが、それが自然が作り出すものになると
途端に同じようなものを求めたがるのはどうしてなんでしょうね。

同じでいいなら、先ほど出てきた「クローン」で構わないんじゃないのか、そう思います。
でも、皆さん、「クローン」てどこか不気味な感じがするのはどうしてでしょうね。
何もかも、全て一緒なのは、どこかやはり違うんじゃない?という無意識な気持ちがどこかにあるのでは、と思います。
同じ親から出てきた子供は、兄弟でもそれぞれ顔や性格も少しずつ違いますよね。
(一卵性双生児というと、また違うのでしょうけど、ここではちょっと置いときますね)


そんな風に、世の中、どれも似ているようで、それぞれ違いがあるのではと思うのです。

自然が作り出すものは、似ているようでどこか違う。

ならば、自分達ヒト、人間もおんなじようで、それぞれどこか違うもの同士の集まりだと思います。
そうやって考えていくと、人種が違えば顔つきも違うし、考え方も違ってくる。
食べるものだって、当然ちがうわけですよね。
みんなちょっとずつ違うから、それが個性になって面白いのだし、違ってなければ、実のところ隣のヒトと
自分ですら見分けがつかなくなるかもしれませんよ。

みんな違って、みんないい

よく聞く言葉ですが、そう思います。

花も、色とりどりあるからこそ、綺麗で美しい。
目を楽しませてくれます。

そうだったらば、自分達も、あれこれあって、デコボコでも不ぞろいでもいいんじゃない?
そう感じます。
不ぞろいの部分を認めていければ、と感じますよ。

むむむ、読み返してみて、ありゃぁ、また脱線しまくりの、どこへいくのこの文章?な感じになっておりますが;
書いていくうちに自分でも思わぬ方向へ進んでいっておりますね。
毎度のことながら、困ったもんだ^^;

ま、それもオバサンの独り言だと思って頂ければと存じます^^。

ではでは今日は、この辺で~。

                 





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

りんごの見え方

2017-04-09 14:23:14 | ものの見方 考え方
                    こんにちは。
                    今日は随分と暖かくなってきました。
                    皆さんのあたりでは如何でしょうか?

                    さて、今日はりんごについて。
                    皆さん、りんごってどんな風に見えますか?
                    そして、それを自由に描いてください、というとどんな風に描きますか?
                    目の前に、一つのりんごを置きます。      
                    ここで3人、人を呼んでくるとしましょう。                           
                    一人は、男性、しかも美術系の大学行っている、いわば美大生。
                    次は、特に絵を描くことは普段しない主婦。
                    3人目は、5歳の男の子。
                    この3人に、それぞれ自由にりんごを描いてもらいます。
                                             
                    で、出来上がったそれぞれの絵。
                    最初の男性は、目の前のりんごを観察しながら、細部まで緻密に描いているようで    で                   色づけも、それなりに丁寧です。
                    次の女性は、普段、絵を描くことはしないといいながらも、なんとか形をとりながらが                   色をつけ、りんごという絵になっています。
                    5歳の男の子は、目の前のりんごを見ながらも、自分の思うように形を描き、そこへ
                    赤い色を塗っています。
                       
                    おわかりのように、3人3様、それぞれの感覚で同じりんごを描きましたが、その誰もが
                    同じりんごを描いていますよね。
                    でも、出来上がったものはそれぞれ全て違いますね。

                    いかにもりんご、であったり、りんごかな?と思えるものであったり、様々だと思います。
                    しかし、元は同じ一つのりんごを見ながら、絵に描いたものです。

                    これは自分の目に映りながらも、目の前にあるものを写し取ろうとすると、微妙に違った形や
                    色になるということの一つの例かと感じます。

                    頭の中に思い浮かべるりんご、これも人それぞれですね。
                    形、といっても、りんご「のような」形としかいいようがないですね。
                    色も、「赤い」とは限らないでしょうし、そもそも赤い色そのものがみんな同じ「赤」に
                    見えているのか?
                    大きさ然り。小さかったり、逆に大きかったり。

                    そんな風に考えていると、世の中のもの、これ全て同じものをみんなで見ていても、
                    本当は、一人ひとり全く違うものを認識しているのではないのかな、とある時
                    ふと感じたんですね。

                    ある特定のものは、皆がそうである、と認識しているからこそ、目の前のものはそのように
                    「見えている」と自分の「脳」で感じているだけではないのかな、と。  
                                        
                    そんな事を考えていると、人間って、これは共通して見るものであると認識したら、本当は
                    人それぞれに微妙に見え方は違っているかもしれないけれど、その「A」というものを
                    同様に、「A」と感じるようになっているだけではないのかな、と思えてきたんです。
                    
                    或いは色や形や大きさ、それぞれが99.999%同じように見えているようでも、
                    実際には、人それぞれが僅かに認識に差があったりするのかな、とも思ったりします。
                    
                    
                    
                    こんなこと考えていても、別にどうってこと、ないんですけどね^^;。 
                    私自身、科学者なんてものでは当然ありませんし、難しいことはさっぱりわかりません。

                    でも、そんな小さな差異がるからこそ、世の中、少しずつ違っていて、それがまたバリエーション
                    に富む結果を生み出しているのかもしれませんね。

                     
                    日曜日の午後、となりにまったり眠るニャンコを見ながらの考察でした^^。



                    最後にすみません;。
                    未だに編集下手くそなオバサン、上手く改行できていなかったりしております。
                    何卒、ご容赦の程を^^;
                    (次回、気をつけたいと思います) 



                    
                  
                    


                      

                    

                       
        
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする