goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

信じる・感じる 1/2

2019-07-20 06:21:08 | 宗教

>ルース・ベネディクトが「日本は恥の文化」だと言った。

日本のような序列社会に生活していれば、序列人間に注意を払わないわけにはいきませんね。

(略)
> 団塊の世代は本当に世界視線がないですよ。>ほら、小学校に入ったときから60人学級とかに詰めこまれて、人口圧がむちゃくちゃあったから、人の目しか見えない。>団塊の世代の教授たちには、教授会の前の晩に作戦会議をやって多数派工作をしたりすることに燃えてる人も結構いますよ。>私の世代は恥ずかしくてそんなことできないけど。>要するに、多数派につくことが正義。

‘おおきいことは良いことだ’ のようなものですかね。

>向こう側の神仏に見られている私の正義ではなくて、この100人の中でいかに多数派を取るかという、株主総会みたいな正義なのです(笑)。

分かりやすい正義ですね。

> 団塊の世代で大きな世界視線が失われてしまいましたが、今の子たちはもう一回それを回復する力があると私は思っています。

そうであると良いですね。世界観がなければ、世界視線もないでしょうね。

>単線的な世界観がもう骨にも肉にも血にもなっちゃったのが団塊の世代だとすれば、今の子たちは日本が右肩上がりの状況を一度も知りませんから、逆に社会が複線であるということをわかってくれる素地がある。

今の子が世界観を持てると良いですね。単線・複線の世界観に関する問題ではないでしょう。

> 教育者や経済人も、早く団塊の世代に引退してもらって、より心のある人間がトップに立ったほうがいい。

団塊の世代の引退は、改革の切り札にはならないでしょうね。’より心のある人’ とは、どのような人ですか。

>でも、その後で今度はどういうビジョンが語れるのかが問題になってきます。

日本人にビジョンは無理ですね。 日本人には、世界観 (world view) がない。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容は、文章内容を理解しなければ分からない。理解は骨の折れることである。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実 (考え) の内容は、時制のある文章になる。時制のある文章は、独立した非現実 (考え) の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。それらの世界の内容は白紙状態にある為に、英米人は自分自身で内容を入れなくてはならない。だから、彼らは、思春期になると ’考える人’ になる。各人に、哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. だが、日本人には、この必要性は生じない。日本語には、時制がないからである。だから、日本人は、無哲学・能天気でいられます。

>山折:それはやっぱり3つの問いにいくんですよ。>さっき宗教を信じるか信じないかという話が出ました。>やっぱり西洋の一神教的世界においては、神、あるいは神と類似のものを信じるか信じないかが重大な問題なのですが、多神教的世界における日本人にとっては、信じるか信じないかではなく、神々の気配を感じるか感じないか。>「感じる宗教」なのです。

信じるものは、言語内容ですね。その言語内容は、文章の内容ですね。それは、客観的ですね。
感じるものは、非言語の内容ですね。その感じる内容は、自分の内容ですね。それは、主観的ですね。

>「信じる宗教」と「感じる宗教」を分けて考えると、日本人の心のあり方がよく理解できる。

そうですね。信じる内容には、客観性がある。感じる内容には、客観性がない。

>山に入れば山の気を感じて、そのかなたに先祖を感じたり、神々や仏たちを感じたりする。

そうですね。まるで、展覧会に入場するようなものですね。各人がそれぞれに感じますね。

>お守りをズタズタに切ることができないというのは、たたりがあるという深い深層心理が働くからでね。> 何か悪いことが現実に起こると、それは何ものかのたたりだと。>神々のたたりだ、死んだ人のたたりだ、生きている人間の怨念がたたりになる。>それを気配として感じる。

常に我々は、びくびくしていますね。相手は、恣意 (私意・我儘・身勝手) 的なようですね。客観性がないからでしょう。

>そういう鋭敏な感覚が、逆にわれわれを育ててきた。>気配の文化と言っていいかもしれない。

そうですね。我々は、気配を恐れていますね。野生の生活のようなものですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。世俗的な ‘ものの上下’ を判断できないと、日本語会話も流暢なものにはなりません。また、礼儀作法も序列作法に基づいていますので、世俗の上下判断が正確でないと、礼儀正しい日本人になることも難しいです。’人を見損なってはいけない’ という想いが日本語脳の中で強迫観念の域にまで達していますから、日本人は、いつも神経を高ぶらせている必要があります。



.



宗教テロ

2019-04-24 20:38:22 | 宗教

>記事 ヒロ >2019年04月24日 11:12 >日本で宗教テロの意識が低いのはなぜか? >スリランカで起きた連続テロは日本人を含む300名以上の命を奪いましたが、そのテロの理由がニュージーランドのモスクで起きた銃乱射事件への報復と報じられています。

そうですね。’目には目を’ ですか。

>日本の宗教テロに対する一般的報道は事故の規模や被害に対する惨状は報じますが、背景の深堀は興味がないのか、解説はやや少ないような気がします。

そうですね。日本人は浅薄な民族ですから、深堀には興味がないでしょうね。

>ISの活動が活発だったころ、日本もテロの標的であるというようなことが言われました。>幸いにして現在に至るまで目立った事件は起きていません。>宗教テロは日本で起きにくい理由があるのでしょうか?

ありますね。日本人には、宗教心がないからです。宗教心があれば、相手もその手ごたえを感じることになるでしょう。以心伝心ですかね。

>我々日本人はたいていの場合、神道と仏教を適宜組み合わせ、更にキリスト教をフレーバーに利用したりします。>多くの人は新年に神社にお参りに行き、死ぬときは仏教に委ねます。>その仏教も真言宗や浄土真宗などいろいろ宗派がありますが、それが話題になってもせいぜい「オタクは?」ぐらいでこの原因で喧嘩したという話は聞きません。

日本人は、現実の内容を掴みたがっています。現実の内容は姿形・形式により確認にできます。

>ここまでくると日本人にとって宗教とは着せ替えができるファッションとも言えそうです。>結婚式のプランニングで「式はどのような形に?」「キリスト教式でお願いします!」っていうのは食事のコースを選ぶがごとく自由選択性であるこの国ほど不思議なことはありません。

現実の内容は、頭の外にある。それは姿かたち・形式であり、見ることができる。見ればわかる。思考停止でも困らない。

>なぜこうなったのか、といえば神道における「八百万の神」の考え方が浸透しているからでしょうか? >つまり、すべてのものには神が宿るという考え方に基づき、神様が無数にいるのだからいろいろな神と対等に接することができるという発想であります。

日本人には、意思がない。日本人の神様にも意思がない。何人・何柱存在しても意思がなければ問題は無い。

>よって日本でも宗教団体によってはとてつもない寄付やお布施を行うところがあります。 >大組織化し、政治団体と化し、巨大なる資産を築く団体もあればオウムのように極端な思想に走るケースもあります。 >オウムはアレフと改名し、現在でも活動が続いていますが、目立った社会問題を引き起こしていないこともあり、信者もそれなりにいるとされています。 >それ以外にも様々な新興宗教や宗教的団体もありますが、他人がそれに対して苦情をいう事態にはあまりならないと思います。>それは信仰の自由という以外に何を信じても相反発する理由がないからでしょう。

意思がなければ、方法 (仕方) がない。意思のない人たちは、アニマルと同様で自然の中に溶け込んでいる。

>どの様な宗教でも悪事を働かない限り信じるのは自由、そしてそれを侵害する必要もないというのが日本人の基本スタンスだと思います。

そうですね。内容は自由ですね。

>宗教的には日本は多神教と言われ、学問的にはユダヤ、キリスト、イスラム教などの一神教に比し原始的宗教と考えられています。>その理由が経典(教え)の存在とそれを伝える役割を担う人、牧師や伝道師、ウラマーがないことがあるでしょう。

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するには、その文章を理解しなければならない。だから、人間は、’考える人’ になる。全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正解は、唯一ではない。考えは、人さまざまである。正しい考えも多数である。矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。対話・議論は、正しい考えを得るための役に立つ。

>例えば道端に座る地蔵様にいくら問いかけても何も教えてくれません。>この地蔵がこんなことを言っているという聖職者もいません。

そうですね。日本人にも、日本人の神様にも意思がない。神様は、人間に向かって命令を出さない。ただ、皆の衆が出雲に集まって談合する。

これは日本人のすべての人に神が宿るものの一定の解釈は特になく、よってもめごとの対象にならないのでしょう。

意思のない国では、意思の内容に関するもめごともないですね。

>ところが一神教は教義に戒律があります。>この教えを究極的に追及していけば相反する相手をはじく、という発想が出やすいのは自明の理でしょう。>これがいわゆる原理主義と称する人たちで現在の宗教テロを引き起こす思想犯の背景であります。

そうですね。

ここまで考えると日本人は教えがないのに一定の道徳心と公共心をもって万人が平等に暮らせる仕組みを持ち続けられる世界でもまれにみる崇高な人種なのかもしれません。

日本人には、考えがない。だから形式で縛られても不満が生じない。皆がリーズン (理性・理由・適当) を超越している。

>日本で宗教テロが起きにくいとすればその理由はどんな宗教も否定しないからである、と言えないでしょうか。

そうですね。無哲学・能天気でいては、教義を否定しようにも否定する方法が見当たりません。

>原理主義に染まったテロリストは無差別殺人というより宗教戦争を通じて相手ある戦いをしています。>ただし、的の絞り方がおおざっぱで無関係の人も巻き込むケースが多発していると考えています。

彼等にとっては、テロは昔からやっていることなのでしょう。

>もちろん、日本でも宗教的テロはあまりなくても極右、極左を含む思想的テロは存在します。

わが国の思想的テロは、西洋人の真似事ではありませんか。

>よってテロと無縁ではないこと、また世界の隅々にまで進出したり観光したりする日本人が今回のように巻き添えになるリスクは今後も大きいということは肝に銘じた方がよいのでしょう。

そうですね。用心するに越したことはありませんね。エジプトでは、観光警察官が観光客に付き添いますね。

>そういう意味では日本人は「宗教の縛り」にあまりにも無頓着なのかもしれません。>では今日はこのぐらいで。

どうも、ありがとうございました。


.




罪の意識

2019-04-21 23:57:07 | 宗教

>西洋の思想を見ていて、奇異に思うのは、罪の意識がメインテーマにあることだ。

日本人には、罪は分からないことですね。
日本人には、意思がない。意思のある民族は、個人的な加害者意識を経験している。加害者意識は深刻な罪の意識になることもあり、魂の救済を求めざるを得ない状態にまでなることがある。だから、贖罪のための宗教が導入されている。
ちょうど、死刑執行人の場合のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには、殺意というものがないからである。だから、罪に関する事柄は、意思の有無に関係することがわかります。

>思想の原点ともいえる旧約聖書では、アダムとイブが「善悪を知る木」の実を食べ、神から楽園を追放されること(原罪)から始まり、その子孫が嫉妬や怒り、だましあいから殺人を犯したり、追放されたりする話がたくさん出てくる。

そうですね。たくさん罪を感じる話が出てきますね。

>また新約聖書では、イエスの十字架の死は、神が人間の罪を赦した証であり、人類に対する神の愛の発露であった。・・・とされている。
>つまり人類の罪を代表してキリストが十字架にかけられ、それによって神の赦しがでたということを示しているらしい。(パウロの思想)

キリストは、人類にとってこの上なくありがたい人ですね。だから、神様にまでなった。

>つまりキリスト教とは、罪の観念を個人や集団・民族から人類の範囲までひろげ、人類の罪を神の愛によって救うということなのだ。

そうですね。キリスト教により、人類の罪が救われますね。

>時代は下って、16世紀のルターの宗教改革では、教会の堕落に対して、ルターは唯一絶対のものとして聖書の言葉に従うことを提唱した(福音主義)が、主な主張は、“神は罪に穢れた人間をその恩恵によって罪のない者にする”という内容であった。

ありがたい内容ですね。金の力に頼る必要ないのですね。

>(※現代のアメリカの政界を左右すると言われる福音派の信仰もここに源流がある。) >このように常に罪の意識とそれを裁いたり赦す者として神が登場する。 >それはなぜか?

それは、言語の特性によるものでしょうね。自己の意思を表明すれば、加害者意識を経験せざるを得ません。日本人のように意思がなければ、全て被害者意識だけになります。恨めしい世の中が出現します。

>なぜ人間はもともと穢れているとされ、それに対して神が登場するのだろうか?

人は、汚れを忌み嫌う性質があるからでしょう。全知全能の神しか救いようがありません。だから、神は神なのでしょう。

>罪とは、聖書にもよく出てくる妬みや嫉み、そしてだましあいから必然的に発生するものであって、それらを生んでいるのは自我に他ならない。>つまり強烈な罪意識の背後には、強い自我があり、自我の裏腹として罪の意識が生まれたのではないだろうか?

そうですね。それは、認めざるを得ませんね。自我がなければ、罪の意識もない。無我の境地にいる人には、罪を指摘することが難しい。

>唯一絶対神もまた >>本源集団・本源共認を破壊して自我に収束した西洋人は、非現実の世界に失われた本源価値を(表層観念として)再構築するしかなく、かつそれが自我に基づくものであるが故に独善的・排他的な絶対観念(ex. 唯一絶対神)への思い込み信仰となるしかなかった。(実現論)

一神教の人達は、世界観を持っているのではありませんか。世界観は、非現実 (考え) の内容ですから、不変です。ですから、絶対観念です。

>古代から中世においては、武力・身分秩序によって自我が抑えられ、表に発現しようがなかった。>出口を失った自我は、罪の意識によって内面に抑え込まれ、非現実の唯一神に収束していった。

日本の神は、現実の中にいる。その存在は形により示される。だから、見ることができる。教義は必要でない。
西洋の神は、非現実 (考え) の中にいる。だから、見ることができない。その存在は、文章内容により示される。だから、教義が必要である。

>しかし近世になって、自我の発現の可能性が開かれると、“われ思う故にわれあり”(17世紀デカルト)と都合よく思いこむことで、自我を開放し、その結果、罪の意識は失われ“神は死んだ”(19世紀ニーチェ)のだ。

キリスト教徒は、良かったですね。

>罪の意識と一神教は、感覚的に理解しがたいが、背後に自我を考えると分かりやすい。

日本人には、意思がない。優柔不断・意志薄弱である。加害者意識 (罪の意識) に苦しむことが少ない。自我がない。つかみどころのない人間は、周囲に不信感を漂わせています。

>現代でもアメリカなどが、都合よく神の言葉を使い、自己正当化を計れるのも、そのような構造があるからだろう。

そうですね。都合の良い言葉を使いましょう。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.


.




形式

2019-03-18 22:06:00 | 宗教

>お正月には神社に詣り、結婚式はキリスト教の教会で挙げ、お葬式は仏教に則る。

便利な世の中ですね。わが国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。

>こういった、生活の中にいくつもの宗教が混在する日本人の宗教観を、一神教を基調とする欧米人は理解し難いと感じているようだ。

そうでしょうね。一神教の信者は、宗教に心の安らぎを求めている。日本人は心の中に深刻な問題を抱えていないので、形式に安らぎを求めている。

>その背景にあるものを、いくつかのアメリカメディアが探っている。
>◆宗教が生活の一部として存在している日本 >クリスチャン・サイエンス・モニター紙(CSM)は、宗教と信仰が大部分において乖離している日本の状況について論じた記事を掲載した。>同紙は、世界の宗教に関するニュースを幅広く取り上げている。
>CSMはまず、調査会社WIN/Gallup Internationalが発表した信仰心に関する調査結果を引用し、日本は62%もの人が信仰はないとしているにもかかわらず、多くの人が寺社仏閣などに参拝している日本の状況を説明する。

日本人には意思がない。だから、加害者意識もなく、罪の意識も深刻にはならない。贖罪のための宗教にも縁がない。多くの日本人が参拝するのは、形式にこだわるからである。

>つまり、ある参拝者が述べるように「神社にお詣りするのは、宗教を信じているのとは別」であり、宗教が生活の慣習の一部として存在しており、「聖と俗が分かちがたい状況にある」ということだ。

そうですね。実生活においては、清濁併せ呑むことを日本人の常としています。

>その理由の1つとして、CSMは日本人の神社へのお詣りが現世利益主義的な側面が強いことを指摘する。

日本人には、現実しかありません。日本語の文法には時制というものがないので、非現実 (考え) の世界の内容は日本語の文章にはなりません。ですから、日本語は ‘写生画の言語’ といわれています。

>明治神宮に飾られた絵馬には、さまざまな願いごとが書かれている。>病気治癒や職場での昇進に、嵐のコンサートのチケットまで。>宗教は、個人の信仰としてあるわけではなく、絵馬に書かれたように「願いごとがすべて叶いますように」と祈るためにある、というわけだ。

宗教は、日本人に実生活の便利さをもたらしていますね。さて、その効果や如何に。

>またCSMは、2013年の伊勢神宮の式年遷宮の年には過去最高の1400万人もの人を集めたことに注目する。>その理由として、特に若い世代での参詣者の増加について、将来への不安が背景にあるのではと推測する。

何であれ、便利なものには人が集まりますね。

>伊勢神宮の神宮司庁広報課員の音羽悟氏は、20年もの不況で多くの人が目的を失い、将来について不安を感じているため「スピリチュアルな癒やし」を求めている、と同紙に述べている。

人々は、ナウな感じで生きている。神宮でリラックスしたいのですね。未来のことについては、なってみなければわからない。

>◆八百万の神でもってして異国の神を受け入れる >米公共ラジオ放送(PRI)は、日本の土着の信仰である、八百万の神を祀る「神道」に日本人の宗教観の背景を見出している。

日本人も日本語も神道も土着ですね。

>PRIに詳細を語っているのは、東京都の渋谷に位置する金王八幡宮の田所克敏宮司。 >彼の言によれば、「ある日、仏陀と呼ばれる神がアジア大陸からやってきた。>その後、キリストと呼ばれる神が船でやってきた。>すでにいた八百万の神にもう2つ加わった、というだけのこと」。

そうですね。わが国は、アジアの果ての文化の吹き溜まりです。

>田所氏はさらに、こういった日本人の受容性の高さを、天ぷらを使って説明する。>もともと天ぷらはポルトガルから伝えられたものだが、日本人は受け入れ、文化の一部としている。

日本人は、模倣と改良が得意の民族ですからね。

>田所宮司はさらに、次のように述べる。「人々は宗教を、何を信仰しているのかという観点ではなく、儀式の観点から見ている」。

そうですね。宗教を心の問題としているのではなく、形式の問題としているのでしょうね。

>つまり、「この儀式(冠婚葬祭)はどう執り行うのか」が重要であるため、子どもが生まれれば神社にお宮参りし、結婚式はキリスト教の教会で挙げながら、問われれば即座に「仏教徒」と答える状況になっている、とPRIは論ずる。

そうですね。全ては形式の問題としてとらえられていますね。その意味は、あとから勝手についてくる。

>◆荒ぶる神を受け入れ、内面の糧とする日本人  >しかし、この高い受容性が別の面で発揮されているのを、別のアメリカのメディアPBS(Public Broadcasting Service)が伝えている。 >ケンタッキー州にあるベリア大学のジェフリー・リチー准教授が、2011年の東北大震災に見舞われた人々が見せた忍耐強さを、宗教的観点から論じている。

神が荒れるか荒れないかは、罪の有無 (人間) とは関係がない。自然の問題である。

>宗教学の准教授で、同大学のアジア研究プログラムの責任者であるリチー氏はまず、日本の『ゴジラ』やマンガ『アキラ』に見られるように、日本人の災禍に対する考えは、日本の伝統的な宗教文化に見られるような荒ぶる神としての姿に根付いている、と述べる。

荒ぶるのは、荒ぶる神の固有の性質ですね。日本人にとっては、神も人も自然の一部です。

>そして、本居宣長の『古事記伝』に記した「神(古事記伝では「迦微」)」についての論述を引用して、日本の神は善いものも悪いものもさまざまおり、その心も行いもとりどりであり、人の小さな知恵では計り知れないものだ、とする日本人の宗教観を示した。

善悪は、意味に関係する。が、ものの善悪は日本人にとって論外である。日本語は、写生画の言葉であるから、形が重要である。心の内容は、写生画の外にある。

>だからこそ震災が起きた時に、一神教のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の信者が持つような「震災は神の裁きなのか」という問いではなく、「震災をどう受け止めるべきなのか、震災はどう自分の内面のためにあるのか」という問いを、伝統的な宗教観をもつ日本人は抱きがちになるのではないか、とリチー准教授は問いかける。

裁きは、善悪に関係する。意味に関係するが、形には関係がない。一方、日本人の関心は形式にある。

>西洋の基準からしてみれば、信仰心がないように見え、また日本人の自覚としても宗教に対する信仰心はないとしている人でも、人智を超えたものを畏れ敬う気持ちが日本人の中にあることは、以上の3つの記事からは示されているようだ。

日本人は、何処までも形式を重んじていますね。礼儀正しい日本人の始まりかもしれませんね。わが国は、形式から外れると罰が当たる国であります。

.