安倍首相も言っていた、非公開の場での発言を取り上げるのはひどい、というような批判。複数のテレビ番組で知ったことだが、「壁耳」という取材方法は昔からあるもの。それが行われるのを承知している国会議員達が、よく言うものです。
では、話のために仮定する。そういう取材が行われるのを知らない国会議員達がいたとして、そういうメンバーが会合し、あのように立ち聞きされた発言内容が記事になるのはどうか? 記者の仕事として当たり前のことだ、と私は思う。政治家も人間であり悪かったり間違ったりするものだ。なのに権力を持つのだから、そういう取材は必要悪。
最近では後藤氏だが、戦場ジャーナリストも批判する人達がいる。自民党の政治家(高村副総裁など)からネット上の匿名の人まで、さほど珍しくもない。そういう人達にとっては、「本当のこと」なんて価値が低いのかな。「本当のこと」を知ろうとしないという自分の怠慢が、何を招くか。そんなことはどうでもいいのか。
戦場ジャーナリストとして働く人達には、その方面に適性があるのだろう。だから、その仕事を続けられる。本人にとっては損な個性かもしれない。真実を追いたい欲があっても、危険や不便さそして報われなさを思うと、ほとんどの人はやめておく仕事だ。
私達の社会は、そういう珍しい特性を持った人達のその持ち味を活かすことで、視野や知見を広げている(戦場ジャーナリストに限らず、スポーツ選手など、何らかの適性を備えた人がそれを発揮する仕事というのはある。他の生物ならこんなには個性を活かせない。それが人間の社会)。
上に書いてきたような2つのジャーナリズムを批判する人達は、どんな取材を理想とするのだろうか。
政府などが公式に発表した事柄・許可された範囲での取材、それらに自分なりの知識や知性を加味して文章化する? 人や自分が集めた「データ」を使って「客観的」に? 池上彰氏のように、開票速報番組という機会を活かし、政治家を軽く挑発して「本音」を引き出す・・・のが、ジャーナリストの「最大限」?
ネットで検索して右な人達提供の情報をみつけ、それを根拠にツイートする。そんな百田氏が「歴史小説も書く作家」として認識される世の中だからなあ・・・。
新鮮なまがいものよりも古臭い本物の方がずっと良い、私はそう思う。誤解される表現かもしれないが、昔のものは読んでいてなんだかケモノ臭い。描かれた社会や人間の生々しさが伝わってくるからだろう。
人間も動物。昨夜など、大西議員が囲み取材されていてどんどん墓穴を掘っていく映像が流れていたが。あのぎらついた目・無駄な凄み方・支離滅裂な語りって、ほんと、テレビ番組出演者の無味無臭度が高まる中で目立つ。場違いでは?と思いつつ、新鮮ではあった。
あの熱意であの方向に頑張る政治家が、自民党の国会議員には百人単位でいるだろう(「文化芸術懇話会」メンバー数の2,3倍とみる。発足直後は様子見をして、良さげなら加盟する議員がいるはず)。ということは、地方議員や自民党支持者など、日本にはあんな感じの人物が百万か千万単位でいる? 自民党は、そういう人達(全員とは言わない)に何らかの利権や地位を与えているだろう。つまり、大西議員みたいな人達が権力を持って日本中に大勢いる。これは手強い。相手が本気ならこちらも本気でなければ、とてもかなわないだろう。
ジャーナリストなら、それを踏まえて取材してほしい。インターネットを使えば、一般人でさえ自分のメッセージを社会に知らせられる。そこにジャーナリストとして敢えて介入する意義とは、何か。
「本当のこと」は簡単にわかるはずがない。世の中を舐めすぎ。
「本当のこと」を相手は必死に隠す。取材する人も必死にならなきゃ。
エッセイストとジャーナリストは区別すべし。