昨夜ぽちっとテレビをつけたら、「世界一受けたい授業」。池上彰一さんが今の日本は格差社会なのかを授業するという。わかっていないので教えを受けねば。人形や部屋の模型を使った説明で、ほんと、「週刊子供ニュース」みたいだ。結論は、格差社会はどういうものか?という考え方による、ということだった。即ち、格差社会であるとは断言できない。「1世帯あたりの収入」の格差が広がったという考え方を例にしていた(割り算のために金額は番組と変えます)。祖父母(年金320万)・父母(給与900万)・子供夫婦…赤ちゃん人形もいたが後の割り算のためここでは省略…(給与400万)が同居していたら、この世帯の年収は1620万になる。が、3組の夫婦が別居すると、年収320万の世帯・年収900万の世帯・年収400万の世帯が存在することになる。つまり、年収1620万円というリッチな世帯がなくなり、年金収入のみの世帯・定年前の(たぶん)正社員の世帯・(もしかすると)揃って正社員じゃない若い夫婦の世帯…という特にリッチではない世帯だけになる。もとの世帯の1620万を6人で割った1人当たり270万円という数字に変わりはない。ひな壇に並んだ「生徒」達は、事前に、1・2人を除いて「格差社会である」と意思表示していた。だから、池上先生によって頭の固まりをほぐしてもらった感が広がったみたいだ。しかし。格差社会の定義によっては、上の例がまさに特徴の1つになるのでは?今時、大人6人で暮らせる家がどれほどあるのか(さらに、若い奥さんの胸にはこれから大きくなる乳児がいる)? 地方には、広い土地やら代々継がれた大きな家が珍しくないのかもしれないけどさ。たぶん仕事も平均給与も多いであろう東京には、そんな家が少ない。そんな家もたぶん多いであろう地方では、仕事も平均給与も多くはない。だから、世帯のサバイバル状況では、狭い家で3世帯の比較的高い収入の暮らし・または・広い家で3世帯の比較的低い収入の暮らし…の択一が必要になる。いや。これこそ思い込みかもしれないけどねえ。方針や生活圏や性格などの違いから敢えて別居を選ぶ人達の世帯単位の年収が下がった現象までも格差社会で説明する。そういう誤りを説いていた(池上先生は「格差社会ではない」と主張したのではない。「格差社会」とは何かわからないままにムードに乗ってわかったつもりになるなと、ものの考え方の授業をしたと思う)。だからまず自分なりの「格差社会」の特徴を考えてみる。東京が通勤圏・かつ・7人(赤ちゃんが育ちました)で暮らせるような家で暮らせる。そういう、年収には反映しない、累積された資産も格差社会の一例だという立場はどうだ?格差社会は一時目立たなくなったが、日本社会にはずっとその体制だった…という考え方がある。だから、今さほど大騒ぎする必要はない、と。それはそれで怖いなあ。前政権よりはるか昔にルーツがあります、と。徳川幕府の時代。体制保持のために地方の富はせっせと江戸に召し上げられ、明治時代は富国強兵がモットーで。1603年から2007年の今日まで4世紀以上、首都圏や大都会にお得なものごとが集中されてきたのではないでしょうか。で、教育や就業の機会を求めて出身地を離れた人達やその子孫が、代々の家に戻る場合の障害はどれほどになっているのか? 例えば勤め先は? 学校は? 交通機関は?サバイバルを考えなければならなくなった場合に、「含み益」(<例>頼れる人達・住める実家)の有無が問題になるのだ。原始人は腕力や知力で生きていた。個人の生活の危機は自然を直接利用することで回避することもできた(魚が採れなければ木の実を食べるとか)。現在の生活は、政府などの制度の下にあるし、市場化(野原なら無料で遊べるがそこが遊園地になればお金がないとだめ。昔なら無料で友達と話していた時間も今は携帯電話の通話料の根拠になる)も進む一方。不景気が続いたからというのではないと思うんだ。いろいろと…。天然の恵みとして利用できていたものが、どんどん誰かの所有物になっていく。外国の水を日本に運んできて売っている時代だし。太陽発電が発達すれば、日照権だってもっと切実な商品になるだろうし。私は格差社会の影を気にする側にいる。確かに何かが進んでいると思う(「なんとかの陰謀」みたいなおどろおどろしいものではないですよ)。それは、「オリバー・ツイスト」や「カムイ伝」とは別の種類の格差社会であるような予感がします。永久不変のものでなくても良いんです。格差社会像を定義して話を進めないと。そして、その定義がたぶん政党ごとにまるで違うのがわかっているから、困るんだけどね~。