西太后(1835~1908)
19世紀半ばまで中国(清国)は世界ナンバー1の大帝国だった。人口4億人を要し3000年の歴史と文化を誇り、世界の中心「中華思想」を堅持していた。それが西洋からやってきたイギリス人のためにあれよあれよという間に侵略されるに至り気がつけば半植民地にまで落ちぶれ果てた。
清国には何の非もないのに戦争を仕掛けられた。アヘンの密輸入を禁止したことによりアヘン戦争、その後、アロー号戦争、艦隊による大砲を放たれたのでは抵抗出来ない。その度に港を開放させられ、領土を奪われ、賠償金を払わされた。清国も太平天国の乱を鎮めた曾国藩の提唱で西洋の技術を取り入れ近代的な軍隊、最新鋭の軍艦を備えた。「洋務運動」である。
李鴻章(1823~1901)
洋務運動を引き継いだ李鴻章の軍隊だったが予想に反して、1895年の日清戦争に敗北してしまう。敗因は1、李鴻章が権力基盤を守るため私軍である軍隊を温存させたこと。1、宮廷の実権を握る西太后が自分の還暦記念として「頤和園」を改築工事するため戦費を流用した。1、予想を大きく超えて日本軍が強かったためと言われる。
その後、日本の明治維新に学んだ若手官僚グループは光緒帝と結んで、立憲君主制を目指し1898年、国政の改革を図った。ところが、この「戊戌(ぼじゅつ)変法」はわずか100日で光緒帝の伯母・西太后により潰されてしまう。首謀者の康有為らは日本に亡命、他の改革派たちは処刑された。光緒帝は西太后により幽閉させられた。光緒帝を裏切り西太后についたのは袁世凱である。
義和団事件 1900年
日清戦争の敗北は予想外だったが、その結果も予想外の大打撃だった。日本への2億両という膨大な賠償金支払いに困った。そこで列強から借款を求めたが、代わりに鉄道敷設権、鉱山採掘権とともにロシアは旅順、大連、イギリスは威海衛、九龍半島、フランスは膠州湾、ドイツは山東半島を租借した。(租借は獲得されるに等しい。)
列強による鉄道の建設は農民の田畑や墓地を壊し、飛脚、車引き、船頭から仕事を奪う。機械製綿糸・綿布は布地の手工業者を圧迫し、茶、絹の生産者は外国商人に買いたたかれ収入は激減した。窮乏化した民衆の怒りはキリスト教会に向けられた。
そこに山東省から始まる義和拳という武術を習う集団が中心となり「扶清滅洋、除教安民」をスローガンに鉄道の破壊運動が起った。さらに発展し天津、北京などの大都市では外国商社、銀行、公使館を襲った。義和団の勢力は北京だけで20万人に及ぶ大集団になる。かねてより外国勢力を排除したかった政府の排外主戦派官僚たちはこの盛り上がりに同調する。西太后の同意を取り付け列国に対し、宣戦布告をしてしまった。
イギリス軍による寺院焼き討ち 1900年
これに対して日、露、英、米、仏、独、伊、墺の八か国は共同出兵し、2万の兵を送り込んだ。(日本軍8000人) 連合軍は圧倒的戦力で進軍、天津、北京を取り囲んだ。いくら勇敢な義和団も近代兵器には敵わない。 連合軍は紫禁城に籠城した清朝軍を攻撃した。王侯貴族の邸宅や寺院、頤和園は略奪、放火、破壊が行われ秘宝や文化財などが戦利品として奪われた。
西太后は北京陥落前に庶民に扮して脱出し、西安に逃れている。幽閉中の光緒帝を同行させているが、自分の居ない間に皇帝親政が復活することを恐れたためという。宮城を去る際には光緒帝の愛妃・珍妃を宦官に命じて井戸に落とし殺害させている。後々第2の西太后になることを危惧したためと言われる。珍妃の遺体を引き揚げたのは日本軍だった。
柴五郎(1860~1945)
この戦争で窮地に立たされたのは紫禁城東南にあった公使館区域にいた外国人925人とそこに逃げ込んだ中国人クリスチャン3000人の老若男女だった。突然退去命令が伝えられたがその直後に戦闘が開始された。籠城を余儀なくされた外国人の中には著名な学者や文化人もいた。各国公使館の護衛兵は481人に過ぎなかったが協力して守らなければいけない。
この籠城戦の成功に導いたのが実質的に指揮をとったのが砲兵中佐・公使館武官の柴五郎である。柴は英語、フランス語、中国語に精通し、意思疎通が難しい寄り合い所帯の中で各国武官の間に立って相互理解の役割を果たした。柴の指示で中国人クリスチャンたちもよく協力し見張り、消火活動、負傷者の救護などの仕事を手伝った。騒ぎを起こせば清朝軍に虐殺される危険もある中で最小限の犠牲者に留めて2か月間の籠城に耐えた。柴五郎の際立った活躍はイギリス本土にも伝わり日本軍への信頼を高め、2年後の「日英同盟」にも繋がったと言われる。
清国の敗北後、又しても李鴻章が和議の交渉に臨む。敗戦国は列強のいいなりになるしかなく、厳しい条件が示された。もっとも過酷だったのは賠償金の額だった。清国の年の歳入の5倍を超える4億5千万両。利息を含め9億8千万両を40年間で返済せねばならない。全て清国国民の負担となった。
義和団事件は国民世論を大きく変えた。北京陥落後にあっさりと義和団を切り捨てた清朝と西太后には失望した。「扶清滅洋」は「掃清滅洋」となり清朝に愛想をつかす風潮が広がった。一方で西太后は70歳近い年齢ながら英語を習い始めるなど西洋文明に近付き、以前に潰した戊戌変法に方向転換した。列強との条約締結後に死亡した李鴻章に代わって軍を掌握したのは袁世凱だった。
八か国連合軍の一年にわたる北京占領は略奪により国宝級の文物が国外に流失した。門外不出だった美術品、経典、図書集成、質量ともに巨大な財物があり、無残にも破壊されたものも限りなくあった。皮肉にも奥深い中国文化の伝統と価値を世界に広めることにはなったが、貴重な歴史的文化財への無理解を反省する機会にもなった。
義和団事件の結果、列強各国は清国の占領地支配の困難さを知らされることになり、以後は領土的野心を反省し自粛するようになった。一方でロシアは事件解決後も満州に居座り、不凍港建設に向け着々と旅順へ進出しつつあった。危惧を共通したのは日本とイギリスだった。両国は1902年、「日英同盟」を締結するに至る。
~~さわやか易の見方~~
*** *** 上卦は水
******** 困難、悩み
*** ***
*** *** 下卦は雷
*** *** 活動、志
********
「水雷屯」の卦。屯(ちゅん)は行き悩み、産みの苦しみ。草木の芽が堅い地面を突き破ることが出来ずに苦労している状態である。混乱と暗黒の中から新しい国つくりを始めようとするがそれは容易ではない。しかしこんな困難の中に国家経綸の大志を抱く志士が生まれてくるものでもある。
アヘン戦争、アロー号戦争、日清戦争と負けてしまったが、それまでの戦争は清国国民には受け身の立場だった。義和団の乱は始めて国民が外国人に「出て行け!」と意思を示したものだ。その上、清朝政府に対しても始めて改革を迫ることになった。中華思想の大帝国は昔の夢だと知らされた。夢から覚めてここから苦難の創業が始まった「ターニングポイント」と言えるのではないだろうか。
日本は義和団事件では「帝国主義の憲兵」の役を見事に果たした。列強にとっては誠に都合の良い、渡りに船の憲兵役を演じてくれた。まるで東洋の裏切り者のようだが、日本には列強との不平等条約改正という命題があったからだ。お陰でイギリスの信用を勝ち取り同盟も結んだ。お陰で日露戦争にも勝ち帝国の一員にもなれた。しかし40年後には米英にこっぴどくぶっ叩かれることにもなった。調子に乗ってしまったのか、今から思えば利用されただけじゃないか。世界は怖い、世界は甘くない。
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