かやのなか

あれやこれやと考える

死んだ魚とクソリプ文化

2020-06-05 00:03:55 | えっせい
このブログも開設から一昨日で1900日目を迎えていたらしい。三日坊主な自分にしては充分長く続けられている方だ。
記事一覧を眺めていたら書きかけのメモが発掘された。いろいろとタイムリーなので、追記してあげてみる。

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ジョージ・オーウェルのエッセイ集「一杯のおいしい紅茶」の中の一篇に「ヒキガエル頌」がある。
冬眠から目覚めたヒキガエルによって春の到来を知ること、それが空襲や階級闘争とは無関係に巡ってくる自然の恵みであることを滔々と語ることから始まり、途中からこんな話になってくる。長いけれども引用してみましょう。

”春をはじめとして、季節の移ろいを楽しむのは悪いことだろうか。もっと正確にいえば、政治的に非難すべきことだろうか。だれもが資本主義の桎梏の下であえいでいる、あるいはあえいでいるべきときに、クロウタドリの声や十月の楡の黃葉のように金のかからない、左翼新聞の編集長が階級的視点と呼ぶものとは無関係ないろいろの自然現象のおかげで人生が楽しくなることもあると言ったのでは、いけないのだろうか。こういう考え方の人間が大勢いることはたしかである。わたしの経験でも、どこかで「自然」をほめるようなことを書いたりするとたちまち罵倒の手紙がまいこんで、きまって「センチメンタル」という言葉にぶつかるのだが、これには二つの思想がからんでいるらしい。一つは、人生の現実の流れを楽しむのは、一種の政治的静観主義を助長するという思想である。この思想はさらに、人民は不満を抱くべきであり、欲望を増幅させるのがわれわれの務めであって、すでに所有しているものをいっそう楽しむだけではいけない、という風に発展する。もう一つの思想は、現代は機械の時代である、機械を憎悪するのはもちろん、機械の支配領域を制限しようとするのは、それだけでも退嬰的、反動的であって、いささかこっけいだという思想である。この思想には、往々にして、自然を愛するのは自然のほんとうの姿がまるでわかっていない都会人の短所だと唱える応援団がつく。そしてさらに、ほんとうに土と格闘しなければならない人は土など愛してはいないし、厳密な利益という観点以外から鳥や花に関心をもつことはありえない、ということになる。”
ジョージ・オーウェル「一杯のおいしい紅茶」小野寺建編訳・朔北社 P108-109

この論考は今からおよそ75年前の1946年のトリビューン誌に掲載されたものだが、春を賛美しただけで政治的な視点から噛み付いてくる今で言うTwitterのクソリプ勢が、この時代にはすでに存在していたことを示す貴重な資料である。
オーウェルは彼らがどういう思想でもって出版社に罵詈雑言の手紙を送りつけてくるかを分析し、このエッセイの後半でその思想がいかにまちがいであるかを述べているが、ここに書かれた分析のような思想、というよりも思考回路は、後半の「機械の時代〜」のくだりこそ時代を感じるが、なんとなく今にも通じるような難癖の付け方だと思う。なんとなく収束しつつあるコロナ騒ぎを振り返りながら読むと、似たような抗議とそれに対する反論を、さまざま目にした覚えがある。

SNSは言ってみれば公開書簡なので、慣れるまでは当然居心地が悪いが、慣れてしまうとその内容が私的であろうが公的であろうが誰にでも読まれてしまうという感覚が麻痺してくる。さらに、昔はある人がけしからん書き手に抗議の手紙を送りつけてやろうと思い立った場合、まず文具屋に便箋と封筒を買いに行き、書き損じのないよう、そして知的な文字に見えるよう細心の注意を払いながらペン先を滑らせ、自分の文章にいささかの論理的破綻も生じることのないよう思考を組み立て・・・と、かなり面倒くさい手順を踏まなければならなかったのが、SNSではこのような物理的障害がほとんど取り払われてしまうので、クソリプ勢がより短絡的、衝動的に作者に噛み付く環境が着々と整いつつある。
ただ、そのために、逆にその人の思想から強靭さは失われるような気もしないでもない。自分の思想を練り上げながら文字に書きおこすという行為には二つの作用がある。一つは書くことによって自分のものの考え方を客観的に検証し省みることで、こちらは問題ない。もう一つが問題で、論理的破綻を封じるためにさらにトンデモな理論で武装しはじめ、最終的に破綻の雪だるまのようになってしまうことだ。(最近の内田某みたいな)後者は鋼鉄の雪だるまなので、芯はないが体当たりに強い。しかし面倒くさい手順を踏めるものだけがたどり着くことのできる存在であるが故に、ここまでいくのにも才能がいる。SNSから匿名性を排除して個人と紐付けたとき、消えていなくなるのは、思想的強度の低い人々の方だと思う。70年前にせっせと出版社に手紙を書いていたような勢力は、文字を取り上げない限り生まれ続けるだろう。

今年の初め頃にTwitterで、死んだ魚に一定強度の流水を当てることでまだその魚が生きているかのような動きをとるという動画が流れてきた。身体の骨や筋肉、関節の連動した動きこそが生命だとしたら、脳みそも部位の一部なので、「自由な発想」「心は自由」とかいいつつ、動きの指向性は、脳みそが形成された時点である程度勝手に決められているのかもしれない。と考えると、ちょっと寂しいものがある。衝動的とか反射的とか感情的であるということは、純粋だけれども制御を放棄した姿勢でもあるので、せっかく生きているのに手放しで奔流に流されるままでいるのは、生き物としてもったいないような気がする。
つまり、クソリプをもらったら「死んだ魚が流水で動いているな」と脳内変換してみるのが良いかも。

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