頼朝さんのお墓参りを済ませ、荏柄天神もお参りしてから鎌倉宮へ。
太平記ファンとしては鎌倉では欠かせない場所です。
さて、ざっと歴史のおさらい。
鎌倉宮は、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王を祀って、東光寺跡に明治二年に明治天皇の勅命により創建されました。
大塔宮護良親王には思い入れがあるので珍しく説明風に(笑)
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒すため、武家に対抗しようと寺社勢力を手に入れようとします。
そこで後醍醐天皇には皇子がたくさんいますが、護良親王や宗良親王を比叡山に送り込みます。
護良親王は十一歳で比叡山に入り、二十歳で天台座主(尊雲法親王)になりますが、後醍醐天皇の倒幕の動きに合わせて還俗します。
そして楠木正成と力を合わせ千早城などで闘い、それに呼応した新田義貞が鎌倉を攻めて鎌倉幕府は滅びました。
征夷大将軍になった護良親王は、足利尊氏が新たな幕府を開き、再び武家政治を行おうとしているのを警戒して、信貴山にこもり、なかなか武装を解こうとしません。
それが面白くない尊氏は、実子を次期天皇にと目論む後醍醐天皇の寵姫阿野廉子と謀り、護良親王の「尊氏追討」の令旨を「皇位簒奪」のための令旨だと後醍醐天皇をだまし、まんまとだまされた後醍醐天皇は護良親王を捕らえさせ、鎌倉へと送り、東光寺の土牢に幽閉してしまうのです。
父帝のために闘ってきたのに…(泣)
そして歴史的にはまんまと尊氏が征夷大将軍になり幕府を開き、北朝天皇を立てたため、後醍醐天皇は吉野で無念の中に亡くなってしまうのです。
それはさておき、1334年11月から中先代の乱の起こる翌年7月まで、土牢に9ヶ月も幽閉された護良親王は足が萎えて立つことも出来なくなったといいます。
中先代の乱とは、北条高時(鎌倉幕府最後の執権)の遺児時行が起こした反乱で、鎌倉が敗れると尊氏の弟足利直義は敗走する際に家臣の淵辺義弘に命じて護良親王を暗殺してしまいます。
護良親王、御年二十八歳でした…。
そんな直義も、のちに兄尊氏と対立し(正確には執事の高師直、師泰)、それが観応の擾乱(今、流行ってますね~)となって尊氏に毒殺されるのですから、本当に悲しい歴史です。
そんな事を思い出しながらの鎌倉宮はまことに感慨深い!
村上社には、吉野の闘いで護良親王の身代わりになって凄絶な討死をした村上義光の身代わり像が。
参拝者に撫でられてつるつるになっていますが、顔は優し気ですね(^^)
吉野の金峰山寺の前に護良親王の陣の跡が残っていますが、あの時の闘いですね。
そして300円の拝観料を収めて、土牢と宝物殿へ。
土牢は暗くて入り口付近しか見えませんが八畳ほどの広さがあるそう。
まさにここが暗殺現場なのね…(>_<)
土牢正面の紅葉がきれいに色づいていました。
宝物殿の護良親王の馬上像はとてもりりしいですよ。
気まぐれに持ち歩く御朱印帳に御朱印をいただき、鎌倉宮を後にしました。
明治天皇は維新で徳川の世が終わったのは、親王の後先徳として維新直後に祀られたそうです。
皇居には楠木正成像もありますしね。
南朝、北朝とかは既に関係ないのかな?