私の中で、相手の気持ちを考えるということは、自分が相手の立場になったとしたらとどうなんだろうと想像していました。
「自分がされて嫌なことは相手にしてはいけない。」
それが基本でした。
でも、昨夜、前記事に書いたことを考えていて、ふと気がつきました。
相手の心と私の心は同じではないから、自分がされて嫌なことと相手は違うのです。
もちろん、道徳的なものとして捉えると同じかもしれないのですが、もっと細かいところは、今までの経験などにより違ってくるのです。
本当の意味で相手の気持ちを考えるということは、あくまでも自分が相手の立場に立つという自分が主体なのではなく、相手の気持ちを汲み取る、想像することなのだと思いました。
自分のものさしを使うのではなく、相手のものさしを想像する。
それによって、本当に大切なことが見えるのではないかと思いました。
かつて私は、母に、「あんたのため」と過干渉に色んなことを言い続けられていました。
それが「自分のため」に必要なのだと思っていたから、自分がそれによって受けてしまった傷を見ようともせず、気にする自分が悪いのだと思っていました。
それと同様に、「相手のために言ってあげているのだ」と思ってしまったり、
自分が傷付いたことに気がつかないので、相手もこれくらいなんともないだろうと、一番痛いところを突いたりしていたような気がします。
自分は平気でも、相手は傷付くことがある。
なんでもない言葉に傷付けることもある。
相手の傷は、なんなのだろう。
過去に何があったのだろう。
そう考える余裕を持つことが出来るのが、本当に相手の気持ちを考えることなんではないかと思いました。
最近、長男が自分の思い通りにならないと、ふすまを蹴って音を立てるようになりました。
近所迷惑だし、止めさせなければいけないという思いで行動していました。
近所迷惑だということ、夜に音がしたら嫌じゃない?そんなことを長男に話して聞かせても、それは止まらず、ちょっと気に入らないことがあると、ドンドンと大きな音を立て始めるのです。
今朝、ふと、こうする長男のメリットってなんなのだろう?
考えてみました。
こうすることで、私がすぐに飛んできてくれます。
時には、なだめようと要求を聞き入れます。
それは長男にとって大きなメリットなのです。
どんなに大きな音を立てても、立てているうちは、傍にいかない。
話を聞かないことを話しました。
そして、その音を聞きたくないからと他の部屋に行きました。
しばらくは、音が続いていましたが、自分でそれを止め、きちんと自分の気持ちを話してくれました。
夕方、同様に、ドンドンと音を立てましたが、同じように応じない態度を取ると、諦めてすぐに止めました。
ずっと長男がそれをさせていたのは私がメリットを与えていたからだと思いました。
たまたま、ふすまを蹴ってみた。
すると、お母さんがすぐに反応してくれた。
それが『快』となり、何かあればこうすればいいのだ、と無意識のうちに思わせてしまったのだなと思いました。
ドンドンしてうるさいから止めさせなければいけないと思っているときは、近所のこと、うるさいという自分のことしか考えていなかったように思います。
迷惑だということを教えたら止めるのではないかとか、穏やかに言い聞かせればわかってくれるのではないかと思っていました。
迷惑なのはわかってるけど、長男は止められなかったのです。
それが『快』だったから・・・
『快』ではないと思えば、する必要性もなくなったということでしょう。
まだまだ、相手の気持ちになるって難しい。
たくさんの経験とたくさんの悲しみが、相手の気持ちを共感できる心を作っていくのかなと思っています。
だとしたら、私は恵まれているのかもしれません。
たくさんの経験を得る機会を与えられているから・・・・
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メンタルヘルスジャンル 恋愛・結婚(離婚)ジャンル
「自分がされて嫌なことは相手にしてはいけない。」
それが基本でした。
でも、昨夜、前記事に書いたことを考えていて、ふと気がつきました。
相手の心と私の心は同じではないから、自分がされて嫌なことと相手は違うのです。
もちろん、道徳的なものとして捉えると同じかもしれないのですが、もっと細かいところは、今までの経験などにより違ってくるのです。
本当の意味で相手の気持ちを考えるということは、あくまでも自分が相手の立場に立つという自分が主体なのではなく、相手の気持ちを汲み取る、想像することなのだと思いました。
自分のものさしを使うのではなく、相手のものさしを想像する。
それによって、本当に大切なことが見えるのではないかと思いました。
かつて私は、母に、「あんたのため」と過干渉に色んなことを言い続けられていました。
それが「自分のため」に必要なのだと思っていたから、自分がそれによって受けてしまった傷を見ようともせず、気にする自分が悪いのだと思っていました。
それと同様に、「相手のために言ってあげているのだ」と思ってしまったり、
自分が傷付いたことに気がつかないので、相手もこれくらいなんともないだろうと、一番痛いところを突いたりしていたような気がします。
自分は平気でも、相手は傷付くことがある。
なんでもない言葉に傷付けることもある。
相手の傷は、なんなのだろう。
過去に何があったのだろう。
そう考える余裕を持つことが出来るのが、本当に相手の気持ちを考えることなんではないかと思いました。
最近、長男が自分の思い通りにならないと、ふすまを蹴って音を立てるようになりました。
近所迷惑だし、止めさせなければいけないという思いで行動していました。
近所迷惑だということ、夜に音がしたら嫌じゃない?そんなことを長男に話して聞かせても、それは止まらず、ちょっと気に入らないことがあると、ドンドンと大きな音を立て始めるのです。
今朝、ふと、こうする長男のメリットってなんなのだろう?
考えてみました。
こうすることで、私がすぐに飛んできてくれます。
時には、なだめようと要求を聞き入れます。
それは長男にとって大きなメリットなのです。
どんなに大きな音を立てても、立てているうちは、傍にいかない。
話を聞かないことを話しました。
そして、その音を聞きたくないからと他の部屋に行きました。
しばらくは、音が続いていましたが、自分でそれを止め、きちんと自分の気持ちを話してくれました。
夕方、同様に、ドンドンと音を立てましたが、同じように応じない態度を取ると、諦めてすぐに止めました。
ずっと長男がそれをさせていたのは私がメリットを与えていたからだと思いました。
たまたま、ふすまを蹴ってみた。
すると、お母さんがすぐに反応してくれた。
それが『快』となり、何かあればこうすればいいのだ、と無意識のうちに思わせてしまったのだなと思いました。
ドンドンしてうるさいから止めさせなければいけないと思っているときは、近所のこと、うるさいという自分のことしか考えていなかったように思います。
迷惑だということを教えたら止めるのではないかとか、穏やかに言い聞かせればわかってくれるのではないかと思っていました。
迷惑なのはわかってるけど、長男は止められなかったのです。
それが『快』だったから・・・
『快』ではないと思えば、する必要性もなくなったということでしょう。
まだまだ、相手の気持ちになるって難しい。
たくさんの経験とたくさんの悲しみが、相手の気持ちを共感できる心を作っていくのかなと思っています。
だとしたら、私は恵まれているのかもしれません。
たくさんの経験を得る機会を与えられているから・・・・
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