素人ばかりだった京大アメフト部を鍛え、
十度の日本一に導き、同大伝説のクラブへと育て上げた
水野彌一氏。
水野氏のインタビュー記事が
『致知』最新6月号に掲載されておりますので、
その一部をご紹介します。
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「腹を括れ」
水野彌一(京都大学アメリカンフットボール部前監督)
『致知』2013年6月号
特集「一灯照隅」より
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私は昭和四十三年に大学院を卒業した後、
本場のアメフトを学ぼうとアメリカへ留学しました。
これが一つの転機になりました。
それまではいわゆる体育会のシゴキをやって、
普通じゃない、特別な選手をつくることが
スポーツの指導だと思っていましたが、
アメリカはそうじゃなかった。
集めてきた選手に自分たちの戦術を教えて、
組織で試合に勝つと。その大切さを学びました。
それで留学前は関学と戦っても
100対0という世界だったのが、
帰国後、監督に就任した昭和四十九年の試合では17対0。
負けはしましたが、この時が京大アメフト部元年だったと思います。
ただ、そこからなかなか勝てませんでした。
その年、さすがに無給のままでは
活動を続けられないと思って、
スズキインターナショナルという会社に就職しました。
そこは西ドイツ(当時)のビール製造機械を販売しています。
社長さんは鈴木智之さんといって、
関学アメフト部を四年連続全国制覇に導いたスター選手です。
その人のもとで働きながら、
アメフトの神髄を学ばせていただきました。
それで、いつもおっしゃっていたのは
「小手先のフットボールはするなよ」と。
最初はその意味が全く分からなかったんです。
やっと理解できたのは昭和五十七年の時でした。
ある試合の休憩中、副将の四年生が
「ちょっと頭が痛い」と言ってきたんです。
凄い体当たりをしたわけでもなかったので、
ベンチで休ませていたらバタッと倒れた。
すぐに救急車で運んだんですけど、結局駄目でした。
私は入院していた一か月間、
毎日病院に詰めていました。
お父さんとお母さんがずっと看病しておられるんですね。
それを見るのは辛いことでしたけど、
そこで感じたのは、人間っていうのは
あんな頑丈なやつでも呆気なく死んでしまうということ。
もう一つは、親が子を思う心、これは理屈じゃないなと、
物凄く感動しました。
もう、彼は帰ってきません。
ならば自分も人生を捧げないとフェアじゃないだろうと。
それで、「自分をなくそう」と思いました。
それまではやっぱり
「自分が強くする」「自分が日本一にする」と、
自分が強かったんです。
でも、もう自分はどうでもいいと腹を括りました。
それからです、すっと勝ち出したのは。
だから私は京大生に「腹を括れ」と
いつも言っているんです。
腹を括れば自分がなくなる。
そうすれば、逆に自分が自由になるんです。
自分に制限をかけているのは
自分でしかないですから。
世界に十四座ある八千メートルを超える高峰。
昨年五月、日本人として初めてその全てに登頂する
快挙を成し遂げたのが竹内洋岳氏です。
世界屈指のクライマーとして知られる
竹内氏のインタビュー記事が
『致知』最新6月号に掲載されておりますので、
その一部をご紹介します。
氏は山での恐怖心を、
いかに克服すべく努力をされているのでしょうか?
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「いかに恐怖心と向き合うか」
竹内洋岳(プロ登山家)
『致知』2013年6月号
特集「一灯照隅」より
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十四座完登というのは、
もちろん簡単に達成できる目標ではありません。
山というのは登る喜びもある一方、
一つ間違えれば命を落とす危険も内包しています。
では、その危険に対する恐怖心をいかに克服すべきか。
実は、恐怖心というのは克服したり
打ち消したりしてはダメなのです。
恐怖心があるがゆえに、それを利用して危険を察知し、
危険を避けて進んでいくのです。
私の中では、危険な体験を重ねる度に
恐怖心が積み重なっています。
しかし恐怖心が増すということは、
危険に対するより高感度なセンサーを手に入れるようなもので、
決して悪いことではないと思っています。
これから起こりうる危険を、いかにリアルに想像できるか。
その感覚をどんどん研ぎ澄ましていけたらいいと思っています。
もちろん、登山で相手にするのは大自然という、
人間のコントロールを超える存在です。
いくら自分が登ろうと意気込んでも、
天候に恵まれるなど自然の了解を
得られなければ登ることはできません。
私たちにできることは、自然の了解が得られた時に
すぐアクションを起こせるよう十分な準備をしておくことです。
登山の準備で大切なことも、やはり想像力です。
それは頂上に到達できるという想像ばかりでなく、
到達できずに引き返すという想像であり、
時には死んでしまうかもしれないという想像です。
そして死んでしまうかもしれないという想像ができるなら、
どうすれば死なずに済むかという想像をする。
死なないためにいかに多方面に、多段階に、
緻密に想像できるかということを、
私たちは山の中で競い合っているのです。
ゆえに想定外というのは山の中では存在しません。
想像が及ばなかった時、登山家は命を落とすのです。
本日は現在発行中の『致知』6月号より、
体操日本代表の田中三兄妹(和仁選手・佑典選手・理恵選手)の
父親であり、和歌山北高校体操部顧問の
田中章二氏の随想の一部をご紹介します。
┌───今月の注目記事───────────────────────┐
「私の子育て術」
田中章二(和歌山県立和歌山北高等学校体操部顧問・
和歌山オレンジ体操クラブ代表)
『致知』2013年6月号
致知随想より
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人の話をよく聞いたり、場の空気を読めたりする
精神年齢の高い子は上達も早いため、
そうした機会や課題をなるべく多く与えたいと考えてきた。
これは長男の和仁が三歳の時のこと。
スーパーへ行くと、キッズコーナーにお金を入れれば動く
電動式の乗り物があった。和仁は跨って遊んでいたが、
私は最初からお金を入れてやることはせず、
その日はそのまま帰ることにした。
次に行った時、和仁の目線の先に、
動いている乗り物で遊ぶ子供の姿があった。
和仁はその子が乗り物から降りるとすぐそちらへ駆けていったが、
止まってしまった乗り物はもう動いてはくれない。
三回目、和仁は自分は乗り物に乗ろうとはせず、
やってきた親子連れの姿を見ていた。
そしてその親がお金を入れて乗り物が動くところを
目にしたのだろう。
私のほうへ駆け寄ってきて、
「お父さん! あそこにお金を入れたら動くんや」
と実に嬉しそうに話をした。
その時、私は単にそうかとお金を渡すのではなく、
「おまえ、よう見抜いたなぁ!
自分で分からんことがあった時には、
まず周りをよく見ることが大事なんや。
おまえは凄い。きょうは好きなだけ乗せてやる」
とわざと誉めちぎった。
和仁は七回連続で心ゆくまで乗り物に乗った。
これと同じことがスポーツ指導にも言えるだろう。
大人に求められるのは子供が自ら考え、
答えを出すのをじっと待ってやることで、
端から正解を教えてしまっては本人の身にならない。
身体能力がいかに恵まれていても、
それだけで強くなっていけるのは
小学校六年生程度までがせいぜいで、
頭を使えない子は必ず行き詰まってしまう。
子供が持つ可能性は無限だが、
その能力を伸ばしてやるための環境づくりをし、
いかに本気に、真剣に取り組ませることができるかは、
我われ大人の役割であり、責任であると言えるだろう。
現在発行中の『致知』最新6月号に、文部科学大臣の
下村博文氏が登場してくださっています。
本日はその記事の中から、
ビートたけし氏とお母さんの感動秘話をお届けします。
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「ビートたけし氏とお母さんの感動秘話」
下村博文(文部科学大臣/教育再生担当大臣)
『致知』2013年6月号
特集「一灯照隅」より
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いまの日本には偉人伝というだけで
拒否反応を持つ人がいるんですよ。
それ自体、異常な社会だと思うのですが、
そういう時、私はタレントの北野武さんの話をするんです。
そうすると皆さん「なるほど」と言って
聞いてくださいます。
それは北野さんのお母さんのお話なんですね。
北野さんが芸能界に入って売れるようになった頃、
お母さんから「金をくれ」と言われたというんです。
それからも何かにつけて
法外なお金を要求されたと。
とんでもない親だと思ったけれども、
親には世話になったし
迷惑を掛けたのも事実だから
言われたままに出していたそうです。
そして、お母さんの命がもう何日もないという時に
軽井沢の病院に行った北野さんは
お母さんから一冊の通帳を渡されるんです。
帰りの新幹線の中で
その通帳を見た北野さんはビックリするんですね、
いままで渡していたお金が全額入金されていた。
芸能界は浮き沈みの激しい世界ですから、
お母さんとしては息子が
売れなくなった時のことを考えて、
そっと蓄えておられたのでしょうね。
子供は親孝行したいと思っているけれども、
親が子を思う気持ちはもっと深い。
吉田松陰が「親思う心にまさる親心」
と詠んでいますが、親が亡くなって
「もっと孝行しておくべきだった」
と子供だったら皆思うんじゃないでしょうか。
これは何も国が「親孝行しろ」と言うのとは
違うわけでしょう。
道徳の授業の中でそういう話が
エピソードとして出てくれば、
誰でも素直に皆受け取るはずです。
人が人として生きるために大事なことを学ぶのは、
本当は英語や数学の学力を高めること以上に
必要なことなんですね。