2日目の続き
後鳥羽上皇さまの住んでおられたところを
見学しました。
後鳥羽上皇行在所跡
承久3(1221)年8月5日に苅田郷の源福寺
境内に設けられた行在所へつかれました。
上皇さまは42歳の時に。
そのとき詠まれた、
「我こそは新島守よ隠岐の海の波風心して吹け」
という有名な一句を詠み、この日から19年という
長い年月をここ行在所で過ごす「新島守」の生活が
始まったのです。
山のを登って行くと行在所跡があります。
後鳥羽上皇火葬塚
生い茂る緑の森の中にひっそりと
後鳥羽上皇さまの碑があります。
亡くなってから、帰りたかった京都の大原の
故郷でまつられています。
この歌碑のそばに勝田池があります。
ここでも有名な一句があります。
この池に来ては都へ帰りたい思いが大きかったとか。
ガイドさんから聞きました。
思ったこと
承久3年(承久の乱)
後鳥羽上皇が鎌倉幕府から政権を奪回しようと
起こした戦い。
鎌倉幕府とうまくいかなったので、配流されたように
思います。
後鳥羽上皇さまって、天皇の中でも
しっかり者だったように書かれています。
和歌もたくさん詠まれ、
今の歌会もこのときぐらいからだとか。
それから刀づくりの名人でもあり、
今の皇室の菊も紋章も後鳥羽上皇さまが考えられた
とのこと、。
ガイドさんの説明を聞いていると、
いつも都へ帰りたかったようです。
なお、青色の中の文は現地で撮ったものです。
19年の歳月だったのですね。後醍醐天皇
はわずか1年ぐらいだったのでは??
何日かかったのだろうと思います。
二度と戻れない孤島に、配流されたのですね。
和歌や刀づくりに精を出してさみしさを
まぎらわしていたのかもね。