どこに書かれてあったか、「現代史は歴史ではない」という。
「現代史とは?」:一般には、日本史の場合、第二次世界大戦後
から現在までの歴史だという。
してみれば、終戦後70年余のことである。
私の高校時代(--それは昭和40年代前半のことだが。)、「日
本史」の授業では、「現代史」については教科書を読んで、いつ
何が起きたかを覚えておけばいいというものだった(暗記中心?)。
戦前の昭和史にいたっては、授業を受けた記憶もない。
前記に従って、現代史を現在より過去70年ほどのこととすれば、
昭和40年代前半時点の現代史は、1895~1965年あたりとなる。
1895年といえば、明治28年。日清戦争が終わった年だ。
やはり、私の場合、戦前昭和史もさることながら、日清戦争以降
について「学び直し」(?)が必要と言えるのかもしれない。
--もっとも、それ以前もすっかり忘れてしまっているのだが
・・・・・・。
閑話休題。
悪名高き「シベリア出兵」(1918)についての「学び直し」。
シベリア出兵があったのは、私の父が生まれた大正7年だ。その
父二吉は38歳になっていた。
学び直しには、高校の教科書がいいと言われている。しかるに高
校の歴史教科書も時とともに、とくに近現代史は「進化」してい
る。読み比べるとおもしろい。
1914年、第一次世界大戦が起こる(--私の祖母は「欧州大戦」
と言っていた)。1917年にはロシア革命が起こり、1918年、レー
ニンのソビエト政権はドイツ・オーストリアと単独講和を結ぶ。
『新詳説日本史』(山川1993)
革命による日露協商の消滅という事態に対し、寺内内閣は北満州・沿海州ま
で勢力圏を拡大しようとする膨張政策で対応し、1918年、アメリカがチェコ
スロバキア軍救援のため共同出兵を提唱すると、日本はこれを名目にして多
数の軍隊をシベリア・北満州に派遣した(シベリア出兵)。
『詳説日本史 B』(山川2019)
東部戦線の崩壊と社会主義国家の誕生を恐れた英・仏など連合国は、内戦下
のロシアに干渉戦争をしかけ、日本にも共同出兵をうながした。寺内内閣は、
アメリカがシベリアのチェコスロヴァキア軍救援を名目とする共同出兵を提
唱したのを受けて、1918(大正7)年8月、シベリア・北満州への派兵を決定
した(シベリア出兵)。
英仏から日米に出兵要請が来たが、ウィルソン米大統領は「14カ
条の平和原則」もあり、出兵を拒否。
日本国内は、出兵論、慎重論で揺れる中、米国が出兵するかどう
かがポイントだった。その時点で出兵せず。
しかるにソヴィエト政府に反旗を翻したチェコ軍団の危機の噂が
連合国に流れる。
これを機に、英仏伊の連合国は、チェコ軍団救援のため、あらた
めて日米に出兵を強く求める。
ウィルソン大統領もチェコ軍団救出を決断し、米国は日本に各7千
名で共同出兵を提案。
これによって、日本も出兵することになる(寺内内閣)。
しかし、日本は米国との合意を破り、最大7万1千人を動員した。
その後、チェコ軍団撤兵を機に、米国は突然撤兵を決める。原内
閣は衝撃を受ける。
しかるに、大正9(1920)年、日本のウラジオ派遣軍は沿海州を
武力で制圧してしまう。--原首相は参謀本部を批判。
一方では、尼港事件が発生し、世論が沸騰する。
野党は原内閣を批判。
原内閣が進めたシベリア出兵で得たものは、アメリカなど列強の誤解や、ロシ
ア人の反感ばかりである。その結果こそが尼港事件だ、という。(麻田雅文
『シベリア出兵』p166)
その後も、「いろいろ」あって、結局、沿海州から撤兵したのは
大正11(1922)年10月、加藤友三郎内閣の時であった。
1993年版
大戦終了後、列国はまもなくシベリアから撤兵したが、日本だけは1922(大
正11)年まで駐兵をつづけ、列国から領土的野心を疑われ、非難をあびた。
2019年版では、なぜか上記下線部分がなくなっている。
大戦終了後、列国は干渉戦争から手を引くが、日本の駐兵は1922(大正11)
年まで続いた。
麻田雅文によれば
日本の出兵は、ロシア革命によって共産主義が東へと浸透してくるのを防ご
うとしたからだ、というのは俗説だ。(筒木清忠編『大正史講義』麻田雅文
「シベリア出兵からソ連との国交樹立へ」)
シベリア出兵は、寺内正毅、原敬、高橋是清、加藤友三郎と4代
の内閣にまたがっている。
あれから(約)100年。「シベリア出兵の失敗」から学ぶべきこ
とは多い?
高校の教科書「山川の日本史」
左から1993、1999、2008、2015、2019年版
<参考図書>
麻田雅文『シベリア出兵』(中公新書、2016)
筒井清忠編『大正史講義』(ちくま新書、2021)
五百旗頭真編『日米関係史』(有斐閣ブックス、2008)
それぞれ発行時点の最新の研究が書かれている。
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少し長くなりますが、、、
1914年(大正3年)第1次世界大戦が始まりチェコ軍は宗主国のオーストリアに動員されてロシア軍と戦わされた。間もなく祖国の独立を願ってロシア軍に投降し逆にオーストリア軍と戦った。1917年(大正6年)ロシア革命が起こりソビエト政府が発足。1918年(大正7年)ソビエト政府はドイツ、オーストリアと単独講和。6万人のチェコ軍はソビエト政府に反乱、革命軍と交戦しながらシベリアを東進。日本軍を主力とする連合国軍が「チェコ軍救出」を名目にシベリアへ出兵、、、とあります。このチェコ軍救出から、神戸での関学グリーとチェコ軍との数奇な運命的出会いから、「ウ・ボイ」の伝承が始まります。、、長くなり失礼しました(笑)ほなまたです♪
「ウ・ボイ」、そうでした。関学グリーに伝わったのはこの時でした。戦前は、秘蔵で門外不出の楽譜だったとか(笑)。
それだからでしょうか、関学グリーの「ウ・ボイ」は一味違います。
交流の提案はトントン拍子に具体化した。最初にチェコ軍のオーケストラと合唱隊が関西学院のキャンパス(当時は、神戸・原田の森、、今の王子公園)にやってきて音楽会を開催した。これがキッカケとなってグリークラブがチェコ軍宿舎で歌ったりして数回の音楽交歓が続く。チェコ軍の合唱はグリークラブの青年たちの心をうった。特にボヘミアン・ソング?の哀愁の響きに引き付けられた。「レパートリーの内のいくつかを、頂けませんか」と、、、兵士たちは、にこにこと「うん、欲しいのはどれでもどうぞ」楽譜はどれもこれも長い間のシベリア転戦と行軍で擦り切れていた。、、、その中に「ウ・ボイ」があった!!やがてチェコ軍の帰国の日が近づいた。その夜、お別れのパーティーが宿舎で開かれ、グリークラブは譲ってもらった「ウ・ボイ」ほか数曲を歌った、兵士達は異国の学生たちが歌う「自分たちの歌」にじっと耳を傾ける。歌い終わると割れんばかりの拍手。兵士たちの眼には涙が浮かんでいた、、、、「ウ・ボイ物語」の数奇な運命の始まり部分を追記させてもらいました♪
100年前の話がよく伝わりましたね~。「記憶遺産」と言っていいのではないでしょうか。
私は(約)50年前に新入生オリエンテーションで、ワグネルの「ウ・ボイ」を聴いたのが初めてでした。
また教えてください。