(略)
> 日本の教育システムでは、いかに日本人となるかが第一のゴールとなる。>ときが経つにつれ、若者はより保守的になっていった。>外国に対する興味は驚くほど欠如しており、ロボットとなる以外のいかなる望みも持たない。>これはインターネットの情報に簡単にアクセスでき、旅行費用は安く、大部分の日本人が裕福であることを考えると不思議なことである。
英語の文法には、時制というものがある。英米人の世界観は、非現実 (考え) の三世界がある。各人の考えは、過去・現在・未来へと否応なく進む。我々は何処から来たか・我々は何者であるか・我々は何処に行くのかを考えざるを得ない。彼らは、’考える人’ である。
日本語の文法には、時制がない。我々の世界は、眼前だけにある。我々は、どこにも行かない。何事も、お変わりのないことは、良いことです。
> 実際にはほとんど学習が行われない――生徒たちは、成功に必要な批判思考(クリティカル・シンキング)の精神をほとんど与えられない。>日本の教育制度は、ほとんどの人が高卒で工場で働くような時代にデザインされたものだ。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
>この種の教育は、大量生産と大量消費が経済の原動力となるような工業化された社会ではよく機能する。>しかし、世界は変化している。>アイデアのクオリティや、問題解決の創造的な能力が経済世界や個人の成功を決定するようなポスト消費者主義社会へと。>いくつかの国はこのことを学習したが、日本は明らかに理解が遅く、さらに教育世界がこの現実に適応するのはさらに遅い。
意思のある所に方法・(仕方) がある。だが、日本人には、意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。機敏な動作が見られない。
ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。 ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日)
意思 (will) は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制がなく、日本人には意思がない。
>日本経済が減退していることのいくらかはこれによって説明できる。
> 教育問題と社会問題を混同しているかもしれないが――日本の教育システムの失敗を世界発展の観点から見ると――創造性の欠如、独創性の欠如、グローバルな領域で交流が不可能であること、世界の仕組みに関する部族的な理念(石器時代のようだ)、意思決定や方向決定に対する無能性や無意思、完全な受動性が存在する。
日本人は、意思の代わりに恣意を使用している。意思は、未来時制の文章になるので意味がある。恣意 (私意・我儘・身勝手) は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので、意味がない。意思疎通の代わりに、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) をしている。意思決定 (理性判断)の代わりに、恣意決定 (盲目の判断) をする。
非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造力を発揮したことになる。現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣となる。これは、独創性の欠如である。
(略)
>この国の塾Jukuの必要性について対処してはどうか――だいたい、なぜ子どもたちは魂を破壊するようなところへ行かなければならないのだ。
それは、人間序列を作る為でしょうね。わが国は、序列社会でできています。
>学校における画一的な教育についても対処する必要がある――言いかえれば、批判精神の欠如や問題解決能力が行われていないことに対処すべきだ。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実 (考え) の内容は、時制のある文章になる。時制のある文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を示すことができる。
初めは、各世界の内容は白紙である。各人共に、白紙の状態は気になることである。各人が自主的にその内容を埋めて行く。各世界は、限りなく展開することが可能である。この内容を世界観という。考えは、各人各様である。自己の世界観を基準にとって、現実の世界の内容を批判すれば、それは批判精神を表したことになる。
英語には時制があり、英米人には世界観がある。だから、彼らには批判精神もある。日本語文法には、時制がない。日本人には世界観がなく、批判精神もない。
>現在の教育システムは、標準試験の要求に向けてすべてが調整されている。
標準の特徴は、没個性ですね。
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> 日本の教育システムでは、いかに日本人となるかが第一のゴールとなる。>ときが経つにつれ、若者はより保守的になっていった。>外国に対する興味は驚くほど欠如しており、ロボットとなる以外のいかなる望みも持たない。>これはインターネットの情報に簡単にアクセスでき、旅行費用は安く、大部分の日本人が裕福であることを考えると不思議なことである。
英語の文法には、時制というものがある。英米人の世界観は、非現実 (考え) の三世界がある。各人の考えは、過去・現在・未来へと否応なく進む。我々は何処から来たか・我々は何者であるか・我々は何処に行くのかを考えざるを得ない。彼らは、’考える人’ である。
日本語の文法には、時制がない。我々の世界は、眼前だけにある。我々は、どこにも行かない。何事も、お変わりのないことは、良いことです。
> 実際にはほとんど学習が行われない――生徒たちは、成功に必要な批判思考(クリティカル・シンキング)の精神をほとんど与えられない。>日本の教育制度は、ほとんどの人が高卒で工場で働くような時代にデザインされたものだ。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
>この種の教育は、大量生産と大量消費が経済の原動力となるような工業化された社会ではよく機能する。>しかし、世界は変化している。>アイデアのクオリティや、問題解決の創造的な能力が経済世界や個人の成功を決定するようなポスト消費者主義社会へと。>いくつかの国はこのことを学習したが、日本は明らかに理解が遅く、さらに教育世界がこの現実に適応するのはさらに遅い。
意思のある所に方法・(仕方) がある。だが、日本人には、意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。機敏な動作が見られない。
ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。 ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日)
意思 (will) は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制がなく、日本人には意思がない。
>日本経済が減退していることのいくらかはこれによって説明できる。
> 教育問題と社会問題を混同しているかもしれないが――日本の教育システムの失敗を世界発展の観点から見ると――創造性の欠如、独創性の欠如、グローバルな領域で交流が不可能であること、世界の仕組みに関する部族的な理念(石器時代のようだ)、意思決定や方向決定に対する無能性や無意思、完全な受動性が存在する。
日本人は、意思の代わりに恣意を使用している。意思は、未来時制の文章になるので意味がある。恣意 (私意・我儘・身勝手) は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので、意味がない。意思疎通の代わりに、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) をしている。意思決定 (理性判断)の代わりに、恣意決定 (盲目の判断) をする。
非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造力を発揮したことになる。現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣となる。これは、独創性の欠如である。
(略)
>この国の塾Jukuの必要性について対処してはどうか――だいたい、なぜ子どもたちは魂を破壊するようなところへ行かなければならないのだ。
それは、人間序列を作る為でしょうね。わが国は、序列社会でできています。
>学校における画一的な教育についても対処する必要がある――言いかえれば、批判精神の欠如や問題解決能力が行われていないことに対処すべきだ。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実 (考え) の内容は、時制のある文章になる。時制のある文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を示すことができる。
初めは、各世界の内容は白紙である。各人共に、白紙の状態は気になることである。各人が自主的にその内容を埋めて行く。各世界は、限りなく展開することが可能である。この内容を世界観という。考えは、各人各様である。自己の世界観を基準にとって、現実の世界の内容を批判すれば、それは批判精神を表したことになる。
英語には時制があり、英米人には世界観がある。だから、彼らには批判精神もある。日本語文法には、時制がない。日本人には世界観がなく、批判精神もない。
>現在の教育システムは、標準試験の要求に向けてすべてが調整されている。
標準の特徴は、没個性ですね。
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