歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) <ЕВРАЗИЙСКАЯ ЧАЙХАНА> 

「チャイハナ」=中央ユーラシアの町や村の情報交換の場でもある茶店。それらの地域を含む旧ソ連圏各地の掲示板を翻訳。

“民族団結は進歩なり”に関する絵解き画集(2)

2010-07-15 23:52:22 | 東トルキスタン関係
→(1)からの続き


16.新疆の各族人民は、誇り高く、愛国主義的な伝統を持っています。はるか昔から、各族人民は外国からやってきた侵略者に力を合わせて立ち向かい、我が国の境界を護ってきたのです。

※ 絵の左側の軍服姿の集団は、多分、帝政ロシア軍。その後ろで“左”の旗を背に、望遠鏡を持っている人物は19世紀後半にヤクブ=べクの反乱を鎮圧し、帝政ロシアからイリ地方の一部(今のグルジャ周辺)を奪回するのに功績のあった清の将軍、左宗棠

中共の公式史観だと、“ヤクブ・べクの乱”は何故か英露+オスマン帝国に支援されたヤクブ・べク一味と、それに乗じて新疆の一部(イリ地方)を占拠した帝政ロシアを、左宗棠指揮下の清朝軍と新疆の諸民族が協力して撃退した、という“美談”になっている。そんなことはないんだけど....。これについては後述。




17.旗幟を鮮明にして祖国の統一を護持し、民族分裂主義に反対しなければならない。祖国の統一を破壊しようと目論む人間や、彼らの行いに対しては、敢えて旗幟を鮮明にし、闘う必要があるのです。



18.祖国統一の護持は、各族人民共通の願いです。愛国主義の偉大な旗を高く掲げつつ祖国の統一を護持し、この中華の国全てに繁栄をもたらすためにも尽力し、闘っていかねばなりません。

.......何というか、ウイグル人向けの啓蒙書であるにも拘わらず、ひたすら漢人の側から見た新疆の歴史ですね。現地人は何だか民族衣装を着て太鼓を叩いたり、踊っているだけの、背景の一つに過ぎない感じです。

そして、中共の公定史観においては、現在の中華人民共和国の国境は、とりあえず、時間を超越した絶対普遍の真理というか前提のようなものであるらしい。

 “国史”なんて、どこでもそういうものではないか?

と言われたら確かにそうなのですが、ここで羅列されているような、新疆が中華王朝の版図に入った時期というのは、各々そんなに長いものではなく、全体の歴史から言えばそれこそ“点”みたいなものです。

当然ながら、“点”と“点”以外の部分の方が圧倒的に長い。この本では現在の生産建設兵団の存在を正当化するためwか、漢代の屯田兵の役割が妙に強調されていますが、彼らも漢朝の後退とともに去ったのであって、その子孫が連綿と暮らしてきた訳ではない。以後、彼の地では1949年に至るまで、漢人はほとんど住んでいないか、圧倒的に少数かの、どちらかであったはずです。

文化的にも、あの辺は中華文明の影響を強く受けてはいたものの、結局、20世紀まで漢字圏に入ることはありませんでした。その意味では、日本や朝鮮半島よりも中華文明からの距離は遠かったと言えるでしょう。

というか、清や元みたいな遊牧民の征服王朝が、漢や明と一緒くたに“中華王朝”になっていたり、途中から省制を敷いて直接支配を行った清朝と、間接支配しかしなかった他の王朝が同列に扱われていたり、一部の地域がある王朝に入貢していたとか服属していたとかいうだけで、あたかも新疆全域がその王朝の支配下にあったような認識だったりと、そもそも、その“点”の付け方自体が強引で、無理があります。

でもって、それらの“点”のみを現代まで強引に一直線に繋げて、

“新疆は太古から中国の不可分の領土の一つ”

だとか、

ウイグル人たちは歴史的に“中華民族の一員”

だとか言うのは、

詐欺以外のナニモノでもない。

少なくとも、この本が対象としているウイグル人の読者に対しては、何の説得力も無いでしょう。

面白いのは、この章の16番目の絵にもあるように、ウイグル人たちに漢人との同胞意識を持たせ、“愛国心”を高めさせるためのイベントとして、19世紀後半の“ヤクブ・べクの乱”や“帝政ロシアによるイリ地方(グルジャの周辺。現在のカザフスタンとの国境に近い地域)占領”といった事件がネタにされていることです。

まあ、中国本土であれば、そうした“敵”として不動のポジションを占めるのは日本軍なんでしょうけどね。その日本軍も、さすがにここまでは攻めてこなかった(細々とした工作活動はやってたけど)訳で....。

この“ヤクブ・べクの乱”というのは、19世紀の半ば、太平天国の乱+回民反乱+アロー戦争と内患外憂続きでガタガタになっていた清朝に対し、今で言うウイグル人やカザフ人、クルグズ人、回族などの新疆一帯のムスリムが起こした大反乱でした。これに対して、満州(シボ)人オイラト・モンゴル(カルマク)などの仏教徒は清朝側に立って戦ったのですが、清朝の駐留軍は各地で敗れ、新疆のほぼ全域が清朝の手から離れてしまいました。

そうした各々の反乱地域を統合し、全新疆をシャリーア(イスラーム聖法)の下で一つの国家としてまとめあげたのが、コーカンド・ハン国(現在のウズベキスタン西部からクルグズスタンにかけての地域を支配していた国)出身の軍人、ヤクブ・べクでした。

現在の基準で言ったら“ウズベク人”ということになりますが、元々の身分は反乱勢力の要請でコーカンド・ハン国から派遣された将校です。いわば“助っ人”だったのですが、その軍事的才能とウイグル人らとの文化的な近さ(在日ウイグル人が言うには、ウズベク語とウイグル語の違いは、関西弁と関東弁のそれより小さいとのこと)から反乱勢力の中で頭角を現し、最終的には指導者として、新疆に自らの王朝を打ち立てたのでした。

そのヤクブ・べクの国が存在したのは十数年と短命でしたが、英、帝政ロシア、オスマン帝国などから国家として承認され、各々の国と通商関係も有していました。

また、帝政ロシアはそうした混乱に乗じて自国領(現在の中央アジア諸国)に隣接したイリ地方に軍隊を送り、これを占領してしまいました。

そうやって、一時は清朝の支配から完全に脱するかに見えた新疆ですが、清朝側は名将、左宗棠指揮下の討伐軍を派遣。内紛でゴタゴタしていたヤクブ・べク軍は簡単に敗北し、ヤクブ・べクは自殺。その国家は瓦解したのでした。

そして、新疆全域を回復した清朝は、その左宗棠軍の力を背景に帝政ロシアとも強気の交渉を行い、占領されていたイリ地方の半分を奪回したのです。

この際、清朝側の報復を恐れたウイグル人や回族が大量にロシア領へと移住しました。現在カザフスタンやクルグズスタンでそれぞれ数十万単位で暮らすウイグル人やドゥンガン人(=回族)はその際の移民の子孫です。

ちなみに、ロシア領に移住し、近代的な教育を受けたウイグル人の中からは、後のウイグル人自身による近代化運動や、東トルキスタン共和国建国に貢献する人材が輩出されることになります。

とまあ、以上が“ヤクブ・べクの乱”の顛末ですが、これがどうして今の中国の“愛国教育”の題材となるのか、不思議に思われるかもしれません。自分も不思議です。

何せ短くまとめたら、そう遠くない昔に、新疆において、中原からの完全な分離独立に成功したイスラーム国家が存在したという話ですから。もし仮に左宗棠の討伐が失敗していれば、ちょうどアフガニスタンみたいな感じの英・露間の緩衝国家が、あの辺に出現していた可能性は大いにある訳です。

あるいは、もし仮に第二次東トルキスタン共和国が民族共和国としてソ連に編入されるか、あるいはモンゴルみたいにその衛星国になっていたとしたら、この“ヤクブ・べクの乱”は間違いなく“民族意識の萌芽”を示す事件として肯定的に語られていたに違いありません。

現実には、当時はまだ民族としての“ウイグル人”など存在せず、人々の間に“テュルク民族”意識など皆無だったとしてもです。

これは単なる妄想ではなく、一応実例があるのですよ。例えば、かつて清朝の領域内にあって、その後ソ連領に編入された地域として、モンゴルの北西にあるトゥバ共和国がありますが、ソ連時代以来の公定の地域史の中では、清朝時代は徹底的に暗黒時代として描かれ、その時代に起きた反乱は、それこそ本当にどうでもいいような農民反乱でも、“英雄的行為”、もしくは“正しい民族感情の発露”云々と称揚されているのです。でもって、“その後ロシア国家に包含されたことによって、今ではこんなに発展してますよ”、というのが定番のパターンですね。

そうです。中共がチベットやウイグルが問題となったときに必ず持ち出す、あの“現存する国境線などの行政区分を絶対視し、それを正当化するために構築されたようなヘンテコで政治的な歴史観”は、もろにソ連史学譲りなのですよ。

“ヤクブ・べクの乱”が“愛国主義”的教育の題材とされる場合も、重要な役割を果たすのは恐らく5000年前から存在すると目されるw中華人民共和国の国境線と“ソ連史学的な”手法です。

今手元にある、あちらのお上が出した歴史の本によると、まず、新疆のムスリムが反乱を起こしたこと自体は肯定されるべきとのこと。何故なら、それは腐敗した清朝の官僚組織やそれと結託した現地の富裕層に対する“階級闘争”だからです。純粋に経済的な問題であって、民族とか宗教の違いは関係ないのだとか。

一方、ヤクブ・べクは現在のウズベキスタンからやってきた“外国人”にして、英、露、オスマン帝国の支援を受けた“侵略者”でした。その“侵略者”が、イスラームを悪用して反乱勢力を扇動。自らの王朝を築いたのです。ヤクブ・べクは“ジハード(聖戦)”を唱えつつも私腹を肥やし、個人用に処女800人のハーレムを作らせるような悪い奴であり、その正体に気づいた新疆のムスリム大衆は左宗棠の清朝軍と協力してこの外国からの“侵略者”を倒し、祖国に平和を回復させたのでした!

また、同じ時期にイリ地方を占領した帝政ロシア軍に対しては各族人民が粘り強い抵抗を繰り返し、これも左宗棠の清朝軍と協力することで、イリ地方の占領地をいくらかは奪回。列強の一つであるロシアから、祖国を守ったのでした!

.......そんな感じです。

悪いのは“外国人”とそれに加勢した一部の富裕層であって、民衆は新疆の分離独立なんて支持していない。彼らは“愛国主義的”であり、常に漢人とともにあった、というわけで.....

まあ、ヤクブ・べク政権は現地の各オアシスからの収奪が厳しく、末期には地元社会との関係がかなり悪化していたという話もありますが、彼らが戻ってきた清朝軍と一緒になってヤクブ・べクや帝政ロシア軍と戦ったという話は…一体何がソースなんでしょうか?

なお、左宗棠の新疆再征服後、ロシア領に移住した回族やウイグル人についてはどのように説明してあるのか興味があったのですが、彼らについての記述は一切ありませんでした。

きっと、そういう“非愛国的な”新疆人はいてはいけないのでしょうw。

→(3)に続く


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2 コメント

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Unknown (裸族のひと)
2010-07-17 00:33:24
>きっと、そういう“非愛国的な”新疆人はいてはいけないのでしょうw。

そうでーす。「ワンドリーム・ワンチャイナ」は中国建国の偉大なる指導者、毛沢東さまの頃からの中国不変の真理でございますw

中国人民である事に埃を持ち、分裂を企む不逞の輩は絶対に許さないぞ!



・・・・などと、小学校から教育されて言わされているんでしょうねぇ。(´A`)

( ゜д゜)、ペッ <言いがかりと、コジツケも大概にしけよゴルァ!
って言いたい人も多いのでしょうが、民族教育も当局の検閲なしではできないのでしょうから気の毒な話ですよ。清の満州族なんて徹底的に同化政策を受けちゃってるしね。
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Unknown (Kanri-nin)
2010-07-23 20:56:21
>裸族殿

>誰も気にしとらんような気がします。

あれは呪術的な感じがします。キョンシー(死語)に貼るお札みたいな....。


>民族教育も当局の検閲なしではでき
>ないのでしょうから気の毒な話です
>よ。清の満州族なんて徹底的に同化
>政策を受けちゃってるしね。

あちらの方は革命以前から同化が進んでいたので、まあ仕方が無いかもしれないんですが、ウイグルの方はちょっと…..。
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