goo blog サービス終了のお知らせ 

風箱の徒然ブログ

旅の思い出話から、木工、日常の徒然を気ままに

テントで一人考え事

2008-05-21 22:14:00 | 1996~97原付日本一周沖縄編
1997年4月21日
久しぶりにゆっくりとした時間が流れた。
モンパの木の下の木陰は実に居心地が良かった。

白い砂浜にコバルトブルーの海を眺め、青空の下で一人これまでの旅を振り返る。


なぜ自分は日本一周しようとしているのか。

とにかく家に居るのが嫌だった。

「共感できる仲間」がほしかった。

自分の知らない土地へ行ってみたかった。

ただ、僕の心の奥底には「人間否定・恐怖」が流れていて、知らない土地へ行ってみたいとは思っても、現地の人と交流をしたいとは思っていなかった。

人と話をするのが怖いと言うのが、どうしても取れない。
こびりついて離れない。


旅の面白さは、その場所へ行くのみでなく、現地の人達と出会う事で新たな広がりもつ事ができることにあると思う。

そう思っているのに、「対人恐怖」が先に来てしまい、一歩前に出る事ができない。
これがまた苦しい。

話がそれた。
日本一周の目的。

50ccという小さなバイクでたくさん走って、「こんなに走ったんだぞ!」と自分の身近な人達を驚かせてやりたかった。
ナマぬるい社会に依存して、心が干からびて「無難な生活」におぼれるのが嫌だった。
そして、一片の歯車としてしか存在価値のない所で働く事に、嫌気がさしていたと言うのもあった。

こんな事をかかえこんで、どうして良いのか分からず、かといって周りに打ち明けて聞いてくれる仲も無く、欲求不満が蓄積してどうしても外に出たくなった。

外に出て走っていれば、気持ちも落ち着くだろうと考えた。

・・・結局独りよがりなのか自分は?

北海道まで行って、5000キロも走って、90リットル近いガソリンを使っても、気持ちは沈むばかりだった。

心が変わる、自分を変えるという作業は、結局物質や長距離をがむしゃらに走っただけではダメだと言うのを、身をもって感じた。

無論、北海道の旅でも、色々な人達と出会ったし。それなりに楽しい事もあった。
しかし、僕の心を根底から変えることは無かった。

自分を変える。
これがいかに難しいか。
しかし、ここで踏み止まっていては進歩が無い。
なんとかしていこう。

具体的にどうすりゃいいのかは分からないが。
一言でも二言でもいい、その時になたら思い切って口を開いてみよう。

タイムカプセル

2008-05-19 21:42:00 | 1996~97原付日本一周沖縄編
1997年4月17日

寮を出て浜にテントを張ってからも、まだ部屋には荷物がかなりあったので、何度か片付けに行った。
これからの旅に不要なものは、全て小包で送った。
長期滞在すると、不思議と物が増える。

片付けも一段落し、すっかり何も無くなった部屋を見回す。
ああ、本当に終わりだなと言い聞かせる。

タイムカプセルを作った。
木っ端を使って箱を作り、中には、寮に皆がいた頃に雑談などの様子を録音したテープやガラクタ、OG君がよく吸っていたタバコの「ウルマ」1箱その他を入れ、ガムテープで封印した。
そしてコンビニ袋で3重に包んだ。

どこに埋めようか?
残りの1週間のうちに場所を決めなくてはいけないな。


4月20日
タイムカプセルを埋めた。
自分がテントを張っている近くである。
目印になる物がなくて困ったが、切り株があったので、その近くに埋める事にした。

50cmくらいの深さの穴を掘り、底にサンゴのかけらを敷き、その上にタイムカプセルを載せる。
そして砂をかけて全て埋めた。
また来るからな・・・


2000年に自分は再び波照間に来て、タイムカプセルを探したが、目印の切り株がなくなっており、場所が分からなくなっていた。
手当たりしだいに掘ってみたが、結局出てくる事はなかった。
誠に残念である。

やーめた

2008-05-16 22:44:00 | 1996~97原付日本一周沖縄編
結局1週間で飛び魚漁のアルバイトは辞めることにした。

どうにも船酔いがダメで、ろくに飯が食べれなかったからだ。
1日1食では体が持たない。

OMさんに辞める事を告げた。

元々キビ刈りほどのやる気がなかったと言うのもあるが、水辺の仕事は自分にはちと合わないな、とも感じていた。

翌々日には家を出て、浜のモンパの木の下にテントを張った。
テント暮らしも久しぶりだ。


すぐには元に戻らないが、再び旅人になりつつある。
いよいよ動く時が来た。

別れ

2008-05-14 21:38:00 | 1996~97原付日本一周沖縄編
1997年4月15日

キビ刈り隊のメンバーのOG君が波照間を出る日が来た。
キビ刈りのメンバーがこれで全員去り、自分一人だけとなった。
自分を見送ってくれる人がいるのだろうか・・・

否、四国を去る時だって、北海道を離れる時だっていつでも一人だったじゃないか。
いまさら見送ってもらおうなどと図々しい事考える必要なんてないじゃんか。

さて、OG君がフェリーに乗り、欄干越しにこちらを見下ろす。
大声でOG君が
「なんか、ぜーんぜん実感が湧いてこないなー!」

自分「俺もだよ!」
OG君「本当にいなくなるのかなー。なんかまたこっちに戻ってきちゃいそうな感じ。」

僕は黙って彼を見た。

「K君ありがとう。」

ちょっとギョッとした。
僕は彼に何かやってあげただろうか?

自分「写真送ってくれよなぁ!俺も絶対送るから。」

「分かったぁ!」
とOG君が返す。

ラッタルが降ろされ、係留ロープが外された。
いよいよ出港だ。
OMさんの奥さんが、ターミナルから出てきた。

今日はターミナルの食堂がオープンの日だった。

OG君が離れ際に重奏ハープで「草競馬」を演奏してくれた。
彼らしい曲の選択だと思った。
どことなくシットリとしているが、でもカラッとした感じ。
悲しさはあまり無いが、寂しさはある。
ただ、ただ、僕も彼も黙って手を振った。

「さよなら」
とは一言も互いに言わなかった。出てこなかった。

少し船が岸から離れてから、OG君が再び「ありがとぉー!」と叫んだ。
「俺もなぁー!」と返した。

あー、行ってしまったなぁ。俺一人だけになってしまったなぁ。
まさか俺が最後に残るとはなぁ。

小さくなっていく船影を目で追いかけながら一人思う。

Uさんが高速船で去った時のような、キュッと締まっていく悲しさは全く起こらない。
思えばここ波照間で、何人見送ったのだろう。
いつの間にか「別れ」と言うのに慣れてきてしまったのだろうか?
いや、違うな。

たぶん、その人を好きになる度合いによって別れのつらさと言うのは違うのかも知れない。
でもそれだけじゃないよな?
シットリとした別れの合う人と、カラッとした別れの合う人の違いかな?
うーん。

ま、これくらいにしておくか。

トローリング

2008-05-13 21:13:00 | 1996~97原付日本一周沖縄編
1997年4月11日

今日は網の修理で終わった。
仕事の後、母船のMSさんがトローリングをやるというので、OMさんの勧めもあって船に載せてもらった。

港を出たと思ったら、MSさんがいきなり「おう、舵取りたのむわ。準備するから。これがガバナー、これがクラッチ。ほい、頼んだよ。」

え?あ?お~~!?

と、わけの分からぬまま舵を取る。

「もうちょい右、行きすぎ!左に切って!」

その間にMSさんは竿やワイヤの準備をしていた。

マグロやサワラは大きいので、ワイヤで引き上げる。
竿も魚が引っかかった時の合図のためで、引き上げには使わない。
手袋をはめて、直接ワイヤを手繰る。

船のデッキの天井には穴が開いていて(蓋もある)、そこから頭を出し、周りを見るわけだ。

しかし、今日はうねりが高く、潮をまともに顔に浴びる。
「プハー!」

「よし、旋回窓のスイッチを入れてやるからな。」

旋回窓。船の操舵室の窓に付いている円形のあれである。
車のワイパーみたいなものだ。
この時、初めて旋回窓の効用を確認した。
扇風機の「強」のスイッチを入れたような感じで、けっこう早く回る。
潮のしぶきは回転によって弾き飛ばされ、その部分ははっきり見えるが、何せ円形の部分は意外と小さいので、視界は狭い。

舵は左に押すと右に曲がり、右に引くと左に曲がる。
飛行機のラダーみたいな感覚と言ったらよいだろうか。


トローリングを開始して少し時間が経った。

「この辺にいるみたいなんだが、移動してしまったかもしれないなー。」
「エンジン回転もっと上げて」
「よーしOK」

デッキ右側にガバナーとクラッチのレバーがある。
黒い柄の方がクラッチ。前進と後退。
茶色の柄がガバナー。これはエンジンの回転を変えるアクセルだ。


舵を動かす棒は奇妙に曲がっていた。
舵取りは、船のスピードによる水の抵抗をダイレクトに受けるのでけっこう重い。
しばらくやっていると腕がだるくなる。

デッキの下のエンジン室を覗いてみたら、青っぽい色をしたエンジンと計器盤が見えた。
ドコドコドコとエンジンが唸っている。

1時間経ったが一度も魚はかからなかった。

舵取りは疲れるが、楽しかった。
漁船を操作するなんてそうそう体験出来ることではない。

この時も苦手な微速だったが、操舵していたためか、船酔いはしなかった。

しかし、港に着いて陸に上がると、陸酔いで頭がクラクラし、耳鳴りがした。