(工事中)
鑑定の仕事はまさに真相解明で、単純に言えば人格を明らかにする。凶悪な行為をしたから凶悪な人格であろうという推定を、裁判体というのはよくやっちゃう危険性があるんです。そうじゃなくて、やっぱり市井の一人一人の人格を形成しながら、成育歴、家族歴、社会関係がずっと進行してきて、ある時点から、「点」である犯罪事実行為に至る「面」の心理・社会的な背景があって、そこで共犯関係があって、事件に流れていって、結果的には凶悪とラベリングされる行為に着地するんですけれども、そのプロセスやその生きざまということを考えた場合に、それは凶悪とは全く無縁なんですね。むしろそこへ行かざるを得ない必然性と偶然性とがないまぜになりながら、いくつかのストーリーが織り交ざりながら着地するんです。ストレートに凶悪いう着地に、凶悪な人格が計画的にそこに向かって、誰も許せないような突進をするという構図は100パーセントありませんから。
ですから、ストーリーはいくつかあるという話を、私はいつもするんです。要するにそこに至るためには、明確な動機があって、計画があって、そこに行きつくということは、未熟な犯罪の場合ほとんどありえない。逡巡しながら、行きつ戻りつしながら、犯罪へ向う途中であっても、その犯罪を合理的に成立させるような動きはしていないですね。それを阻害させるような動きをしたりします。だから、目的に向ってというよりは、一緒にいる人たちに鞘当て、強気になったり虚勢を張ったりというようなことも含めながら、全体としてそこに至ってしまう不幸があるけれども、一人一人にとってみれば、そこで自分がやった役割について、自分でどうしてそうなったかきちっと言い切れないような、あるいははっきり一つの言葉で語れないようなことが存在するということなんですね。
「主犯格とされる」とは、よく言われるんですが、これもパラドキシカルに言えば、主犯というリーダーが存在すれば、統制が取れて凶悪な犯罪が成立しない可能性も高いのです。未成年の犯罪の場合はとくに、それほど計画的、合理的に進むということはないですね。
だから木曽川・長良川の事件でいえば、主犯とみられたKM君が、組の序列からいうと、KA君の下にいるということの矛盾の中での動きが促進されてるわけですね。要するに自分の位置をめぐって、序列の混乱がそのまま行為の混乱になっているんですね。だから、2番目の殺害で言えば、被害者はKM君の昔からの友達ですよね。むしろ自分の兄貴分のような者を殺しちゃってるわけです。シンナーを吸って、ラリってる状況で、要するに自分がバカにされないように、大坂へ行ってバン張って、俺はすごいぞと言ってるのに、昔いた奴にバカにされるのは嫌だっていうことで、もともとのきっかけはその反発を抑えつけようとしただけの話なんですね。ところが、それがお互いの鞘当ての中で収拾がつかなくなって、内心からいうと、逃がそうという気持ちが働いているわけですけれども、自分から言い出せない。きっかけが作れないから、結局、自分が譲れない。譲れない間に、もう手の届かないところへ行ってしまって、暴力がエスカレートして、もう引き返せないと。それでも完全にとどめを刺して殺すというよりは、助かってほしいなぁという気持ちもある。言葉だけで見ると、埋めるとか、流すとか、橋から落とすとか、すごい言葉が出てきますけれども、それは要するに虚勢言語であって、実態からするととことん証拠を湮滅したり、徹底的に殺してというような、いわゆる残虐性というのはないですよね。むしろ生きてくれたらいいな、と。だから一審のときには、そこだけは傷害致死に落ちたのはそういう理由だし、他の場合でも、やっぱり時系列の多少の誤差であって、完全に殺害計画を持ったりとか悪意を持って捨てにいくという形では展開していません。