【筆者記】
ある上位ブログを読んでみると、「私はあなただ、あなたは私だ」と題して投稿された記事の中で、自分の行動に対しての批判に対してこのように反論しています。『「あなたは人の為に行動をとってみろ」常に自分の事しか考えてこなかった私が、この言葉を自らに問い続けて5月末からの毎日を生きている。私の行動に言及する人たちは、自らにこの言葉を投げかけてみればよい。』とブログに書いています。
なるほど思考と実践は一致しなければなりません、その通りだと思います。ただ、本人が言っている、今まで常に自分の事しか考えてこなかった彼と違って私は今まで自分のことより相手のことを優先し人生を送ってきた来たつもりです。そして少なくても多くの友人と行動をともにしてきました。私の基本姿勢は集団主義、あまり個人主義が好きではありません。
この方が誰であるかについてはあえて書きません、多分同じ年ではないかと思いますが、記事を読ませていただくとどうも私と日本国憲法についての考え方に格段の差があるようです。
お互い人間ですから憲法について考え方は自由です、しかしこれだけ憲法論議が交わされ、国民投票法案も成立し、憲法改正が注目を浴びてきたとなると話は別ですね。ましてや憲法改定阻止を訴え、今度の参議院に立候補するとなれば、他の意見を聞き、コメント欄を開放すべきだと考えます。そして憲法に対する考えに違いがあるとすれば、9条の会から立候補し政治家を目指そうとする彼の憲法論について我々は確認し議論をせさぜるを得ない。
政治家になろうとする人は、おれはおれ、あんたはあんたと言う、おれの勝手では済まされません。
別のブログにも9条を守ろうとするブログがありますが正直に言ってレベルが低すぎる、こんなのは別に放っておいてもかまわないが、しかし彼が政治家を目指す以上はそんなわけにはいかないだろう。やはり改正賛成ブログについても興味を示してもらいたいと思うし、コメントをオープンすべきではないかと思うのだが。
私の性格はブログでの議論や質問ではなく対面で激論を戦わせたい気性ですのでブログ内での議論はしようとはまったく思いません、事実、コメントも悲しいかな承認制を取っている以上は逆に質問すらしてほしくはない。ですから一方的かも知れませんが訪問者の皆さんには彼らとの憲法論の違いについてわかってもらえばそれで言いと考えています、では私の考えを少し書きたいと思います。
まず憲法を読んで見るとそれ自体が日本人によって書かれたものではないことは一目瞭然です。
全文ひとつをとっても今まで日本人がたぶん使ったこともないような言葉が見つかります。「自由のもたらす恵沢」「主権が国民に存する」「国民の厳粛なる信託」人類普遍の原理」「政治的道徳の法則」今でも聞きなれない言葉である、この言葉は当時から使っていたのだろうか、もしかしてアメリカの独立宣言から引っ張り出してきたのではないか、どうしても私は疑いを持ってしまう。
何か、日本語の文章としてはぎこちなく、わかりずらいところがあるが、これが英文で読むと非常になめらかで格調の高い文体となっています。これは多分翻訳者の誤訳によるところがあるのではないかと思ってしまうのです。たとえば出てくる言葉に厳粛を神聖と訳してもおかしくはないし圧迫などは迫害だと訳すべきところだ。
第一条 天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であってこの地位は主権の存する日本国民の総意に基づくと書いてあります。
まず、当時、国民は憲法の制定についての意見などを求められるような環境ではなかったはずです、国民は生きるのに精一杯の状況だったと思います。日本国民の総意に基づくなど誰一人として考えていなかったと思う、つまり全てはGHQの考えだけですすめられ、マッカーサーの一存で決まったと私は考えています。
マッカーサーにとっては、天皇制の存続はあくまで米国における占領政策を円滑に運ぶための便宜上の選択に過ぎなかったのです。
マッカーサーのほんとうの狙いは軍国主義が復活し、また日本人が変な気を起こさないことにありました、つまり再軍国化を防ぐことにあったのです。
そのためにはまず日本を丸腰にして、日本人の精神を骨抜きにしていまう必要があったのです。丸腰にしてしまえば日本は米国に頼りしかなく、そうなれば日本の属国化は補償されるのです。
このような考え方から作り出されたのが憲法第9条でした。
ここには戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認が書かれているが、よく読めばこの9条は日本が今でも主権国家でないことを明らかに謳っています。
「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」
このように訳してあります。問題は「国権の発動たる戦争」「国の交戦権はこれを認めない」と言うところです。
国権の発動たる戦争と簡単に訳しているが原文War as a sovereign right of the nationで直訳すれば「国家の最高の権利としての戦争」です。と言うことは国家がもともと持っている諸々の権利の中でも最も大切かつ究極の権利である交戦権を行使するときに起こる戦争ということとなります。
このもともと持っている権利が国家の主権である。これを第9条によって日本は米国によって放棄させられてしまったのです。
基本的には憲法上、主権を行使できなければどんな状況下であっても戦うことが出来ないのです。憲法解釈は別として、憲法上では攻め込まれても防衛は出来ない、これにはっきりと念を押しているのが「国の交戦権は、これを認めない」のくだりである。原文には「これを」なんて書いてなく国の交戦権は認めないで訳せばよかったのですが。
憲法上では戦えないということは国家を守ることができないと言うことです。主権国家における政府の最大の義務は国民の生命や財産を守ることである。外国から攻め込まれたら国家を守るために戦うのか、それとも降伏するかは政府が決定します。これは主権国家が持つ最大の権利なのです。この権利が第9条では抹殺されているのです、だから日本は国家としての主権を持っていないことになります、簡単に言えば真の独立国家ではないと言う事です。
この第9条によって日本人を骨抜きにするというGHQマッカーサーの目論みは見事に成功しました。日本人は今でも米軍に頼り、日本人自らを守ることさえ出来ない民に成り下がっているのが現状です。
その上、国家から主権を取り上げた憲法を「平和憲法」と金科玉条のごとく拝めるありさまは逆に「親米闘争」を繰り広げたほうがよいのではないかと錯覚すらおぼえます。しかもかってアメリカ帝国主義と叫んでいた社民党や共産党がそのアメリカによって押しつれられた憲法の最大の擁護者になろうとは当のマッカーサーでさえ予想も出来なかったことでしょうね。
昔はよかった、あの時代、だから今の憲法でもよかったのです。日本は米国の属国であったし軍事的には完全にアメリカが守ってくれたからです、アメリカのゆりかごの中でおしゃぶりを吸っていたようなものでした。そして世界は新しい秩序を真剣に模索していました。だから憲法全文では「日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」という文章はあながち間違いはなく、現実離れしているようにも思えなかったのです。
しかし、あれから60年、時代は変わり、世界も驚くほど変わりました。
平和を愛する諸国民はどこに行ってしまったのか、他国を軍事で恫喝し自国の生存と国益の為には何をやってもお構いなしの国家、まるでエゴ丸出しだ。そして公正と信義など、もはや地球上には存在しない。そのような激動する世界の中で主権さえも持たない憲法をまるで宝物のように守っていくことに何の意味があるのか、9条があったから戦争に巻き込まれなかった、だから9条を守りたいと言う。まるで子供の考え方だ、これではダダッコと一緒、だったら自衛隊はどうするのか、私にはどう考えてもわからない。
憲法は時代とともに変わるものです、いや変えていかなければいけません。また政治とは全てのタブーを乗り越え、改革をしていかなければいけない。
日本社会に立ちこめるこの空気の重さを取り払うにはあらゆるものに挑戦し立ち向かっていかなければいけません。そのような行動を起こすことで健全な精神を子供たちにも教育することで、真の自由の意識と国民としての責任感をそなえた国民を養成する、これこそ、どんな軍事力にもまさる祖国防衛手段となるはずです。
私は主権国家のステータスを得るためには、憲法第9条を取り除き、憲法を改正すべきと思います。
そして第1条も見直す必要があります。
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
英訳すればThe Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.です。しかし原文ではthe Head of the Stateだったと思うがそれが直され、シンボルとなり、日本文では直訳して象徴となりました。しかし実に曖昧な言葉です。鳩が平和の象徴とかはわかりますが人間が国家の象徴(シンボル)と言うのはどうも私にはわからない。
国民の大多数が象徴天皇制を支持している背景には、天皇が「象徴」と呼ばれる存在である限り、決して「天子」でも「現人神」でもないし、これからも変わらないいうことへの信頼や期待があるからではないだろうか。
しかし、象徴と言う言葉には私はどうしても違和感を感じざるを得ません。
外国は天皇陛下を事実上国家元首として遇しているが、学説上は、象徴天皇は元首ではないというのが一般的です。つまり「象徴」の地位には実態の定まりにくい、あいまいなところがあるのです。
私は元首だと思っていますが私もこの1条についてははっきりしたことがまだ言えないのです。このような観点からも憲法を語るとき、第9条だけにとらわれることなく、全般にわたりしっかりと国民が憲法の改正を通じて議論すべだと思います。
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ある上位ブログを読んでみると、「私はあなただ、あなたは私だ」と題して投稿された記事の中で、自分の行動に対しての批判に対してこのように反論しています。『「あなたは人の為に行動をとってみろ」常に自分の事しか考えてこなかった私が、この言葉を自らに問い続けて5月末からの毎日を生きている。私の行動に言及する人たちは、自らにこの言葉を投げかけてみればよい。』とブログに書いています。
なるほど思考と実践は一致しなければなりません、その通りだと思います。ただ、本人が言っている、今まで常に自分の事しか考えてこなかった彼と違って私は今まで自分のことより相手のことを優先し人生を送ってきた来たつもりです。そして少なくても多くの友人と行動をともにしてきました。私の基本姿勢は集団主義、あまり個人主義が好きではありません。
この方が誰であるかについてはあえて書きません、多分同じ年ではないかと思いますが、記事を読ませていただくとどうも私と日本国憲法についての考え方に格段の差があるようです。
お互い人間ですから憲法について考え方は自由です、しかしこれだけ憲法論議が交わされ、国民投票法案も成立し、憲法改正が注目を浴びてきたとなると話は別ですね。ましてや憲法改定阻止を訴え、今度の参議院に立候補するとなれば、他の意見を聞き、コメント欄を開放すべきだと考えます。そして憲法に対する考えに違いがあるとすれば、9条の会から立候補し政治家を目指そうとする彼の憲法論について我々は確認し議論をせさぜるを得ない。
政治家になろうとする人は、おれはおれ、あんたはあんたと言う、おれの勝手では済まされません。
別のブログにも9条を守ろうとするブログがありますが正直に言ってレベルが低すぎる、こんなのは別に放っておいてもかまわないが、しかし彼が政治家を目指す以上はそんなわけにはいかないだろう。やはり改正賛成ブログについても興味を示してもらいたいと思うし、コメントをオープンすべきではないかと思うのだが。
私の性格はブログでの議論や質問ではなく対面で激論を戦わせたい気性ですのでブログ内での議論はしようとはまったく思いません、事実、コメントも悲しいかな承認制を取っている以上は逆に質問すらしてほしくはない。ですから一方的かも知れませんが訪問者の皆さんには彼らとの憲法論の違いについてわかってもらえばそれで言いと考えています、では私の考えを少し書きたいと思います。
まず憲法を読んで見るとそれ自体が日本人によって書かれたものではないことは一目瞭然です。
全文ひとつをとっても今まで日本人がたぶん使ったこともないような言葉が見つかります。「自由のもたらす恵沢」「主権が国民に存する」「国民の厳粛なる信託」人類普遍の原理」「政治的道徳の法則」今でも聞きなれない言葉である、この言葉は当時から使っていたのだろうか、もしかしてアメリカの独立宣言から引っ張り出してきたのではないか、どうしても私は疑いを持ってしまう。
何か、日本語の文章としてはぎこちなく、わかりずらいところがあるが、これが英文で読むと非常になめらかで格調の高い文体となっています。これは多分翻訳者の誤訳によるところがあるのではないかと思ってしまうのです。たとえば出てくる言葉に厳粛を神聖と訳してもおかしくはないし圧迫などは迫害だと訳すべきところだ。
第一条 天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であってこの地位は主権の存する日本国民の総意に基づくと書いてあります。
まず、当時、国民は憲法の制定についての意見などを求められるような環境ではなかったはずです、国民は生きるのに精一杯の状況だったと思います。日本国民の総意に基づくなど誰一人として考えていなかったと思う、つまり全てはGHQの考えだけですすめられ、マッカーサーの一存で決まったと私は考えています。
マッカーサーにとっては、天皇制の存続はあくまで米国における占領政策を円滑に運ぶための便宜上の選択に過ぎなかったのです。
マッカーサーのほんとうの狙いは軍国主義が復活し、また日本人が変な気を起こさないことにありました、つまり再軍国化を防ぐことにあったのです。
そのためにはまず日本を丸腰にして、日本人の精神を骨抜きにしていまう必要があったのです。丸腰にしてしまえば日本は米国に頼りしかなく、そうなれば日本の属国化は補償されるのです。
このような考え方から作り出されたのが憲法第9条でした。
ここには戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認が書かれているが、よく読めばこの9条は日本が今でも主権国家でないことを明らかに謳っています。
「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」
このように訳してあります。問題は「国権の発動たる戦争」「国の交戦権はこれを認めない」と言うところです。
国権の発動たる戦争と簡単に訳しているが原文War as a sovereign right of the nationで直訳すれば「国家の最高の権利としての戦争」です。と言うことは国家がもともと持っている諸々の権利の中でも最も大切かつ究極の権利である交戦権を行使するときに起こる戦争ということとなります。
このもともと持っている権利が国家の主権である。これを第9条によって日本は米国によって放棄させられてしまったのです。
基本的には憲法上、主権を行使できなければどんな状況下であっても戦うことが出来ないのです。憲法解釈は別として、憲法上では攻め込まれても防衛は出来ない、これにはっきりと念を押しているのが「国の交戦権は、これを認めない」のくだりである。原文には「これを」なんて書いてなく国の交戦権は認めないで訳せばよかったのですが。
憲法上では戦えないということは国家を守ることができないと言うことです。主権国家における政府の最大の義務は国民の生命や財産を守ることである。外国から攻め込まれたら国家を守るために戦うのか、それとも降伏するかは政府が決定します。これは主権国家が持つ最大の権利なのです。この権利が第9条では抹殺されているのです、だから日本は国家としての主権を持っていないことになります、簡単に言えば真の独立国家ではないと言う事です。
この第9条によって日本人を骨抜きにするというGHQマッカーサーの目論みは見事に成功しました。日本人は今でも米軍に頼り、日本人自らを守ることさえ出来ない民に成り下がっているのが現状です。
その上、国家から主権を取り上げた憲法を「平和憲法」と金科玉条のごとく拝めるありさまは逆に「親米闘争」を繰り広げたほうがよいのではないかと錯覚すらおぼえます。しかもかってアメリカ帝国主義と叫んでいた社民党や共産党がそのアメリカによって押しつれられた憲法の最大の擁護者になろうとは当のマッカーサーでさえ予想も出来なかったことでしょうね。
昔はよかった、あの時代、だから今の憲法でもよかったのです。日本は米国の属国であったし軍事的には完全にアメリカが守ってくれたからです、アメリカのゆりかごの中でおしゃぶりを吸っていたようなものでした。そして世界は新しい秩序を真剣に模索していました。だから憲法全文では「日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」という文章はあながち間違いはなく、現実離れしているようにも思えなかったのです。
しかし、あれから60年、時代は変わり、世界も驚くほど変わりました。
平和を愛する諸国民はどこに行ってしまったのか、他国を軍事で恫喝し自国の生存と国益の為には何をやってもお構いなしの国家、まるでエゴ丸出しだ。そして公正と信義など、もはや地球上には存在しない。そのような激動する世界の中で主権さえも持たない憲法をまるで宝物のように守っていくことに何の意味があるのか、9条があったから戦争に巻き込まれなかった、だから9条を守りたいと言う。まるで子供の考え方だ、これではダダッコと一緒、だったら自衛隊はどうするのか、私にはどう考えてもわからない。
憲法は時代とともに変わるものです、いや変えていかなければいけません。また政治とは全てのタブーを乗り越え、改革をしていかなければいけない。
日本社会に立ちこめるこの空気の重さを取り払うにはあらゆるものに挑戦し立ち向かっていかなければいけません。そのような行動を起こすことで健全な精神を子供たちにも教育することで、真の自由の意識と国民としての責任感をそなえた国民を養成する、これこそ、どんな軍事力にもまさる祖国防衛手段となるはずです。
私は主権国家のステータスを得るためには、憲法第9条を取り除き、憲法を改正すべきと思います。
そして第1条も見直す必要があります。
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
英訳すればThe Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.です。しかし原文ではthe Head of the Stateだったと思うがそれが直され、シンボルとなり、日本文では直訳して象徴となりました。しかし実に曖昧な言葉です。鳩が平和の象徴とかはわかりますが人間が国家の象徴(シンボル)と言うのはどうも私にはわからない。
国民の大多数が象徴天皇制を支持している背景には、天皇が「象徴」と呼ばれる存在である限り、決して「天子」でも「現人神」でもないし、これからも変わらないいうことへの信頼や期待があるからではないだろうか。
しかし、象徴と言う言葉には私はどうしても違和感を感じざるを得ません。
外国は天皇陛下を事実上国家元首として遇しているが、学説上は、象徴天皇は元首ではないというのが一般的です。つまり「象徴」の地位には実態の定まりにくい、あいまいなところがあるのです。
私は元首だと思っていますが私もこの1条についてははっきりしたことがまだ言えないのです。このような観点からも憲法を語るとき、第9条だけにとらわれることなく、全般にわたりしっかりと国民が憲法の改正を通じて議論すべだと思います。
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英語と日本語のミスマッチも、ここまでくればお笑い草です(笑)
ところが新聞・週刊誌では、愚かなことに今でも不祥事の主犯を『この事件のA級戦犯は〇〇だ!』などという表現で報道しています。
本来はA級・B級にランクづけがあったわけでもなく、単なる分類であっただけなんですけどね。
しかもいまだに『A級戦犯を分祀せよ!!!』などと特定国やそれに媚びる連中までがが糾弾していて、誰も疑問に思わないのも吉本新喜劇なみですな。
アホの坂田が出てきて、観客に向かって「アホアホ~~~」ってワンパターンに言ってるみたいなもんです。
意味もわからず、ただ条件反射で反応してるだけなんですから。
大事なことを言いそびれました。
アホの坂田が『アホアホ~』って言うと観客が笑うのはなぜか、って問題なんですけど、
それはアホの坂田が「アホの象徴」であり、その人が「アホアホ~」っていうからおかしい、単なる条件反射なんです。
あの人のギャグが面白いとか、そんなことなんじゃないんですよ。
それでもお笑いの世界であれば害はないが、政治にかかわることだと話は別です。
ところで今回の参院選に『A級戦犯の孫』と汚名を着せられている東条由布子さんが出馬されるんですよね。
私は心ひそかに彼女が当選してくれればいいなあ、と思ってるんです。
彼女が国会で語ることによって、もう一度国民が『A級戦犯とは何だったんだろう』って考え直すきっかけになってくれればと思うんですけどね。
62年の時が流れた。人も社会も代替わり。時間から当然に派生する戦後の枠組み変化。
最近の左翼、アメリカ、中国らの動きは、必然的な変化を阻止しようとする動きですから、時の流れに逆らう足掻きなんでしょう。
私が元気でいる間に、新しい一歩が踏み出せればなーと思います。
日本は、建前父系社会、根っこは母系社会なので、女が、わぁーわぁー言い出さないと変わらない。その代わり、女の心が転換すると、一挙に社会の方向が転換する。
かーちゃんや娘たちを洗脳して、回天の生き証人となりたいものです。
今回私も偶然憲法に関するエントリをアップしました。いろいろ考えた末、現状での改憲に反対する意見を表明しました。
日本国の要は天皇制の安定維持にあるという考えから、反日売国奴どもが金科玉条と仰ぐ「形骸化した9条」を保持する代わりに、天皇を「元首」と定め、周辺立法で宮家の復活か側室制度導入の部分で譲歩を得るという方法はどうかと提唱しました。
憲法も「改正」という名目ではなく、第一条に追加の文章を入れることで「再認決議」という形をとることが今のところ現実的かと思ったしだいです。
憲法は大事ですが、もっと大事なのは実際に国が保てることだと思うのです。
その場合、最優先は日本国の場合、天皇制であり、これを「女系」にしたり、「男系維持」が難しい現行の枠組みを撤廃することを優先すべきと判断しました。
靖国神社からA級戦犯14柱の御霊を別に移すには、246万柱余すべてをいったん廃祀することになるため、実際には不可能だと思います。
私は当時は「侵略」の定義さえ定かではない時代でした、祖国防衛と欧米列強の侵略から守るアジア解放闘争と思っています、したがってあの戦争は日本の侵略戦争とは思っていないんです。
戦争に勝ったが故に正義であり、負けたが故に罪悪であるとするのであれば、もはやそこには、正義も法も真理も存在しない。国際法、慣習法に照らして戦争は犯罪ではありませんよね。
A級戦犯については私は極東国際軍事裁判を認めていません、よって勝者が敗者を裁く、故意に作られた裁判劇でした。ですから私にはA級戦犯など存在はしないんです。
そうですね、東条由布子さんが出馬されるんですよね
個人的には当選してほしいと思っています。
でも無理かなぁ。
今後ともよろしくお願いいたします。
(ナルト)さん、お久しぶりです。
読ませていただきましたね、そうですね、考えは理解できます、しかし本当に難しいところですね。
私は以前からなぜ9条だけにこだわるのか、まず1条を徹底して議論すべではないかと言うのが私の考えでした、象徴天皇というのもおかしいものだと思っています、ナルトさんの憲法論は決して間違ってはいないと思います、なるほどと思う点は多くありますので一度憲法論を多くの方と議論したいものです。
今後ともいろいろ教えてください。
よろしくお願いいたします。
(merlin)さん、お早うございます。
そうですね、時代の変革は女性が握ってるかもしれません、あの富山の米騒動をご存知ですか、主人公は家庭を守る「かあちゃん」でした、小さな抵抗が全国運動になった事件、やはり、女の偉大さは母ちゃんですね。本当に子供を産むというのは大変なこと以上に偉大なことなんです、今の女は永遠に「女性」でいたいのでしょう、それは間違ってはいませんが、男は男、女は女、母ちゃんが家でどっしりしている、これほど家庭が安定することはありません、よく考えれば男は女のロボットかも、大したことはありませんね。(爆笑)言われるように根本は母系なんです。
昔、こんなことを聞いたことがあります、親にしかられた子供の目をみると疑いの目は父に、不安な目は母にと言うことを聞いたことがあります。
これって本当に面白ことを言っているんですよ。
子供は自然に母には安心と安定を求めているそうです。家の外は男、家の中は女 子供のDNAの中に組み込まれているそうです、これを言うとジェンダのバカどもがワイワイ言うらしいですが。