うさぎとかえるの里

鳥獣戯画をこよなく愛する自分の日本文化や日常に関する想いをつづります。

京都~雲母坂。

2018-06-13 22:18:36 | 旅行・参拝


歴史の中に度々登場する雲母坂。
修学院から比叡山へと続く山道です。
太平記では、西国から攻め上った尊氏軍が楠木正成を破り都に入りましたね。
そして後醍醐天皇が逃れた比叡山を攻めた時にこの雲母坂から攻め上ったようです。

多分、平安遷都の際に最澄が鎮護国家のために比叡山を開き、平安文学にも度々登場する比叡山(作中に『山』と出てくれば当然比叡山を指す)、紀貫之も紫式部もきっとこの雲母坂を通ったに違いないとの妄想のもと、ずっと私も登ってみたいと思っていました。

ようやく決意して今回ようやく比叡山登山をすることにしましたが…リュックすら持っていないので、いつも打ち合わせ等に持ち歩くA4サイズが入る黒いバッグの他、日傘とペットボトルのお茶とコンビニのパン1個とクッキーを入れたサブバックの軽装備(*≧Δ≦)

山を舐めているわけではないけど、山で育った勘を信じて行くしかありません(;^_^A

いつものように早朝の新幹線で京都を目指し、叡山電鉄の修学院駅には午前9時30分到着。

ここで明らかに登山スタイルの中高年男女15名(くらい)が少し前を歩いていて、ちょっと一緒になったらうるさそうだなぁと嫌な予感が…(´`:)



ま、しかたないかと、千種忠顕卿の石碑を見ながら音羽川に沿って山の方面に向かいます。
この道自体は、赤山禅院や修学院離宮、曼殊院に行く時にもう何度も通っています。



当然、前方には先ほどの集団。こんな住宅地を彼らに合わせてゆっくり進むのは不本意ながら、追い越すには人数が多すぎます(>_<)

…と思ったらラッキー!

いざ雲母坂に入る手前の公園でご一行様は準備体操を始めました。
その隙をついて追い越します(^^)

雲母橋を渡ると急に坂道が急になり、すぐに比叡山登山道となりました。

修学院駅を出てからここまでで25分です。

ちなみに全体のコースタイムはこんな感じでした。

★修学院駅出発  9時30分
★雲母橋 9時50分
★比叡山登山道入口 9時55分
★水飲対陣之地 10時25分
★千種忠顕卿戦死地碑 10時55分
★比叡山山頂バスターミナル(最終的にどこを目指すかウロウロしたあげく到着…) 11時50分。

およそ2時間半の登山でした。

詳細は以下の通り。



雲母橋までは音羽川に沿った住宅地。
だいぶ進むと左手に修学院離宮が見え、住宅もなくなり山の中へ。



雲母橋を渡ると一気に山の中です。





登山道に入ってからはとにかく急で険しいです。



雨が降ったらそのまま谷川になりそうなV字に切れ込んだ道で、いかにも歴史を感じました。

十分歩けば息が切れましたね…。



昨日までの雨で道は程よくウェットです。
落葉樹の葉が降り積もったままの道はふかふかというよりも滑りがちで歩きにくく、もはや谷なのか道なのか定かではない道は、誰がつけたか新たな道が作られ、若干複雑でした。

つづら折りの険しい道をだいぶ進むと(この辺りは写真を撮る余裕がありませんでした)、上から駆け下りてくる男性。

京都1週トレイルのコースにもなっているから、道標はあるもののやはり道がわかりにくい部分も。



ようやく「水飲対陣之跡」の碑に着くと、ここからはようやく緩やかな登りに。

ちなみに水飲対陣之跡とは南朝側の千種忠顕が尊氏軍と戦った場所がここだったようです。
あえて言えば「水飲の戦い」…みたいな?
水飲は地名っぽい感じですね。
確かにここまで険しい坂を登ってきて、ようやく少しひらけて水でも飲もうかって場所なのかしら?
とにかくこの辺りで戦ったようです。

今回の目的のひとつでもある、「千種忠顕戦死碑」もてっきりこの近くかと思いきや
まだまだ先でした。通り過ぎたんじゃないかと不安になりながら歩き続ける私(^^;)



尾根に出たので、ようやく下界が見えるようになりました。
しばらくは林の中の尾根を歩く感じでした。
両脇が崖というか斜面な部分も。

浄刹結界の碑。





頭のなくなった石仏の頭のかわりに石が乗せてある優しさ。
信仰の山を感じさせるものに途中いくつも出会いました。



崩壊もいいところといった山道。
もともとは右側だったようですが、今は左側。
崩れてしまって「京都トレイル」と書かれた黄色いテープが
張られていますが、事件現場のテープにしか見えず。



さらに高い所まで来たようです。



いつの間にか植生がかわり、杉の林になり、薄暗くジメジメした坂道が続きます。
道は急になったり緩やかになったりとある意味一息つきながら歩けます。

そして杉林の中のやや高くなった場所に、目標としていた千種忠顕卿戦死地の碑がありました。
コースからやや逸れていて、先に登っていた方は当然スルーしていました。



しかも、材木小屋みたいな朽ち果てた小屋が手前にあり、剥がれたトタン屋根が風に煽られ、梁の丸太にぶつかる音がバタンバタンとうるさくて、それがまた哀愁をさそいました。
場所的には尾根の一部なので、この辺りは京都市内から吹き上げてくる風が強くて正直寒かったです。



水飲対陣之地の碑からだいぶ離れていますが、このあたり一帯が戦場になったんでしょうかね。
千種忠顕卿は後醍醐天皇に従って隠岐にも一緒に行っていますが、
太平記の中では権力に奢った振る舞いをしたとか、あまりよく描かれていないんですね。
それがこんな立派な石碑が後から作られたとは、忠臣楠木正成が取り上げられて
軍国主義と皇国史観が高まった時に南朝で戦った人をあらためて見直したのかなという印象ですね。
そもそも千種忠顕卿は調べようとしてもほとんど文献も私には見つけられない方ですから。



この後、分岐になりケーブルの駅を目指すのが主要コースのようでしたが、なぜか比叡山山頂ルートをとってしまい、そこからは誰にも会わず、やや不安になりながら登り続けました。



林の坂道を登り切ると、また植生がかわり、明るい雰囲気のわりと平坦な道に。
峠は越えたなとほっと一息。
石仏もまた。



しかし、そもそも比叡山山頂がどこなのかよく分からない…





これ↑がスキー場。かなりなだらか(^^;)
看板に従って横断しましょ。

途中まであった「比叡山山頂」の標識は、いつのまにか「ガーデンミュージアム」とか「比叡山山頂バスターミナル」の標識にかわり、とりあえずバスターミナルを目指すことに。



まだしばらくこんな高原的ななだらかな道が続く。

バスターミナルまではまた少しじめっとした山道を登り、ようやく到着。



駐車場から琵琶湖方面の眺め。

しかし頂上感がなく、物足りずに、駐車場奥の少し小高い部分こそ頂上かも?…と工事車両の横をすり抜け舗装道路を上った行き止まりが、関西系放送各局の電波塔のようなものがいくつか立っている場所でした。
ある意味、確かに一番高い場所なのかなと、やや不満ながら駐車場まで引き返しました。

…と、比叡山への雲母坂からの登山は無事に終わりました。

名前はきれいな雲母坂、登ってみるとけっこうしんどい(;^_^A

でもコースタイム的には中高年登山や、山岳トレイルにはちょうどよいらしく、下手すりゃ誰にも会わないかも?という不安をよそにかなりの方に会い、道も踏み固められていました。

コメント
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