退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、リコーダー、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩
さて何をしようか

幸福な世界 9

2015-09-30 06:37:28 | 韓で遊ぶ


ああすれば病に気をつけなさい
戦争と呼ばれるほどに熾烈な就職競争。私は、その狭い門を抜けて来いという会社に、合格しました。就職し何ヶ月かは、ただ仕事ができるという事実に感謝しました。ですが、ただいいと思っていた職場生活に危機が訪れました。私の青春が息苦しい事務室に閉じ込められてきる気分というか。それこそ取るに足らなく退屈でした。
「元々の私の夢は乗務員だったのに、あーぁ。」
空を飛ぶ航空会社乗務員が夢でしたが、机にしがみついて釘付けの会社員として生きている自分が、限りなくみすぼらし感じる時、ふと思い浮かぶのは、高3の卒業式の日、担任の先生が言った訓辞でした。
「私は、皆さんが生きていきながら、ああすれば病にかからないことを願います。」
その時、学生たちは聞きなれない病名にざわつきました。
「ああすれば病というのは聞いたことがないでしょ。この病気がどんな病気かというと「あの時、あれをすれば、、、」と後悔する病気です。私の生徒たちは、この病気に絶対にかからないで、いつもさっぱりとしていることを願います。現在、最善を尽くしてしたいことがあったら、熱意を持って挑戦してみろということです。皆さん、そうできるでしょ。」
やりもしないで、後になって後悔することがないように、夢のために挑戦しろと言った先生、、、」
「そうだわ、一度やってみないと。ああすれば病にかからないと先生に約束したじゃないの。」
まだ遅くはないという思いで応募した航空会社の試験。その果敢な挑戦は失敗で終わったけれど、代わりに私は自信感をもらいました。どんなことがあってもああすれば病にかからないという固い意思と確信も生まれました。前よりも、もっと多くのことに冒険して、挑戦を繰り返して私の人生はだんだん道を見つけて行きました。
時々、地方の放送局のラジオレポーターとして出演もして、大学院に通って学識も広め、、、、。最近は、新しい夢のために勉強に没頭しています。将来、童話作家になるための意味深い一歩ということでしょう。
誰も、夢見るすべてのことを持つことはできません。ですが、重要なのは切実に望む何かのために、一度でも最善を尽くしたかということです。生きながら後悔しないために、、、
ああすれば病に勝って挑戦の熱病に罹り始めたこの頃、私自身との戦いで築かれる本当の人生の勝利を味わっています。
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幸福な世界 9

2015-09-29 05:50:15 | 韓で遊ぶ


私は世界最高だ
アメリカのあるスポーツ新聞に、人々の視線を引く見出しが載りました。
「私は、世界最高だ。」
無名の若いボクシング選手が、大きな試合を前にして新聞記者との会見で発表した内容でした。
「ヒ、ヒ、ヒ、、、」
記者は、彼の言葉をそのまま引用した後、くちばしの青い新人の生意気な態度を嘲弄する記事を書きました。
「彼は自惚れている。果たしてリングの上でも最高らしく堂々とすることができるだろうか。」
四角いリングに立った瞬間、彼はトラの前の猫のように、相手の選手の前で動くこともできないだろうと豪語したが、結果はその反対だった。彗星のように現れた新鋭選手の華麗な勝利。新聞と放送では連日彼の話で持ちきりだった。
彼は試合の結果を予測する能力まで見せてくれた。試合のたびに同じ言葉を繰り返す男、、、
「ははは、私は世界最高だ。」
彼は、自分と対戦する相手を何回で倒すという闘志で人々に新鮮な衝撃を与えた。彼の言葉が的中するたびに観客は大きく歓呼した。
「こんなことが、、、3回で倒すと言った彼の言葉がまた当たった、本当にすごい。」
「超能力が、あるみたいだ。」
時に予測が外れもしたが、人々はだんだんその言葉の威力を理解し始めた。
「彼は、自分自身を信じているのです。それが彼をチャンピョンに導いた秘訣です。」
モハメド アリが持っていた神秘の力、正に自分自身に対する確信だったのです。彼は決して自分を最高の選手だとか、最高に近い選手だとは言いませんでした。ひたすら世界最高だと叫びました。
すべての力の根源は心であり、体は心が信じたとおりに行くもの、、、、。モハメド アリは、自分を信じて従えば運命を変えることができるという確信に満ちた自信感で、世界ヘビー級のチャンピョンの座に登りつめたのです。
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幸福な世界 9

2015-09-28 10:01:09 | 韓で遊ぶ


父と羅針盤
父と息子が、四方天地が砂だらけの砂漠を歩いている時のことでした。息子はいつも時計を気にして、心配に満ちた声で言いました。
「お父さん、どれぐらいたったでしょう。早く目的地に着かなければならないのに、、、。」
父は地図と羅針盤で現在地を確認しながら平然と答えました。
「お前、そうやって時計ばかり見ていないで、前を見て歩きなさい、、、。」
四方を見回しても、道は見えず、遠く広い砂漠と、ハリネズミのようなサボテンばかりでした。
「こんなことをしていたら、砂漠で乾いて死んでしまうのではないか。」
息子は不安で耐えられない思いでしたが、父は動揺した様子もなく、ひたすら道を探すことに精神を集中しました。気持ちが焦りに耐えられなくなった息子は、父の後ろを歩きながら、ずっとブツブツ言っていました。
「お父さん、もう少し早く歩かないと。ゆっくりする時間がありませんよ。」
しかし、道を間違えても、父は余裕を失いませんでした。
「方向が違うな。もう一度、戻らないと、、、。」
父の指示するとおりについて行った結果、父子は無事に目的地に至る事ができました。
暗くなった真夜中、、、、。父と息子は旅行を始めてから、初めて深い会話を交わしました。
「時間というようなものは、重要なものではない。それよりも重要なものは、人生の方向だ。危うく、私たちは道に迷って、永遠に砂漠をさまようことになるところだったのを忘れるな。」
今でも砂漠のどこかで迷っている姿を想像すると、息子は頭がくらくらするようでした。
「さあ、これを大事にしなさい。お前にやる。」
父は体のように大事にしていた羅針盤を息子にやりました。すると、息子は腕時計をはずして父に渡しました。
「ありがとうございます。お父さん。この時計が私の視野を狭めていたようです。私が、自ら人生の方向を決定できるまで、お父さんが持っていてください。」
良い人生というのは、時間に追われず目標と計画があるもの、、、。私たちの意志が何に従うかによって、人生の方向が決定されるということが父の教えでした。
人生の目標に向って巡航する道、少しゆっくり行っても人生の方向を逃さない根気と熱情を持つことでした。
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幸福な世界 9

2015-09-27 07:27:50 | 韓で遊ぶ


二人の差
同じ学校を卒業し、成績も同じ二人の青年が、同じ会社の面接を受けました。どこを見ても優劣をつけがたい二人の青年。ですが、一人は合格し一人は落ちてしまいました。その夜、不合格の青年が酒によって合格した青年を訪ねていきました。不合格の青年は憤った心を鎮めることができず、自分の悔しい胸のうちを吐き出しました。
「君と僕の違う点がどこにあるというのだ。一体、なぜ君が合格で僕が落ちたんだ。僕が君よりも不足している点が、いったい何だというんだ。」
合格した青年が、憤慨している青年に、面接官がした質問をもう一度、訊きました。
「君は、同僚が無能力で他の同僚の嘲笑を買ったとしたら、君も嘲笑しますか。」
彼は自信を持って答えました。
「みんなが、そう思っているのだから、、、。」
「私は『みんなが、そうだとしても』と答えたよ。」
続いて、合格した青年が、もう一度、訊きました。
「君は会社が困難に面した時、会社のために仕事をしますか、それとも出て行きますか。」
彼は、面接官の前で答えたように答えました。
「私一人ぐらい、、、、。」
合格した青年が答えました。
「私は『私、一人だけは』と答えたよ、、、。」
そして、青年はもう一度、訊きました。
「君は会社が危機に陥って、誰かが犠牲にならなければならないとしたら、どのような決定を出しますか。」
彼の声が気後れして段々小さくなりました。
「その、、、みなさんが、するとおりに、、、」
「私は『他の人がやらなくても、私は、、、』と答えたよ。どうかな。君が落ちて僕が受かった理由がやっとわかったかい。」
不合格の青年は、それ以上言葉が出ず、静かに家に帰りました。
『みんなが、そうだから』という惰性のにじんだ行動を振り捨てて、一人粘り強く進取的に仕事にしがみつく努力、『私、一人ぐらい』という安易な考えの代わりに、率先して行う覇気、『みなさんが、するとおりに』という消極的な態度を捨てて、能動的に仕事を主導する姿勢、会社が望む有能な職場人は、そんな挑戦精神と創意力を持って考える若者だったのでした。
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幸福な世界 9

2015-09-26 08:04:52 | 韓で遊ぶ


101歳の画家
ハリー ライブマンはポーランド人で、27歳の時にアメリカの地を踏みました。英語もできず異邦人だった彼が持っていたものといえば、6ドルのお金と小さなカバンがひとつでした。
「たとえ、今は貧しくても一生懸命努力して、必ず大きく成功するんだ。必ず。」
慣れない異国の地に根を下ろすために、彼は汚い仕事であれ、つらい仕事であれ、任せられた仕事は最善を尽くして働きました。着実で誠実なハリーは、どこでも認められて、働くほどに手にしたお金も多くなりました。
彼はお金をもらうとすぐに貯金しました。小さなことひとつでも節約する習慣で、生活は日増しに豊かになっていきました。後日、彼は大きな金持ちになりました。壮大な邸宅とたくさんの財産は、彼が一生懸命生きてきた痕跡でした。
ある日、70歳を超えたハリー ライブマン、、、。彼は余生を静かに送るために、すべての仕事を整理しました。会社に出勤していた足を老人学校に移し、忙しく書類を見ていた時間を友と会う時間に当てました。そんなある日、唯一の話し相手の友達が、病気になって老人学校に来ることができませんでした。
「あ、今日は何をしようか、、、、。」
つまらなく退屈な時間をつぶすために、彼は日の当たる公園の椅子に座りました。その時、前を通り過ぎた一人の青年がハリーに声をかけました。
「おじいさん、すごくつまらなそうに見えますね。この美しい景色を目でだけ観賞しないで、直接描いてみてはどうですか。」
「私が、絵を。ハハハ、私は筆の持ち方を知らないよ。」
70を超えた老人が、何か新しく始めるというのは無謀なことだと思いました。ですが、彼は勇気を出して美術学院に行きました。背中が丸くなり筆を持つ手は震えましたが、彼は若い頃の覇気を現しました。いつの間にか白い画用紙は彼だけの空間になり、色々な絵の具は自分を表現する翼になりました。
何年か後、彼は初の展示会を開きました。世界は彼に向って惜しみなく賛辞を送りました。評論家は彼をして「アメリカのジャガール」と褒め称えました。
年という限界に縛られず、自分の人生の熱情を出し切ったハリー ライブマン、、、。彼は多くの人々の関心と激励の中で、死の瞬間まで絵を描き、多くの作品を残しました。22回目の展示会を開いた時、彼の年は101歳でした。
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幸福な世界 9

2015-09-25 06:46:28 | 韓で遊ぶ


心を聞く聴診器
医者ならば誰でもひとつぐらい首にかけている聴診器。聴診器を初めて発明した人はフランスの病理学者ルネ ラエネクです。フランスの地方で生まれた彼は、すぐれた弁護士を父に持つ病弱な子供でした。幼い頃から虚弱な体のために、体の苦労、心の苦労が多かったからだからこそ、後日、医者になって患者を助けることになりました。特に心臓分野に関心があった彼は、独特な聴診方法をしました。患者の胸に直接耳を当てて、心臓の音や呼吸の音を聞いたりしました。患者を思う気持ちで行った診療には、いくつか問題がありました。肥満の患者の豊かな体は、心臓の音を聞くことを妨害し、女性の患者の胸に耳を当てることは嘲笑の種にされそうで気まずいことでした。
「胸に耳を当てることなく他の方法で患者の体を見ることができたら、もっと多くの病気を治療できるのに、、、、」
新しい聴診方法を探し、考えていたある日、散歩に出た彼は、子供たちの前で足が止まりました。互いの耳に長い棒を当てて話を伝える子供たちの特有の遊び。
「そうだ。あの方法を応用してみよう。心臓の音を聞くのが可能かも知れない。」
彼は長い管を通して心臓の拍動が耳に伝われば精密な診察が可能になると確信しました。
「私の手で必ず聴診器を作るのだ。そうすればもっと多くの心臓病の患者を救うことができる、、、」
彼が初めて作った聴診器は、紙を丸めて糸で縛った筒の形の器具でした。それで多くの臨床実験を重ねた結果、、、、。
「わぁ、聞こえる。正確に聞こえる。ははは。」
聴診器を利用した始めての診察という目標を達成したのでした。聴診器を発明し、内科疾患を正確に診断する所に大きく寄与したフランスの病理学者ルネ ラエネク。聴診器という基本的な医療器具の誕生。人々の病気を治療するという医者としての使命感とやりがいが医学史に長く残る進歩と業績を成したのでした。
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幸福な世界 9

2015-09-24 08:53:12 | 韓で遊ぶ


指先から花開いた発明
使い捨てのかみそりの発明でかみそり業界の革命を起こしたキング チルレート。頂上に登りつめるまで、彼は長く険しい道を歩かなければならなかった。彼は貧しさのため学生臭さも抜けない17歳で生活用品の外販をはじめた。生活のためにどうしようもなく始めたことだったが、投げ出したいと思うことが多々あった。
その度に彼は両親を思い浮かべました。財もなく、学もなかったけれど、いつも探究の道を歩いていた両親、、、。
「すばらしい発明品ひとつで、生活を変えることができるものだ。」
両親は、彼に発明の夢を植えてくれた礎のような方たちだった。
「すばらしい発明品を作って、必ず世の中に出て行くんだ。」
昼にはおなかをすかした営業社員として、夜には未来の発明家として、そうやって40歳になったけれど、彼は依然として夢見る発明家でした。そんなある日、重要な会議があるのを、うっかり忘れて寝坊をした彼は、慌てて髭剃りをしましたが顔を切ってしまいました。
「しまった。今日は重要な会議があるというのに、かみそりのせいで台無しだ、、、。」
当時のかみそりは、研ぎすまされた刃がまっすぐに立ったナイフでした。機会があったら、必ず安全で便利なかみそりを作ろうという決心をして1年後。彼は床屋で不思議な原理を発見しました。
「そうだ、これだ、これ。床屋が髪を切るとき、くしを当てて切るのは頭皮を傷つけないための配慮だ。そうすれば髪の毛だけ安全に切ることができるから。この原理をかみそりに応用してみよう。」
彼はすぐ、かみそりに手ぐしの役目をする下敷きをつけました。皮膚に直接当たらないかみそりを具体化したのでした。
研究を始めて、いつの間にか6年。結果は惨憺たるものでした。
「そんな安物のかみそりが何の発明品だと、、、人々は高くて格好のいいものを求めるものだ。」
皆が冷たい視線を送りましたが、彼はあきらめずにむしろより研究と実験を重ね、一層、精巧で洗練されたかみそりを作り出しました。彼が55歳の時、彼の作った発明品は羽が生えたように売れて、彼はかみそり業界の王座に上りました。
一歩先も見えなかった暗黒の時間、、、、彼にとって発明の夢は希望の灯火でした。
「使い捨てかみそりのおかげで、全世界の男性はちょっと便利な生活を享受できるようになりました。このように偉大な発明は私たちの暮らしを豊かにしてくれます。」
全世界の男性の朝を明るくする知恵と忍耐が盛り込まれた発明品が、平凡な一人の男の指先から誕生したのでした。
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幸福な世界 9

2015-09-18 07:56:29 | 韓で遊ぶ


愛は発明の花
しばらく前、ある日本の病院、1日24時間、かいがいしく息子の傍らで看病する母親がいました。痛む気持ちを静めるために、母は一冊の本を読むようになりました。
「頭を使う方法。日常の中で問題を探して、それを解決する方法を思い浮かべなさい。」
本には、きらめく発明で豊かな生活をもたらしてくれた発明家の話が載っていました。母は、本が教えてくれる教訓を生活の中に取り入れました。
「うん、、、毛布を、より暖かくかけてあげる方法は何があるかしら。水枕の下にタオルを敷けばいいのではないかしら。」
彼女はとても小さな考えでも、思い浮かぶと、その都度、手帳に残さず書いておきました。
「考えながら問題を解決すると、心配事も少しの間、忘れる。本当に面白く、、、。」
この考え、あの考えで日々を送っていたある日、息子に牛乳を飲ませようとストローを使いました。ですが、横になっている息子には無用の長物でした。
「横になっていても牛乳を楽に飲むことができればいいのに。どうすればいいかしら。」
母は愛する息子のために自由自在に動くことができるストローを考えました。
「曲がったり伸びたりすることができるストローを作ってみようかしら。そうだわ、ゴムひもを使ってみよう。」
はじめはズボンに使う黄色のゴムひもを活用しました。ストローのように仲が空洞のゴムの筒を適当な大きさにコップに挿すとあちこちに動いてひとしきり使いやすくなりました。問題は非衛生的で嫌だという息子の反応でした。母は再び考えに浸り、その時、目に入ったものが水道のゴムホースでした。
「そうだわ、ストローにもゴムホースのようにしわを入れれば、、、、。」
ゴムホースに糸口を見つけたのでした。ストローにしわを入れると予想通り方向の調節が可能で簡単に曲がって伸ばすことができる便利なストローができたのでした。
考えて創造する日常を楽しむ姿勢と息子を愛する母の心、、、。その二つの心が合わさって発明の花を咲かせたのでした。
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幸福な世界 9

2015-09-17 08:20:23 | 韓で遊ぶ


努力の希望
日本のある印刷会社にOさんという末端工員がいました。彼は紙を切るという単純な作業を、バカが付くほどまじめにやっている青年でした。一生懸命仕事をしていて一番大きな問題は、切れなくなる刃。作業能力が落ちて割り当てられた仕事ができないという、悔しい状況が続きました。
「ダメだ。力ずくでも刃を折って仕事をしないと、、、。」
切れなくなった刃を折って再活用を始めただけでも、会社は大きな経費節減ができました。ですが原始的な方法では限界がありました。刃を折るたびに仕事の手を休めなければならないのと、硬く鋭い刃を折ろうとして手を怪我するのが常でした。
「あっ。痛い。またやった、、、。刃をもう少し簡単に折る方法はないものか。」
彼は何年かの間、同じことを考え続けました。
「方法を見つけ出そう。」
解決策を見つけるために、頭をかきむしりながら多くの月日を送りましたが、妙案が浮かびませんでした。
そんなある日、彼は郵便局に行きました。彼は手紙に貼るために切手の窓口に行きました。
「切手を一枚下さい。」
郵便局の職員は一列にぎっしりと並んでくっついている切手から、一枚、簡単に切って彼に渡しました。
「そうだ、これだ。点々とついた針の穴。」
手に力を入れて引っ張るだけで、前もってあけてある穴の線に従って、一枚ずつ誤りなく切れていく切手。
「刃の間に切手のように一定の間隔で切れる線を入れてみよう。」
Oさんはその画期的な方法をすぐに会社に伝え、すぐに彼の提案は受け入れられ褒賞もたくさんもらいました。特許の出願を終えると大量生産に入ったOさんの発明品には、刃がポキポキ折れるということで「カッター」という名前がつけられました。一歩進めて鞘と刃を折る時に使う面白い工夫を開発し、言論界は「刃の革命」と絶賛しました。
不便なことを解消するための一人の男の99パーセントの努力と汗、、、。それが世の中を変えさせ発展させた偉大な発明の力でした。
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幸福な世界 9

2015-09-16 07:40:26 | 韓で遊ぶ



止まない情熱
第二次世界大戦の敗北で、島国の日本がかつてない貧困にあえいでいた時のことでした。アメリカから小麦粉の支援を受けましたが、多くの人々の餓えた腹を満たすには、とても不足している実情でした。それに、米が主食である日本人には、小麦粉が米に代わる事ができませんでした。小麦粉から作ることのできる食べ物といえば、チヂミとかうどんぐらい、、、、。
ただのおやつに過ぎませんでした。
「あぁ、、、、。」
「お母さん、おなかすいたよ。うどんじゃなくてご飯が食べたいよ。うぇーん、、、。」
平凡な事業家、安藤百福は空腹に苦しむ人々を見るに耐えませんでした。
「あのかわいそうな人たちのために、私ができることはなんだろうか。」
普段、社会事業に関心があった彼は、知恵を絞りました。
「私の手で、食べればおなかがいっぱいになる、小麦粉でできた食べ物を開発してみよう。」
かわいそうな隣人のために、全財産を投げ打ってひたすら食べ物の研究に没頭した人、、、、。懐が空っぽになっても、良い方法を見つけることができず彼は酒におばれ始めました。
「もう立ち上がる力もない。あぁ、辛いな。ふぅ、、、、。」
自壊感という沼でもがいていた彼は、ある日の夜遅くに、いつものように、こっそり酒屋に入って行きました。店の厨房では、てんぷらを揚げようと忙しく、客が来たのも気づきませんでした。声をかけようと、そっと近づいた彼は、その瞬間、重要な糸口をひとつ見つけ、声高に叫びました。
「これだ。そうだ、てんぷらだ。てんぷら、、、。」
水に溶いて湿った小麦粉は、熱い油に入れると水分を抜くことができ、水が抜けたところに穴があく現象を見て、彼は「ラーメン」という食べ物を考え出したのでした。
「小麦粉の麺を一度油で揚げた後、乾かして、また水で煮ると穴の中に水が入っていく。麺がしっかりしたラーメンができるということです。」
「うわー、、、。」
「すごいよ。」
恵まれない隣人のために献身しようという崇高な召命意識と、慈しみ深い実践意思でインスタントラーメンを作り出した安藤百福。愛で熱い彼の心は、彼に「人道的な発明家」という名誉の勲章を抱かせ、多くの人々のひもじい苦痛を静めました。
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