遠州横須賀・三熊野神社大祭(保存版)

DyDo日本の祭り2006現地特派員blogアーカイブス(H18.2.1~H19.1.10)

「人も歩けば・・・」

2006-11-24 21:12:30 | 大祭を紐解く
新屋町稽古場横の町営駐車場に無造作にころがっている長い棒。しょっちゅう足が引っかかって危ないのですが、よ~く見ると穴があいていたり、割れ止めがしてあったりただの棒ではなさそう・・・?
なんとこの棒は、昭和10年に今の祢里小屋ができるまで、出し上げの時に使っていた「バカ棒」で、この棒の先に滑車をつけて、出しを吊り上げていたそうです。
※写真(駐車場の片隅にころがっている棒にも、こんな歴史があるんですね)
H19三熊野神社大祭まであと133

「桜良し、雨もまた良し、横須賀の祭り」

2006-03-31 01:30:50 | 大祭を紐解く
三熊野神社大祭江戸期には、旧暦の正月7,8,9日に行われていました。明治期には新歴に、明治43年には3月に変更、しかし大正5年再び正月に戻されました。そして、大正10年には神の御宣託により、4月の7,8,9日となりました。
その後昭和40年代には祭りが衰退、3日の祭りは2日間となり、さらに生活実態の変化から土日に行うようになりましたが、昭和61年より再び金・土・日の3日間に戻されました。

それにしても4月初旬は天候が安定せず、「春に3日の晴れ間ナシ」本当によく雨が降ります(笑)横須賀の祭りでは、最初から雨が降ることを想定しており、祢里をすっぽり被せる透明の特注シートを何枚も準備して、雨で祭りが中止なることはありません。
※写真(祢里をすっぽりと被せる特注のシート・曳いている人はぐちゃ濡れです♪)
三熊野神社大祭まであと

河原へ下りられなくなった「祢里」

2006-03-15 17:45:24 | 大祭を紐解く
江戸~明治・大正期にいたるまでの大祭では、12台の祢里が西大谷川の河原へ下りて渡御行列をお迎えし、その真ん中を御神輿様が通過、お旅所へお着きになってから、河原町東端・蓮池地内へ集合して供奉を開始していました。ところが、軽便鉄道の開通(大正14年・新横須賀~南大坂間)により河原が深く掘り下げられ、祢里が下りられなくなったこと、また線路の下を御神輿様が通るのことは決して許されないため、現在のようにそのまま蓮池に集合するようになりました。
※写真(西大谷川の河原へ下りた12台の祢里/明治時代後期)
三熊野神社大祭まであと23

江戸城の城門をくぐる

2006-03-14 17:43:53 | 大祭を紐解く
江戸時代「江戸天下祭」の山車は将軍様の御上覧を受けるため、高さ4.4Mの江戸城の城門を通らなければなりませんでした。高さが6M以上もある山車がどうして通り抜けたのでしょうか?一本柱万度型の山車は、その柱を後方に倒して通過し、入城後に再び起こしていました。遠州横須賀では、今もその姿を組み立て・解体の際に見ることができ、いにしえの江戸天下祭を彷彿とさせます。
※写真(東本町・ろ組の昔ながらの出し上げ風景)
三熊野神社大祭まであと24

城主上覧祭

2006-03-13 17:41:55 | 大祭を紐解く
江戸時代の「三社御祭礼」(三熊野神社大祭)は、奉行所の指図によって執り行われ、歴代の横須賀城主の御上覧を受けていました。ご本家「江戸天下祭」では、祢里物や山車が江戸城内に入り、将軍様の御上覧を受けていましたが、それをそのまま遠州横須賀でも行っていました。明治期には横須賀城が廃城となり、以後はお城の絵を「水神宮」に掲げ、ここを代わりの「お旅所」としています。
しかし数年前から、13~20代横須賀城主・西尾家第13代目御当主「西尾忠愛」様をお招きし、三熊野神社境内にて御上覧をいただくことになり、約百年ぶりに「城主上覧祭」が復活しました。
※写真(三熊野神社境内において、西尾忠愛様に御上覧をいただく)
三熊野神社大祭まであと25

かつぎ祢里(底抜け屋台)

2006-03-12 17:22:47 | 大祭を紐解く
三熊野神社大祭は、現在では一本柱万度型の「祢里」を曳きまわす祭りですが、明治期までは祢里の曳きまわしとともに、踊りも行われていました。新屋町には「かつぎ祢里」と呼ばれる「底抜け屋台」が現存しており(現在は民俗資料館に展示)、このかつぎ祢里の中で楽人がお囃子を奏でながら歩き、所々へとまっては踊りを披露していたようです。今でも、埼玉県の飯能まつりなどでは、この「底抜け屋台」を見ることができます。
※写真(新屋町で明治期まで使用していた、かつぎ祢里・民俗資料館蔵)
三熊野神社大祭まであと26

文化九年(1812)尺一寸の大太鼓

2006-03-11 17:20:55 | 大祭を紐解く
新屋町稽古場には、文化九年(1812)の尺二寸の大太鼓が残されています。「惣庄屋覚書帳」等の古文書によれば、当時の三社御祭礼(三熊野神社大祭)は、現在のような「祢里」を曳きまわしを中心とする祭りではなく、踊りや歌舞伎・仮装行列のようなものが主であったと推測されます。
また、時同じくして文化八年の「拾六軒町御用帳」には、一本柱万度型の「祢里」と思われる記述があり、この頃から「祢里」の曳きまわしを行う祭りが形づくられ始めことから、現在の祭りの黎明期といえるでしょう。
※写真(文化九年 尾州今宿村太鼓屋 堀田長兵衛 の墨書きの残る大太鼓・新屋町稽古場蔵)
三熊野神社大祭まであと27

「したした」

2006-03-07 17:14:49 | 大祭を紐解く
横須賀のお祭りを見に来た方から、よく聞かれるのが「掛け声はなんといっているんですか?」という質問。
答えは「したした」です。
この独特の掛け声は、大名行列の「したにぃ~したにぃ~」からきているといわれています。一説によりますと、名君の誉れ高き、第14代遠州横須賀城主・西尾忠尚公の跡目を継いだ、15代・忠需が先代に負けまいと、袋井宿より十万石の格式をもって入部、さらに石津村からは奴振込にて西大手門より入城されました。その時、なんと数千人もの見物客が集まったといわれ、初めて見る前代未聞のきらびやかな大名行列に、町民一同たいそうな驚きをもってお迎えをした、との記録が残っています。
新しいものを、すぐに祭りに取り入れていた当時の横須賀っ子たち、その行列の掛け声をさっそく祭りに取り入れ、それが今に続く「したした」の掛け声となった、というわけです。
全国的にも類のない、珍しい掛け声のようです。
三熊野神社大祭まであと31

江戸の祭り文化がここにある

2006-03-01 16:04:43 | 大祭を紐解く
三熊野神社大祭(付祭り)の歴史を紐解けば、今から約270年前(享保~安永の頃)、幕府の老中職にあった「第14代遠州横須賀城主・西尾隠岐守忠尚公」が、当時の「江戸天下祭」(神田祭・山王祭)の様式を、ここ遠州横須賀へ伝えたのが始まりとされています。
ご本家の江戸では明治時代、将軍様の御上覧を受けるなど、幕府色の強かった「天下祭」は新政府から弾圧され、また文明開化による電灯線の付設などの理由により、大きな山車の曳きまわしが困難になり、「御神輿」を担ぐ祭りへと大変貌を遂げました。しかし大きな時代の流れに飲み込まれずに済んだ、ここ遠州横須賀では、今も変わらず、当時の天下祭を偲ばせる「一本柱万度型」の『祢里』を、さも当たり前に曳きまわし続けているのです。
※写真『江戸時代の神田祭を描いた「神田明神祭礼絵巻」(部分)・三熊野神社大祭小冊子より転載』
三熊野神社大祭まであと37