風箱の徒然ブログ

旅の思い出話から、木工、日常の徒然を気ままに

サクラサク季節

2009-04-04 13:52:00 | 日々雑記
この時期になると、どうしても思い浮かべてしまいます。
1945年、4月。

日本は多大な犠牲を積み重ねた上で、米軍に沖縄上陸され、硫黄島もとられ、本土の各都市も空襲で焼かれ、戦争末期で、どうにも絶望的な時期でした。

日本海軍の切り札とも言うべき戦艦大和が、沖縄に最期の海上特攻に出撃して、沖縄本島の島影を見る事すら出来ないまま、米軍の艦載機によって東シナ海に沈んだのが4月7日でした。


そして、この時期に咲く桜を見ると

散る桜 残る桜も 散る桜

の句が自然と頭に浮かんできます。
特攻で出撃して行った若者達の多くが詠んだ句です。

良寛さんは、この句が後世にまったく違う意味で詠われるとは、想像すら出来なかったでしょう。

本土に入る

2009-04-03 17:32:00 | 1996~97原付日本一周後半編
1997年5月21日

17:00。沖永良部島に寄港。
接岸後、下では大型フォークリフトが大きさに似合わず驚くほどの旋回能力を発揮して、狭い港内で大きなコンテナをフェリーに運び込む。
石垣島とフォークの動きが違う。
ぶつかりはしないかと思わせるほどギリギリで、フォーク同士がすれ違いながらコンテナをどんどん船に入れて行く。

「なみのうえ」は当たりだった。
食堂は船にしては値段も安いと思う。
うどん320円、牛丼530円、中華丼580円、小皿の野菜110円、味噌汁100円など。
学食のようにおぼんを取り、棚に並べられた料理を取っていくという形だ。
棚に無いメニューは注文する。そして会計。
自分は牛丼を食べた。
食堂は満席に近い状態だった。
食べ終わったら返却口へ。

飛龍と同じでベッドの部屋だ。
ベッドの上で絵を描いたり、西表で集めた星の砂のより分けをしたりしながら暇をつぶした。
シャワー室は4人までが入れるほどの広さで、湯船もあった。
シャワーの湯量も十分だ。
船に揺られながら浴びるシャワーもいいものだ。

こうして船の上の1日が終わった。

沖永良部、奄美と寄港するに従い、乗客数が増えていく。


5月22日
眠りは浅かった。
枕がいまいち合わなかったせいだろうか?
外にの空気を吸おうと思ったが、寒くてやめた。
本土は春だ。

さすがに沖縄の気候の気分ままではまずいと言う事か。
しかし、昼になればツーリングにはちょうど良いだろう。

8:30ついに鹿児島港到着。
5ヶ月振りの本土だ。


さあ、行ってみようか。


まずは知覧と池田湖かな。

ロングツーリングは久しぶり。
走っていると眠くなるし、尻が痛い。

まず池田湖。
湖畔に入る轍を見つけたので、そこから入って記念写真。


そして時計を見たらまだ11:00だったが、昼食。
沖縄で買ったオキコのインスタント沖縄ソバを食べた。

とにかく、これから食費も含めて、極度に切り詰めないとやばい。
腹が落ち着いたところで次ぎは知覧へ。
モヤがかかっていたが、開聞岳がとても美しい。


知覧と聞いて自分はまず陸軍の特攻基地を思い浮かべていたのだが、お茶の産地でもあった。あちこちに茶畑があった。
畑に立つあの扇風機のような形をしたプロペラは何なのだろう?
(※後で知ったが、冬に霜を防ぐ為に、畑の空気をかき回すものらしい。)

ようやく、現地に到着。
知覧特攻平和記念会館

知覧の事を知ってから1年たって、やっとここまで来れた。
神奈川に住む自分にとっては、ここまで来るのは大変な事だ。

入場料は500円。
入り口のロビーには、燃えている隼から、焼けただれた特攻員を、天女が数人で囲みながら昇天していく様を表した巨大な壁画が描かれている。
天女の一人は、自分の冠が頭から落ちるのも忘れて、やさしい笑顔で抱きかかえていた。

うまく説明できないのだが、単に感動という言葉で片付けられない、心をゆり動かす腹から何か込み上げてくような思いで、その絵を見ていた。

入り口右側には前半分のみのかなり朽ち果てた零戦。
主翼に付いている13mm20mm機銃、背負い式の落下傘を収めるための座席、風防の前面には防弾ガラスが付いていたから52丙型だろうか?

さて、展示室へ。
真ん中には飛燕が翼を休めていた。
かつては浜松基地に屋外に半ば放置状態で置いてあったが、巡り巡ってここに落ち着いたようだ。

その横にはアツタエンジン。当時の日本では珍しい液冷式。
水冷と呼ばないのは、高空では水だと凍ってしまうので、エチレングリコール液(不凍液)を混ぜていたから。
ダイムラーベンツのエンジンを、川崎がライセンス生産した物だ。
試作時の性能は良かったが、量産製造において部品精度が出なくて故障が多く、戦地では整備員泣かせのエンジンだったようだ。

ここにきて本当に驚いたのは、京都の嵐山から行方知らずだった「疾風」あったことだ。
かつてはレストアを経て飛行可能だった。

さて、展示物の多くは、数え切れないほどのたくさんの若者達の遺影と実物の遺書、遺品など。
鹿屋基地の展示館を見た時は、どこか技術的な印象を持ったが、こちらは人間のにおいがした。
中にはスケッチなどもあった。上手な絵だった。
出撃して行った隊員はおおよそが自分と同じか少し下位の人達だ。(注:1997年当時です。)

最年少は17歳と4ヶ月。
高校生の年齢ではないか!

「月光の夏」のピアノも展示してあった。

しかし、戦争と特攻、沖縄と本土では明らかにその考え方は違う。
沖縄は多数の市民が犠牲になり、占領されていた時代が長かったと言うのもあるのかもしれない。

ここの展示物を見てると、意外とアッサリというかサバサバした印象を持った。
空と陸の違いと言うのもあるのだろうか?
しかし、それは自分が持った印象に過ぎない。

あまりに若くして出撃していった隊員達がいかにして死と向き合っていったのか。

自分が当時に生きていて、国の存亡がかかっている中で死んでこいと命令を受けたらどんな事を思うのか、とか考え込んでしまった。
死ぬのは怖い。
しかし絶対的に国が危ない。
そこまで追い込まれたら、人間は平和な時とは全く違う感覚に変化してしていくのだろうか?
戦記とか歴史の本を読んでそう言う事をよく考えるのだが、今もって答えは出ない。

こうして2時間ほど滞在して、修学旅行の小学生の団体にもみくちゃにされそうになりながらここを後にした。
今日のテント場は火の神公園に決め、15:30到着。