犬がおるので。

老犬から子犬まで。犬の面倒をみる暮らし。

俺はその日の夕方に。

2015年12月14日 | おせわがかり日誌


その夜、おとうさんと久しぶりにゆっくり話す機会があって、

「もし、こんもオレコもいなくなったら、もう犬とは暮らさない?」

と聞いてみた。



「わからないよ、こんちゃんはオレコより長生きするかもよ」

「それはないって」



しばらくしんみりしたあとで、

「俺はねえ、オレコが死んだら、その日の夕方に死ぬことにするよ」

と(半ば本気で)言っていたんだけれど、笑いながらバカ話をして、その最後に、

「また、もらってくればいいじゃない」

とつぶやいた。



動物を飼うのに購入することを否定しているのではない。



これには私と彼との間にも多少考え方の違いはあるけれど、購入を否定するつもりはない。



ちかごろ、動物の価格が上がってきているのを見て、いいことだな、と感じている。

どんどん、どんどん、高くなればいいと思う。買い始めたら、もっとお金がかかるし、そもそも、いのちなんだし。




それでも一緒に暮らしたい、という人なら(借金やローンで無茶する人じゃなくて)、責任と愛情を持って、

さいごまで面倒をみてくれるだろうし、今のように、飼い主のいない動物で世の中があふれることだってなくなるだろう。




だからといって、お金があるけど愛がない人が飽きて捨てる、っていことになるのはとても困るから、免許制になればいいのに、とも思う。

保護された動物をもらうときに審査が厳しいのは、そういう免許制に通じるところがあるからなんだと思うので、私は審査されるのは嫌ではない。

それに加えて、運転免許をとるときのように、まず適性があるかどうか、質問に答えていくとジャッジできる試験があるといいのにな、とも考えている。




話がそれた。夫に一緒に暮らしたい犬は何か聞いてみた。

「ポメラニアン?」

夫はずっとポメラニアンと暮らしてきたし、間違いなく一番好きな犬種のはずだ。ところが。

「いや。別にポメラニアンじゃなくていい」

そうか。彼はオレコがそんなにも好きなんだな。そうなったらオレコの面影を探すのかもしれないな、と、思った。



「でもわたしそのころはきっと大きいのは無理だなあ」

「○○ちゃんちみたいにバギー載せればいいじゃない」

「雑種の子犬はどのくらい大きくなるかわからないからねえ」

「一戸建てこせばいいじゃない」

「うーん」

「でも確かに年を取ってきたら大きい子は無理かもしれないな」



「わたしねえ、柴犬がいい」

「うん」

「もちろんオレコみたいな子がいたらそのこもいい」

「あとは大きさだなあ」

「そうだねえ」



「でも俺、オレコが死んだらその日の夕方に死ぬな」

なぜ夕方なのかはわからないけれど、夫はそう言い続けた。

夕方ねえ。

どうやら夕方あわててかけつけて同じ銀河鉄道に乗るつもりらしい。