犬がおるので。

老犬から子犬まで。犬の面倒をみる暮らし。

3代目。

2018年07月26日 | おせわがかり日誌

縁あって迎えた、3代目『ころすけ』。

子犬って無条件にかわいいというけれど、確かにかわいいんだけれど、なんだ犬というのは、もっともかわいい犬というのは、老犬じゃないか、と気がついた。

当たり前だけど、ころすけはまだまだ、まだまだ、こんちゃんの愛らしさには及ばない。




子犬を抱いたら、いつかこんちゃんを抱っこしたときのように、胸にじんわりとあたたかく拡がり身体全体にしみわたるあの多幸感が蘇るかと期待したが、それは訪れなかった。

世話の大変さは同じようなものなのに、世間でいうほど子犬というのはいいものではなく(私にとっては)、早く老犬になってくれないかと心待ちにしている。

子供は3歳までに親孝行のすべてをすっかり終えるそうだが、今まさにころすけがそのときで、一生分の飼い主孝行をしてくれているのだろう。

しかし、将来への責任感と、できる限りのお世話をして、愛情をもって育て、幸せにしないとな!という心意気とがあるだけで、まだ老犬に骨抜きにされたようにメロメロになることはない。

やがて来る老犬時代、それまでの長い道のりを、これからともに暮らし、互いにかけがえのない存在になれれば。

それでいいのだ、今はまだ。




もしかしたらこんちゃんは私にとって、特別な犬で、ころすけはそこまでの存在にならないかもしれない。

いや、それどころか、ほかのどんな犬も、こんちゃんの存在にとって代わることはできないのかもしれない。

既に、そんな気はしている。



それならそれで、いいのだ。



自分の年齢を逆算し、オレコのほかにもう1匹、子犬から世話をすることができるのは今しかないな、というタイミングだった。

こんちゃんとの約束もあった、ころすけの属性の何もかもが『もしもし、ちみ、こんちゃんじゃろ?』といいたくなるようなサムシングだった。

書き連ねることはしないが、こりゃもう間違いない!と思って、引き取ることに決めたのだ。




正直、このままオレコと3人家族に戻って、そのままいくのもいいと思っていた。

仕事とオレコのお世話だけの生活は、なんというか、とても楽ちんで、忙しなさに明け暮れたこれまでとは比べようもなく余裕があり、自分のための時間を組み込むことも可能そうだった。

そんな暮らしにのびのびと身を委ね、なかなかいいじゃないか、と、なじんでいたのに、なぜだか忘れ物をした気がして、気になって仕方がない。

頼りなく、ぬかるんだままの緩い気持ちが、ふつふつと温もりを帯びて徐々に固まっていき、いつのまにか、自然と、ゆるぎない決意になっていた。

ようし、もういい、迎えようじゃないか、こんちゃんの生まれ変わりを。





保護犬や行き場のない子をもらい受けるのはまた、このあとにチャンスが来るだろう。

そのとき年齢的に譲渡がダメなら、一時預かりボランティアでもいいし、リタイアした使役犬の終の住処になるのもいい。

今回はもう、あのヒト(こんすけ)と約束してしまっているから、仕方がない。

約束したのに、こっちの不手際で違う家に行ってしまったら、こんちゃんかわいそうじゃないか。

そんな一方的とんちんかんな思いから、子犬を迎えることになり、その日は来た。




ころすけはいたずらで、元気いっぱい、ちょっとどんくさく、甘えん坊で、意外にも聞き分けがいいという健気な面も持ち合わせている。

それはひとえに、(生みの)母親の気質によるものだ。

いずれまた書くけれど、ころすけの生物学上の父と母は、気立てよし、器量よし、よしよしづくしのラブリーカップルだった。

しかしなぜか器量の面では、生まれたときからほのかに、GoodLookingの両親というよりは、血のつながりなどないはずのあのひと(つまりこん)に、うっすら、ほんのり、似ていた。

定期的に届く犬の里での暮らしぶり、成長ぶりを見ていると、子犬はどことなく、しかしそれはもう、きっぱりと、こんちゃん化しているように見えた。

とはいうものの、今はまだどんな成犬に成り果てるのか想像もつかないが、見た目はともかく、ちょっと先の未来は、穏やかで、笑いの絶えない日々になるといい。