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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

活力源

2019-04-04 21:05:27 | 哲学


>豊かさが実現して徐々にお金からの支配から解放されてきている。

そうかもしれませんね。

>もはやお金は活力源ではない。

それは、ちょっと言い過ぎではないでしょうか。

>お金を否定するだけでなく、お金に変わる活力源、可能性を生み出していくのが重要。

そうですね。新しい活力源が必要になりますね。

> 以下(リンク
>お金というのは、価値と価値を交換するための仲介として人間が作った「道具」です。>ちなみに、交換する価値というのはサービスであったり製品であったり技術であったり自然資源であったりと様々なものがあげられます。 >しかし、このお金というものはその特性から「道具に逆に支配されてしまう」という事態も招いてしまうものです。

そうですね。手段の目的化が見られますね。

>最近になって「お金なんていらない」というような記事を、以前にも増して多く見かけるようになりました。

そうですかね。お金は命の次に大切なものではありませんか。

>「お金に支配されている」と感じている人々がその抵抗心として、支配されないようにするために「こんものなくしてしまえばいい」と言わんばかりに否定しているのかもしれません。

そうですね。貧富の差をなくすために、お金を廃止した国もありましたね。

>しかしお金に限らず、それそのものをなくしたとしても、それに変わる手段や道具がすぐに生まれ、結局は何も変わらないのではないかと私は思います。

大量の殺人が行われましたね。

>ユネスコ憲章の冒頭に、次のような文章があります。
>「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」
>これは戦争についての文章ですが、お金やその他の道具に関しても同じことが言えると思います。
>それそのものを否定して、なくそうとすることよりも、この憲章で述べられているように、それを扱う人の心を変えることのほうが大切ではないかと私は思うのです。

そうですね。心を変えることができたら大したものですね。

>たとえば、資本家がお金をチラつかせてきても、それになびかない心をつくることが大切です。>その心をつくるには「好きなこと、得意なこと」を仕事にすることです。

そうですね。得手に帆を揚げることですね。

>お金は道具と言えども社会の中では強力な支配力を持っているものです。

そうですね。お金は、多方面で手段として使えますからね。大変魅力的です。

>それよりも大切にしたい判断基準を自分の中に持つには、心から「やりたい」と思える仕事に就くことが大切です。

我々には、‘あるべき姿’ の内容が必要ですね。 無哲学・能天気では、始まりませんね。

>これまで仕事というのは、力を持つ者に支配されて半ば強制的に働かされてきたために、どうしても労働の目的を「お金」と割り切らざるを得ませんでした。 >しかしこれからは「好きなこと、得意なこと」を仕事にすることで、働くことの目的がお金ではなく、社会や企業への「貢献」に変わります。

そうなると良いですね。

>そういう生き方ができる時代になったのです。>このままお金に振り回されて過ごしてしまっては、「馬の鼻先に人参」のような人生を送ることになるでしょう。

そうですね。お金は、いつまでたっても目的にはなりませんからね。

>お金は人間の可能性を引き出すための価値交換の道具に過ぎません。

そうですね。便利な道具であることに変わりありませんね。

>その意味をより多くの人が感じられるようになったら、その支配から開放され自ずと「お金なんていらない」などとは思わなくなり、ようやくお金が本来持っている道具としての価値を社会貢献のために活用できるようになるのかもしれません。

そうですね。お金は目的にはならないが、手段にはなります。ですから、人生の目的がある人には、お金が必要になる。日本人は、とかく寄付の額が少ないのではないでしょうか。
非利益団体 (NPO: Nonprofit Organization) は、社会貢献活動や慈善活動を行う市民団体であるが、始終 ‘金・金’ と言っている。彼らは、’金の亡者’ というわけではない。その理由は、お金は ‘あるべき姿’ の実現の手段として役立つからである。
現実の中にとっぷりと浸かって、処世術を駆使して生き続けるか。それとも、非現実 (考え) の中に理想 (あるべき姿) を見つけて、現実の中でその (非現実) の内容を実現させようとして努力するか。どちらを選ぶか。我々は、その両方であろう。前者は易しく、後者は難しい。中庸の徳を広めよう。


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科学的方法

2019-03-27 18:09:18 | 哲学

>科学的方法で得られた知見は「客観的」知識であり、自然科学の探求は世界の“真の姿”の描写を目指している、といった、信仰に近い考え方がある。

そうですね。ありますね。

>科学者の間にも、また一般の人々の間にも、かなり根強く普及している神話である。>この“客観性信仰”は、科学者共同体が、自己正当化し、権威付けを行うのに都合のよい宣伝文句として利用されているが、実質の伴わない思い込みに過ぎない。

そうですね。自己正当化と権威付けには都合が良いのですが、実質は伴いませんね。

>実験的方法と数学的解析を結びつけた実証主義的方法論を核とし、機械論的自然観に根ざした近代科学は、17世紀のヨーロッパという歴史的・地域的制約条件のものと成立してきた。>人類に普遍的な思考様式などではない。

そうですね。人類に普遍的とは大きく出ましたね。考えは、人それぞれですから、

>近代西欧文明の価値観を反映し、また西欧文明のあり方に影響力を行使しつつ、自然科学は発展してきた。 >つまり、科学的認識方法は、世界の見方に対する「歴史的伝統」のひとつなのである。

そうですね。一種の世界観ですね。

>科学者は往々にして、このことに無理解である場合が多いのだが、それは科学的物の見方・考え方が当たり前と思い込むように、高校、大学、大学院の研究室で教育され、自明のものと受け取るようになっているからであろう(振り返ると私も大学時代にそのように教育された)。

暗記の助けとなる思い込みですね。しかし、科学的であると、それ相当な現実的な力を発揮しますからね。相手は、無視できません。

>一定の訓練を積まないと、仮説構築や実験プランを立てることは困難である。>その訓練の過程で、いわば“マインドコントロール”され、自身の思考様式が客観的・普遍的様式であると誤認するようになってしまうのではなかろうか。

そうですね。何しろ自分に都合の良いデータばかりを使って、話の筋をこらえるのですからね。現実の内容に取捨選択がかかる。都合の悪いデータを使って、自分の話を成り立たせた人を見たことがない。

>自然科学の諸分野では、分野ごとに、一定の約束事で世界を切り取っている。

そうですね。専門分野に分かれていますね。約束事を飲み込むと、わかりが早くなります。

>複雑で多様な世界を理解するために、理想的状態―真空中の運動、分子間力と大きさのない理想気体分子など―を仮定したり、物体の性質のうち数式化に馴染みやすい性質のみを考察の対象にしたりする。

そうですね。そうすれば、話が分かりやすいですね。

>これらは、科学者の共同体において、歴史的に形成されてきた必然性のある約束事である。 >ある時代の科学者集団は、その研究の生産性の観点などから、一定の自然像を暗黙のうちに選び取り、その自然像と親和的な枠組を構築して、その内部で研究が行われる。>そして科学教育も、その枠組の内部で行われ、科学者が再生産される。

そうですね。そうでなければ、話が容易に成り立ちませんからね。

>科学的世界観は、いわば“恣意的”に切り取られた約束事の上で成り立っている人為的な世界模型なのである。

そうですね。あくまでも人間本位の精神活動によるものですね。

>もちろん、“恣意的”だからといって、科学的認識が現実的な世界把握から無制限に隔たってしまうわけではないが、科学に内在する方法論の束縛のため、ある一定の制約を受けているのは確かであろう。

現実と ‘付かず離れず’ ですかね。

>ところで、用いる言語の違いによって、その言語で分節される世界像が異なってくることは、よく知られている。

それは、そうですね。経験哲学とインド哲学では、世界像が全く異なりますね。

>人は、言語を通して、世界を把握する。

そうですね。言語を使うところがアニマルと違うところですね。

(略)



養老孟司氏

2019-03-21 14:54:37 | 哲学
>(途中略)
>■「同じ」私の細胞でも 7年たったら全部替わる >皆さんは、私は私、どれだけ時間がたっても一貫して「同じ」私と思っていませんか? 

思っていますね。

>とんでもないですよ。>現代医学では、7年たったら分子は全部入れ替わっています。>同じ細胞をつくっている分子が全部入れ替わるんです。>7年に1回、100%替わる。

科学技術の進歩による知識ですね。

>私なんか、もう11回全とっかえしているんですよ(笑)。>7年に1回、部品を全部取り換えて11回たった車と同じなんですよ。

そうですね。部品を定期的に取り換えている航空機の整備と似たところがありますね。

>「方丈記」の作者、鴨長明はこれを言っていましたね。>「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。>そこまではいい。

そうですね。万物は流転する。誰も同じ川に二度入ることはできない。(Herakleitos 540 B.C. (?) – 480 B.C. (?)) 

>そのあと何と言っているか。>「世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」。>人も町も鴨川と同じ。>あっという間に変わる鴨川の水と人間が同じだと言っています。>物質とか知らないのに言っている。>わかる人はわかっていたんだなと思います。

物質は知らなくても、はかなさはわかるのでしょう。歌詠みは、大勢いましたからね。

>意識の世界にいたら「同じ」自分なんですよ。>意識って「同じ」を作る働きですから。

そうですね。同じ自分、同じ正しさですね。わが身一つは、もとの身にして。

>だけどもとの自分ではない。

そうですね。同位元素を使って調べればわかります。

>ピンとこないと思いますけれど、暇な時にじっくり考えてみてください。

分子と意識は同じにはならないですね。

>■「違い」を認め合えば 人生がラクになる >人間と違い、感覚で生きている動物は、概念でくくって物事を「同じ」と見ることができません。

そうですね。できませんね。

>例えば犬をここに連れてきたら、おじけづいて逃げ出します。 >全く違う生き物が何百もいたら怖い。>当然です。

そうですね。動物の本能によるものですね。

>人間だけが感覚で入ってきたものを無視して、言葉にして「同じ」を作り出せる。

そうですね。人間は、概念を使っていますからね。

>だからこそ人は相手の立場に立って物事を考え、共感できる一方で、「違い」を素直に認め合えず、排除したり苦悩したりする。>私たちはもともと違うんです。

そうですね。それ相当の苦しみを味わっていますね。

>うちの猫だってそんなことは知っています。

何事も、用心するに越したことはない。命あってのものだねです。

>そう思ったら人生、ラクになりませんか。

そうですね。おかげさまで楽になりました。一億一心で総玉砕させられては、たまりませんからね。

>(引用終り)


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藤原正彦氏

2019-01-15 13:06:06 | 哲学

(略)
>ベストセラー『国家の品格』の著者で数学者の藤原正彦氏は、新著『国家と教養』の中で、知識だけを詰め込んだ「頭でっかち」では、国を率いるリーダーとしては不適格だ、と指摘している。

そうですね。知識だけを詰め込んだ ’頭でっかち’ は、指導者としては不適格ですね。知識量だけでは、記憶装置に勝てませんね。

>知識に「日本人としての情緒や形」が加わってこそ、意味がある、しかし日本の官僚や政治家などには、それを身に付けている人が少ない、というのだ。>日本が諸外国に圧倒されることが多い根本の原因を辿っていくと、ここにある、というのが藤原氏の主張である(以下、引用は『国家と教養』より)。

日本の指導者の知識に ‘情緒・形’ がないということが、問題であるというのが藤原氏の主張ですか。それ以外の重要なものが欠けているのではありませんか。

>「日本人としての情緒や形を持たない人間は、舶来の形にあっと言う間に圧倒されてしまいます。>大正時代以降の教養層は、大正デモクラシーに圧倒され、次いでマルクス主義に圧倒され、ナチズムに圧倒され、戦後はGHQに圧倒され、今ではグローバリズムに圧倒されています」

そうですね。無哲学・能天気な日本人は、西洋の思想には歯が立ちませんね。

>こうした「日本の知識人のひ弱さ」は、日本人としての情緒や形を軽侮したことに原因があるのではないか、情緒や形も含んだ真の教養こそが、国を守ることにつながるのだ、と藤原氏は指摘したうえで、興味深い逸話を紹介している。

しかし、‘情緒・形’ は、非言語の内容ですね。西洋の思想は言語の内容ですから、両者はかみ合わないのではないでしょうか。つまり、’情緒・形’ を充実させても、日本人は西洋の思想に圧倒され続けることになる。言語内容には、言語内容で対応する必要があるでしょうね。そうでなければ、議論にならない。

>「江戸末期、江戸に来たイギリス人達は、普通の庶民が本を立ち読みしている姿を見て、『この国は植民地にはできない』と早々と諦めました。

当時の日本の識字率は、世界トップでしたね。’’頭でっかち’ になっていたのでしょうかね。

>『自国を統治できない無能な民のために我々白人が代わって統治してあげる』というのが植民地主義の論理でしたが、庶民が立ち読みする光景は本国にもないものだったからです。>読書は国防ともなるものです」>先人たちは、その日常の姿を見せることで、外敵を退けた。

そういうことになりますかね。でも、‘読書は国防’ という方策は、先人たちの意図した手段ではなかったでしょう。

>現代の政治家たちの官僚答弁にはそうした効果は期待できない。>情緒のみで判断する政府は問題としても、国民の気持ちを掴めない政府にもまた別の問題があるのではないか。

‘情緒・気持ち’ のみを問題にしても、政治は始まらないでしょうね。政治には、政治哲学が必要ではありませんか。
政治は、新しい社会の枠組み、新しい世界の枠組みを建設するために必要です。その枠組みは、個人の世界観 (world) の内容により決まります。
現実の内容は、頭の外にある。これは、唯一で見ればわかる。だが、非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。これは、見ることができない。単なる話である。話 (文章) の内容を理解しなければわからない。話の筋は、何通りもある。だから、正解は一つではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示しています。
日本人には、現実の話ばかりがあって、非現実の話 (文章) が脳裏に存在しない。非現実の内容の話をすれば、現実離れのした内容になるので、日本人には信じられない。非現実の内容は、見てきた (現実) ような嘘になる。誰も嘘つきにはなりたくない。だから、自分自身の考えは示さない。他人の受け売りばかりが山ほどいる。
西洋人は、非現実の内容を思想として是認するので、学問 (哲学) が成り立つ。だから、無哲学・能天気の日本人は、圧倒され続けます。
非現実の文章内容は、時制のある文章内容になるが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、非現実 (考え) は、文章内容にならない。そして、日本人は無哲学・能天気のままでいる。英文法には、時制があるので、英米人には世界観がある。だから、情緒・気持ちに圧倒されることもない。
我々日本人も、日本語と英語を良く学び、考え (非現実) の内容表現における時制の重要さを十分に理解して、非現実 (考え) の内容を文章するように心掛けなければならない。それには、英米流の高等教育が必要である。このことを常に念頭において、勉学に励もう。

>デイリー新潮編集部 >2019年1月15日 掲載


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民主主義・資本主義

2019-01-11 13:51:58 | 哲学


>■日本人は資本主義に順応し民主主義に順応しない
>近代化の過程で日本人は、護送船団型資本主義のように独自のアレンジをしながらも資本主義によく順応しました。

そうですね。‘一人でいる日本人は虫けら、三人集まると竜になる’ のだそうです。

>これは産業技術が実践的で習慣訓練化しやすいからでしょう。

そうですね。実学 (技術) は、実践的ですからね。習慣と訓練が可能です。

>それに対して民主主義はうまく修得できていません。

民主主義は、個人の考えに立脚していますからね。個人主義 (individualism) のない国では、民主政治 (democracy) は衆愚政治 (mobocracy) になります。

>これは民主主義思想が多分に言語思想だからでしょう。

そうですね。政治には、哲学が必要ですね。各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.

>左翼の本質は主知主義 [intellectualism] であると言われます。>主知主義とは、知性、理性、悟性を重視する思想です。

リーズン (理性・理由・適当) は、人間にとって大切ですね。我々の答えは、常にリーズナブルでなくてはならない。

>人の知性によって世界は設計できるということです。

そうですね。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思 (will) がないから、無為無策でいる。仕方がない。

>言語化できない習慣は重視されません。

そうですね。
日本人の《高文脈文化》の特徴:  言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。/ 曖昧な言語 / 一般的な共通認識に基づく / 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される。/ 感情的に意思決定される/沈黙は不快ではない /
ドイツ人の《低文脈文化》の特徴: 伝達される情報は言葉の中で全て提示される。/ 正確性が必要とされる言語 / 言語に基づく / 双方の合意に基づいた契約の変更は容易ではない。/ 論理的に意思決定される / 沈黙はコミュニケーションの途絶として不快 /

>現代日本においてこれだけ世界に誇る技術大国になっても、西洋の哲学思想という言論術は中二病者の屁理屈としてしか受け入れられていないのが現状です。

そうですね。
実学 (技術) は、現実を内容とする。が、哲学・学問は、非現実 (考え) を内容とする。
現実の内容は、頭の外にある。非現実の内容は、頭の中にある。両者は所在が異なるので、内容も同じにはならない。
日本人には、現実離れのした話の内容は、信じられない。

>■資本主義への順応しすぎによる閉塞
>現代日本人の問題は言語思想を持たないことよりも、あまりに資本主義に順応しすぎていることにあるのかもしれません。

思想は考えであり、非現実の内容です。非現実 (考え) は、頭の中にある。見ることができない。理解があればわかる。
資本主義は、金 (おあし) であり、現実の内容です。現実は、頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。
見ることができる内容は、真実 (本当のこと) である。見ることのできない内容は、真っ赤な嘘である。
誰しも嘘つきにはなりたくないから、日本人は言語思想を持たないでいる。だが、お金 (現ナマ) を扱う資本主義には抵抗なく現実的に順応している。

>資本主義、すなわち貨幣価値を基本とする社会システムへ順応しすぎると、「形式的合理性」の問題に陥ります。

そうですね。形式的合理性は、無哲学・能天気の中に存在しますね。野球のルールのようなものか。

>予測可能性が高い、コンビニエンスで安全な社会の中で人々が無気力あるいは、漠然とした不安に陥っていく。

そうですね。日本人は、’我々はどこに行くのか’ という哲学的命題に答えが出せない。わが国には何でもあるが、ただ、夢と希望だけが存在しない。

>現代の日本人が「自分たちの言葉を持ちたい」と思うことの背景には、異文化に向けて自己の正当性を主張したいというよりも、あまりに資本主義に順応しすぎたことによる閉塞からの反動があるのかもしれません。

そうですね。夢と希望のない世界には、閉塞感に満ち満ちています。
非現実の内容を文章にするには、文法に時制 (tense) というものが必要です。時制は英語にはあって、日本語にはない。
時制があれば、非現実の内容は、独立した三世界 (過去・現在・未来) に分けられます。つまり、世界観 (world view) を持つことが可能になる。だから、来るべき世界の内容を未来時制で語ることができます。自分は、いかなる世界に住みたいかを表明できます。
自己の ‘あるべき姿’ 主張をするためには、時制のある言語を使用することが必要です。その目的のためには、英語は便利です。
我々日本人は、日本語と英語を学んで、時制の大切さを十分理解して、自己の正当性を英語で主張すべきです。さすれば、外国人とも議論が可能になり、国際社会で重要な責任を果たすことができるものと考えられます。


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