三熊野神社大祭は江戸期には、旧暦の正月7,8,9日に行われていました。明治期には新歴に、明治43年には3月に変更、しかし大正5年再び正月に戻されました。そして、大正10年には神の御宣託により、4月の7,8,9日となりました。
その後昭和40年代には祭りが衰退、3日の祭りは2日間となり、さらに生活実態の変化から土日に行うようになりましたが、昭和61年より再び金・土・日の3日間に戻されました。
それにしても4月初旬は天候が安定せず、「春に3日の晴れ間ナシ」本当によく雨が降ります(笑)横須賀の祭りでは、最初から雨が降ることを想定しており、祢里をすっぽり被せる透明の特注シートを何枚も準備して、雨で祭りが中止なることはありません。
※写真(祢里をすっぽりと被せる特注のシート・曳いている人はぐちゃ濡れです♪)
三熊野神社大祭まであと7日
その後昭和40年代には祭りが衰退、3日の祭りは2日間となり、さらに生活実態の変化から土日に行うようになりましたが、昭和61年より再び金・土・日の3日間に戻されました。
それにしても4月初旬は天候が安定せず、「春に3日の晴れ間ナシ」本当によく雨が降ります(笑)横須賀の祭りでは、最初から雨が降ることを想定しており、祢里をすっぽり被せる透明の特注シートを何枚も準備して、雨で祭りが中止なることはありません。
※写真(祢里をすっぽりと被せる特注のシート・曳いている人はぐちゃ濡れです♪)
三熊野神社大祭まであと7日
江戸時代の「三社御祭礼」(三熊野神社大祭)は、奉行所の指図によって執り行われ、歴代の横須賀城主の御上覧を受けていました。ご本家「江戸天下祭」では、祢里物や山車が江戸城内に入り、将軍様の御上覧を受けていましたが、それをそのまま遠州横須賀でも行っていました。明治期には横須賀城が廃城となり、以後はお城の絵を「水神宮」に掲げ、ここを代わりの「お旅所」としています。
しかし数年前から、13~20代横須賀城主・西尾家第13代目御当主「西尾忠愛」様をお招きし、三熊野神社境内にて御上覧をいただくことになり、約百年ぶりに「城主上覧祭」が復活しました。
※写真(三熊野神社境内において、西尾忠愛様に御上覧をいただく)
三熊野神社大祭まであと25日
しかし数年前から、13~20代横須賀城主・西尾家第13代目御当主「西尾忠愛」様をお招きし、三熊野神社境内にて御上覧をいただくことになり、約百年ぶりに「城主上覧祭」が復活しました。
※写真(三熊野神社境内において、西尾忠愛様に御上覧をいただく)
三熊野神社大祭まであと25日
横須賀のお祭りを見に来た方から、よく聞かれるのが「掛け声はなんといっているんですか?」という質問。
答えは「したした」です。
この独特の掛け声は、大名行列の「したにぃ~したにぃ~」からきているといわれています。一説によりますと、名君の誉れ高き、第14代遠州横須賀城主・西尾忠尚公の跡目を継いだ、15代・忠需が先代に負けまいと、袋井宿より十万石の格式をもって入部、さらに石津村からは奴振込にて西大手門より入城されました。その時、なんと数千人もの見物客が集まったといわれ、初めて見る前代未聞のきらびやかな大名行列に、町民一同たいそうな驚きをもってお迎えをした、との記録が残っています。
新しいものを、すぐに祭りに取り入れていた当時の横須賀っ子たち、その行列の掛け声をさっそく祭りに取り入れ、それが今に続く「したした」の掛け声となった、というわけです。
全国的にも類のない、珍しい掛け声のようです。
三熊野神社大祭まであと31日
答えは「したした」です。
この独特の掛け声は、大名行列の「したにぃ~したにぃ~」からきているといわれています。一説によりますと、名君の誉れ高き、第14代遠州横須賀城主・西尾忠尚公の跡目を継いだ、15代・忠需が先代に負けまいと、袋井宿より十万石の格式をもって入部、さらに石津村からは奴振込にて西大手門より入城されました。その時、なんと数千人もの見物客が集まったといわれ、初めて見る前代未聞のきらびやかな大名行列に、町民一同たいそうな驚きをもってお迎えをした、との記録が残っています。
新しいものを、すぐに祭りに取り入れていた当時の横須賀っ子たち、その行列の掛け声をさっそく祭りに取り入れ、それが今に続く「したした」の掛け声となった、というわけです。
全国的にも類のない、珍しい掛け声のようです。
三熊野神社大祭まであと31日
三熊野神社大祭(付祭り)の歴史を紐解けば、今から約270年前(享保~安永の頃)、幕府の老中職にあった「第14代遠州横須賀城主・西尾隠岐守忠尚公」が、当時の「江戸天下祭」(神田祭・山王祭)の様式を、ここ遠州横須賀へ伝えたのが始まりとされています。
ご本家の江戸では明治時代、将軍様の御上覧を受けるなど、幕府色の強かった「天下祭」は新政府から弾圧され、また文明開化による電灯線の付設などの理由により、大きな山車の曳きまわしが困難になり、「御神輿」を担ぐ祭りへと大変貌を遂げました。しかし大きな時代の流れに飲み込まれずに済んだ、ここ遠州横須賀では、今も変わらず、当時の天下祭を偲ばせる「一本柱万度型」の『祢里』を、さも当たり前に曳きまわし続けているのです。
※写真『江戸時代の神田祭を描いた「神田明神祭礼絵巻」(部分)・三熊野神社大祭小冊子より転載』
三熊野神社大祭まであと37日
ご本家の江戸では明治時代、将軍様の御上覧を受けるなど、幕府色の強かった「天下祭」は新政府から弾圧され、また文明開化による電灯線の付設などの理由により、大きな山車の曳きまわしが困難になり、「御神輿」を担ぐ祭りへと大変貌を遂げました。しかし大きな時代の流れに飲み込まれずに済んだ、ここ遠州横須賀では、今も変わらず、当時の天下祭を偲ばせる「一本柱万度型」の『祢里』を、さも当たり前に曳きまわし続けているのです。
※写真『江戸時代の神田祭を描いた「神田明神祭礼絵巻」(部分)・三熊野神社大祭小冊子より転載』
三熊野神社大祭まであと37日