>ニューズウィーク日本版 >博士課程の奨学金受給者の約4割が留学生、問題は日本社会の側にある >冷泉彰彦プリンストン発 日本/アメリカ新時代によるストーリー・ >11時間・
><問題の本質は、日本人の学生が人文系の博士課程に行かなくなったこと>
>東京大学などで大学院博士課程に占める、中国など留学生の比率が問題になっています。
>一部の政治家が主張している内容によれば、東京大学では中国人留学生は2008年度の727人から徐々に増加し、昨年度は3396人と4倍以上になっているそうです。
>また、奨学金の多くが留学生に渡っていることを問題視する声もあります。
>博士課程の学生に対して1人あたり最大で年間290万円を支給する制度(次世代研究者挑戦的研究プログラム「通称SPRING」)で受給を受けている人が昨年度では、全体で1万564人だったそうですが、その約4割の4125人が外国人留学生、また、その中の2904人を中国人留学生が占めていたそうです。
>運営費の過半が税金によって成り立っている国公立大学の博士課程において、実際に学んでいるのが外国人学生ということになれば、確かに税金の使い道として「疑問だ」という印象を引き出すのは簡単です。
>また、これが先端技術の研究であれば、価値観を共有していない他国に技術が漏洩されるリスクは抑制すべきでしょう。
>ただ、先端技術の保護という問題については、経済安全保障の枠組みで試行錯誤を繰り返しつつも、対応は取れるようになっています。
>問題は、人文系の博士課程です。
>人文系の博士課程というのは、例えば日本の文学とか歴史など、自国の文化を対象としたものがあります。
>経済学や哲学の場合はもっとユニバーサルで研究対象は全世界ですが、日本語で研究し論文を蓄積していくということでは、日本の学術研究に参加するわけです。
>東大大学院が「ジャック」されている?
>そうした人文系などの分野でも、博士過程に圧倒的な割合で留学生が学んでいるのです。
>まるで「東大大学院がジャックされている」ように見えるこの現象ですが、問題の本質は、留学生の側にあるのではありません。
>そうではなくて、「日本人学生が人文系の博士課程に行かない」という現象があるからです。
>留学生が増えたのではなく、日本人が行かなくなったのです。
>そこが問題で、もしも日本人と留学生のバランスを取りたいのであれば、この点を見つめて対策を講じる必要があります。
>原因は3つぐらいあると考えられます。
>1つ目は、大学教員の需要と供給についてです。
>日本人が日本の大学で、人文系の博士号を取ったとします。
>その場合に、その業績を活かしながら研究を続けるのであれば、大学の教員や研究所の研究員など研究職を目指すことになります。
>ところが、これは大変に難しいのです。
>まず少子化で大学全体の定員が過剰になっています。
>経営に行き詰まる大学も増えてきており、その分だけ大学教員の定員も減りつつあります。
>また、ただでさえ少ない大学教員の「空きポジション」について、大学としては英語圏など外国に留学して博士号を取った人材や、外国人を優先して採用する傾向もあります。
>大学を国際化するのは国策として急務だからです。
>そうなると、どうしても大学教員を目指したいのであれば、少なくとも英語圏などで博士号を取った方が確実性は高いことになります。
>ですから、コースとしての日本の大学の人文系の博士課程というのは、日本人学生としては敬遠しがちとなるわけです。
>2つ目は、一般企業などの就職です。
>日本の企業は、技術系は別として大学や大学院で学んだことを重視しません。
>例えば、会計学を深く学んだ学生は、企業の自己流の会計規準に対して批判的になるので敬遠します。
>「地頭(じあたま)が良くて、素直な若者」を鍛えてその会社の流儀に従順な社員にすることを好むからです。
>労働法を学んだ学生などは組合の手先だとして忌避されてしまうこともあります。
>まして、博士課程を出たなどというのであれば、企業は「敬して遠ざける」ことしかしません。
>学部卒ならいいのですが、例えば営業職や事務職などで採用する場合には、博士課程で学んだ若者は、学んだ内容が「活かせない」だけでなく、年齢を重ねていることなどから、採用したがりません。
>例えば、営業に行った際にも、博士号を持っているなどというのは、よほど巧妙な自虐トークなどで帳消しにしなければマイナスになります。
>人間同士は対等という思想が薄い日本社会では、特に民間の就職においては特に博士課程修了という経歴は就職の邪魔になるだけなのです。
>3つ目として、仮に大学のポジションが難しくても、例えば勉強熱心な学生の集まる高校の教員などは、博士課程修了者の活躍の場になる可能性はあります。
>国としても博士課程で学んだ知見を、高校でより若い人たちを刺激するように活用してもらえば、国力にも資すると思うのです。
>ですが、基本的に高校の職員室は博士課程修了者に対して、門戸を開いていません。
>民間企業と同じで、他の先生達の自尊心を乱すだけの存在という見方は否定できないからです。
日本人の‘上と見るか、下と見るか’ の風潮はどうしようもないですね。日本語文法の階称による呪いでしょうね。
>人文科学軽視の風潮
>それ以前の問題として、せっかく博士課程を取って深い知識を持っていても、日本の高校生の関心事はどうしても入試になります。
そうですね。入試は学問に名を借りた没個性の序列競争ですね。
>入試に役に立たない深い知識へ目を向ける生徒は、一部の推薦枠狙いか、余程の秀才だけということになってしまいます。
>以上の理由に加えて、ここ数年の「人文科学軽視」の風潮を反映して、ただでさえ少ない若い人の間で、人文科学へ関心のある人は減っている可能性があります。
無哲学・能天気の日本人の社会で役立つものは実学 (技術) だけですからね。
>例えば、高校の国語では文学が軽視されるようになっている中では、夏目漱石の主要な作品を読み通して、大学でも漱石を研究しようというような学生は、少子化に上乗せする勢いで減少していると考えられます。
>一方で、例えば中国などアジアの学生の場合は日本文学、例えば漱石を深く学ぶことで、アジアにおける近代化の問題を考えるというのは、切実な問題です。
>またそうした関心を持つ層の裾野は広いと考えられます。
良い傾向ですね。
>これに、一神教文化に行き詰まりを感じた欧米から、日本文化に強い関心を寄せる学生が加わってきます。
>そうなると、例えば国文学研究室で、日本文学を深く研究してゆこうという学生は自動的に外国人が多数になっていくわけで、これはどうしようもないことだというわけです。
いよいよ日本文学の国際化ですね。義理と人情のこの世界が外国人により解明されるかもしれませんね。
>こうした動きの全体は、既に国策になっているのかもしれません。
>少なくなった日本の若者には実学を学んで稼いでもらう、一方で日本文化の積極的な研究や維持の活動は外国人や外国の研究機関に期待する、そうした全体の動きは止められないと思います。
外国人による日本の国全体が国際化しますね。我が国民が移民を受け入れて人口減少問題が解消するかもしれませんね。
>確かに不自然な動きですし、票を意識する政治家が税金のムダ使いだなどと言うのにも一理はあります。
>かといって、日本人というだけでロクに文学作品を読んだことのない若者を、国文学の博士課程に入れてもカネの使い方としては、余計ムダになります。
>また、人文系の博士課程の奨学金を大幅にカットしてゆけば、日本語による日本文化に関する研究活動は世界中で衰退していって、最終的に知的な近代日本語は死語になってしまうかもしれません。
外国人により日本語研究の成果を上げてもらえばわが国の人文科学も大きく進展し、日本の国際化はより早く展開しますね。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々の考えの内容は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。
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