昨年の11月のことです。
各週の日曜日、19:50ころに母に電話
をしていた。母は私の様子が気になるし、
私は私で、母の健康をきずかっていた。
記憶は定かではないが、日曜日に電話をする
のを忘れてしまって、月曜日に電話をした。
なかなか電話に出なかった。やっと出たと
思ったら、気分がすぐれないようだった。
このころから、脳血栓の兆候があったのかも
知れない。その週末、11月19日に入院した。
病因は最初はなんだかわからなかったが、よろ
けて、口の周りを切ったようだった。
よろけたのが先か、脳血栓が先かはわからないが、
MRIの診断は脳血栓であった。左半身は不随に
なってしまった。歳も歳だし、劇的に改善に向かう
ことはないと、医者からは言われていた。
日赤からリハビリ病院に転院してからも、母は、
正月に自宅に帰るために、懸命にリハビリに励んだ。
リハビリの状況を確認するために、田舎に帰ろうと
していたが、私が入院してしまってできなくなって
しまった。
2月3日(金)母死去の報は病院の中の電話で聞いた。
もう私には、成すすべはない。退院したら一度、
田舎に帰ろうと思っていた矢先のことである。母の
死は私退院を早めてくれたようだ。
今から思えば、親不孝の連続であった私への最後の
警告であったのかもしれない。これからは、母の
思いを、大事にしながら生きて行こうと思う。
父の死も母の死も、私には悲しい思い出だが、
力強く生きて行こうと思っている。
のとの電話での会話は、こんなものですが、
もうこういう電話はする必要がなくなりました。
「元気!」 「まあまあ」
各週の日曜日、19:50ころに母に電話
をしていた。母は私の様子が気になるし、
私は私で、母の健康をきずかっていた。
記憶は定かではないが、日曜日に電話をする
のを忘れてしまって、月曜日に電話をした。
なかなか電話に出なかった。やっと出たと
思ったら、気分がすぐれないようだった。
このころから、脳血栓の兆候があったのかも
知れない。その週末、11月19日に入院した。
病因は最初はなんだかわからなかったが、よろ
けて、口の周りを切ったようだった。
よろけたのが先か、脳血栓が先かはわからないが、
MRIの診断は脳血栓であった。左半身は不随に
なってしまった。歳も歳だし、劇的に改善に向かう
ことはないと、医者からは言われていた。
日赤からリハビリ病院に転院してからも、母は、
正月に自宅に帰るために、懸命にリハビリに励んだ。
リハビリの状況を確認するために、田舎に帰ろうと
していたが、私が入院してしまってできなくなって
しまった。
2月3日(金)母死去の報は病院の中の電話で聞いた。
もう私には、成すすべはない。退院したら一度、
田舎に帰ろうと思っていた矢先のことである。母の
死は私退院を早めてくれたようだ。
今から思えば、親不孝の連続であった私への最後の
警告であったのかもしれない。これからは、母の
思いを、大事にしながら生きて行こうと思う。
父の死も母の死も、私には悲しい思い出だが、
力強く生きて行こうと思っている。
のとの電話での会話は、こんなものですが、
もうこういう電話はする必要がなくなりました。
「元気!」 「まあまあ」