さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

序卦伝(12)山地剝と地雷復

2024-06-28 | さわやか易・講座

「山火賁」は飾るである。飾るは行き過ぎると中身のないものになってしまう。中身がなく、うわべだけを取りつくすようになっては、もう頼りにならない。

「飾りを致して然る後に亨(とお)れば則ち盡(つ)く、故に之を受くるに剝を以てす。剝とは剝(つ)くるなり。」
人にしても企業にしても、外観ばかりにエネルギーを注ぐようになれば、実力は益々低下してしまう。人はうわべの礼儀だけになり、心の誠実は失われていく。企業も実績を隠し通すようになり、粉飾決算するようになる。それが、「山地剝」である。剝は剝ぎ取られて尽きてしまうこと。剝は剝製の剝であるから、外側だけ立派に見えるが中身はない。
卦の形は、一番上にある陽爻が最後の砦で頑張っている形である。下からの陰の力が強く、ついに陽は追いつめられている。時代の終わりを意味することもある。
 
「物は以て盡(つ)きるに終る可からず。剝すること上に極まれば下に反る、故に之を受くるに復を以てす。」
「山地剝」の次に、「地雷復」が置いてある。季節で言えば、地上の緑が冬の到来とともに完全になくなってしまい、雪と氷で覆われていたところに、ようやく春が近づいて来るのである。時代で言えば、下層の階級が困窮し、次に中層の階級が困窮し、持ちこたえていた上層の階級も終に困窮してしまう。すると、下層の階級から一陽が生ずるのである。「一陽来復」である。
 
政治改革も部分的な腐敗混乱なら上流階級や中流階級で改革が出来るが、天下が剥ぎ尽くされ、極まってしまった時代には上流の階層ではどうにもならない。天下の困窮を救う英雄、豪傑は下層の階級から出現するのである。幕末の萩藩に吉田松陰が出現し、薩摩藩から西郷隆盛が出現したようなものだろう。下層の階級といっても、それは庶民、貧民という意味ではない。

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