コロナ禍に考える ペスト、コレラ、スペイン風邪・・・人類はどう感染症の流行と向き合ってきたか 史上最悪のパンデミックだったスペイン風邪の大流行

2020-04-29 | 社会

  2020/04/05 09:00 

 ペスト、コレラ、スペイン風邪・・・人類はどう感染症の流行と向き合ってきたか

 米ジョンズ・ホプキンス大学システム科学工学センターが4月1日に公表した集計によると、新型コロナウイルスによる全世界の死者数は4万2000人を超え、3月31日時点での全世界の感染者数は約85万人となった。
 人類と感染症との戦いは今に始まったことではない。感染症がどのように発生し、収束したのかをまとめた。
 感染症流行による人々の混乱の様相は、昔も今も大差がないようだ。また、感染症の流行は人類の歴史を形作る上での大きな要素にもなってきた。これまでの4つの主要な感染症流行を振り返り、今一度、現在私たちが直面している新型コロナウイルスの蔓延について考えてみたい。

天然痘は1980年にWHOが根絶宣言
 天然痘の起源は現在でも研究が継続されていて定説がないのだが、米国の学術誌「カレント・バイオロジー」に発表された論文では、16世紀末から発生したウイルスなのではないかと言われている。天然痘を引き起こす痘瘡ウイルスは高い致死率と感染性をもち、飛沫感染もさることながら接触感染の威力が凄まじい。感染によってできる発疹が触れた衣類や寝具なども感染源となるのだ。
 天然痘は、人類史上初めて根絶に成功した感染症だ。1977年に最後の患者がソマリアで発生して以来感染は認められず、WHOは1980年に天然痘の世界根絶宣言を行っている。近代免疫学の父とも呼ばれるエドワード・ジェンナーが1796年に種痘と呼ばれる天然痘の予防接種を考案し、その普及により徐々に収まっていった。
 江戸時代の日本でも感染は甚大で、症状の治癒後も発疹の痕が残るため「痘瘡は見目(みめ)定めの病」と言われた。発疹の痕を隠すために化粧を念入りに施す女性が多くなったという説もある。

ペスト流行の歴史の光と影
 アルベール・カミュの小説「ペスト」が、ネズミが大量に死んでいる様子から始まるように、ペストは主にウイルスに感染したネズミなどげっ歯類の動物と、媒介するノミが原因となって引き起こされる感染症だ。パンデミック(世界的大流行)となった中世のペストは、クマネズミによってもたらされたものであったという。
 ある種のノミは好んでネズミなどに寄生するのだが、そのネズミがペストに感染しているとノミがペストウイルスを吸い込み、ヒトに飛び移った際にヒトへも菌が移され、感染症が引き起こされるというわけだ。
 14世紀には欧州の人口の三分の一がペストにより命を落としたとも言われており、人々は病を「黒死病」と呼び恐れていた。黒死病の蔓延は社会情勢にも多大な影響を及ぼした。農奴解放が促進されるなど旧体制打破への一歩となった反面、ユダヤ人が宗教的陰謀のため病原菌を撒いたと噂され、各地でユダヤ人虐殺事件が起きたりもした。
 感染が確認された場合、抗菌薬の投与によって治療が行われる。1894年には北里柴三郎によりペスト菌が発見され、有効な治療法が確立されてはいる。しかし現在でもペストに感染するリスクはあり、2017年にはマダガスカルでの感染流行が確認されている。

戦死者より多い死者を出したスペイン風邪
 1918年に流行が始まり、1920年に収束したスペイン風邪はインフルエンザの一種だ。インフルエンザウイルスは人間が免疫をもっていない形態にすばやく変身する。そのため約30年に一度のペースで誰も免疫をもっていないウイルス形態が発生し、大流行が起こるのだ。
 当時は第一次世界大戦の真っ只中。各国の人々が入り混じる戦時下で、感染は瞬く間に世界中に広がった。大戦での戦死者が1500万人なのに対し、スペイン風邪による死者は2000万人以上にのぼったとも言われている。
 スペイン風邪の収束には徹底した対策の義務付けが功を奏した。特に米ミズーリ州セントルイス市の対策は、新型コロナウイルスの対策を講じる上でも学ぶべき点が多いと注目が集まっている。学校閉鎖など人が密集する場を設けることを禁じ、患者には隔離措置を施した。その結果、感染率は30〜50%低下し、1週間の人口10万人あたりの死亡者数も最小だった。
 しかし死亡率の低下を受けて集会などの制限を解除した途端に、新たな集団感染が始まったことも特筆すべきだろう。対策は徹底的に、継続しなくては意味がない。

「意識」が局面を決定づける時代か
 どの感染症も感染の原因や有効な対処法が見つかるまでにかなりの時間を有することが分かる。ペストに関しては約500年もの間、原因が分からなかった。しかし現在では、医療や科学の発達により感染経路の特定や予防策の提案がされるまでのスパンが短くなっている。
 一方で、これまでも完全に駆逐されたウイルスはほとんどないことから、21世紀現在でも人類は常に感染症と隣り合わせで生きていることがわかる。新型コロナウイルスが「第二次世界大戦以来最大の試練」として認識されるようになったのは、爆発的な感染スピードと世界中でほぼ同時に感染が拡大したことが要因だろう。
 実態の分からない新型のウイルスであることや、感染拡大のスピードに追いつけずにいることなど、混乱をきたす要素が多いことは事実だ。しかし、いま一度冷静になり、過去の感染症を振り返れば学べることも多い。医療や科学が発達し、さまざまな予防の術が提示されている現代においては、我々の感染症への「意識」こそが、感染拡大を防ぐために重要な鍵となるだろう。
 
 ◎上記事は[Forbes JAPAN]からの転載・引用です


史上最悪のパンデミックだったスペイン風邪の大流行

【連載】ビジネスに効く! 世界史最前線(第44回)

2020.4.25(土) 玉木 俊明

 第一次世界大戦のさなかの1918年、世界中を強烈な疫病が席巻しました。いわゆる「スペイン風邪」です。
 スペイン風邪はインフルエンザの一種なのですが、1918年に初めて感染が確認され、それから約2年間のうちに、世界で5億人が感染したとされています。当時の世界の人口は約20~30億人と推計されているので(15億人という説もあります)、世界の約4分の1から6分の1の人々が感染したことになります。そしてスペイン風邪が原因で亡くなった方は、2000万~5000万人にのぼったとされます。
 まさに史上最悪のパンデミックでした。
 その伝染スピードは、前回この連載で紹介した黒死病(ペスト)よりもずっと速く(ただし、新型コロナウイルスと比較するとはるかに遅いですが)、疫病の伝播とグローバリゼーションの間に密接な関係があったことがわかります。
 当時、スペイン風邪に効く特効薬はありませんでした。そのため感染防止が最大の対策となり、人々はマスクをし、学校、劇場、企業までもが閉鎖されることになりました。
 その対策法は現在とほとんど変わりません。感染力が強いウイルスに対抗するためには、それ以外の対応策がないのかもしれません。
 前述のようにスペイン風邪はインフルエンザの一種で、医学的にはH1N1に分類されます。これは、2009年に世界的に大流行したインフルエンザA型と同じです。
 インフルエンザウイルスは、呼吸器を攻撃します。そのため感染した人が咳やくしゃみをすると呼吸器病原体が飛沫となって空気中に拡散し、周囲の人に感染するのです。
 またウイルスが付着したものに触ると、そこからウイルスが手先に付着することになります。その手で口や鼻などの周囲を触ったりすると、そこからウイルスを体内に取り込んでしまいます。そうした感染の仕方は、今回のコロナと全く同じです。

判明していないスペイン風邪の発生源
 スペイン風邪の発生源は確定していません。ただ、大きな流行はまず1918年3月にアメリカではじまり、同年の夏まで続いたとされます。これがアメリカにおける流行の第一波でした。
 第一次世界大戦は、1918年11月18日に終わります。開戦当初は中立の立場にあったアメリカも、ドイツが無制限潜水艦戦を開始すると、1917年4月にドイツに宣戦、連合国軍に加わりました。こうして、アメリカ本土は戦場になりませんでしたが、多くの兵士がヨーロッパに派遣されたのです。スペイン風邪が流行し出したのはまさにこの頃でした。アメリカ国民の目は、この第一次世界大戦の戦況に向けられており、当初、新しいインフルエンザに対してさほど関心が払われなかったのかも知れません。感染は一気に広がっていきました。
 この時には、ニューヨーク市の健康管理センター長が、企業に対し、時間差勤務をして、超満員の地下鉄を避けるよう命じています。現在と同じような防止策が、当時すでに知られていたことに注目すべきでしょう。

アメリカを飲み込んだ大流行
 インフルエンザとは、一般に冬に流行します。スペイン風邪が最初に流行したアメリカでは、インフルエンザのシーズンは、それは秋の終わりから春にかけてです。
 通常であれば、インフルエンザは、子ども、65歳以上の高齢者、妊娠している女性、基礎疾患(例えば、糖尿病や心臓病、喘息など)がある人などの死亡率が高くなります。
 ところが1918年のスペイン風邪は、感染力が非常に強く、アメリカでは若い人たちから老人に至るまで感染率、死亡率ともに高かったようです。特に注目すべきは、18~40歳くらいの働き盛りの人たちの死亡率が高かったことです。スペイン風邪と他のインフルエンザの根本的な違いでした。
 ある資料によれば、1918年にアメリカでインフルエンザによって亡くなった27万2500人の男性のほぼ半数、49%ほどが20~39歳だったと言います。一方で5~13歳は18%、50歳以上の人々は13%だったそうです。
 つまり生産年齢人口に属する男性が最大の犠牲者でした。このことが、経済に大きな打撃となりました。

第一波より第二波
 そもそも1918年春に起こった流行の第一波は、さほど感染力が強いものではありませんでした。病気になった人たちは、寒気、発熱、倦怠感などの典型的なインフルエンザの症状が現れたに過ぎませんでした。そのため死者の数は少なく、まだ危機的状況にはなっていません。ただ、この時、アメリカからヨーロッパに感染が広がっています。おそらくヨーロッパに派遣された兵士たちとともにウイルスも大西洋を渡ったものと思われます。
 アメリカが、より強力な、かなり感染力の高い第二波に襲われたのは、その年の秋、ちょうど第一次世界大戦の終結前後のことでした。このときは病原性が高まっていたようで、多くの患者が重症化しています。さらに、1919年には第三波が起こりました。
 重篤な患者は、症状が出てから数時間以内、あるいは数日以内で死亡したといいます。それほど強い感染力を持ち、重い症状を引き起こすウイルスだったのです。
 身体は青みがかり、肺には水分がたまり、窒息死しました。病人が急増したアメリカでは、第一次世界大戦で負傷した兵士のために働かなければならない医師が多くなっていたため、スペイン風邪を治療する医師が不足し、十分な医療を提供することが困難な状況になっていました。そのことがさらに死者数を増加させることとなったのです。1918年のアメリカの平均寿命は、なんと前年よりも12年も縮まりました。
 ちなみに、このインフルエンザが「スペイン風邪」と呼ばれるようになったのは、スペインから発生したためではありません。第一次大戦当時に中立国であったスペインは、非常に多くの感染者が出て、その被害を報道しました。一方、他の欧米諸国は、戦争中で報道管制を敷いていたので感染被害を報じませんでした。そのため、スペインの被害だけがクローズアップされ、ついには「スペイン風邪」の名まで冠せられてしまったのです。
 1919年になると、世界の多くの地域でスペイン風邪が蔓延するようになります。アメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンも、スペイン風邪に感染しました。ちょうどこの時は、第一次世界大戦を終わらせたヴェルサイユ条約の交渉中でした。平和主義者のウィルソンは、敗戦国のドイツに多額の賠償金を追わせることに反対していました。
 ところが結局は、イギリスやフランスの主張に引っ張られ、ドイツに巨額の賠償金を課すことになってしまいました。その背景には、ウィルソンが病気のため、各国を十分に説得できなかったためとも言われています。その重い賠償金の苦しさから「ヴェルサイユ体制打破」を訴えたヒトラーがドイツに生まれてしまうのですから、第二次世界大戦はスペイン風邪が生んだ、とも言えるのかもしれません。

若者に多かった犠牲者
 スペイン風邪によって若い男性が多く亡くなったと述べましたが、それは世界経済にとっても大打撃となりました。働き手がいなくなってしまったからです。大戦で多数の若者が戦死しただけでなく、スペイン風邪によってもまた多くの若い命が失われたのです。
 第一次世界大戦によって世界各国で都市や生産設備が破壊される被害が生じていましたが、そうしたマイナスに加え、スペイン風邪による人的被害が世界を苦しめました。
 疫病は単に健康面だけではなく、経済の面でも、戦争以上にもわれわれを苦しめる存在なのです。

 ◎上記事は[JBpress]からの転載・引用です


社説  2020年4月28日 中日新聞

ガラパゴス化の岐路か コロナ禍に考える

 十六世紀、スペイン人司教が発見した南米の孤島ガラパゴスでは独特の生態系が営まれています。バブル崩壊後、内需を意識して独自商品を生み続けた日本経済はこの島にちなんで「ガラパゴス化した」と揶揄(やゆ)されました。
 日銀が前代未聞の政策を打ち出しました。上限なく国債を買い入れて資金を流しコロナ禍に苦しむ経済を救おうというのです。
 これだけ異例の措置に踏み切る場合、米欧の中央銀行と緊密に連携するのが常識です。しかし、その気配は感じません。経済の国際協調は崩れ世界はガラパゴス色を強めていくのでしょうか。

グローバル化の加速
 ウィーンの名物カフェ「モーツァルト」はペスト記念碑から歩いて十数分の場所にあります。二十年前ウィーンフィルの元バイオリン奏者、ハンス・ノバク氏は店内で大指揮者カラヤンについて「偉大だが意地悪だった。ギリシャ系でオーストリアの血は入っていないはずだ」と語りました。
 旧ハプスブルク家が支配した領土の出身者以外同フィルに入団できない。ノバク氏もウィーンの人であり、私自身この説を信じ込んでいました。
 しかし調べてみると現実は違った。オーストラリア、カナダ、デンマーク…。団員は各国から集まっていました。名声はグローバルな血で支えられていたのです。同フィルと名演を繰り広げたカラヤンもその一員といえるかもしれません。
 グローバリズムの歴史は古い。ただその間、分野ごとで波の大小に違いがありました。
 一九八〇年前後を境にグローバルの大波が経済の分野に向かいました。英国のサッチャー首相が伝統の殻を破り外国資本を受け入れました。呼応するように世界の大企業が国外進出を加速させた。

見えない敵による侵食
 次の主役は金融資本でした。巨額マネーが渦を巻きIMF(国際通貨基金)危機のように国家まで財政破綻の淵に追い込みました。リーマン・ショックで危機が収まると巨大IT企業の時代に移りました。だが-。
 ウイルスという見えない敵がグローバル経済を侵食し始めています。国境を越えた人やモノの往来はウイルスの感染防止にはリスクでしかありません。
 当面、先進国の経営者たちは海外進出に二の足を踏み、国外拠点を自国に戻す動きを強めるでしょう。商品は普遍性を失い、独特な個性を持つガラパゴス風なものに変容する可能性があります。
 アジア太平洋経済協力会議(APEC)といった国際協力の枠組みもいったん低調になる。外国との経済関係を最小限にとどめた巣ごもり型経済が一定期間主流になっていくのは確実に思えます。
 ただ中国という変数もあります。「一帯一路」と名付けた国際進出への意欲は衰えていません。
 セルビアのブチッチ大統領は「欧州の連帯はおとぎ話だった。助けてくれるのは中国だけだ」と言い切っています。中国依存を強める国は確実に増えています。
 中国への敵意も勢いを増しています。十五世紀前半ペスト禍が収まったウィーンでユダヤ人差別が起きました。不安が人種差別を引き起こしたのです。この二の舞いは避けなければなりません。
 巨大IT企業の動きも留意すべきでしょう。人工知能(AI)を駆使し、人との接触が必要ないサービスを生み出す可能性があります。それは利便性の向上に役立つかもしれない。しかし彼らが膨大な個人情報を集積している以上、制御は絶対に必要です。
 厚生労働省によると、国内の感染症病床は一九九五年の九千九百七十四床から一昨年には千八百八十二床に減少。グローバル化の中で利潤が優先され、もうけにならない万が一の準備を避ける傾向が医療にも影響を与えたとの推論は成り立つ。そうなら今回の試練は必要だったものを取り返す契機とすべきではないでしょうか。
 今後、米国の資本力は弱まり、一層内向きになるでしょう。中国は世界の工場だった時代を終え、米国に代わる存在として野心を強めるはずです。欧州では欧州連合(EU)への信頼が薄れ、ギルドのように排他的な商工組合型経済域が生まれるかもしれません。

次の選択が未来決める
 日本経済も岐路に立たされます。貿易を抑制し自立経済を目指せとの声は出るでしょう。
 ただ医療を中心に世界が手を取り合っているのは事実です。各国との協力関係の上に日本経済が成長してきたことも間違いない。
 内向きになる中、まずは失ったものを取り返し、その先に国際協調を蘇(よみがえ)らせる必要がある。そのための政治体制をどう築くのか。次の選択こそがこの国の未来を決めるのだと肝に銘じています。

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です


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