東京府中市の税理士 金成祐行の日々の気付き

税理士法人の経営、強度行動障害の自閉症の息子との生活、悪戦苦闘の毎日で、日々気づいたことを書いていきたいと思います。

今日で東日本大震災まる2年

2013-03-11 13:45:00 | ノンジャンル
今日は震災後まる2年の祈りの日です。

お亡くなりになられた方、被害に遭われた方に、
ご冥福と、お見舞いを申し上げます。


震災当時の自分のこのブログを読み返すと、
当時の気持ちがありありとよみがえってきます。


私は、確定申告の押印を頂きに伺った、文京区白山のお客様のところにいました。
お客様が税務代理権限証書に、名字を書いたところで地震が来ました。

体験したことの無い大きな揺れに、お客様もびっくりされ、
私は、何故かお客様宅の「絵」を、落ちないように一生懸命に押さえていました。

揺れが収まって、テレビを見ていると、あの津波の映像です。


宮城、岩手・・・・そして、故郷のいわき市小名浜の映像。
車が、見慣れた風景が、海にのまれていく。


ふと、いわきにいる母を思い出し、電話をしても全く通じない。
心配したお客様が、固定電話を貸してくださいましたが、全く通じない。

いわきの実家は海や川からから数百メートルですので、
これは今生の別れか・・・・と思いました。



府中の家に戻れば何か連絡が来ているのでは、と思い、
白山のお客様宅を後にしました。

奥様が、帰れなかったら戻ってきて下さいね。と声をかけてくださり、
ありがたかったです。(写真は今年の白山)




白山から後楽園球場の横を通る頃、歩道は人で溢れていました。
とにかく、前に進むのに時間がかかる。

ああ、これが「有事」なんだなぁ・・・、と思ったことを覚えています。



何とか、裏の道を通りながら新宿に着きました。


腹ごしらえをしなければ、府中まで歩けない、と思った私は、
思い切って「松屋」に飛び込み牛丼を食べました。

時間が早かったので、松屋は不気味なくらい空いていて、
ラジオを聴きながら、とにかく胃袋に食べ物を入れ、
自販機で飲み物を買って、府中に向けて出発しました。


明大前くらいまでは人で一杯。
それ以降は、自分の足との戦い。


月がきれいで、歩きながら、母は大丈夫だろうか・・・
そんなことばかり考えていました。


途中途中で、何軒かの居酒屋さんとか、飲食店が
無料で味噌汁を振る舞っていたり、おにぎりを渡していたり、
日本人って凄いと思いながら、何とか府中の自宅にたどり着きました。



母からの連絡は取れていなかったのですが、
しばらくすると「無事」とのメールが届き、ほっとしました・・・・



それからでした。

原発の事故を、1号機、3号機とも、
生放送で目撃してしまって、これでいわきも終わりか・・・
故郷も、植田タクシーもすべて終わりか・・・
と愕然としました。
地震や津波では気丈だったうちの母も、
原発事故の時は、本当に気弱な声をだしていました。


うちの母はそれでも、地元の公共交通機関の一つとして、
LPGガスの続く限り、お客様を各地に送り届け、
最後に残ったガスで、自社の営業車に乗って東京に避難してきました。

本当に頑張り屋の母には脱帽です。




あれから、2年か・・・・
当時のことを思い出しながら、当時はやった歌などを聴くと、
また涙がにじんでしまいます。



もう、こんな災害が起こりませんように。

もうすぐ14時46分。
祈りを捧げたいと思います。



これは、震災の年、母校の磐城高等学校吹奏楽部が、
いつもの得意の現代曲を吹かず、あえて、「祈り」の曲として選び、
全国大会で演奏したトッカータとフーガです。

[[youtube:p-fh5lvHdwE]]

是非、お聞き下さい。









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台湾を愛した日本人~土木技師八田與一の生涯

2013-03-07 13:56:00 | 
「台湾を愛した日本人~土木技師 八田與一 の生涯」を読みましたmeromero2



こんな凄い人が、あまり名も知られずにいた不思議さを感じました。
八田さんは、台湾の方々に愛され、
その銅像は、台湾の人たちに今なお大切に守られているそうです。

八田さんは、ダムや灌漑施設などを造る土木技師で、
そのスケールは桁違い。
ただ、それを使う農民達のことを第一に考えて、土木工事を行い、
不毛の大地を、台湾最大の穀倉地帯に変えました。

リーダーとしても、本当に凄い・・・・



私が深く感銘したのは、事業継続の危機の際、
リストラをせざるを得なかったとき、なんと優秀な部下から辞めてもらったというエピソード。



理由について八田さんはこう語っています。



「私もいろいろ考えた。確かに、力のある者を残しておきたい。しかし、能力のある者は、
他でもすぐ雇ってもらえるだろうが、そうでない者が再就職するのは中々難しい。
今、これらの者の首を切れば家族共々路頭に迷うことになる。だからあえて、
惜しいと思われる者に辞めてもらうことした。その穴埋めは、君たちが残った者を教育し、
補ってくれ。辞めさせる以上、辞めていく者の就職口は、必ず私が見つけてくる。」
(153ページ~154ページ)



このように考える経営者は、現代にはいるのでしょうか・・・・



本当の部下思いのリーダーというのは、こういう人をいうのだ・・・
と本当に勉強になりました。


こんな凄い人が日本にいた。
そのことを、多くの方々に知ってもらいたい、
特に若い方々に読んでもらいたい。

そう思いました。

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不登校を乗り越えた娘へ~今日は、卒業式でした

2013-03-02 13:52:00 | ノンジャンル
4年間、不登校に苦しんだ娘が高校を卒業できました!niko
本日、卒業式に行ってまいりました。

本当に、感無量でした。




「不登校」に縁が無い方には分らないのではと思いますが・・・

勤勉さや根性や友情ではどうにも解決できない、体の病気と同じ、一つの病気なのです

娘は、学校は大好きで、行きたくて行きたくて、靴を履いて玄関を出よう
とすると、
心に巨大な不安が襲ってきて行けなくなるそうです。

いろいろな診療所にも行きました。

しかし、もう治らない、というようなことも言われたこともあり、
親子共、落胆したこともありました。


 
娘が不登校になったのは中学3年の時。
それから毎年毎年、出席日数との戦い。

今年も、二学期のはじめの段階で欠席可能日数は一桁。
11月になると、1日も休めない状況で、
午後から、大幅に遅刻しながら、這って学校に行く、そんな状況でした。


希望に満ちて入学した、楽ししい高校時代のはずが、
苦難の連続の高校時代になってしまいま
したが、
毎年、徳俵に追い詰められてからの粘り腰。
「不撓不屈」の精神力は、我が娘ながら、本当に凄いと思いました。


高校を卒業するだけで、本当に凄いこと。

学校に行きたくても行けない、卒業したくてもできない。
そういう子達がたくさんいることも知りました。


これからの人生。
この経験が、一生の「宝物」になることを祈っていますmeromero2

本当にお疲れ様。
パパは最後まで味方だからね!


小学校の頃の娘です(*^_^*)


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