同乗者との会話はokで、携帯で通話はだめ? どちらにしろ騒音じゃないかという投書を見かけたことがある。その人と直接やり取りできるなら、私の主張に対する意見をききたいと思っていたのでした。が、機会がないまま忘れていたので、思い出したが吉日。書いておこうっと(
長いので、ポイント部分に下線を表示。読んでくださるなら、そこだけでいいかも)。
携帯の通話と会話では、そばの人の脳みその反応が違うのです。ぼ~っとしていたり他のことをやっていたりしても、無意識に脳みそが「音」を情報処理していると思う。ええと…。その時の私の脳みその動きは、パソコンのウィルスソフトの自動更新に例えられる。他の作業をやっている(電車で、携帯をいじっている…通話以外のことね…・本を読んでいる・居眠りしている・考え事している・会話している・音楽を聞いている)。他方、受信した内容を認証したりインストールしたりもしている(耳に入ってきた話を読解する)。意思的ではない。無意識のうちに。この脳みその働きについての推論を、昔々朝日新聞で読んだことがある。聴覚より視覚の原理の解明のほうが進んでいる(当時の状況? 今も?)ので、「ヒトの脳みそは視覚的刺激と同じことを聴覚的刺激でもやっているのではないか?」ということだったが。
右の図達を、上から(1)、(2)、(3)とします。(1)のような図を見ると、ヒトの脳みそは何が書かれているのか推理を開始してしまう。グレー部分を文字と比較し、欠けた(黒で隠れた)部分の形を頭の中でかき加えてみる。なぜなら、見覚えのある形状にあてはめてみようとするからだ。ヒトは知っていることから推理するのだ。
(2)が(3)により隠されている、という結論に達する((2)の文字が単語を示すという推測から入るタイプと、あくまでグレー部分の形状から判断するタイプがいるんだろうけど)。人によっては、「ひらがなだと意味がわからない。『橋』と『箸』のどっちだろう?『端』ということもあり得るか…」と解析が続いてしまうかも。
なんでこんな働きがあるかというと、原始時代の人類を助けるものだったのではないか?と、あのコラムにはあったと思う。草むらや岩の向こうにちらつく「何か」がなんであるか。はやく認識して対応しないと手遅れになる野性の世界を、先祖は生きた。
聴覚的情報も同じく。正体不明の音声に対して、「あの大声は何?」→「肉食の恐竜の声だ。逃げよう!」「食べられる鳥の声だ。捕獲!」「よその群れの人間だ。避難しとこう」「仲間が助けを求めている」…とやってたんですよ、たぶん。私はものすごく寝つきがいい。そして、聞き慣れた騒音なら目は覚めない。でも、雷とか家の外の通りすがりの人の大声とかだと眠りから覚める。毎晩続くと慣れてしまう。この遺伝子は、そうやって21世紀まで続いてきたのだと思っている(ご先祖は、家来に守られたお城の中で暮らせるような大物ではなかったろう)。携帯電話に戻ると。これも、そのコラムの受け売りですが。会話の両方が聞こえれば、脳みその無意識な機能も「会話する声が聞こえる」と一段落して反応が鈍る(深層心理に会話の内容が蓄積されていて、うわごとの内容になる…ということはあるかな?)。
携帯だと会話の一方の言葉しか聞こえないので、脳みその無意識な活動を刺激し続けるのです。聞こえない方の言葉を推理し続けてしまう。例えば。「うん。カレー」→(昼ご飯の献立を尋ねられたのか? 夕飯に食べたいのか? 好物をきかれた? 電話の相手とは知り合って間もない?)…とかやっちゃうのだ。
無意識なので止められず、脳みそが疲れるの。更に。「ひとりごと」への警戒感もある。実際には会話してるんだけど。話し相手がいないのに発言し続ける人の気配というのは、確認しておきたくなる。昔、東京の山手線に乗ると高い確率で、おっかない目付きでひとりごとを言っている人がいた。一人で電車に乗る経験の浅かったまだ十代の私は一瞬硬直。でも、時にはわめきだしたそういう人達が周囲に危害を与えるのを見たことはない(ご家族とかが「これくらいなら一人で電車に乗せても大丈夫」と、ちゃんとみきわめていたのだろう)。ただ、大人になってから、おばさんに目をつけられたことがある。久しぶりに電車でつぶやいている人がいるなあ、と思いつつ。つり革を確保できたので「睡眠時間を補えるわ」と眠ろうとしたら、隣まで動いてこられた。耳を澄ませたら、「なんで眠るの? 疲れてるの? 仕事? そんなはずないわね…若い女なんだからろくに働いちゃいないんだろ…そうか男だ! 捨てられて泣いてるんだろう」というようなことを、こちらを見ながらつぶやいていたのだ。一瞬、「残業続きでろくに眠ってないんです… 泣かされるような男にむしろ会ってみたい!」とすごみたくなったが、面倒なのでそのまま眠りました。優しい人なのだろう、その後はそっとしておいてくれたらしい。残業が続くと、みんなだんだん弱ってきて、職場にひとりごとが増えませんか? 私も周りもそうでした。ひとりごと(「あ、電話するんだったっけ」とか)が止められなくなったら、ケアレスミスをやらかす時期が近いという…。ドミノ倒しにミスしないように、その人の仕事はじっくり確認するように心掛ける。アメリカのあるグループが配布する「癌患者の心得」には、いくつもの禁止項目が載っています。そこには、「ひとりごとをやめよう」というのもある(『癌の患者学』より)。精神的に良くないそうだよ。
電車でひとりごとが聞こえたら内容を確かめて、私に害を及ぼす恐れはあるのか・言っている人の状態は心配ないか、を判別(最近はやってない。携帯の通話内容を盗み聞きするはめになるからだ)。まあ、そういう原始的な人もいると思ってください。そして、いくら便利な世の中になっても、もともと備わっていた身体的能力は大事にしませんか? 下手に順応して脳みその機能を減らす必要はない。天変地異や人災や、いつ何があるかわからないのだから。
どうでしょう? 電車内で携帯で話すのはやめてもらいたいという理由として、通用しますか?もっとも。ゆくゆくは、人の気配に無頓着になる術を身につけた人と気配を感じる能力が退化した人ばかりの世の中になると予想している。生物は環境に順応するものだから。