さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

文王の生きた時代

2024-05-23 | さわやか易・講座

六十四卦の易を作った文王はどんな時代に生きた人だったろうか。「文王」というのは死後に付けられたおくり名であり、性は姫(き)、名は昌(しょう)である。在世時の爵位から「西伯昌」とも呼ばれています。時代は殷の末期に当たるが、特筆すべきことは、その最後の殷王が暴君の代名詞として知られる紂王(ちゅうおう)だったことである。

 

紂王(~BC1046)

ある時、姫昌と同じ地位にあった者たちが、紂王の不興を買って獄刑に処される。「あぁ、なんということだ。」と嘆息したことが、讒言にあい姫昌も牢獄に幽閉されてしまう。幽閉中に一説によれば、人質だった長男の伯邑考が煮殺され、その死肉を入れたスープを食事に出されたという。優秀な側近たちが、財宝と領地を献上することによって姫昌は何とか釈放されました。

紂王は美貌に恵まれ、弁舌に優れ、力は猛獣を殺すほど強かったという。誰も諫言出来ず、暴君ぶりはエスカレート、愛妾の妲己と共に毎夜酒池肉林の乱交にふけったとされる。とくに炮烙(ほうらく)の刑(燃え盛る火に油を塗った銅版を渡し、そこを囚人に歩かせる)で囚人が落ちて焼け死んでいくのを楽しんだという。

紂王には賢人と言われた比干(ひかん)と箕子(きし)の二人の叔父がいた。紂王の狂気を諫言しようとした比干は胸を切り裂かれ、心臓を抉り出されて死んだ。箕子は諫言したが無駄だったため謀殺を逃れるため、狂人の振りをし奴隷になって生き延びたという。(後に、武王により朝鮮の王に報じられている)

その後、諸侯たちは姫昌を頼りに決起を促すが、姫昌は最後まで紂王の臣下として隠忍自重を貫いた。姫昌が亡くなった後で息子の武王が姫昌の位牌を掲げて戦争を起こし紂王の軍を破った。周の時代を開いたのである。

姫昌の生きた時代は暗黒時代と言えるだろう。易には暗黒時代を現す六十四卦に「地火明夷(ちかめいい)」がある。卦の言葉に「貞に利し」がよく使われるが、ここでは「艱貞に利し」となっている。意味は艱難に処しても正しい態度でいなさいということである。紂王の叔父箕子はこの卦の中で唯一実名で登場している。

文王はこんな時代に易を作ったのである。易には軽挙妄動を戒め、落ち着いた行動を勧める言葉が多くあるが、こんな背景があるからだろう。易が出来た時代を知ることも易の勉強である。

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