遠州横須賀・三熊野神社大祭(保存版)

DyDo日本の祭り2006現地特派員blogアーカイブス(H18.2.1~H19.1.10)

13台祢里の紹介「東本町・ろ組」

2006-12-18 13:28:43 | 13台祢里の紹介
三熊野神社のすぐ西側の宮下に位置し、秋10月中祭には御幟立てを行っています。町の始まりは応仁年間まで遡り、荷次馬次の場所として「三社市場」が置かれていました。出しは「司馬温公の甕割り小僧」、町印・法被柄は「呂つなぎ」、丸提灯は「亀」の柄を白抜きにしています。平成4年の「全国祇園祭山笠巡行」平成11年の「神田祭」に参加しました。戸数34戸・104人(H18.10末現在)
※写真(東本町の稽古場は城下の町並みに合わせ、景観にマッチしたものとなっています)
H19三熊野神社大祭まであと109

13台祢里の紹介「新屋町・あ組」

2006-12-17 15:47:02 | 13台祢里の紹介
新屋町(あらやまち)は、寛永11年(1634)第11代横須賀城主・井上正利公の城下の町づくりで河原町・拾六軒町とともに作られ、本町に続く新しい家並という意味から「新屋町」の町名が付きました。三熊野神社の東に位置する宮下の町で、春の大祭には「御幟立て」のお役目を担っています。出しは庄田七郎兵衛の手による「神功皇后と武内宿祢」、万度・鍋蓋の彫刻は中山由太郎正勝氏によるものです。町印・法被柄は「さつなぎ」、丸提灯は桐に鳳凰。平成8年の「神田祭」に里帰り特別参加をさせていただきました。戸数50戸・156人(H18.10末現在)
※写真(上天幕の裏絵には池上秀畝画伯直筆「猛虎之図」が描かれています)
H19三熊野神社大祭まであと110

13台祢里の紹介「拾六軒町・ち組」

2006-12-16 15:45:05 | 13台祢里の紹介

「拾六軒町」はその名の通り、横須賀で一番小さな町です。江戸時代にはその町の小ささゆえに「踊り番」のくじ取らずを認められていました。しかし「おらん町」意識は非常に高く、平成15年には祢里本体の造り替えを行い、さらに平成17年には「江戸天下祭」へも参加しました。組名の「ち」は町名の昔読み(ちうろっけんまち)から、出しは「須佐之男命と櫛名田比売」町印・法被柄また丸提灯には知恵の輪を用いています。戸数25戸・78人(H18.10末現在)
※写真(出し人形は、大正8年・江戸浅草茅町「浪花屋人形師・庄田七郎兵衛」によるものです)
H19三熊野神社大祭まであと111


13台祢里の紹介「中本町・は組」

2006-12-15 19:48:33 | 13台祢里の紹介
中本町は、横須賀の町並みのまん真ん中に位置し、商店が連なった賑わいの中心地でした。祢里は昭和7年の千秋楽で神社を出る時にしんげん棒が折れ、翌昭和8年に造り替えましたが、均整が取れた非常にバランスのいい祢里で、彫刻や金具にも相当なこだわりが見られます。嶋台にのった「高砂」の出しは、一説ではお殿様から下賜されたものとも言われており、藤の花を下げます。町印・法被柄は源氏車、丸提灯は唐獅子牡丹の柄を用いています。戸数50戸・173人(H18.10末現在)
※写真(以前は祢里の四角に、鯉の滝登りの彫刻を付けていました)
H19三熊野神社大祭まであと112

13台祢里の紹介「西本町・い組」

2006-12-14 22:59:21 | 13台祢里の紹介
東・西・中の本町は、城下町・遠州横須賀の町づくりが行われる以前から栄えていた古い町です。西本町はその一番西に位置し、かつてはお殿様をもしのぐ様な、大店が並んでいました。組名は本町3町で「い・ろ・は」をくじ引きで決めたと言われています。出しは「山吹の里」、若き日の太田道灌が狩りの途中で突然の雨にあい、ある家で蓑を所望したところ、応対した「べにざら」という娘が差し出した山吹の花の意味が分からず、後にその意味を知って自分が恥ずかしくなり、以後狩りや武芸だけでなく、和歌などの勉強にも励んだという有名な物語です。町印・法被柄は分銅つなぎ、丸提灯は牡丹の花に輪つなぎ。祢里の彫刻は浜松市の浦部一郎氏の手によるものです。平成8年には、ご本家の神田祭に里帰り参加をしました。戸数42戸・132人(H18.10末現在)
※写真(「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の和歌はあまりにも有名ですね)
H19三熊野神社大祭まであと113

里見八犬伝のふるさと「館山市」

2006-12-13 22:53:02 | 13台祢里の紹介
西大渕の出し「南総里見八犬伝」は、戯曲師・曲亭(滝沢)馬琴が、戦国時代に房総半島で一大勢力を誇った「里見氏」をモデルにした物語です。その資料は館山市の城山公園内にある「館山市立博物館」展示されています。「八犬伝」と同時に、戦国の世に10代170余年間続いた「里見氏」の歴史にも触れることができます。
(この文書の一部は館山市のHPを参考にさせていただきました)
※写真(芳流閣屋根上之場の錦絵を用いた、館山市立博物館の看板)
H19三熊野神社大祭まであと114

13台祢里の紹介「西大渕・み組」

2006-12-12 21:28:21 | 13台祢里の紹介
西大渕は悠久の昔より、三熊野神社の神事を司ってきた「宮元」です。現在でも大祭神事や「地固め舞」など神社の大切なお役目を、頑なに地縁血縁の中で担っています。その西大渕が祢里での付祭りに参加するようになったのは、戦後まもない昭和23年のこと、出しは河原町が明治期につけていた「南総里見八犬伝」、組名は三熊野神社あるいは宮元の「み」からつけたといわれています。町印・法被柄は亀甲、丸提灯は「糸巻と亀甲」を配しています。平成17年には、東京日比谷公園周辺で行われた「江戸天下祭」に参加、戸数229戸・729人(H18.10末現在)
※写真(出しの場面は芳流閣屋根上組討の場/犬塚信乃と犬飼現八)
H19三熊野神社大祭まであと115

13台祢里の紹介「軍全町・ゑ組」

2006-12-11 21:26:06 | 13台祢里の紹介
軍全町は、町なかにある徳川家康所縁のお宮「軍全坊神社」から町名がつけられました。組名の「ゑ組」は円満な町の「ゑ」といわれています。また、軍全町では祢里をとても大切にしており、同年代に作った祢里とは比べ物にならないほどの良い状態を保っています。出しは「大森彦七」と父・楠木正成の仇と狙う千早姫、丸提灯・町印はともに「槌車」戸数57戸・195人(H18.10末現在)
※写真(軍全町の一番の特徴は、13町で唯一「ズリ棒」をつけていません)
H19三熊野神社大祭まであと116

13台祢里の紹介「河原町・か組」

2006-12-10 21:24:06 | 13台祢里の紹介
河原町は、城下の町並みの一番東に位置し、遠州横須賀12町の中でも最大の町です。江戸時代より、お城の御用の時でも、常に2町分の人工を出しており、その名残からか今でも総代さんが二名います。祢里は輪が内側へ入った珍しい「箱祢里」の形状で、立川常蔵昌敬と高村師政の彫刻が祢里を飾ります。出しは「川中島の合戦」、組名の「か組」は河原町の「か」、法被柄は川に短冊、丸提灯は牡丹に短冊を配したものになっています。河原町の祢里は平成4年京都で開催された「全国祇園祭山笠巡行」平成15年の「江戸天下祭」に参加しました。戸数198戸・608人(H18.10末現在)
※写真(出し人形は東京麹町の人形師「藤島とよあき」之作・昭和12年)
H19三熊野神社大祭まであと117

13台祢里の紹介「東田町・た組」

2006-12-09 21:21:47 | 13台祢里の紹介
東田町は西田町から東へと続く小さな町です。かつては通りの真ん中を「下紙川」が流れ、田町の夜祭りの見せ場となっていました。祢里は一番外側のツクがなく、持ち送りの彫刻で支えるという独特の形状になっています。出しは伍條大橋の上で戦う「牛若丸と弁慶」丸提灯は13町で唯一の白提灯に牡丹、法被柄・町印は「田つなぎ」平成15年には「江戸天下祭」へ参加しました。戸数39戸・131人(H18.10末現在)
※写真(橋の下の水玉は、川の流れを表現しています)
H19三熊野神社大祭まであと118

13台祢里の紹介「東新町・め組」

2006-12-08 21:19:25 | 13台祢里の紹介
東新町は、城下の西新町から続く古い町で、西新町とともに御神輿様をお迎えする警護のお役目を担っています。町が屈折していて縦丁・横丁から成り立ち、その昔は横須賀の町一番の繁華街でした。そのためか祢里には横須賀唯一「瀬川治助重光」の彫刻が取り付けられ、特に高覧部分に巻きついた龍は、見るものの目を惹きつけます。また、め組の組名は恵まれた町の「め」から名づけたと言われています。出しは蓬莱「日の出に鶴」、丸提灯は西新町と同じく尺一寸の赤提灯で「松竹梅に飛若の文字」、町印は「角つなぎ」です。平成11年にはご本家の「神田祭」へ里帰り特別参加しました。戸数71戸・203人(H18.10末現在)
※写真(祢里を飾るのは「瀬川治助重光」作の彫刻)
H19三熊野神社大祭まであと119

稲村ヶ崎(神奈川県鎌倉市)

2006-12-06 22:09:58 | 13台祢里の紹介
今から約670年の昔、元弘3年(1333)新田義貞はおよそ3千騎の兵を率いて、鎌倉攻めのため稲村ヶ崎へと兵を進めた。しかし源頼朝以来150年間、難攻不落の鎌倉城を前に攻めあぐんでいた。義貞は波打ち際に立つと「海の竜神、何とぞ朝敵を討ち取らせたまえ」と唱えると、黄金の刀を海へ投げ入れた。すると急に潮が引き始めて道が出来、鎌倉攻めを成功させたという。この物語が「大工町」の出しとなっています。
※写真(現在の稲村ヶ崎・鎌倉市
H19三熊野神社大祭まであと121

13台祢里の紹介「大工町・せ組」

2006-12-05 21:21:54 | 13台祢里の紹介
大工町は、もともと城内にあった片側町でしたが、寛永20年(1643)第11代横須賀城主・井上正利公の町普請により現在の場所に移し、今に残る横須賀12町が出来上がりました。元の町が瀬にあったことから「せ組」になったと言われています。町印は瓦つなぎ、出しは稲村ヶ崎で太刀を捧げ、竜神に祈る新田義貞公。丸提灯の柄は桜花、昔通りに蝋燭を使うなど、こだわっています。
戸数86戸・238人(H18.10末現在)
※写真(大工町では馬鹿囃子の時には、からす天狗が舞い踊ります)
H19三熊野神社大祭まであと122

13台祢里の紹介「西田町・に組」

2006-12-04 21:20:37 | 13台祢里の紹介
西新町とともに、横須賀街道の一番西の町「西田町・に組」
(ちなみに、祢里のある横須賀12町はすべて「○×まち」と読みます)
組名の「に組」は、その西の町から名付けられたそうです。出しは鞍馬山でからす天狗を相手に、武術の鍛錬を行っている「牛若丸」と「僧正坊」。祢里本体は平成3年に作り替えましたが、以前の祢里とまったく同じものにこだわり、彫刻のないものとしました。丸提灯は「鎖釜に若の字」、町印・法被柄は「輪ちがい」、また渡御行列先達の獅子舞と「田町神楽」の大切なお役目を担っています。
戸数117戸・334人(H18.10末現在)
※写真(鍋蓋下・万度の周囲には、注連縄が設えられます)
H19三熊野神社大祭まであと123

13台祢里の紹介「西新町・旭組」

2006-12-03 21:19:05 | 13台祢里の紹介
今回から、遠州横須賀「三熊野神社大祭」で曳きまわされる13台の祢里を一台ずつ紹介してゆきたいと思います。
(千秋楽後、三社様退出順)
「西新町・旭組」横須賀城のお膝元の町で、「二見ヶ浦」の出しはお殿様より下賜されたものと言われています。丸提灯は他町より一寸大きい尺一寸の赤提灯で、地紙にあさひの字を配しています。この提灯はかつては城内参入を許された印と言われています。また、町の古老が鳶口を持って、渡御行列をお迎えし警護役をお務めします。法被柄・町印は「裏卍巴」、組名の「旭」は出しにちなんだものといわれています。
戸数58戸・194人(H18.10末現在/掛川市HPより)
※写真(青面の踊りは西新町独自のものです)
H19三熊野神社大祭まであと124