6月26日の安保法制の委員会審議。
民主党の寺田議員が「文化芸術懇話会」関係の報道を元に安倍首相に質問 → 安倍首相はこの件を未確認と回答 → 直後の昼休みに浜田委員長が「文化芸術懇話会」メンバー(寺田議員によれば「今、後ろにはその日の出席者も座っている」)に確認し昼休み直後に寺田議員に回答する、と決定 → 昼休み後に、浜田委員長が確認できたと回答 → 寺田議員が安倍首相に再度質問 ・・・。
「文化芸術懇話会」の出席者(議員と百田氏)の発言の全文を知ることなしに批判するなかれ、とは思ったが。午後一番に浜田委員長が「午前中にあげられた発言は、本人達が認めた」と確認してくれた項目については公式文書(国会議事録)なので、その範囲で考えた。
と、言うか。そこで確認された部分だけでも充分驚愕する。
政治家が、広告料収入を潰すことでマスコミを統制しよう、と非公開の場で盛り上がる。「言論の自由だ」と。
そういうのは、小学校の教師が非公開の場で児童に対する性的に語り合うのに似たところがある。「性的嗜好の自由だ」と(*・・・この記事の最終段落参照)。
そう思いませんか? そういう政治家も小学校教師も、その仕事に就く資格がない。
24時間従事する職業があるのだ。のんびり旅行中の医師は飛行機内で医療行為を行なうことを、聖職者は常に信仰を守ることを、警官は非番であっても現行犯に立ち向かうことを、要求される。24時間の総てがその職業に関連付けられる。それが嫌ならその仕事を選ばない。本来は、国会議員もそういった職業であるはず。だが、国民の代表なので「その程度の国民」を反映する存在ではある。
だが、政治家として最低限受け入れるべき事項はあるはず。民主主義国の政治家なら、「報道統制は悪」というのはその1つ。なのに、自分には「報道統制の方法を検討する」自由がある、と考える人には、日本という民主主義国で政治家になる資格はないのだ。
私はそう思うので、「文化芸術懇話会」での議員達だけではなく、彼らの発言を批判しない人達に驚愕している。
いや。「やっぱりそういう考えの政治家達が自民党にいる」という意味では驚いていない。いきなりあれが出てきたわけではないから(NHKの人事・「NEWS23」での安倍首相発言・衆院選に際しての自民党からテレビ局への文書・自民党がNHKとテレビ朝日を呼び出したこと・日本の外務省がドイツの新聞社にクレームをつけたこと・NHKの報道が政権寄りになっていること。そして、沖縄へのこれまでの態度の総て。これら一連の事柄と今回のことには一貫性がある)。
驚愕するのは、「やっぱりそういう考えであること」が公式に確認されても気にしない(他の記事に書くが、むしろ公にしたかったのかもしれない。彼らが気にしているのは、「関係各方面に混乱を招きましたこと」「延長国会における各重要法案の審議が、滞りなく行われ」なくなること。長尾たかし議員のツイッターなどが例)本人達と、そういう政治家を批判しない人達の、民主主義国での報道統制への感覚だ。
日本は民主主義国ということになってはいるが。そのための必要条件が共有されていない。だから、今さらこんなことが議論しなければならない。
(*)
日本では年少者との性交渉は法的にも犯罪とされるので、「報道統制をそのような犯罪に例えるな!」という反論があるのかもしれないけど。
年少者を性愛の対象とする性的嗜好は、デンマーク(?)で合法だった。また、アジア某国には、そういう嗜好の外国人が買春しに行っていた(売春している子供が一家の大黒柱として明るく前向きな姿勢でいるあたりまで読んだが、あの本は最後までは読んでいない。少なくとも、20世紀の終盤はそうだった。21世紀ではどうなっているのかは未確認)。
つまり、「犯罪」の範囲は万国共通ではない。一方、報道への政治からの圧力が悪とされるのは、民主主義国では共通の前提。