かやのなか

あれやこれやと考える

ねじれた家

2020-09-16 01:00:59 | 映画
休日に「ねじれた家」という映画を観ました。アガサ・クリスティは、中高生の頃にハヤカワのあの真っ赤な背表紙の文庫本を相当数読んだ記憶があり、このタイトルも聞き覚えがありますが、ラストまで観て普通に真犯人に驚いてしまいました。というか、もう一冊の有名ミステリ小説(Y)のほうを思い出しましたが、クリスティもこういうの書いてたんですね。ねじれた家の方が出版年は新しいようです。
とはいえ作品のテイストは全然違います。クリスティは登場人物の人間模様に重きを置いているため、陽気な空気の中に闇がスッと差し込んでくるのに対し、Yの悲劇はサイコホラー小説のような、冷たい屋根裏部屋の湿気のようなものが通底して感じられます。
探偵役が、地味な上に探偵としての仕事もあまりしないために、映画としてはあまり締まりのない出来で、前半は眠気をこらえるのに苦労しました。
存在感においては大叔母役の女優が全部持ってった感じです。
小説がどうなっているかわかりませんが、屋敷の家族たちは狂人ではなく実はみんな普通の人々だった、死んだ老人の生前の支配力により彼らは変人を演じなければならなかっただけなのだ・・・みたいな構図を、構成ではっきり明らかにしていけたら、いろいろと面白かった気がします。

【ネタバレ注意】天気の子 感想

2019-11-27 00:47:23 | 映画
ども!かやじょうです😝
もう11月も末だというのにしぶとく上映継続中の天気の子を観てきたのでレビューします。
しかしまぁ、今月公開したばかりのターミネーターなんてもうレイトショー1回しか上映してもらってないのに破格の待遇ですね。さすが鬼ほどスポンサーがついているだけありますね。😅

一言でいうと、思ってたより良いやん、というのが正直な感想です。
というわけで、いつものテンションに戻ります。

**

 人様のレビューをいくつか読んだ状態で鑑賞に臨んだ。
 リアリティがどうとか、倫理観がどうとかいう批判が多かったので、割とリアル系な話かと思っていたが、蓋を開けてみれば、小学校の高学年から中学に入る頃に読んだ、ジュブナイル系の物語だった。物語の背景の省略の仕方が、これまでの新海誠の作品(といっても言の葉の庭と君の名はしか観てないけど)と比べてもかなり割り切ってそっちのジュブナイル系として整えられていたように感じた。ジュブナイル系である上に、きみと僕との関係性が世界の仕組みに大きく影響を与える、いわゆるセカイ系というやつでもある。なので、この作品に関しては、リアリティとしてありえないだの、展開が都合が良すぎるだのと批判するのは的外れと思う。そういう土俵で勝負していない。わかった上で編集されているわけだから。だって、弟先輩が都合よくあのタイミングで廃ビルに到着したり(下に警察おるやろ)、穂高が線路を走り続けても本気で止める大人が誰一人やって来なかったり(みんなやさしい)、都民たちが水没した町を素直に受け入れすぎだったり、その水がきれいすぎだったりするのも、結局少年少女向けの冒険小説はそういう法則で世界観が回っているのだから仕方ないじゃないかという一言で片付く。これは現実世界によく似た別の世界を舞台にしたファンタジーなのだ。
 そういう世界観の舞台で、何を語るかと言うのがジュブナイル小説の肝だが、他人の為に尽くしてばかりいるとってもイケニエむきの女の子に、ラスト付近で主人公が「(みんなのためじゃなく)自分のために祈って」と語りかける。これが本作品のテーマで、新海誠が一番言いたかったことかなと思ったが、これ自体は今の若い子供世代に向けてのメッセージとして、時代に即しているように思った。このテーマを際立たせるにはどういう表現をしたら良いんだろう、という思考になるわけだが、とりあえず悪かった点から書く。

・モノローグはすべて削ってほしい
 青春映画の楽しみというのは、基本的に、スクリーンの中で青臭い若者が情熱に任せて馬鹿でアホでとっぴなことをやらかすのを眺め、ああ青臭いなとせせら笑いながらもどこかに自分との共通点を発見し、主人公たちの行末にいつしか徐々に自分自身を重ね合わせていくことにある。と思う。
 そのためには、スクリーンと観客の間にある程度の距離感があることが大事で、共通点は観客自身が自然に見つけなければならない。スクリーンの側から押し付けられるものではない。なのに、この映画はモノローグがやたらと多くて、それも意味のない状況説明であったり、当然こちらが推測できるような感情の丁寧な読み上げであったり、とにかく押し付けがましい。
 しかも悪いのは、映画のテーマが「世界を壊してでも好きな人を救えるか」という究極のエゴである点で、これはある意味人間の原罪みたいなもので、世界を見捨てて恋人を選ぼうとする主人公は当然、その葛藤は一人で引き受けなければならない。モノローグがいけないのは、ひたすら言い訳を聞かされているように感じるからだ。彼が一人で悩み、葛藤し、選んでいく様をただ観客にみせた方がよほど伝わるべき人に伝わったんじゃなかろうか。

・ヒロインの切り取り方
 このヒロインは相当な自己犠牲を払っていて、他人のために生きることが自分の生きがいといった感じで、聖母マリアみたいな描かれ方をしており、純粋無垢でどこまでも透明な存在である。天気の神様に拉致られなくとも身体が透けそうだが、そういう描写を貫きすぎた結果、テーマ性が薄まってしまっている。例えば、ヒロインが天空の雲の上に軟禁された結果、東京には太陽が戻ってくるわけだが、そのことを知って安堵するカットを一瞬でも入れたら良かったんじゃなかろうか。彼女は彼女で他人のために生きることを生きがいにしているが結局それもエゴである。彼女のエゴが浮き彫りになり(なんならそこに狂気めいた雰囲気を出したっていいと思うが)その上で主人公が助けに来れば、これはもうエゴとエゴの戦いで、良い悪いの判断は観客に任せるとして、「みんなのため」「自分のため」の対立がより際立ったんじゃないかと思う。
 まぁでもこれをやると、ただ俺は純粋無垢なものを守りたいんだ!!という感じは薄れるけど・・・いや、それだからやっぱり無理があったのでは・・・

モノローグ、君の名はではどうだったかあまり覚えていないけど今回ほど気にならなかったのは、神木隆之介くんの絶妙な演技の為せる技だったんだろうか。ところで君の名はでは演技の上手い神木隆之介くんの出演シーンが量的に多く、他でもところどころに上手い俳優がいたように感じたが、今回の映画にはそういった屋台骨俳優がいなかった。収録は絵がない状態で行われたんだろうか?

いちゃもんをつけてばかりでもあれなので、良かったシーンも。
・まずオープニング。
 アニメとして圧巻だった。
・廃ビルでのクライマックス
 ここの緊張感は良かった。主人公は家出少年だが、結局東京でも須賀という庇護者のもとで暮らしており、完全に自立したとは言えない状態だった。逃避行を企てても満足に完遂できない、粋がったところで結局ただの16歳の子供でしかないという事実を超える実力がなく、好きな人を失ってしまう。しかし、ここで初めて本当に一人の男としてすべての大人たち、特に父親的な存在である須賀に拳銃を向ける。リアリティがどうこうというなら、結局、拳銃がなければ立ち向かえないところにリアリティがあると思う。
・穂高の走るシーン
 女の子が走る映画は多いが、男の子が走るのは珍しい。
 警察署から逃亡した穂高は、少女を助けるために線路をひた走るが、走る方向が画面に向かって左から右で、下手から上手に向かっている。この間、彼は彼女との過去を回想している。時をかける少女では上手から下手に走っていた。未来に向かって走るときは上から下、過去に向かうときは下から上なので、これは補高の心情的に正しい。(だからモノローグは要らないっちゅうねん)そして、廃ビルで外階段を駆け上がるとき、ジグザグの階段を上から下、下から上へと行きつ戻りつしながら方向はどんどん上へと昇っていく。ここは余計なモノローグもなくて、絵だけで心情を表現していて良かった。(ひょっとしたらモノローグがあったかもしれないが、聞かないことにしていただけかもしれない)
・理屈をこねない
 シーンじゃないけど、東京に雨が降り続ける理由とかイケニエを捧げるシステムとか、作品内部の設定について詳細に語られないのが逆によかった。君の名は、は若干それで萎えたので。

力尽きました。

それでは、また🙋

不条理を笑う ブラック・クランズマン(感想)

2019-10-16 00:00:00 | 映画
 ブラック・クランズマン(BLAKKKLANSMAN)は2018年のアメリカ映画。監督は「マルコムX」のスパイク
リーで、この作品でアカデミー賞脚色賞とカンヌ映画祭審査員特別賞を受賞している。

 コロラド州の警察署に最初の黒人警官として採用されたロンは、潜入捜査の一貫で、白装束で有名な白人原理主義集団<KKK>の新聞広告に電話をかけ、黒人でありながら持ち前の話術でメンバーに気に入られ、組織の中で頭角を表していくが、中には当然ロンを怪しむやつもいて・・・。というのがざっくりしたストーリー。

 ロンが黒人であることは見りゃ分かるので、KKKの会合には、白人の同僚警官が「ロン」として出向くことになる。いわば二人のロンが存在することになる。この同僚を、スターウォーズ新シリーズの敵役、カイロ・レンを演じたアダム・ドライバーがやってるなんて、観終わってしばらくしてから気づいたよ。雰囲気があまりにも違い過ぎて。でも、こっちのアダム・ドライバーの方が全然輝いてた。セリフも立ち居振る舞いも地味そのものなのだが、雰囲気があった。ちなみに、彼が演じるこの同僚の警官は実はユダヤ人で、KKK的には「また別の敵」にあたる。

 アダムドライバーが劇中で「自分は決して厳格なユダヤの戒律に従って育てられたわけではない」と語るシーンがある。それほど民族に帰属意識はないが、目の前でユダヤ人をボロカスに言われると腹がたつ。
 主役のロン(こちらはデンゼルワシントンの息子が演じている)はロンで、警官になってしまったものだから、バリバリの黒人活動家たちからは浮いた存在である。仲間の白人警官たちが、黒人の恋人からピッグ(警察の蔑称)と呼ばれると、「ピッグじゃなくてポリスだ」と訂正したくなるが、訂正すると「お前は黒人じゃないのか」と非難される。

 舞台は1970年代に設定されているが、この、白か黒かを表明しないと許されない時代の居心地の悪さは、現代にそのまま存在する空気で、黒人差別を表立った題材としているが、それだけにとどまらない社会の不条理を描いていたように思う。
しかし題材の重さに比肩して語り口は軽快で、エンタメに徹しており、上映中はそこかしこで笑い声が聞こえた。

 ロンが潜入するKKKの支部メンバーにコニーとフィリップという夫婦がいるのだが、この夫婦、過去に何があったか知らないが、黒人とユダヤ人を本気で殺してやりたいと考えている。特にコニーが強烈で、黒人の話さえしなければ、よくいる善良なおかみさんといった風情なのだが、そのマシュマロのような体躯と無邪気な笑顔から発せられる黒人への悪口雑言の数々は、一周回って倒錯的な美しさすら感じた。旦那のフィリップも、完全に憎しみで頭がイカれてしまった男だが、コニーとベッドで「ハニー、ようやく黒人どもを焼き殺せるね・・・」と語らうシーンなど、会話の内容こそイカれているだが、醸し出される雰囲気には荘厳さすら漂う。彼らは真剣そのものなのだ。真剣で、真摯であればあるほどギャグであり、後ろに悲しみが隠れている。

 飯田橋のギンレイホールは二本の映画を交互に上映し、一枚のチケットで二本分滞在することができる。どこから観るかは観客の自由で、今週はこれとグリーンブックを上映していた。私はどちらかというとグリーンブック目当てだったのだが、映画館のツイッターによると、ブラック・クランズマンの方が客入りは良いらしい。
 18日まで上映しているので、まだの方はぜひ。


それでもブラピに3000点あげたいワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドの感想

2019-10-14 07:00:00 | 映画
 ちょっと前に観た映画。

 いつものタランティーノ。いつものディカプリオ。いつものブラピ・・・ではない。
 私的には今回のブラピは素晴らしくかっこよかった。
 もう齢50を越えてるなんて信じられないような、きれいな腹筋も披露してくれる。
 いや別に腹筋にクラリとやられたわけではない。もちろん服を着たままでもいい。とにかく所作から何からすべてがカッコよいのだ。

 さっそく脱線するが、ブラピといえばブラピ好きの大学時代の同期を思い出す。当時はブラピの代表作と言えばセブンかファイト・クラブで、どちらも硬派なあんちゃんといった感じの役どころで、私はいまいち良さがわからなかった。いや、かっこいいはいいけどさ。それほどか? みたいな。
 まぁ彼女は無類のヒゲ好きで私は特段ヒゲ好きじゃないからかな、なんて思っていた。
 今作のブラピはナンパで硬派な男だ。言うならば「三軒となりに住んでいる兄ちゃん」とか「遠い親戚の年上の従兄弟の兄ちゃん(毎年お盆の1日だけおばあちゃんちで会う)」みたいな、ゆるくて頼りない、しかしいざってときは頼れる雰囲気をまとっている。わかる人だけわかって欲しいが、実写版スナドリネコさんである。
 これがスナドリネコさん好きな私のハートにぶっ刺さったのである。いや、きっと私だけではないはず、アカデミー会員とかの皆様の心にも刺さっていると信じたい。

 ブラピのことしか書いてない。映画の感想はどうした。
 はい、映画の感想ですが、これもネタバレを気にする方は回れ右してください。



 いいですか?



 ビッグフィッシュって映画をご存知の方いるかしら。ティム・バートンがチャーリーとチョコレート工場を作るひとつ前に作ってた映画なんだけど、幼少の砌にシザーハンズ、学生時代にナイトメア・ビフォア・クリスマスを観てすっかりティム・バートン信者として養成されてた私は、ビッグフィッシュで初めて彼の映画をリアルタイムで、つまり映画館で封切りされたものを観ることになって、期待値はカンストしていた。
 ところが・・・映画館を出る私はすっかり失望していた。ビッグフィッシュは稀代のホラ吹き男の話だが、彼のつくウソが、現実を侵食してしまうシーンがあった。それは、映画の世界観的にはやっちゃいけないことで、その一点が私にとって致命的だった。その後、チャーリーとチョコレート工場、コープスブライドと、ティム・バートンのつくウソは私にとって完全に意味不明なものになっていき、完全に心が卒業してしまった。

 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドも、ウソの話である。
 ウソだが、シャロン・テート殺害事件というハリウッドで起こった実話を元にしている。
 シャロン・テート殺害事件とは、ロマン・ポランスキー監督の最初の奥さんシャロン・テートが、妊娠中の子供と共に頭のおかしいヒッピーになぶり殺されてしまったという痛ましい事件である。
 主人公のディカプリオは、当時のポランスキー邸のすぐ下に家を構えていた西部劇俳優という役どころ。ブラピはディカプリオの運転手兼親友兼スタントマン兼ヒモみたいな、謎の男を演じている。

 ディカプリオは、かつて一世を風靡した有名俳優だが、世間で西部劇が廃れつつあることもあり徐々に仕事が減ってゆく自分の俳優生命に危機感を抱いている。一方、専属スタントマンのブラピは、危機感があるんだかないんだかよくわかんない飄々とした雰囲気を崩さず、常にマイペースに、ディカプリオを助けてくれる。ブラピがあまりにもマイペースだから、実は裏があるんじゃないかと怖くなるほどだが、実は腹の底から良いヤツで倫理観も一番まともだということが最後にわかる。ディカプリオもいつものように叫んだりわめいたりの演技だが、今回は感情的な演技が「情けなくも憎めないいいヤツ」にハマっている。
 そう、こいつらは二人とも、ちょっと馬鹿な良いヤツで、それ以上でもそれ以下でもない。
 この映画は、もしもシャロン・テート殺害事件の際にこのような良いヤツらが近所に住んでいたら、という歴史のIFを描く作品だ。シャロン・テートは本人も美人だが、演じる役者マーゴット・ロビーが非の打ち所がないほどの美人で、こんな美人が百年に二度も出てくるハリウッドの底力を見せつけられる。
 映画のクライマックス、いよいよポランスキー邸に暴漢が迫るが、それまでに映画オリジナルの事件がなんやかんやあったために、彼らは標的をまず隣のディカプリオ邸に定める。これをブラピとディカプリオが撃退してのけ、シャロン・テートは生きながらえる。
 お見事、これぞやって許されるウソだと思った。最初は。
 現実に起きた悲劇をウソの結末に塗り替えるなんて、ひたすら残酷な所業にもみえるけど、劇中でシャロン・テートを描くためにそれなりの時間を割いており、そこには彼女は生きるべきだった、という思いが込められているからだ。それを叶えるのは、映画というフィクションだから出来ることだろうと。だから結末には、残酷だけど優しいという絶妙な味わいがあり、なんともいえない感動を胸に帰路についた。
 私がビッグフィッシュで観たかったウソは、こういうウソだったんだ、と十何年前のもやもやした気持ちがスッと晴れていく感じがした。

 ・・・そこまでは良かった。

 帰り道、それにしても我々は良いとして、当事者のポランスキー監督はよくこの題材の映画化にOK出したよな・・・ハリウッドだし・・・と不思議に思って検索かけたところ、ポランスキーの現嫁のエマニュエル・セニエがこの映画に対してコメントしている記事がヒットした。

ポランスキー妻、タランティーノ監督を厳しく非難

 驚いたことに、タランティーノはポランスキーに許可をとらずに映画を撮影してしまったらしい。いやいや、それはどうなのよ。

 以下引用
 「私が言っているのはハリウッドの人たちはロマンと彼の悲劇を使って映画を作りながら、彼をのけものにするのをなんとも思っていないということ。そしてもちろんロマンに対しては何も相談していない」byセニエ

 おっしゃるとおりとしか言いようがない。
 ポランスキーは性的虐待疑惑でハリウッドから追放されており、ヨーロッパで映画を撮っている。
 その彼の人生を題材として頂き、勝手にいい話に書き換え、”ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド”などと銘打ってノスタルジーに浸る。

 ・・・数時間前に感じた「良いウソ」っていうものが、逆に鬼畜の所業としか思えなくなってしまった。
 それでも映画としては、やっぱりすごく良かったと思う。難しい。
 表現の自由が他人を傷つけて良いかどうかは、ちょうど世間でもとやかく言われているが、私は、作家が良識を失ったら作品が作品として成立しなくなると思っている。常識はどうでもいいが、良識の問題で。
 ビッグフィッシュで失望した心は救われたが、新たなもやもやが生まれてしまった。

 ただ一つだけ確実に言えることは、私はこの映画のブラピに3000点あげたい、という事だけである。

カメラを止めるな!(感想・ネタバレあり)

2019-10-13 22:19:09 | 映画
ようやく観たので感想をば。

ところで基本的に私は未見の映画のネタバレを気にしない方なので、特に自衛を講じたりはせず、時には観る前に積極的に評判を調査することもあるが、この映画に関してはネタバレを見なければ良かったと途中で後悔した。多少のネタバレ気にしない勢のみなさんも、気をつけた方がいいかもしれない。

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さて感想。前半のワンカットワンシーンの35分間は楽しめた。手持ちカメラによるカメラワークも、ブレア・ウィッチ・プロジェクトでは酔いそうだったが、今作では大丈夫だった。(スマホの小さな画面で観たせいかもしれないが)

しかし、中盤からいわゆる本編が始まると、急に面白くなくなった。
それが劇中劇だというネタバレを知っていたのも、楽しめない一因だったと思う。
「え、なになに、どゆこと?!」という戸惑いさえあれば、本編の懇切丁寧な人物紹介と背景説明のシークエンスが乗り切れたかもしれないからだ。
しかし、実際ネタバレがなかったとしても微妙な構成だと思った。
なぜなら前半は劇中劇ですよ、っていうのは、それが終わった直後にわかってしまうので、それについてどんなに細かな説明をされてもくどいだけだ。例えば音響機材を運び込むカットは明らかに不要なのでないか。血糊を役者にべとべと塗りつけるシーンは必要だと思うが。主人公である監督の家族関係のくだりは、どうだろう。若干ストーリーから浮いていると私は感じた。

しかし、これがいよいよ撮影シーンとなり、舞台が廃屋に移ると再び面白くなってきて、そのまま最後まで引き込まれて観ることができた。

要するにスピード感なのかもしれない。ワンカットワンシーンの前半はジェットコースター的なスピード感がある。しかし本編が始まったとたんに急にブレーキをかけられ、さんざん解説員に出し物の説明を聞かされ、お勉強したのちに、再びいってらっしゃいとばかりにアクセルが踏まれる。せめて出し物の説明が面白かったり、もっと工夫があれば良かったのだが、今の所ひたすら後半の”怒涛の伏線回収”のための伏線を貼る時間にしかなっていない。
そうなると、中盤を思い切ってカットし、後半を撮影準備のシーンから始め、そこに人間関係の説明も撮影背景も何もかも詰め込む構成にし、欲を言えばそれをワンシーンワンカットで撮ってしまえば、さらに面白くなったんではないだろうか。。。なんて、言うのは簡単でやるのは難しいというのは、承知の上だが。

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しかし事前のネタバレでは「前半の劇中劇はつまらなくて、中盤から面白くなる」というものだったけど、劇中劇を難なく楽しめてしまった自分は、この一ヶ月間ウォーキング・デッドを観まくって、体内にゾンビ映画耐性というか、ゾンビもの抗体みたいなものができてしまったのかもしれない。