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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

学校

2020-09-19 03:17:34 | 文化

>main | これからの共同体社会はどのように創られていくのか-15 » >2020年09月17

>学校は『百害あって一利なし』>明治以降の学校教育の歴史を総括すれば、そのように断言できるのではないかと思います。>このように言うと、「えっ、百害ってどんな害?」「一利か二利くらいはあるのでは?」「友達もできるし」と反論の声が聞こえてきそうですね。

>何故学校は『百害あって一利なし』と断言できるか。>大きく3点の事実があります。>にほんブログ村 歴史ブログへ 

 

わが国の学校の運用方法に問題があるということではないでしょうか。  

 

>1つ目は、学校で教える教科の中身が漢字と加減乗除を除き、全く役に立たないから。

(略)

>現に中卒(16歳)の子どもが大卒年齢(22歳)になるまでの6年間、仕事を通じて学んだ姿と、学校に通い社会人になる大卒新人を比べたら、とてつもない能力の開きが出ています。>それは知識や技術だけではありません。>人間関係力や言語能力、危機察知力、創造力など仕事に必要な多様な力が身についています。>また、時代遅れの使えない知識を植え付けられることで、実際に社会に出て全く通用しないばかりか、固定観念が邪魔をして現実が直視できず、その後の成長の妨げになることも多い。 

 

学校は思考を停止している人間に徳目の暗記を強制します。すると受け売り専門の人が育成されます。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

理解は難しいので、忖度 (推察) を発達させて理解の代わりにしています。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。    

 

(略)

>2つ目は、学校により遊びが奪われることです。

(略)

>幼児期のごっこ遊びも典型ですよね。

>子ども達は遊びを通じて、大人になったときに必要な能力を獲得しているのです。

 

そうですね。’ごっこ遊び’ は人畜共通の学習方法ですね。大切な遊びですね。   

 

>この子ども達の成長に欠かせない遊びを学校が奪っているということです。>子ども達の内発的な遊び欠乏に蓋をし勉強を強いることで、成長の機会を奪うばかりでなく、内発的な意欲活力をも奪っていきます。  

 

そうですね。気を付けないといけない点ですね。

   

(略)

>そして3つ目が、言語能力、追求力の衰弱、意欲・活力の衰弱です。

(略)

>明治に学制を布いて以降、学校教育約150年を総括すれば、今の意欲・活力ドン底、追求力・言語能力ドン底の現実を見れば、失敗であったと大きく総括すべきであろうと考えます。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がないから仕方なく無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には他力本願・神頼み。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

何事をするにも受け身になっていますから主体性に欠けていますね。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを理解する必要がありますね。時制を使った考え方をすれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来ます。さすれば相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

(略)

>posted by KIDA-G at : 2020年09月17日 | コメント (0件) | トラックバック (0)   

 

 

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野党に求めること

2020-09-18 04:17:54 | 文化

 

(略)

>TOKYO FM+  >声優としても活躍中の鈴村健一(月~木曜)と俳優の山崎樹範(金曜)、フリーアナウンサーのハードキャッスル エリザベスがパーソナリティをつとめるTOKYO FMの番組「ONE MORNING」。 >9月15日(火)の放送では、TOKYO FMの新音声サービス「AuDee(オーディー)」と連動したアンケート「AuDee JUDGE」を実施しました。 >この日のテーマは「あなたが日本の野党に足りないと思うことは?」。>その結果は……?

(略)

>安倍晋三首相の辞任表明を受けて8月14日(月)、与党・自民党の総裁選挙を開催。 >菅官房長官が新しい総裁に選出されました。>その翌日には、野党・立憲民主党、国民民主党などが合流して結成された合流野党「立憲民主党」が誕生しました。

 

いよいよ新しい陣立てが出そろいましたね。  

 

>そこで、今回のテーマアンケートを実施。 >みなさんが野党に求めること、足りないと思うことは……? >Q.あなたが日本の野党に足りないと思うことは? >・具体的な政策……52% >・チームワーク……14% >・優秀なトップ……13% >・政権奪取への執念……7% >・その他……14%

>◆具体的な政策

>良し悪しはともかく、チームワークはうまくとれている印象ですが、テレビの国会中継を観ても、与党の政策に反対するばかりか、子どもじみたケンカ騒ぎが起きる展開も見受けられるので……。  

 

日本人はまだ12歳なのですかね。日本人には現実があって、非現実 (考え) がない。具体的な政策は非現実の内容ですからね。これは日本人には難しい。

非現実の内容は、時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になる。  

日本語には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実を垂れ流す。だから、個性がない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。

 

>反対するだけではなく、せめて具体的な考えを示してもらいたいです(これは与党にも言えることかもしれませんが)。 

 

そうですね。イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本教徒>の中で、議論のできない日本人について次の様に述べています。

、、、、だが彼 [ハビヤン] は常に、その「破棄した部分」しか口にせず、その「内なる自らの基準」は明示していないのである。これは、、、、、今の日本人も同じであって、「反論」はできるが、その反論の基準となっている自らの思想を理論的・体系的に明示せよと要求すると、できなくなってしまう。従って日本人には論争は不可能である。だがそれでいてこの状態を日本人は"科学的”と考える。、、、、(引用終り)  

 

>◆“影の内閣”を作ること

>海外のように「シャドー・キャビネット」(影の内閣)を作れる機能を有してほしい。

 

影の内閣は、考えの上での内閣であるから作ることが難しい。日本人には現実があって、非現実 (考え) がない。  

 

>あと、国会は“政策だけの場”にしてもらいたい。 

 

そうですね。国のかじ取りが大切ですね。   

 

>スキャンダルなど、国民に関係のない話は、ほかでやってほしい。>なんなら、テレビの専門チャンネルで、解決するまで検証してほしい。

 

そうですね。政治家は自己の政治哲学を語るべきですね。ですから、無哲学・能天気ではいられません。   

 

>◆発信力・伝え方

>僕らは、メディアが短くまとめたニュースで、野党がどのように発言したのかを知ります。>ところが、批判的なことばかりが報道されて、政策などにかんする質問などは、ほぼ報道されていません。

 

日本人には世界観がない。自己の ‘来るべき世界’ を公言することがない。  ちまちました話ばかりで政治音痴になる。  

 

>メディアに頼らず、自分たちで伝えることを積極的にするべきです。 

 

そうですね。自分自身の意見を大いに語るべきですね。議員は個人主義を推進すべきですね。個人主義 (individualism) は利己主義 (nepotism) ではありませんね。         

 

>いまはYouTubeやSNSなど“発信の場”はいくらでもあるので、テレビに頼らず、短くまとめた活動報告を流すことが大事だと思います。 >これで国民のイメージは、だいぶ変わると思います。

 

そうですね。しかし、日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力が不足している。困った時には他力本願・神頼み。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

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主体性の喪失

2020-09-17 21:27:21 | 文化

 

>348528 現代教育の弊害 >kanarchy ( 22 会社員 )  19/08/15 PM09 【印刷用へ】  >以下リンク 参照

>  現行教育最大の弊害は、主体性を喪失させることによって多くの人格破綻者と精神異常者を生み出していることである。>  個人主義をベースにした民主主義社会において、主体性を喪失することは、致命的なことである。

>個人主義社会では、自分の意志で、物事を判断していかなければ、生きていくことはできない。  

 

そうですね。しかるに、日本人には意思がない。意思は英語では未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力が不足している。困った時には他力本願・神頼み。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

>ところが、主体性を喪失する事は、自分ではなにも判断できなくなることを意味する。>自分で決めなければならないのに、自分ではなにも決められない。>このような状況は、大変なストレスを生み出す。

 

そうですね。日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない。

 肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)    

 

(略)

>  最も最低なのは、偏差値によって、すべても学童の序列を決めてしまっていることである。>偏差値によって、全人格を、決めつけとしまうような事は、即刻やめることだ。>評価すべき事も曖昧な上、評価する基準や、方法も確立していない。>それでありながら、序列だけが、明確に決められてしまう。

 

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから、日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料とされている。

日本人の礼儀作法は、序列作法に基づいている。だから、序列なきところに礼儀なしである。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。’人を見損なってはいけない’ という想いが高じて、堅ぐるしい日常生活を送っている。日本人の毛意義が序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。

 

>それによって、人生の進路まで決められてしまう。>これは、非道だ。>人倫の道にもとる。>人間として許されざる事だ。>何を、根拠にして、人に序列をつけるのか。 

 

何の考えも無く、日本人は只伝統に従っているのでしょうね。  

 

>偏差値主義こそ、最も忌むべき差別思想である。>偏差値は、我が国の教育制度の非人間性を象徴している。 

 

問題の解決には、奥の奥にある原因の探求が必要でしょうね。原因の是正が全てを解決するでしょう。     

 

 

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植松努氏 2/2

2020-09-16 22:26:56 | 文化

 

>だから僕は、自分にできることをします。  

 

自主独立の教育法ですね。ご成功を祈ります。  

 

> 僕の経験と、僕の思考を、子ども達に伝えます。 >やがて、その子達が、社会の主力になっていきます。 >そのとき、社会が変わるかも知れない、と思っています。

 

それは革命的な教育法でしょうね。成功の確信はないのですか。     

 

>10年、15年かかるでしょう。>だからこそ、やり続けるしかありません。 

 

具体的にはどのようにしてやるのですか。  

 

>国を支えるのは、人間1人1人の能力です。 

 

そうですね。個人の個性を重視した教育が必要ですね。個人主義の徹底が必要ですね。   

 

> 大人が、子どもを、自分たちの理解の範囲内に留め置くと、 子ども達は大人以下の存在にしかならないです。>それを繰り返すと、社会は衰退していきます。 

 

そうですね。それは、負のスパイラルですね。  

 

>いままでの日本では、人口増加が、その衰退を隠していただけです。

 

そうですね。わが国には ‘人手不足’ はあっても、’頭脳不足’ の話はついに聞かれませんでしたね。頭脳の事には関心のない人たちばかりですかね。      

 

>これからは、大人が、子ども達を、自分の理解の向こう側に押し上げる必要があります。>ていうか、ようするに、 (1)夢と希望を奪わない

 

そうですね。わが国には何でもあるが夢と希望がない。昔の人はこの現象を ‘時代閉塞’ と呼んでいました。否定の文章でいえば ‘夢と希望’ がない。肯定でいえば ‘時代閉塞’ があるということになります。要するに、その意味する内容は日本人の ‘未来が閉ざされている’ ということの指摘です。 

非現実の内容は、英語では時制 (tense) のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表されます。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態であります。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。しかるに、日本語の文法には時制がありません。だから、日本人には世界観がない。過去から現在へ、そして現在から未来への移動は日本人の脳裏では想定外になっている。だから、’時代閉塞’ があり ‘夢と希望’ がありません。

 

(2)あきらめかたをおしえない。だけでいいです。>この二つを、がんばっていくしかない、と思います。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制というものがないので、日本人には意思がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思はなく仕方がないので無為無策でいる。諦観になりますね。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力が不足している。困った時には他力本願・神頼み。

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく) 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における ‘時制’ の有用性を十分理解して利用する必要がありますね。さすれば、自己の世界観を持つことができるので、諦観の人になることはありません。また、自己の意思を社会に対して明らかにすることにより、責任ある人間としての信頼を得ることができます。国際社会において協力者を得て未来社会の建設に励む機会が得られます。かくして、我々は人類の進歩に多大な貢献することが可能になります。

 

 

 

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植松努氏 1/2

2020-09-16 21:54:30 | 文化

 

>353215 子どもたちのために、大人がすべきこと。 >北口真穂 ( 25 会社員 )  20/01/28 PM10 【印刷用へ】  >リンク [植松務のブログ]   

>先日、講演のあとの質疑応答で、> 子どもから「なぜ、子ども達を支えようとするのか」と質問されました。

 

それは未来の社会が子供の双肩にかかっているからでしょうね。  

 

>話を聞いてくれた子の中で、植松電機のマグネットを買う人は、まずいないでしょう。>だから、植松電機のコマーシャルとしての意味は、ほぼないです。>そうじゃないです。>僕らが製品を作って、買ってもらえるのは、 社会に購買力があるからです。>社会の購買力が失われたら、自動的に、企業の売り上げも下がります。 

 

そうですね。  

 

>では、社会の購買力とはなにか? >それは、社会の能力です。>社会を構成する個々人の能力です。>それを伸ばすことこそが、真の経済成長です。

 

有能な人が多ければ、購買力が増大するということですね。     

 

>しかし、僕の目から見て、現在の日本の教育は、日本人の能力を高めていると思えないのです。

 

それはどうしてですか。       

 

>むしろ、本来なら素晴らしい能力を発揮するはずの人を、 素直でまじめで勤勉で、暗記の量と正確さだけの、確実にロボットに負ける人にしています。  

 

それはありますね。暗記力の競争をさせて受け売りの専門家ばかりを増やしていることですね。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)  

 

> 自信を奪い、ひとめを忍ぶような生き方をする人にしてしまっています。  

 

そうですね。自主独立の精神が抜け落ちていますね。   

 

>その教育を受けてきた保護者が、それを子ども達に、「よかれと思って」強要します。  

 

心ここにあらざれば、視れども見えず’ ですね。   

 

>かつてから、様々な戦争で、どんなすごい武器も、運用する人間によっては、 性能を発揮しないことが証明されています。>だから、どんなに素晴らしい機械を設備投資したところで、 運用する人間の能力を高めないと、無駄な投資になるということです。 

 

そうですね。’猫に小判’ ですね。 

 

> 産業への投資と、教育への投資は、同じ重要性で行われるべきなのですが、 日本の教育への投資は、先進国では珍しいほど少ないです。

 

日本の教育目的は人間序列を定めることですからね。どんなにつまらない仕掛けでも序列判定に役立てば、それはそれで存在価値があるのです。ですから、先進国の教育目的とは根本的な違いがありますね。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な上下判断が日常会話にも必要です。ですから、日本人は堅苦しい生活を送っています。  

‘上と見るか・下と見るか’ の判断には、通常勝負の成績が用いられています。現在では、偏差値なども都合の良い資料となっています。批判精神の欠如した日本人の身から出たさびのようなものですね。  

 

>もちろん、金をかければ、教育が改善されるか・・・ったら、そんなわけないです。>なぜなら、現在の受験対策教育は、思考力の真反対にあるからです。

 

そうですね。思考を停止の人達に適した教育ですね。 学問と関係の無い社会で教育が盛んになるのを教育者は座視できないでしょうね。     

 

 

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